変身-6
俺たちを試すように、俺たちを煽るように、いたずらに時間が過ぎ去っていく。
教室にペンを走らせる音だけが虚しく響く。
テストの採点は嫌いではない。しかし俺がせっかちな性格なためか、すぐにでも彼女たちに間違いを教えに行きたくなるのが難点だな。
最後の採点を終えると、大きく伸びをして肩のコリをほぐす。マグカップのコーヒーをちびりとやって一息をついた。
結局あれからアルバムも、ソリッドメモリも見つからなかった。どのみちあるかどうかすらわからない代物のはずだ。アルバムは故郷に置いてきたはずだし、ソリッドメモリは……よくわからないけど、まぁいいだろう。
英雄である俺が、冬眠権を勝ち取ったんだ。織宮はきっとどこかのドームポリスにいるだろうし、教え子ももしかしたら戦場を生き抜いているかもしれない。あいつらに会うためにも、こいつらと頑張って生き抜かないと駄目なんだ。
でもなんでだ? やる気が起きない。無駄だってわかってるみたいだ。
ペンを放り出すと、机の上をカラカラと音を立てて転がっていく。無心でそのさまを眺めていたが、やがてペンは動きを止めて教室は静かになった。
すごく。すごく寂しい。
教室のドアがスライドする音がして、俺はふと我に返った。入り口ではパギがお絵かき道具を両手に抱えて、俺を警戒しながら入ってきたところだった。
「どっか行けよクソ悪魔」
「勘弁しろよ。ここは俺の部屋だ」
パギは俺にあっかんべーをすると、床に画用紙を広げて何かを描き始めた。
ほんのりと心が温かくなる。
その後姿はとても見慣れたもので。俺はいつも遠くから見守っていて。隣には必ず織宮がいて。
どこかに忘れたアルバムと、失くしてしまったソリッドメモリを、パギが持っているような気がした。
何かが変わりそうな気がする。何かを掴めそうな気がする。
俺はお絵かきに没頭するパギに、背後から忍び寄った。
肩越しに画用紙を覗き込むと、色鉛筆でピコの絵を描いている。へたくそだが、とっても芸術的だ。子供にしか作ることができない、独特の尊さが画用紙を彩っていく。パギはお絵かきに夢中で、背後に立つ俺に気づいた様子もない。
このまま。その肩にゆっくりと手を置いて、振り返らせた。
「何だよクソ悪魔。今いい所だから邪魔するな」
侮蔑に細った眼、蔑みに歪んだ口元なんて目に入らない。
ただ。ただ。欲しかった。
パギを力いっぱい抱きしめる。親子がするように、彼女の顎を肩にのせて。
力いっぱい。二度と離すまいと。
途端に腕の中で、激しく暴れる気配がした。
「あにすんだよこの馬鹿! 気持ち悪い! サイテー! セクハラ!」
パギが腕を振り回して、後頭部や背中をやたらめったらに叩いてきた。必死に抵抗しているのだろうが、そよ風程度にしか感じない。
この感触が懐かしい。もう手放したくない。より力を込めると、パギの悲鳴がかん高くなった。
「ぐがっ……助けて! 殺される! お姉ちゃん! お姉ちゃん!」
殺すものか。絶対に守り抜いてやる。もう俺は傍を離れない。ずっとここにいる。
『そのガキを殺せ!』『そのガキを殺せ!』『そのガキを殺せ!』
226避難所の、暴徒どもが罵声を響かせる。
ふざけるな。今度こそは殺させない。俺が守るんだ。絶対に。二度と繰り返すものか。
パギの抵抗が弱まり、二の腕がだらしなく俺の背中にしだれかかった。首筋に冷たいものがかかる。きっと涙だろう。
わかってくれたか。
「ク……カハッ……ゔぇええ……」
泣くなよ。もう安心していいんだ。ずっとこのままで。
『何をやっても……繰り返すことしかできないようだな』
耳朶をうつ忌々しい声にはっと顔を上げると、アロウズが俺を見下ろしていた。すかさず頬に衝撃が走り、俺はパギを抱きかかえたまま倒れこんだ。
この痛さは拳じゃないな。銃把か警棒を使われたな。そんなことよりもパギは――腕の中を覗き見てぞっとした。
パギが唾液を垂らしながら、身体を折り曲げてぐったりしていた。慌てて身体をさすってみると、骨は折れていないようである。それでも俺の脳裏では、かつて引き裂いたピコのぬいぐるみと、彼女の姿が重なってしまった。
パギは解放されると荒い息をつきながら、アロウズの背中へと隠れた。
「ゔわぁぁぁぁ! 殺される! 殺されるよ!」
「そんな心配はない。少し興奮しただけだ。な? ナガセ」
