変身-4
監禁部屋の鉄扉をノックする。冷たい鉄扉が寂しく鳴いて、静寂を突き抜けていった。
シャルロッテを独りにしてから、たっぷり一日が過ぎた。そろそろ詳しい話を聞ける頃合いだろう。黒塗りの鉄扉に額を押し当てて返事を待っていると、室内から鈴が鳴るような声がした。
「どなたですか?」
「ナガセだ」
緊張に息を飲む物音。それから柔らかいため息が続く。
「時間を下さってありがとうございます。もう十分に休めました。私もお話したいことがあります」
俺も深呼吸を一つ。息を吸い込むと鉛の塊がズシリと胸に落ちて、吐き出すとそれまで胸中にあった落ち着きが抜け出していく。頬を張ることで無理やり気を引き締めると、俺は監禁部屋へと入った。
シャルロッテはベッドに縛られたまま頭を持ち上げて俺を見ると、口の周りについた食べかすを誇張するようにニコリと微笑んだ。
「見てくださいよナガセ。アイアンワンドったら気が利かないんですよ?」
「しょせんブリキの人形だからな」
ぶっきらぼうにいうと、シャルロッテはことりと頭をベットに落とした。
「フランソワが見たら……さぞかし落胆すると思います」
苦笑しながらシャルロッテに歩み寄ると、ハンカチで口の周りを拭った。
「ありがとう……ねぇ、唇が寂しいのです」
「構わんが、火はつけんぞ?」
「いいから早く」
そういう嗜好があったとはな。懐から煙草を取り出して、彼女の尖らせた唇に差し込んだ。
続かない言葉が、監禁部屋に沈黙を運んでくる。せっかく立ち直ったんだ。G系統の話題は俺の心にしまっておきたい。
「落ち着いたのなら、知っていることを話してくれると助かる。AEUと交渉するために、我々の出自がわかっていると大きな助けになるんだ」
「無駄なことです。連中とは交渉なんてできませんよ。それよりバーサーカーウイルスの情報の方が、我々には有益だと思います」
「バーサーカーのことなら大丈夫だ。感染率は低く、AEUの贈り物に注意を払えば十分だ」
「そうもいきませんよ。異形生命体は使われなかったはずの、G系統バーサーカー陽性――だったんでしょう? 仮にAEUの正体が領土亡き国家だとしたら、交渉なんてできますか?」
何で……知っているんだよ……。言葉を失うと、シャルロッテは皮肉気な嘲笑を響かせた。
「私が作ったウイルスですもの。私が一番知り尽くしています。恐怖心のマヒは偏桃体機能不全のため、獲物の股を引き裂くのは性行為に臨んだためです」
「せ……性行為……?」
「犬と猿の有名な実験を知らないんですか? 猿の偏桃体を壊して犬と同じ檻にいれると、攻撃されるのにノコノコ近寄っていくんですよ……? 交尾しようとしてね」
クスクスクス――シャルロッテが鼻を鳴らして上品に笑う。まじめな彼女が隠し持つ、深い闇を垣間見た気がする。もっとも俺も人類以外の冬眠施設で、ユートピアに辿り着いたお人がまともだとは思えなくなっていたが。
「これは私の憶測ですが――領土亡き国家は何らかの手段で、冬眠施設に潜入していたのでしょう。そしてバーサーカーで凶暴化した人類に改造を施し、異形生命体として使役していると考えています。そうでなければ、ここまで敵対的なAEUの態度を説明しがたいですから」
シャルロッテはそこでまた自嘲気な笑みを浮かべて、肩をすくめた。
「もっとも……こんな突拍子もない話なんか、信じて頂けるとは思いませんがね。我々が開発できたバーサーカー抗体コードは、L系統のみ有効です。ナガセも含めてL系統バーサーカーには感染しないと考えられますよ。これは我々の身の安全を保障し、かつAEUに対抗しうる重要な切り札になりうるはずです。G系統には無力ですがね……」
これだけ落ち着いていれば、もう拘束を解いても大丈夫だな。拘禁服を解くと、彼女はベッドにちょこんと座りなおした。物欲しげに加えた煙草を揺らしたので、ライターで火をつけてやる。
シャルロッテが深く煙を吸い、二人の間を紫煙が流れていった。
「意外だ。吸うんだな?」
聞くとシャルロッテは間の抜けた顔になって、煙草を挟んだ指を揺らした。
「さぁ……汚染世界でも吸っていた覚えはないのです……下流民ならまだしも浄化空気の流れる区画で生きていた私には、煙草なんてご法度だったはずなのですがね……どうしてでしょう?」
