変身-2
薬物の副作用で記憶の扉が開かれたか。思えばピオニーの記憶が戻った時も、薬物の力が強かったな。忘れているといっても、精神的な面が強いのかもしれない。言い換えれば彼女たちは、自ら記憶に封をするほど苛烈な体験をしたのだ。
そんなアイリス――いや、シャルロッテを気遣って、俺は落ち着いて頷き返すだけにとどめた。
シャルロッテはぼんやりしているのか、不明瞭なうめきを数回漏らしてから続けた。
「覚えているのは人類の最終作戦前まで……それからあとはさっぱりと抜け落ちています」
「そうか……無理にしゃべらなくていいんだぞ?」
シャルロッテが身動ぎしたのか、ベッドが軽くきしむ音がする。首を横に振ったんだろう。
「いいえ……あなたには知ってもらわなければいけないの……AEUのことを。彼らに会ってはいけません! あいつらバーサーカーウイルスをっ!」
やはり……そうくるのか。
仮にだ。ピオニーのバイオプラントに関する暴露を真剣に受け止めていたら、また違った未来があったかもしれない。深入りすべきではないが、彼女たちを守るためにはやむえない。アイリスが意を決して話してくれるのならばことさらだろう。
我々は知らない振りをして、対処しなければならない。
「秘密は守る……話してくれ」
「秘密も何も――これはみんなが知るべきです。AEUはウイルス攻撃を仕掛けてきます。絶対に接触してはなりません。私たちを奴隷にするつもりです。だから。だから。早く対策を――」
シャルロッテが興奮して声を上ずらせたが、焦るのは良くない。俺は吸い飲みを取り出して、そっと彼女の口に差し込んだ。
シャルロッテは一刻も早く喋りたさそうに水を飲みほそうとするが、吸い飲みを操作してちびりちびりと啜らせる。やがて彼女は一息をついて、落ち着きを取り戻した。
「一から……聞かせてくれるか?」
「はい……ユートピア計画においてAEUの役割は、ドームポリスを管理するマザーコンピューターを作ることでした。しかし連中はマザーコンピューターの冷却機構に、バーサーカーウイルスを封入したのです」
「バーサーカーウイルスとはなんだ? 調べたが分からなかった。そこまで警戒すべきものなのか?」
「当たり前です! 感染者の思想を恣意的に操作することができるんですよ!?」
また興奮してきた。拘束されている彼女の腹をさすり、懸命に宥めた。
「落ち着くんだ」
「は……はい……すいません……その……バーサーカーウイルスは感染者の脳シナプスに感染し、インプットされたニューロネットワーク――つまり精神構造を再現しようとするのです。すると感染者はウイルスに設定された思想に、没頭するようになってしまうんです」
「つまり洗脳ウイルスか?」
「そうです。正式には脳改造ウイルス。もともとは優れた人間のニューロネットワークを凡人にコピーして、優良人材の複製を目的に開発されたものです。しかしAEUはシナプス神経の阻害による、ロボトミー効果に気づいて――それで……」
だとしたらAEUがシロかクロか、一発で判断する方法がある。ヘイヴンにはマザーコンピューターの残骸があるから、それを調べるだけでいい。シロなら良し。クロならサンプルが手に入り、重要な証拠となるはずだ。
「シャルロッテ。バーサーカーウイルスは、全てのマザーコンピューターに仕組まれたのか」
「そう。特定のドームポリス以外の、全てのコンピュータに仕組まれました。マザーコンピューターの起動と共に冷却装置も駆動。封入されたバーサーカーウイルスが、換気システムから空気循環装置で培養され、冬眠ポッドの人間に送られるよう仕組まれていて――ちょっと待って下さい……ナガセ……ドクター・フランソワはどこにいますか……?」
「すまんが初耳だ。クロウラーズの誰かではないのか?」
「違います! フランソワはドームポリス管轄システムの――アイアンワンド系人工知能の開発者で! 私にバーサーカーウイルスの抗体を、遺伝子補正プログラムに組み込むよう依頼して! 私はコニーに会えたけど! あの子はいなかったの! ねぇ! 彼女は無事なの!? 冬眠ポッドに眠っていなかったんですか――うげっ!」
興奮のあまりシャルロッテが水を嘔吐した。俺はよりいたわりを込めて彼女の腹をさすり、ナプキンで口元を拭った。
「もういい。無理に思い出すな。今は回復に専念するんだ。あとはお前が元気になってからしか聞かんぞ? いいな。休め。じっくりと休んで、記憶が確かになってから、続きを聞こうじゃないか」
「しかし――急がないと! みんな奴隷にされちゃいます!」
シャルロッテが飛沫を吐き出しながら必死に訴えてくるが、せっかく拾った命をこんなつまらんことで落とされたらみんなに合わせる顔がない。
「そのバーサーカーとやらの感染力は、コロナウイルス並みに強烈なのか?」