アロウズはへし曲がった警棒を放り捨てると、パギをかばいながら俺の顔を覗き込んできた。
「俺は……俺は……」
俺がうめく合間にアロウズの顔が揺らめき、アジリアの心配そうな顔にとって代わった。ことさらこれ以上目を合わせることができない。パギを虐待するとこを見られちまった。
だらしなく四肢を投げ出して座り込んでいると、背中を撫でられる感触とともにアジリアが顔を寄せてくる。
「どうした? お前はパギに暴力を振るうなんて考えられんことだ。それだけのことをパギがしたのか?」
「いや……俺がトチ狂っただけだ……」
「本当か? いったいどうしたというんだ?」
「何も……少し……昔を思い出しただけだ……」
「昔……なぁ……?」
肌が触れ合いそうなほど近づいたアジリアの顔色には、普段俺に向けている探りを入れるような陰険さは見当たらない。それどころか女たちに垣間見せる、受け入れる暖かさが垣間見えていた。
おいおい。お前が俺を気遣うそぶりを見せるなんて。明日は雪が降るな。
卑屈な笑みを浮かべると、口の端からどろりとした血が垂れていった。
「殴ってすまなかったな……その……そうでもせんと、お前は離れそうもなかったし……」
「いや……殴ってくれてよかった……あのままだと……何をしてしまったか……」
「言うな……」
アジリアが俺の頬を軽くはたいて黙らせる。どう接していいのかさすがの彼女も分からないのか、悩まし気に顎に手を当てつつ立ち上がった。その背中にはパギが隠れているが、憎悪で滾った表情を恐怖で震わせながら、アジリアを俺から引き離そうと必死で袖を引っ張っている。
「お姉ちゃん危ないよ! そいつなにするかわからないよ! 私殺されかけたもん! 離れようよ!」
アジリアは迷って視線を俺とパギの間でさまよわせたが、獣の前から子供を遠ざけることにしたようだ。
「そうだな……私はパギを連れていく」
アジリアは深いため息をつくと、パギの肩に手を置いて背中から覆いかぶさるようにして包み隠す。そうして俺がパギを見られないように、パギが俺を気にしないように壁となり、幼子の背中を押して教室を出ていった。
沈黙の中に一人残されて、その寂しさをじっくりと噛みしめる。ついさっきまであった懐かしき雰囲気は消え失せて、教室に満ちているのは慣れしたしんだ孤独だった。
俺が忌避するほどの、全てを失った後の、がらんどうの教室。
独りで座り込んでいると、誰かを殺したい衝動に駆られてくる。
胸に爪を立てて、破壊衝動と共に、耳元でがなり立てようとする幻聴を引き裂いた。
「俺はただ……愛したかっただけなんだ」
昔のように。あの時のように。
そのやり方すら……忘れたのか?
何て言うことだ。腕に残ったパギの感触は、ピコの死体を抱いた時とよく似ていた。
「よっ」
陽気に呼びかけられて顔を上げると、ローズがいつの間にか教室に入ってきていた。彼女はおどけた敬礼をしてから、俺の前で屈みこんで視線を合わせてきた。
「なぁにしょぼくれてんのよ。アジリアから聞いたわよ。パギに悪戯しようとしたんだって?」
「違う……俺は」
口にしかけたところで、ローズは俺を抱きしめて皆まで言わせなかった。
「ホラ。来なさい。慰めてあげる」
無意識のうちに彼女の手を振り払って逃れようとするが、ローズは決して強くない力でしがみついてくる。
ローズの温もりが悪寒となって背筋に走り、腕は激しい怒りで強張っていく。耳元では幻聴が嘲笑を上げて、目の前にいる小娘を叩くようはやし立ててきた。
『壊せ。奪え。貪れ』
『お前にはそれができるんだ。できるからやるべきなんだ』
『お前には何も創れない。お前には何も守れない』
ダメだ。俺はもう。壊れている。
ローズを傷つける前に、逃げてしまわないと。
腕に力を込めて、ローズを引きはがそうとした時――
「私はそう簡単に壊れないから……ね?」
ぽそりと、ローズが呟いた。
小さな言葉は幻聴に混じって、ストンと俺の胸に落ちる。やがて全ての雑音は吹き飛ばして、胸の中で幾度となく繰り返された。
寂しい。寂しいんだ。この世界で霞んでしまいそうなほどに。
自分が偽りの存在として、空気に溶けてしまいそうだ。だから幻聴に縋るし、過去を繰り返す。
過去から尾を引く誰も理解してくれない孤独なんだ。
それをどうしてこの女は――
いつの間にか、俺はローズを抱き返していた。




