奔流ー2
午後六時二十二分。映像元・保管庫内・急設陰圧室・記録用カメラ。
映し出された映像の左上に、記録場所と時間の詳細が綴られている。肝心の画面中央には血の滴るベッドが映し出されて、縛り付けられたマリアがのたうち回っているのだった。マリアがもがくたびに、身体にベルトが深く食い込んだ。
ベルトは幅広で、マリアはライフスキンを身にまとっている。それでも摩擦や圧迫を繰り返したせいで、ライフスキンからうっすらと血が滲み出ているのだった。映像は拷問の最中だと聞かされても、信じてしまうほどの悲惨さがあった。
私は口に手を当てて、こみ上げる吐き気と戦い、決して目を離すまいと目を張った。
ベッドにはサンが寄り添って、マリアの手を固く握りしめて懸命に話しかけていた。
『大丈夫。ナガセは必ず帰ってくるよ。いつもそうだったでしょ? 私たちからは逃げるけど、敵からは逃げたことがないじゃん。きっと薬を持って帰ってきてくれるから』
『いだい……ぐううう……いだい……』
マリアがベッドを揺らしながら、弱々しいうめき声を上げた。どうやら体力も限界まで近づき、ろくに身体を動かせなくなっているようだ。
『大丈夫。私はここにいるから。頑張って。もう少しだよ』
サンは青ざめた顔を濡らす汗を拭って、マリアと共に迫りくる死と戦っていた。
「アイアンワンドは何をしている? あいつも支援すべきだろう」
私が聞くとナガセはコンソールを操作して、モニタにヘイヴンの全体図を表示した。図の七階――保管庫では赤い光点が明滅しており、記録時のアイアンワンドの位置を表した。
「この時間アイアンワンドは、バトルスキンの格納コンテナ内にいる。今映像を出す」
監視カメラの映像が切り替わり、保管庫・十八番コンテナと表示された。映像では薄暗いコンテナの中で、アイアンワンドが作業台に向かっている。彼女の首は根元からへし折れて、胴体から垂れ下がっているのだった。
『サーったらもう。乱暴なんですから。私が利用可能な外部端末はこれしかないのに……このままではマム・マリアの看病ができないではありませんか』
アイアンワンドは小言をこぼしながら、首の裂け目に細い指を潜り込ませていた。彼女は時たま指を、ドライバーやペンチに切り替える。やがて道具を置くと、垂れ下がる頭の両端を持ち、まっすぐに首の付け根に降ろした。
アイアンワンドの顔が正面を向き、瞳が緑の光を放った。
『音響センサ。イエロー。視覚センサ。レッド。触覚センサ。グリーン――このままでは、自立歩行すらできません……部品が必要ですわね。急ぎ調達し、マム・マリアの元に参上しなければ……』
アイアンワンドはぺたりと尻もちをつくと、床をはいずって備品棚へと移動した。そして棚に陳列された物品を、一つ一つ手にとって品定めを始めた。
「お前がやったのか?」
私は怒りを押し殺しながら、ナガセに流し目を送った。奴は額に手を当てて、心苦しそうに視線を伏せているのだった。
「ああ――畜生……」
あきれ果ててものも言えない。元を辿れば、全てお前のせいではないか。向こう見ずな行進が我々を死地に導き、抑え切れられない破壊衝動が残された希望を打ち砕いたのだ。やはり我々は全てを失う前に、こいつから一刻も早く離れるべきだ。
私はナガセに代わってコンソールを操作し、変化があるまで早送りをした。
『あっ……ダメ! だめぇ! マム・マリア! いけません!』
モニタでアイアンワンドが唐突に声を荒げ、反射的に映像を等速に戻した。画面ではアイアンワンドが、手にした部品を放り出したところだ。どうやら意識をアンドロイドに宿していても、監視カメラとリンクして、マリアの監視は続けていたらしい。彼女の手は遠く離れたマリアを引き留めるように、虚空へと伸ばされた。
『あ……あ……そんな……!』
アイアンワンドはショックのあまり、機械に似つかわしくない不明瞭な呻き声を漏らした。マリアがヘイヴンから飛び降りたのだろう。彼女は事切れたように脱力する。そしてヘイヴン中の放送スピーカーが唸りを上げた。
『全クロウラーズに緊急連絡。七階保管庫付近、東側の窓より落下事故が発生。繰り返します。全クロウラーズに緊急連絡。七階保管庫付近、東側の窓より落下事故が発生しました。待機人員は至急現場に向かい、現状確認と救命措置を行ってください』
監視カメラの時間を確認すると、午後七時八分と打刻されていた。我々が帰還したのは午後七時二十二分だ。本当にタッチの差で間に合わなかったのだ。ようやく諦観をできたと思っていたが、未練がとたんに膨れ上がって、心は今にも破裂しそうになった。
『なんてこと……』
アイアンワンドがぽつりとつぶやいたところで、ナガセは映像を一旦切った。