シャルロッテはもう一度深く煙を吸うと、煙草を火の点いたまま投げ捨てる。そして何かを懐かしむように、唇を指の腹で撫で始めた。
シャルロッテは煙草を欲しがった理由を真剣に考えているようだが、俺はもっと別なことが知りたかった。浄化空気が流れる区画だと? そんなところ、重要施設である空気循環器の付近――つまり監督区画周辺にしかないんだからな。
長年の謎がようやく解ける。俺の声はおのずと震えてしまった。
「……いったいお前らは何者なんだ」
「ああ箱舟――失礼、ゼロのことをお聞きになりたいんですね……」
シャルロッテの関心は依然自分の唇にむいたままで、新聞を読みながら食べるパンのように気のない様子で語りだす。
「お察しの通り、ゼロはバーサーカーウイルスから逃れるために、真実を知る人間の避難所として建造されました」
「その割には様々な人種が集められているな?」
「それにはれっきとした理由がありまして、元々はECOの粘菌爆弾を暴露する組織だったのですが、AEUの目論見に気づいた私たちが合流したのです。遺伝子補正プログラム開発チーム関係者の協力が得られ、アメリカ人が合流。その親友だった日本人も加わって今の大所帯になったのです――あれ? なんであのバカップル、犬猿の仲になっているんでしょうか?」
サクラとアジリアのことか。ということはコニーとやらがアジリアの本名で、彼女が遺伝子補正プログラムを持ち逃げしたんだな。
こめかみに青筋が浮かぶのがわかる。どえらいことをしてくれたなあの雌猫。俺が禁忌を犯してまで守り切った積み荷を、こうも簡単に外部に渡しやがって。ちょっと前の俺だったら、怒り狂って拷問にかけていただろう。
妙に静かになったと思って顔を上げると、シャルロッテが怯えに腰を引いていた。また怖い顔をしていたらしい。
反省反省。
「物凄い興味をひかれるが、あの二人のことはいい。それで何でこんなところを漂流しているんだ?」
「無事L系統バーサーカー抗体コードを入力する段階までいったのですが、ディック・アンダーソン……協力者の一人に裏切られたのです。計画が頓挫した私たちは遺伝子補正プログラム改竄の容疑をかけられ……全員で逃亡することになってしまいました――あ!」
シャルロッテがそういえばと、手のひらを拳で鳴らした。
「ナガセ……隠し事を一つだけいいですか? 重大な秘密ですが……知る必要のないものです」
「ああ……構わん」
大体想像はつくからな。クロウラーズには、領土亡き国家出身の人間もいるのだろう。実験もせずに、持ち出された遺伝子補正プログラムを使えるはずがない。ズタズタに改変されたあいつらの遺伝子は、実験にもってこいだからな。
それから――いくつかの情報をかわした。
遺伝子補正プログラムはアジリアが用意したこと。同田貫は自沈したハワイ基地から回収したこと。それから――それから――それから……記憶の栓が外れて、とめどめなく溢れる情報をシャルロッテは口にしていく。だがクロウラーズの出自については、頑として語らなかった。
やがてシャルロッテが一息をついて、指で唇をいじり始めた。まだ気になるらしいな。
俺も。気になって仕方ないことがある。
「シャルロッテ殿。それでこの世界に……他の人類が生き残っていることは難しいと思うか?」
シャルロッテは途端に機嫌が悪くなり、触っていた唇を尖らせた。
「私はアイリスです。変な名前で呼ばないで下さい」
「それは俺のつけたあだ名でな――」
「ですが私の全てでもあります――」
シャルロッテは俺を遮ると、幾分か明るく笑った。
「実は私には、汚染世界でやり残した仕事があるのです。抗バーサーカーウイルス薬――凶鳥殺しの開発です。冬眠中の人間は感染していても、ニューロネットワークの上書きまでは進行していないはずです。まだ間に合います」
「随分楽観的になったな」
能天気とも思える希望を掲げた彼女に、俺は苦々しく笑った。
絶体に手が届かないから、希望っていうんだ。夢見て追ったところで、きっと後悔して絶望に苛まされることになる。それぐらいなら最悪の事態を想定して、戦いに備えるべきだと思うんだ。
「まぁアンチ・レイヴンがあれば、異形生命体の攻撃性を削ぐことができるかもしれんしな。無駄ではないと思う」