「いえっ……それは……高濃度のエアロゾルを吸入しない限り――ってそうじゃないんですよ! AEUです! あいつらは……あいつらは……! みんなを助けないと!」
「なら心配いらん。お前が元気になるまでの間、俺がのらりくらりと相手をさせてもらうさ」
俺は部屋の隅に戻ると、パイプ椅子に腰を下ろしてBC兵器のリストに視線を落とした。
脳改造ウイルス、バーサーカーウイルスか。そんな代物が実在するとは、事実は小説より奇なりとはよくいったものだ。ウイルスの詳細は回復したアイリスから聞くとして、俺は感染対策とAEUとの交渉遅延を望まないといけないな。それにこのドームポリスのマザーコンピューターが、感染源にならないよう封鎖しておくか。
まぁヘイヴン内で一年過ごした俺たちが、身体異常を起こしていないのだから杞憂だとは思う。しかし後悔先に立たずだ。
「あー……バーサーカーウイルスとやらの封入場所だけ教えてくれんか? お前が落ち着いて眠れるようになったら、不安の種とやらを取り除いてくるから」
「マザーコンピューターメインキューブの……中央部……メインチップ付近にある水冷装置です……」
助かった。リストを床に放り捨てると、頭の後ろで手を組んで、監禁部屋の汚れた天井を見上げた。
「ん。ありがとう。しかし……俺のせいで迷惑かけたな……」
シャルロッテには謝らなければならないことが山のようにある。あいつから見えていないと分かりつつも、気恥ずかしさに頬を掻くのをやめられなかった。
「は……なにか?」
「ロータスの件から、お前の態度が急によそよそしくなった。俺を怖がっているものと自惚れていたが、そんなんじゃない。医者であるお前は、ロータスの命を虫けら同様に扱ったのが許せなかったんだろう? だから相手にしなくなったんだ」
「まぁ……それは……そうですけど……」
シャルロッテが困惑しながらも頷く気配がする。ああ、やっぱりか。
「今回の件はそれが原因なんだ。俺が頼れないから、薬に走るしかなかった。俺が監督できていないから、パンジーやデージーに酷いことをさせてしまった。多分……そういうことだろう」
「え……まぁ……はぁ……あの……いきなり賢くなられても……私も困るんですが……」
「重ねてすまんな。また何かあったら……諫めてくれると助かる」
「はぁ……急に態度が変わるのはいつものことですが……今回は何があったんですか?」
当然の質問だが、死んでも答えたくない類のものだ。マリアの死で自暴自棄になっていたところを、ローズと関係をもって教師時代を思い出した。それで人との接し方を取り戻したなんて、口が裂けてもいえるか。唇を軽く食んで、歯切れの悪い返事しかできない。
「まぁ……一時の気まぐれではないことは確かだが……俺にもいろいろ思うところがあってだな。反省に対する努力が間違っていたり……みんなとは違うところを見ていたり……」
「それ……さんざんいいましたよね……」
「ん。まぁ……その……すまん」
痛ましい沈黙が、二人の間を流れていく。
きぃ、と。シャルロッテがベットを軋ませた。できるだけ頭をこちらに傾け、俺のことを見ようとしているらしい。
「マリアですか?」
「それはきっかけだな」
「では私が?」
「は?」
「いえ……私が――その……こんなになっちゃったから……その……心配して頂けて……」
まぁ。それが最も近いかな。
「そうだな。ああ。うん。そうだ。マリアを失って、お前までも死にかけて、いろいろ……な」
「そうですか……あれだけ反抗したのに……みんなの輪を乱したのに……気遣っていただけて……嬉しいです……」
「そういうなよ。反抗させた俺にも問題があるんだから」
不意に、シャルロッテが低い嗚咽を上げ始めた。慌ててベットまで走ると、彼女は無表情のまま涙をこぼしている。薬の副作用でまだ表情が作れないみたいだ。頬に指を添えて、涙を拭ってやる。
「辛いか?」
「ええ……自分が辛いんじゃないんです……今になって……マリアの治療法が……次から次へと思い浮かんでくるの……ああ――」
虚しい吐息が、魂を吐き出すように天に上った。
「こんな地獄ってある? マリアが苦しんでいた時、私は治療技能を持たなかったんじゃない……それができたのに忘れていただけなのよ……神よ――何故――」
そのまま黙祷に沈んで、シャルロッテは瞳を閉じた。
「ナガセ。誓うわ。決してあなたを失望させない。だから……だから……今は一人にして……」
「わかった……」
俺はシャルロッテの顔を拭うと、投げ捨てた資料を拾って部屋を出ようとした。
「ナガセ。AEUは敵です。会ってはいけません。会えば必ず……戦うことになります」
「……肝に銘じておく」
背中にかかる忠告を受けて、俺は監禁部屋を後にした。