「事故発生から、俺たちの帰還まで十四分もある。にもかかわらず現場には誰もおらず、それどころか呼び出しを受けて、初めて現状に気づいた素振りだった。アイアンワンドがアナウンスを流したのにだぞ。明らかにおかしい」
「そう……だな……アイアンワンドの呼びかけを、あいつらが無視していたことになる」
ナガセは真実を知ることを躊躇うように、鈍い手つきでヘイヴン七階のマップを再度呼び出した。そして監視カメラの画像認識システムを使い、事故当時に誰がどこにいたのかを割り出した。確認できたのは、ピオニーとパギ、アイリス、そしてデージーだけだった。
「アカシアとサンは、シフトで休養を与えられ自室で就寝している。個人の部屋は監視していない。カメラに映らなくて当然だ。ピオニーとパギは食堂で調理中。この四人にはアイアンワンドは放送を自粛している」
「妥当な判断だな。お前は待機組の責任者を指名しなかった。疲弊して気の立っているサンとアカシア。子供っぽいピオニーとパギが現場に入ったら、待機組では事態の収拾がつかない。デージーは何をしている? 見たところ、サンの部屋の近くをうろついているようだが?」
ナガセはデバイスを取り出すと、画面を数回タップした。どうやら報告書に記載された、マリアの看護シフトを確認しているようだ。やがて奴は眉間にしわを寄せて顔を上げた。
「事故時のシフトは――ああ、三十分ごとに交代となっている。事故当時はパンジーがマリアの看護をしているはずだ。しかし監視カメラでは姿が見当たらない」
次第に明らかになっていく事故の詳細に、ふつふつと皮膚が泡立つのを感じた。真実を知るのはいつだって怖いものだ。そこには変えようのない事実だけがあって、我々は何らかの対処をしなければならないのだ。そして今暴かれようとしている真相は、我々の手に余るような気がしてならなかった。全てに蓋をして、逃げてしまうのが一番だとすら思えるほどに。
ナガセは黙祷を捧げるがごとく、しばし瞳を閉じていた。やがて強い意志の宿った目を見開くと、コンソールに手をかけたのだった。
「サンのシフト交代から、映像を再開するぞ」
ナガセはモニタに、陰圧室内監視カメラの映像を映し出した。私とナガセは並んで、噛みつくようにして眺めた。
画面ではサンがマリアを、励まし続ける様子が映し出されていた。しかしサンの体力も限界に近く、ため息で呼吸を整える回数が増えた。目も虚ろになっており、マリアから視線を外して時計を見るのが多くなった。
誰が彼女を責められるというのか。目の前で拷問染みた苦しみを、目を離さず見守らないといけないのだ。きっと――いや絶対に、あのロータスですら耐えられないだろう。
午後六時三十分きっかり――デージーが陰圧隔離室から、防護服姿で姿を現した。彼女は血の滴るベッドを一目見て、軽くえづいて腰を引いた。そして安全な場所に逃げ込むように、サンの隣に歩み寄ったのだった。
サンは頭痛をこらえるように、額に手を当てながら席を立った。
『デージーありがと。じゃあ、マリアの看病頼めるかな? マリア。また来るからね。アイリスー!? シフト交代するねー!』
アイリスは陰圧室の隅で、バイタルを表示したモニタを睨んだり、薬の資料に目を通したりと、大忙しだった。マリアの体調と病状に合う薬を考えて、四苦八苦しているらしい。彼女は『ウルセェェェ!』とだみ声で吠えったっきり、サンの方を見ようともしなかった。
デージーはサンと入れ替わりに椅子に腰を下ろして、落ち着かない様子で辺りをきょろきょろと見渡している。そしてサンが陰圧隔離室のドアに手をかけるのを見ると、デージーは引きつった顔つきで椅子から腰を浮かした。
『サンもここにいなよ……私独りじゃ心細いし……』
『ごめん……疲れたから……ちょっと寝かせて……』
サンは隔離室の柱に身体を預けて呟くと、そのまま身体を引きずって隔離室の中へと消えた。
デージーは大きく肩を落として、椅子に尻もちをつくようにして座りなおした。そしてアイリスと共にマリアの看病を始めたのだった。
アイリスが輸血パックを取り換え、零れ落ちる血を懸命に拭う。デージーは胸に手を押し当てて、むかつきを抑えようと躍起になっているようだった。マリアの苦悶が陰圧室内に響く中、アイリスはマリアの看病を続け、デージーは無言でその様子を見守っていた。
アイリスは見るからに憔悴しており、視界がぼやけるのか目をしきりに擦っていた。手際も異常に悪く、点滴の交換に時間がかかるようになった。デージーも最初の頃はマリアに視線を注いでいたが、惨状を直視できなくなった目はアイリスの方に向き、次第に苛立ちで顔つきを険しくしていくのだった。
『もう見てられないよ……』
時刻が七時に近づいたころ、デージーは椅子を蹴って立ち上がった。彼女はアイリスに詰め寄ると、金切り声で喚きたてた。
『アイリス! お医者さんなんでしょ! なのに見てるだけなの!? どうにかできないの!』
