変身-7
くそぅ、あの悪魔め。
私を殺そうとしておいてお咎めなしだなんて、贔屓にもほどがある。ロータスのクソバカみたいに鉄の箱に押し込められればいいのに。
あいつが自由に闊歩しているおかげで、いつはち合うかと思うと気が気じゃないよ……まったく……。
もし、今度あいつとは二人きりになったら――ずきりと、化け物に抑えつけられた身体が痛んだ。肌にはまだあの時の傷痕が、青い痣として残っている。
幸い打撲で済んだけど、次はずたずたに引き裂かれて殺されるかもしれない。
つぅーっと、背筋を冷や汗が伝っていった。
「は……早いところ……どこか安全なところに逃げ込まなきゃ……」
お絵かき道具を両手に抱えたまま、居場所を探してヘイヴンを歩き回る。だけど歩けど歩けど、落ち着けそうな場所は見つかりそうになかった。
ただ、疲れだけが溜まり、虚しさが胸に広がっていく。
「う~……最近あのクソ悪魔のいる教室に入り浸っていたからなぁ……代えの絵の具とか絵本とか全部あそこに置きっぱなしだよ……あの悪魔がいなくなったら回収しないと……」
失敗したなぁ。教室だとお姉ちゃんたちはケンカしないし、陰険な悪口もいわないから安心してたんだけど、クソ悪魔の巣だってことを完全に忘れてた。活動拠点を談話室からあそこに移したのは間違いだったよ。
でももう一つの憩いの場である談話室も、あんまり好きな場所じゃないんだよな。すっかりおかしくなっちゃったローズお姉ちゃんが、ぶつぶつ言いながら裁縫しているから。とっても気まずい。
「はぁ~……だけど他に行き場所もないし……ローズお姉ちゃんも心配だし……」
しょうがないか。
くるりと回れ右をすると、談話室のある方角へと歩いていった。
談話室の両開きのドアを睨みつけながら、低い唸り声を上げる。中で人の気配がする。きっとローズお姉ちゃんがいるんだろう。
まぁた自分の指に、わざと縫い針を刺したりしているんだろうか? 見ていてお姉ちゃんが辛いのはわかるんだけど。
私も……辛いよ……。
躊躇いに何度か足踏んだものの、意を決してそっと扉を押し開いた。途端に懐かしいアロマの香りが、そっと鼻をくすぐった。
あれ? これって……ローズお姉ちゃんがおかしくなる前に、よく焚いていた奴だ。
ひょっとして!
談話室に視線を巡らせると、ローズお姉ちゃんが奥まった隅で足を折りたたみ、裁縫をしている姿が目にはいった。
「あら。パギ。ここに顔を出すのは久々じゃない。ずっと教室で遊んでいたのにどうしたの?」
壊れてしまう前のローズお姉ちゃんが、ニコリと私に微笑みかけてくる。
ぶわっと胸の奥底に閉じ込めていた、心細さが噴き出してきた。お絵かき道具をかなぐり捨てると、足をもつれさせながらローズお姉ちゃんの胸元に飛び込んでいく。そして膝元にかじりつくと、思いっきり甘えて頬ずりした。
「あらら。どうしたの?」
ローズお姉ちゃんが私の背中を優しく撫でつけてくれる。不意に目頭が熱くなり、瞳に涙に滲んできた。
やっと安心できるよ! どんな強固なシェルターよりも! どんな快適なラウンジよりも! 安全な場所が戻ってきたんだ!
湧き出た涙を、ローズお姉ちゃんの服で拭うように顔をこすりつけていると、次第に気持ちが落ち着いてくる。やがて一息をついてゆっくりと顔を上げると、ローズお姉ちゃんが苦笑を浮かべていた。
「まぁ……心配かけちゃったみたいね」
「そーだよ……旗を作ってから……人が変わったみたいにおかしくなっちゃったんだから……自分で怪我してるし……人の話は聞かないし……」
ローズお姉ちゃんは気まずそうに視線を逸らすと、頬を指でかいた。
「ウン……ごめんね。でももうダイジョブよ……」
「本当?」
「ええ。その証拠に一緒にお絵かきして見せようか?」
ローズお姉ちゃんはクスクスと鼻を鳴らして笑うと、床に散らばったお絵かき道具を持ってくるように視線で促してきた。小走りで道具をかき集めに戻って、ストンとお姉ちゃんの膝に腰を落とす。柔らかい感触が全身を包み込んで、まるで赤ちゃんに戻れたような気がする。
お姉ちゃんのおっぱいを枕にして、ゆっくりと身体を寄りかからせると、布のいい香りが私を包んでいった。もう嫌な、血が錆びた臭いはしない。
涙ぐみながらくつろいでいると、優しく頭が撫でられた。
「本当にごめんね……」
「いきなりおかしくなっちゃったから……びっくりしたよ? どうせあの悪魔が悪いんだけどさッ!」
鼻息荒く悪態を吐きながらスケッチブックをめくると、ローズお姉ちゃんはちょっと困ったように重い息を吐いた。
「まぁ……ナガセが悪いのは間違いないんだけどね……」
なによ。その奥歯に物が挟まったようないいかたは。まるでナガセにも言い分があるみたいじゃない。
不満に頬が膨らんだが、お姉ちゃんの温もりを逃すのが惜しかった。渋々とお姉ちゃんの谷間に頭を埋めて、おっぱいを耳当てにボーっとすることにした。
「ねぇ……あれは仕方なかったことなのよ……」
ホラきた。ちょっと前のお姉ちゃんなら考えられないことだ。あの悪魔を援護するなんて。
「薄汚い悪魔め……」
