思慕-8
俺はパンジーとリリィを振り払って、トイレの中へと足を踏み入れた。個室に挟まれた通路の最奥で、アイリスが尻もちをつくようにしてへたり込んでいた。彼女は脅威から身を守るように頭を抱えて、タイルの床に視線を伏せている。そして低い嗚咽と共に、懺悔の言葉を繰り返していた。
俺は片膝をついてアイリスに目線を合わせると、そっと震える肩に手を置いた。
「大丈夫か?」
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
アイリスは声のトーンを変えないまま、懺悔し続けた。俺をパンジーかリリィだと、思い込んでいるようだ。俺は軽くため息をつくと、アイリスの頬に手を添えて、顔をこっちに向けさせた。
思わず息をのみ、腰を引いてしまう。アイリスが持つユリのように清廉で、理性で引き締まった相貌はそこになかった。生気の抜けた顔は、絶え間なく零れ落ちる涙と鼻水で、ぐしゃぐしゃになっていた。瞳孔は限界まで小さくなっており、彼女はだらしなく開いた口をもそもそと動かして、ただひたすら謝り続けていた。
「何があった」
「さぁ? トイレ。する前。わからない」
背後から悪びれた様子のない、パンジーの声が聞こえた。俺は少しだけ声に棘を込めた。
「貴様には聞いていない。アイリス。何があった?」
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
アイリスは魂を削り言葉に変えるようにして、謝罪の言葉を連ねていた。俺は肩越しにパンジーとリリィを睨みつけた。
「なぜこんなことをした?」
パンジーは口元をきつく締めて、懸命に無表情を取り繕っていた。思うところはあるらしいが、それでもアイリスを責め立てたい様子だった。皮肉なことに、彼女の気持ちは痛いほどわかった。俺の過去と同様に、マリアの死の責任を誰かに取らせない限り、過去にして終わらせることができないのだ。
一方でリリィはトイレへと踏み入ると、へたり込むアイリスに指を突き付けた。
「それはこいつの方だ! 仲間を殺しといて! のうのうと生きているんだから!」
「マリアの死は事故だ。そして責任は俺にあるといっただろう」
「違う! こいつが拘束を解かなければ、私は間に合ったんだ! こんなつらい思い……することなかったんだ……マリアとまた過ごせたんだ!」
リリィの瞳から、ぼろりと大粒の涙がこぼれ落ちた。彼女は怒りをくじかれるのを恐れてか、溢れる雫を拭おうともせず、嗚咽をこらえてしゃくりあげた。そして俺に視線を移すと、打って変わって媚びた声をだした。
「ナガセもわかってよ……こいつは仲間じゃないんだ……ロータスの時みたいに処刑しようよ……じゃないと……私たち……もう前に進めないよ……」
お前は本気で、アイリスの死で決着がつくと思っているのか? 死による代償を認めれば、それは恐怖政治の始まりを意味する。この小さいコミュニティで、病魔のごとく死を振りまくだろう。責任取ってあいつも殺せ。責任取ってお前も死ね。そうして誰もが責任を果たせないまま、冷たい骸となるだけだ。
変だ。俺はパンジーを盗み見ながら思った。リリィの訴えに一番うろたえているのは、俺でもアイリスでもない。責める立場であるはずのパンジーが、顔面を蒼白にして胸を掻きむしっていたのだ。パンジーはアイリスの死を恐れているのではなく、どちらかと言えば後ろめたさに怯えていた。
俺はパンジーに気を払いながら、リリィに洗面台の鏡を見るよう促した。
「鏡を見ろ。アイリスも、お前も、同じ涙を流している。同じ苦しみを味わってだ。それならば手を差し伸べ、共に立ち、明日を笑って迎えられるよう努力したらどうだ」
