思慕-7
俺はデバイスを使って、アイリスが詰めているはずの、医務室へと通信を入れた。決して大きくはない単調なコール音が、食堂に鳴り響く。誰かが固唾を飲む音が、俺の耳にはっきりと聞こえた。やがて通信が留守番録音に切り替わると、俺の心臓がにわかに早鐘を打ち出した。
アイリスもピオニーと同じく、内緒の用事とやらで、授業に顔を出せなかったのだとしたらどうする? 今頃アイリスの身に、恐ろしい出来事が起こっているかもしれない。
「ナガセ……どうしたんだよ……ピオニーに何があったんだよ……」
プロテアがフォークを放り出して、神妙な面持ちで席を立った。ローズとアカシアもそれに倣って、手助けを申し出るように歩み寄ってくる。三人とも今のところは、ピオニーの怪我のことで、頭がいっぱいのようだった。しかしこれ以上ことが大きくなったら、本当に収拾がつかなくなってしまう。
「お前らは飯を食え。昼食を終え次第、午後の業務に移るように。俺がちゃんと対処して、事の顛末は必ず伝える。だから手間を増やさないでくれ」
俺は三人の動きを、手のひらを向けることで押し留めた。そして三人が何かを口にする前に、アイアンワンドに語り掛けた。
「アイアンワンドは俺に代わって、午後の授業監督を頼む」
俺は少しの間、思案に暮れた。仮にピオニーの身に起きたのが、彼女を憎む者が起こした事件だとしよう。授業を始めたとはいえ、アイリスとピオニーの監視を緩めはしなかった。定期的に様子を見て、折を見ては声をかけて、クロウラーズで不審な動きがないかチェックをしていた。それにクロウラーズには日常業務があり、互いを監督させているので、勝手な真似はできないはずだ。
それでも事件が起きたならば、俺の監視に隙が生まれ、クロウラーズが自由に活動できる、休憩時間の合間をついたに違いない。
休憩時間に手軽に寄れて、監視カメラを含んで人目から逃れられる場所は多くない。そして俺が入り込めない条件を加えると、たった一つしか思い浮かばなかった。
女子トイレだ。
「アジリア。俺はアイリスを探してくる。お前はピオニーの看護を頼む。並行して何が起こったのか、詳しく事情を聴いてくれ」
怒りで身を震わせているアジリアの背中に、そっと手をあてがおうとする。しかしアジリアは溢れんばかりの憤怒を、固く握った拳を突き出すことで伝えてきた。
「待て! ピオニーに何があったのかは知らんが、あいつが口止めされているのは間違いなかった! 苦楽を共にする仲間に、苦しみだけを押し付けることがあってたまるか! 我々は協力して生きているんだ! さすがに私も我慢できん!」
「その通りだ。だからといって、お前が暴力に身を委ねては、同類になってしまう。いざという時にとっておけ。俺が行く」
俺はシャワー室のある方角を、軽く顎でしゃくった。しかしアジリアは納得がいかないようだった。
「貴様もアイリスの名を口にして、数秒固まっただろう! アイリスも同じ目にあっていたらどうする!? そのようなふざけた態度は許さんと、断固行動で示すべきではないのか!」
アジリア。お前はクロウラーズを二つに割って、戦争をやりたいのか?
アイリスの名を聞いて、食堂に緊張の糸が張られた。俺はひた隠しにしていた不安を明るみにされて、思わず額に手を当てた。アジリアもプロテアたちが義憤で鼻息を荒くしたところで、ようやく失言に気づいて、口元を手で覆ったのだった。
「ナガセよぉ……やっぱしお前が優しくし始めてから……あいつら調子に乗りすぎだろ……」
プロテアが顔中を、憎しみで顔をひきつらせた。彼女は肩をぐるぐると回して身体をほぐすと、出撃を思わせる勇み足で食堂を飛び出そうとした。
「喧嘩はやめなサイ……」
ローズがすかさずプロテアを引き留めた。
プロテアはもううんざりだと言わんばかりに、食卓に拳を叩きつけた。
「あいつらが売ってきたんだろ! お前もだぞアジリア! みんなお前を習って、ナガセに反抗しているんだ! いい加減にガキみたいなマネはやめろよ! お前のせいでクロウラーズが無茶苦茶になって、俺たちはいい迷惑なんだ!」
「やめろ……!」
俺は努めて冷静に、全員に語りかけた。しかしプロテアは頭に血が上っていて、俺の声が聞こえないようだった。
アジリアはいきなり怒りの矛先を向けられて、腰を引いてひるんだ。しかしすぐに気勢を取り戻すと、俺をぶしつけに指さした。
「今は私の素行の話をしているのか!? 違うだろ! それに我々を無茶苦茶にしているのはこいつだ! そもそもこいつの作戦が原因で! マリアは死んだんだ!」
プロテアの瞳孔が狭まり、彼女はかっと三白眼になった。それは例え比喩であっても、俺の耳に理性が切れる音を聞かせたのだった。
「誰のせいで……左手失くしたと思ってんだぁ!」
プロテアは拳を振り上げて、アジリアへと躍りかかった。アジリアは一瞬硬直したが、すぐに構えをとって迎え撃とうとした。俺の位置は二人の中間にあり、二人を止めるには絶好のポジションだった。
プロテアの振り上げた腕をとって背負い投げ、アジリアに叩きつければ二人を制圧できるだろう。俺は反射的に二人の間に身体を割り込ませる。
しかし――それでいいのか?