唯一恐れていたことが、現実になってしまった。
安心できるはずの暖かい腕の中が、おぞましい化け物の懐へと変貌していく。自然と腰が浮いて、お姉ちゃんの胸から体を離してしまう。
ローズお姉ちゃんも毒されちゃったんだ。気分が次第に悪くなっていく。この絶望で溢れる世界で、寄り添える存在がいなくなってしまった。
「何が仕方ないことなんだよ……」
悪態をつくと、ローズお姉ちゃんは声を詰まらせた。
悲しそうというよりは、口を出ようとした言葉が重すぎて、喉につっかえたような感じだった。そのままローズお姉ちゃんは窒息して、痛々しい沈黙が尾を引いた。
「ねぇパギ……ナガセのこと嫌い?」
ぽつりと、ローズお姉ちゃんが聞いた。
「あったりまえだよ!」
吠えると、分かるよと言いたげにお姉ちゃんが首を縦に振る気配がする。
それからお姉ちゃんは私に甘えるように、私の頭の上に顎を乗せた。お姉ちゃんの顎の先端が、触れ合いを求めて弱々しくこすりつけられる。
「むかぁし、むかしの話ね……ナガセは私たちみたいな教え子に囲まれて暮らしていたの」
「何の話だよ?」
唇を尖らせるが、ローズお姉ちゃんは怯む素振りすら見せなかった。
「そんなある日、偉い人から命令されたの。あなたは強いから兵士になって、悪い人たちを倒して来いて。ナガセは教え子たちがとっても大事だから、命令に従って戦いに出たんだ」
急に。お姉ちゃんの声がかすれた。
「そして酷い目にあった。守りたかったはずの子供を売り飛ばしたり、味方ごと敵を吹き飛ばすことになったり、逃げこんだ場所で味方のはずの人たちに襲われたりしたの。それでもナガセは頑張った……」
「そんなの理由にならないよ……」
突拍子もない話を聞かされても、その苦しみを理解することはできない。それよりもあいつがしてきたことが、憎しみとなって心を焼き焦がしていく。
虚しい笑みを浮かべるローズお姉ちゃん、いなくなったマリア、狂ったようにあいつを信望するサクラお姉ちゃん。そして――光を失ったピコの瞳。
皆のがらんどうの瞳が。希望という光を持たない瞳が。私をじっと見ている。
何もない。何もない。何もない。
あいつが。奪っていった。
私の声は、怨嗟で自ずとかすれた。
「あいつは仕方なしにやったんじゃない。楽しくてやったんだ。いや違う……『それができるからやった』んだ」
ふと強張ったローズお姉ちゃんの身体が、リラックスして力が抜けたのを感じた。
「わかってるじゃない。そうよ。ナガセはそれができるからやった。でもその前はそれが楽だからやった。そして最初は……それしかなかった」
頭にお姉ちゃんの顎が擦り付けられる。
「普通の人はね……忘れていくのよ。自分が何をしてきたかなんて真っ先に。自分がどうしたかったかなんて生きてるうちに。やがて自分は何者かすらも。悲しいけど。そうしないと生きていけないのよ」
「そんなの。卑怯だ。やったもん勝ちだ」
「うん。でもそうしないと進めない。そしてナガセは忘れられない。だから過去にこだわっている。あの時に舞い戻って、やり直せたらなんて、頭の悪い事を考え続けている。だって……誰も許してくれないんだもの」
ローズお姉ちゃんの顎が頭から離れて、脇の下に差し込まれた腕が私の身体を振り返らせた。
懇願するような儚げな瞳と、真正面からはちあった。
「お願いパギ。ナガセにもう一度チャンスをあげて?」
身の毛がよだつ提案に、無意識のうちに首を横に振っていた。
「ローズお姉ちゃん。でもね。私はアクマの教え子じゃない。身代わりは嫌」
「昔の教え子じゃない。だけど今の教え子よ。問題はナガセが過去と今を混同していることね」
ローズお姉ちゃん、完全にあの悪魔に毒されている。だけど空っぽなサクラお姉ちゃんを見返すように、じっと視線を合わせ続けることができない。ローズお姉ちゃんは形にはないけど、何かを確かに見つめていて、私は視線を合わせるのがつらかった。
ふいっと視線をそらして、話も逸らすことにした。
「前の教え子たちは……? そいつらに頼めばいいじゃん」
「みんな偉い人の命令で、ナガセと同じところに行ったの。でも……化け物になれなくて……化け物になった味方に食べられちゃった」
ホラやっぱり。私は化け物への生贄だ。
「私も……化け物に食べられちゃうよ……」
「私が見ているから。お願い。もう一回だけチャンスをあげて」
「でも……」
「無理ならいいの。嫌ならいいの。でも……もしできたのなら……チャンスをあげて」
ローズお姉ちゃんの手が背中に回って、おずおずと抱きしめてくる。私が拒まないでいると、次第に力がこもって私を包み込んでいった。
あったかい。ずっとこうしていたい。これを失いたくない。
でもきっと。あいつはそう思わないどころか、このささやかな幸せすら奪っていくだろう。
「ねぇ……ローズお姉ちゃん。あの悪魔に、こんな優しいぎゅーできない……」
「かもね」お姉ちゃんが涙声になって震えた。「でもね」
か細い嗚咽が、悲鳴のように聞こえた。
「このままだと……何もかも壊れちゃう。あなたも。ナガセも。クロウラーズも……」