リリィの視線が、鏡に映る自らを捉えた。彼女は自分が、憎むアイリスと同じ所作をしていることに、嫌悪感を抱いたのだろうか。拳で顔を擦って涙を拭うと、身体を巡る悪寒を治めるように、自らを抱きしめたのだった。
「アイリスだけじゃない。ピオニーもだ。あいつはきっと、領土亡き国家のスパイなんだ。そうじゃなきゃ人が死んだのに、あんなへらへら笑っていられるはずがないもん。それに私と違う黄色い肌、黒い髪をしているもん。私と違う! あいつは私とは違う生き物なんだ!」
心臓がにわかに早鐘を打ち、血液が沸騰する。激しい憎悪が頭を支配して、眩暈すら覚えた。俺の変化に気づかないのか、リリィはなおも続けた。
「サクラだっておかしい! ピオニーに優しくして! それにマリアを止められなかったの、実はわざとなんじゃないかな!? あいつも黒い髪に黄色い肌だ! きっとあいつもスパイなんだ!」
人類は一度滅ぼうとも、見分けやすいという簡便さから、人種を攻撃の理由に使うらしい。人類が国家の垣根や、文化の壁、人種の違いを乗り越えて作り上げたのがユートピアだ。俺は理想郷で、差別の芽が生まれたことに、心から恐怖した。
「俺も髪は黒く、肌は黄色い」
俺の声は自然と、虚しさでかすれた。
「ナガセは違うよ……特別だよ……そうじゃないよ! 私が言いたいのはピオニーだよ! ピオニーとサクラを処刑――」
俺は腰を上げると、急ぎ足でリリィへと歩み寄っていった。拳を振り上げたとき、俺は違うと直感した。繰り出された手は、リリィの頬に届くまでに平手となって、彼女の頬をはったのだった。
パン。と、小気味のいい音がトイレに響いた。リリィの顔が横に振れ、彼女は頬を抑えて蹲った。
「その人が生まれ持ったものを、差別するな。それだけは……それだけは、絶対にするな」
リリィは俺に背中を向けたまま、肩を震わせる。そして堪えきれなくなって、低い嗚咽を上げだした。
「何で……私が殴られるんだよぉ……何で……」
何でと聞きたいのは俺の方だ。お前は頑固で向こう見ずなところはあるが、人を傷つけるほど心が鈍くないはずだ。むしろ他人に見下された時期があったがゆえに、虐めに対して強い忌避感があっておかしくないのだ。それを乗り越えたがゆえに、アイリスに手を差し伸べるほど強いはずなのだ。
「リリィ。お前に一体何があった? お前はそこまで人を責めるような、人間ではなかったはずだ。一体どうして、そこまでアイリスとピオニーを憎悪するんだ?」
俺は屈みこんで、リリィの背中をそっと撫でた。しかし彼女は自らの殻に閉じこもり、何の反応も返してはくれなかった。
「もう誰にも死んでほしくないだけなのに……うぇぇぇ」
リリィの呂律が次第に回らなくなっていき、代わりに嗚咽が激しくなっていく。俺は背中をさする手の温もりが、少しでも彼女に届けばいいと、より気持ちを込めた。
「誰かに何かを吹き込まれたのか? それとも脅されているのか? どうしたんだ? いってみろ」
「なぐ……わたしをなぐっ……うわぁぁぁあああ!」
リリィは激しくむせび泣くと、俺の手から逃れるようにトイレから飛び出していった。遠ざかっていく足音に急き立てられて、パンジーも走り去ろうと背中を見せた。
俺は逃げられる前に、パンジーの腕を掴んで引き留めた。彼女は電気が走ったように背筋をピンと張り、鼓膜が裂けんばかりの絶叫を上げた。俺は反射的にパンジーから手を離してしまったが、幸いなことにパンジーは腕をさすりつつも、足を止めたのだった。
「ちょっと触ったぐらいで喚くな。お前とリリィは部屋で謹慎だ。期限は俺が部屋を訪ねるまでとする。それまでに自分の行いを、反省するんだな」
「お昼から。仕事。しなければ。ならない」
パンジーはいつもの厭味ったらしい口調ではなく、どこか切羽詰まった雰囲気で言った。