「いいえ。この世界にはきっと、領土亡き国家の魔の手を逃れ、目覚めを待つ人類がたくさんいるはずです。それにL系統を使われた冬眠施設があるかもしれません。その人々に、この青空を拝んでいただなくてはなりませんから」
「シャルロッテ……」
いたたまれない気持ちになる。事実俺だってもう、心が折れてしまいそうなんだ。
みんなの希望が詰まったユートピアが、汚染される様を見過ぎてしまった。
過去の人間が残した悪意に、触れすぎてしまった。
もうこの世界で生きていくことが、人類の罪科に対する罰にしかならないとすら思える。
ありていにいえば……疲れてしまった。
もうそろそろ。限界なんだ。
暗い気持ちが頭を押し付けて、自然と視線が床を舐める。
こうして人の皮を取り繕っているが、俺の戦いが無駄に終わったと知った今。
俺は。壊れて。しまいそう。なんだ。
「ナガセ……あなたは絶望を求めて私たちを導いたのですか?」
シャルロッテが俯く俺の顔を、両手で挟んで持ち上げた。目に入ったのは、今にも泣きだしてしまいそうな、儚いシャルロッテの笑顔だった。
俺だけじゃない。シャルロッテも、壊れてしまいそうなんだ。
それでも彼女は涙をこらえて、優しく微笑んで見せる。
「それは違う。俺は人類に希望を夢見て、ここまできたんだ」
「なら。負けてはいけません。希望が見つからなかったのなら、私たちで灯せばいいのですから。そうでなくては――ああ……逝ってしまったマリアに顔向けができませんもの」
ほろりと、シャルロッテの頬から涙がこぼれた。そのままゆっくりと、顔を近づけてくる。
「あなたは……私の英雄でもあるんですよ? どんな形であれ……悪夢を終わらせてくれたんですから……ああ……思い出した……それから……それからずっと……あなたは私の英雄でした」
「それはバーサーカーウイルスの……」
「ええ。ですから今度は、私があなたの悪夢を終わらせる番です」
シャルロッテが唇を、そっと俺の物に重ねた。時間にしてほんの数秒だが、その温もりから様々な思いが伝わってくる。
戸惑い、困惑、恐れ――それが次第に薄れて、彼女は信頼に身を寄せて、愛情からか身体を抱き寄せてきた。
不思議と――、突っぱねようという気持ちは起きなかった。
ただ。シャルロッテも……アイリスも、俺と同じなんだろうと、感覚的に悟った。
なんとなぁく。物凄く嫌われた理由が分かった。自分の悪夢を晴らした英雄が、悪夢と同じ姿形していたら、嫌悪の一つもしたくなるわな。
やがてアイリスが顔を離した時、彼女は静謐な笑顔をたたえていた。今までのような固く何かに追い立てられていた笑顔ではなく、安堵からこぼれ出る微笑みだった。
「今まで反抗してごめんなさい。でも……わかりました。自分が何にイラついていたか……何を恐れていたのか……きっと……」
自ずと俺の手は彼女の頭に伸びて、強い力で撫でつけていた。
「アイリス。君は強い人だ」
「あなたがそう育てたのです……それやめてください。子ども扱いされているみたいで嫌です」
アイリスはベッドから飛び降りて、俺の手の届かない距離まで逃れた。それから背筋をピンと張って、しまった敬礼をした。
「もう大丈夫です。そろそろ……通常業務に戻ります」
「あー……しかし……まだクロウラーズが、お前を受け入れる準備が整っていないと思う。それにお前に話して欲しくない情報があるかもしれんし」
「馬鹿にしないでください。私にはそれぐらい判別がつきます。お風呂にも入りたいし、そろそろピオニーのご飯も食べたいです」
アイリスはいいながら、唇の先端を指の腹で撫でた。
「それに……私には、レッド・ドラゴンがついていますから」
アイリスが揚々と監禁部屋を出ていくと、俺は舞い上がった後塵をぼんやりと眺めた。
「ふぅ~……どうなることやらと思ったが、こっちが励まされるとはな……」
アイリスの奴はああいっているが、クロウラーズの抵抗にあったらことだ。しばらくは監視の目を強めておくか。それこそ間違いが起きないように付きっきりだ。しかしデージーのことも心配だし、リリィの様子も見ないといけないし、パンジーとピオニーの事後経過も気になって――待てよ。
この部屋の掃除、俺がするのか?