頭に浮かんだ疑問符は、思考が動作に移すのを拒んだ。そして俺の頬に固い衝撃が走り、ふくらはぎを鋭い痛みが焼いた。俺は気づくと、二人の間で棒立ちになっていた。プロテアは拳を振りぬいたまま、驚愕で口をだらしなく開けている。アジリアも蹴り出した足を、俺のふくらはぎにあてたまま凍り付いていた。
口の中で、じんわりと血の味が広がる。俺は唾を絡めて口の中の血を飲み込むと、自然と二人に笑いかけた。
「頼む……頼むから……任せてくれ」
プロテアが拳を引きながら、震える顔を縦に振った。アジリアも身をすくめたまま、無言でプロテアから離れたのだった。
「アイリスを探しに行くから、もう喧嘩するなよ」
俺は二人を個別に指さすと、駆け足で食堂を後にした。その時視界の隅に、サムズアップをするローズが見えたような気がした。
軍靴の踵がリノリウムの床を叩き、鈍い音が廊下にこだまする。食堂に一番近い、人の気のしないトイレを通り抜けて、保管庫を目指した。
小娘にいいようにされて、腹が立たないか? 上官を無視し、命令に違反し、敬意も払わないんだぞ? 俺はレッド・ドラゴン。最強の兵士。人類でたった十二人しかいない、英雄の一人なのだ。
保管庫の向かいにあるトイレから、サクラがあくびを噛み殺しながら出てきた。彼女が呑気にしているということはここも違う。顔を真っ赤にしながら敬礼をする彼女を置いて、立ち入り禁止区画に近い、保管庫のはずれにあるトイレに目標を変えた。
だけど昔、そんなものがどうでもいいと思えるほど、焦がれ、苦しみ、狂った。故郷で待つあいつらに比べたら、名誉なんてどうでもよかったんだ。帰れるなら、何もいらなかった。
俺は今でも戦っている。誰のために?
『お前がお前であるためにだろ?』
アロウズが嘲笑う。
『オカエリナサイ』
ローズの囁きが脳裏によみがえり、幻聴を塗りつぶした。
保管庫はずれのトイレに着くと、中からパンジーとリリィが出てきたところだった。だがその足取りはどこか落ち着きがなく、二人は俺を遠ざけようとするように、出入り口で足を止めたのだった。
「何をしている?」
俺は上がった息を整えながら、パンジーとリリィをじっと見つめた。パンジーはポーカーフェイスのまま、つんとそっぽを向いて無視した。しかしリリィは俺を凝視して、トイレを守るようにやや前のめりになった。
「何って? トイレに決まってるでしょ」
わざとらしい言い草に、俺は確信した。リリィを押しのけて、女子トイレに足を踏み入れようとする。しかしリリィは身体を盾にして、道を譲ろうとしなかった。
「ナガセは入っちゃだめだよ! ここ女性用のトイレだから!」
「用をたしたなら、仕事に戻ったらどうだ?」
リリィの首根っこをつまみ上げて、トイレの前からどかす。彼女は吊り下げられたまま、金切り声に近い悲鳴を上げた。
「これからおしっこするんだよ! あっち行ってよ!」
「そうだ! お前! 女性! 辱めない! 唯一の! 取柄! 出てけ!」
パンジーが吊り上げられたリリィに代わって、身体で俺の行く手をブロックしてくる。しかし口やかましく喚きやがって。他のクロウラーズに助けを求めようとしているのか? トイレにアイリスがいるのなら、人目に付く騒ぎは避けるはずだ。
杞憂ならそれに越したことはない。アイリスの身に俺が勘ぐったようなことはなく、リリィとパンジーは用をたしていた。それならば何の問題はないのだ。
俺はパンジーに押されるがまま、いったんトイレから離れることにした。俺とトイレの距離が広がっていくと、リリィとパンジーも張り上げる声を小さくしていく。そして二人が声を出して、ひた隠そうとしていたものが、微かに耳に届いたのだった。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
トイレから、消え入りそうなアイリスの声がした。