「午後は授業のくせに、顔を出さないやつが生意気をほざくな。リリィにも謹慎の件を伝えておけ。もしどちらか片方でも部屋にいなかったら、懲罰房を使うからな。行け」
パンジーは話を聞き終えると、脱兎のごとくトイレを躍り出た。しかし廊下に出た瞬間、驚きに身をすくめて立ち止まった。どうやらトイレの外で、誰かと鉢合わせたらしい。彼女はそのまま後ずさって、行く手を遮る人物にトイレへの道を明け渡した。
「ふぅん……」
納得したような鼻抜け声と共に、サンが青色の髪を揺らしながら姿を現した。すぐ後ろを金魚のフンのように、デージーがおどおどとついてくる。
「サン……これは違う違う……違うんだよ……私と関係のないことだから……」
サンはデージーの弁明を、聞いた風もなかった。それどころかサンは、近寄ろうとするデージーを軽く突き飛ばし、強引に距離を空けているのだった。
「騒がしいと思って、保管庫からきてみれば……こういうことだったんだ……」
トイレを見渡すサンの視線が、アイリスに止まった。サンは痛まし気に柳眉を下げて、口元を苦悶で歪めた。肩で俺を押しのけて、足早にアイリスの元に屈みこむ。そして包み込むように、アイリスの頭を掻き抱いた。
「ひどいね……仲間なのに……こんなことして……」
サンの呟きを合図にして、パンジーがいたたまれないように、トイレ前から走り去る音がした。数刻の沈黙を置いて――デージーが自分もその仲間だと言いたげに、そろそろとサンの元に歩み寄っていった。
「私は関わってないんだよ……本当だよ……サンを足止めするために、一緒にいたわけじゃない……サンが好きだから……好きだから……好きだから……」
サンはアイリスを抱きしめたまま、デージーを振り返った。眉根に寄った皴は、敵意を隠そうともしない凄絶な表情を形作っていた。しかし不意に彼女は剣幕を和らげ、にっこりと微笑んだ。
「私さ。正直言うとね。最近デージーがうっとおしかったんだ」
「え……?」
耳を疑った俺を代弁するように、デージーが目を見開いて聞き返した。
「やれナガセは間違ってる。やれアジリアの方が良いこといってる。だからアジリアに協力して。だからナガセを追い出そう。そして私たちだけで生きていこう。それで良いことがこれねぇ……いちいちうるさいんだよクソボケ」
サンは笑顔のまま、穏やかな口調で言った。さらに続ける。
「我慢して付き合ってたよ。ナガセの悪口も。ピオニーに対するわがままも。あなたたちが作るまずいご飯も。そうすればいつか気も晴れて、馬鹿なこともいわなくなるだろうと思ってさ。ホラ、私たち。友達『だった』から」
「だったって……私たち……友達……」
サンはこの上ない蔑みに満ちた表情に、冷たい微笑を浮かべて、デージーを一瞥した。
「そ。二度と話しかけないでね」
サンは俺を手招きすると、アイリスの手を取りつつ腰を上げた。
「いこ、ナガセ。アイリス立てる? 肩貸してあげるよ」
サンはアイリスの手を引いて、立つように促した。しかしアイリスはへたり込んだまま、ぼそぼそと小声で謝り続けている。サンはデージーに向けたものとは、比較にもならない朗らかな笑顔を浮かべた。そしてアイリスを支えて立ち上がると、ハンカチで丁寧に顔を拭った。
「謝らなくていいのよ。もう済んだことだから。苦しんでマリアの後を追うよりも……立ち直ってマリアの後を継ぐことを考えなきゃ」
サンはデージーを雑に押しのけて、アイリスと共にトイレを出ていった。残されたデージーはショックのあまり、目を見開いたまま立ち尽くしている。俺からデージーにいえることは何もないが、放っておくこともできなかった。
「お前も自分の部屋にいろ。後で話しに行く」