アイリスは肩をすくめて、デージーから逃れるように視線をそらした。
『む……無理ですよ……医療というのは患者本人が持っている、治癒能力を補助するものです。今はマリア自体が弱っているので、薬で無理やり元気にしても、意味がないんですよ』
デージーは納得しなかった。むしろ苛立ちを加速させて、アイリスの胸ぐらに手をかけたのだった。
『え? 元気にできるの……? じゃあ何でやらないんだよ! ひとまず血を止めてよ!』
『私の話を聞いていました? 血を止めても、それでマリアが死んだら意味がないじゃないですか。出血多量なうえ、モルヒネで血圧が下がっているんですよ。これ以上血液の動きを阻害したら、ショック状態になります』
私は応急処置しかできないが、アイリスの口にしたことは正論だと分かった。だがアイリスはなぜか自信がなさそうに、消え入りそうな声で言い返したのだ。デージーは興奮している上に、とにかく必死だった。言い淀むアイリスを畳みかけて、なおも責め立てた。
『じゃあ出血場所の手当てをしなよ! こんなに苦しんでるじゃん! 何とかしてよ! してよしてよしてよ!』
『患部である顔面には止血剤を噴霧しましたし……体の血は拘束による擦れと圧迫が原因です。これを治療するには拘束を解かないといけません。ですが今解くことは賢明ではありません』
デージーの胸元で、振動音がした。彼女はライフスキンの胸元についた、時計を覗き込んでいる。私とナガセの視線も、おのずとカメラの記録時間へと向いた。時刻は七時ちょうど。交代の時間だった。
『時間――私行くから……お願い……何とかしてあげて。マリア。アイリスが何とかしてくれるから、頑張ってね』
デージーはそう言い残すと、パンジーの到着を待たずに、そそくさと陰圧隔離室へと飛び込んだ。私は産毛はおろか、心臓の毛すらも逆立ったような気がした。
「どこに行く……阿呆……ッ! シフトの意味がないだろうがッ!」
「七時過ぎている。パンジーは遅刻だ」
ナガセの冷たい声が、私の怒りに拍車をかけた。
残されたアイリスは、疲れで土気色になった顔を、マリアに向けて佇んでいた。アイリスはもう、精神的に限界を迎えているに違いない。血に濡れてもがくマリアを見ても、もはやその顔には何の感情も浮かべることがなかった。
『どうにかしろっていったってぇ……今お薬打ったら……死んじゃうでしょう……』
アイリスはふらつく足取りで、マリアのベッドに寄り添った。マリアはまさに死の淵を漂っており、声も上げずにぐったりと横たわっていた。アイリスはその容態をしばらく見つめると、なんと口の端を吊り上げるようにして笑ったのだ。
『弱ってるから……動けませんよね……』
アイリスはマリアを笑ったわけではない。彼女は自分にまだ出来ることがあると思って、安堵に笑みを浮かべたのだ。マリアを苛む苦しみを、取り除ける術が残っていると思って笑ったのだ。何もできない無力が、まやかしだと思って笑ったのだ。私の脳みそは激しい同情に焼かれると同時に、この上ない虚無感に凍り付いたのだった。
『今、痛みをとってあげるから』
アイリスの手が拘束具にかかり、金具が床に落ちる音がした。彼女は対汚染ジェルを手に取った。どうやら潤滑油の代わりに使うつもりなのだろうが、摩擦を減らせても、圧迫に対しては何の意味もない。アイリスはそんなことに気づかないほど参っていた。
アイリスがマリアの腕を持ち上げると、上腕のライフスキンがベルトと激しく擦れて、大きな皴が寄っていた。ライフスキンの皴からは、ゆっくりと血が染み出している。アイリスは患部を隠すように、ジェルをたっぷりと塗りたくった。
『いだっ!』
マリアが痛みを訴えて、びくりと身体をはねさせた。
『ごめんなさい。でもちょっと我慢してください――』
アイリスは落ち着かせようと、マリアの胸をなでた。しかしマリアはアイリスの心遣いに気づけるような状態ではなかった。
『あ? うごげる? うごける! うごげる! うごげる!』
マリアは自由になったと知るや否や、ベッドから跳ね起きてがむしゃらに暴れ出した。顔を掻きむしり、ベッドを蹴飛ばし、踊るように身もだえした。マリアの身体から点滴の針が、血飛沫と共に外れ飛ぶ。そしてぼろりと、眼窩から目が腐り落ちた。
アイリスはマリアを引き留めることができない。マリアが蹴ったベッドで脛を打ち、屈みこんで苦痛に震えている。
そのうちマリアは、窓のある方に身体を向けた。
「なんだ? 何があった?」
私が戸惑うと、ナガセは苦々しい表情で吐き捨てた。
「太陽光に気づいたんだ。目も見えん。声も頭に入らん。すると光の温かみに惹かれるんだ」
マリアは進行方向に諸手を差し出して、助けを求めるように光目がけて駆け出した。アイリスの悲痛な叫びが、辺りにこだました。