俺はデージーとすれ違いざまに囁くと、サンとアイリスの後を追いかけることにした。
サンは俺が来るのを待っていたらしい。トイレがある廊下の、曲がり角の影で、彼女は足を止めてアイリスの背中をなでていた。
「ナガセ。私明日から授業に出るから。もうしなくちゃいけないこと、なくなったし。成果はもう見せたから。もうデージーとは無理だね……」
サンはアイリスをぼんやりと眺めながら、どこか寂しそうにつぶやいた。サンがいっていたやりたいこととは、デージーとの付き合いを見直すことだったのだろうか。仮にそうだとしたら、サンにしては軽率な判断を下したように思えた。
「デージーのことだが……もう一度考え直したらどうだ? 今回俺の監督不行き届きのせいで、お前たちには不自由な思いをさせている。だからすれ違いが生まれたのかもしれない」
サンは俺に冷たい嘲笑を向けて、諭すように首を振った。たおやかなサンが見せる、意固地で差別的な態度に戸惑った。俺はようやく、サンが本気で怒っているのだと気づいた。
「ナガセ。人の交友関係に口を出さないでね」
「ん……すまん」
「あなたまで謝らないでよ。それより楽しい話をしよう。今日の午後は何を教えてくれるの? アイリスも授業受けるよね?」
サンはそういって、アイリスの顔を覗き込んだ。アイリスは口から謝罪を吐くのをやめていたものの、落ち着かない様子だった。どこかに消えてしまいたいのか、濡れた瞳を廊下の暗闇に投げかけていた。この調子だと、アイリスの精神は長くはもたないだろう。
「午後からは自習をしてくれ。俺はどうしてもやらねばならんことができた。俺が戻るまでに、アイリスの面倒を頼んでいいか?」
「それ。アイリスよりも優先すること? 納得のいく説明してくれる? じゃないと私、あなたにも怒るよ」
サンがデージーに向けたものと同じ嘲笑で、俺を問いただしてきた。さすがにマリアの事故検分をするとは、アイリスとサンに面と向かっていえなかった。アイリスが聞けばより追いつめられるだろうし、サンもそう思って俺を非難するだろう。しかしマリアの死には、重大な見落としがあるに違いなかった。
人の死は残された者に、大きな影響を及ぼすのは間違いない。死を契機に人間関係や、人生観念が変わったりすることはよくある。死を受け入れられるまでの間、人を責めたり反抗的な態度をとるのは当たり前のことだ。だからこそ俺は原状回復に努め、彼女たちが立ち直る時間を作った。
しかしながらパンジーとデージーはマリアの死を受け入れようとせず、むしろ目を背けるようにはけ口を求めている。そして負い目のなさそうなリリィすら、攻撃的に豹変してしまった。何者かの介入も考えられる。彼女たちを狂気に駆り立てた、事件の本質を暴かないといけないのだ。
「とりあえず、アイリスのためにも必要なことだ」
サンは俺を値踏みするように、じっと顔を覗き込んできた。二人の視線が重なって、互いの腹の内を探るように絡み合った。サンの透き通る瞳が、俺の心根を見通そうときらめいている。もちろん俺には、視線を逸らす理由なんてなかった。
やがてサンは視線を切ると、身体を学校のある方角へ向けた。サンは「わかった」とはいわなかった。ただ鼻で笑って、肩をすくめて見せた。
「授業して、サクラとプロテアを労って、ピオニーとアイリスを見守って、クソボケ共の部屋でお話しするんでしょ? 大変だね。あっちこっち駆けまわって……」
「お前らには苦労をかける」
「んーん。あなたには負けるよ。私あなたのこと嫌いだったけど、こんなんじゃそうなるよねって、同情してきちゃった」
「俺の自業自得で、お前らの一人損だ。申し訳ない」
「はいはい。いってなさいな」
サンはアイリスを支えながら、ゆっくりと廊下の角に姿を消した。




