思慕-5
ドアを開け放ったのは、リリィだった。
「リリィ! ちょうどよかった! 助けてはくれんか!?」
俺は藁にも縋る思いで、リリィに右手を伸ばした。だが彼女は視線を俯かせて、何かをこらえるように、両の手をきつく握りしめているのだった。リリィのただならぬ振る舞いに、教室の女たちは気をとられたようだ。一斉に口をつぐんで、居住まいを正したのだった。
「どうした……?」
仕事場で事故でも起こったのだろうか。俺は気を静めて冷静さを取り戻すと、力の緩んだプロテアの腕から抜け出した。そして神妙な面持ちで、リリィの方に歩んでいった。
リリィはきつく唇を噛みしめて、教室を一度見渡した。リリィの視線は教壇に置かれた出席簿や、机に広げられた勉強道具、そして用具入れの玩具を転々とした。やがて怒りでぎりりと歯ぎしりすると、重々しく口を開いたのだった。
「ねぇ皆……ちょっといいかな……?」
どうやら急を要する内容ではなさそうだ。俺は肩から力を抜くと、女たちの輪にリリィを加えることにした。
「授業ならもう終わったぞ? 皆で食堂に行くか?」
俺はリリィの手を取りつつ、教室の女たちを手招きした。しかしリリィは俺の手を振り払うと、蚊の鳴くような声で言った。
「私はパンジーたちと作ったのを食べるからいいよ。そんなことよりも……大事な話があるんだけど……」
リリィは意地でも、ピオニーの料理を口にしたくないらしい。パンジーとサン、デージーたちと、どんな食事をとっているのかは定かではない。しかしアイアンワンドがついているので、バランスの取れた栄養を摂取しているはずだ。
俺は相変わらず俯いたままの、リリィの顔を覗き込んだ。彼女の顔は頬がややこけ、目の下にうっすらと『くま』ができているのだった。同じ食事をとっている、サンやデージーと違って、見るたびにやつれているような気がした。
俺に顔を見られるのが嫌だったのか、リリィはふいっと顔を背けた。しかしそれも一瞬のこと、怒り任せに足で床を踏み鳴らすと、大声でわめき始めた。
「この際はっきり言うけど! 不謹慎だよ!」
リリィが突如怒りを爆発させたことに、女たちが軽くどよめき身を引いた。女たちは互いに顔を見合わせて、リリィの真意を相談して、互いに言葉を交わしはじめた。やがて相談が落ち着くと、女たちの中でも余裕を保っていたローズが、おもむろに口を開いた。
「不謹慎って……何が?」
ローズは角が立たないように、大変穏やかな口調で言った。だがリリィは傷つけられたのか、目に涙をためると、さらに怒りを燃え上がらせた。
「何がって……正気で言ってんの!? だってマリアが死んで、まだ一か月もたっていないんだよ! それなのに楽しそうにして……マリアがかわいそうだよ!」
リリィの言葉は地震よりも強い衝撃となって、瞬く間に教室中に伝播した。それまで天真爛漫に語り合っていた女たちは、総じて陰鬱な事件を思い起こしたらしい。溢れんばかりの感情を押さえつけて、悲しみに心を引き裂かれたのだった。かくいう俺も視線を下げて、後悔の念に心を締め付けられた。
「でしょ! おかしいよね! ナガセもナガセだよ! マリアが死んでから学校なんか始めちゃって! ずるいよ! マリアは学べなかったのに! こんなのはおかしい! もっとみんな悲しんで! 責任をとるべきなんだ!」
リリィは金切り声を上げて、教室にいる全ての人間に責任を問うたのだった。俺を含めた女たちは、リリィの視線に答えることができなかった。マリアの死から逃れるように、目をあらぬ方向へと背けた。ただ一人だけ――ローズだけがリリィの責めに真っ向から答え、前に歩み出たのだった。
「一週間……私たちは喪に服して、マリアにお別れをしたわ。もちろんそれで終わらせたわけじゃない。だけど悲しむ以外でマリアの死と、向き合っていかないといけないと思うの。それが……私たちの責任じゃないかしら……?」
ローズは表情に何ら曇りを見せることなく、胸を張って言い切った。おそらく誰かが気づいていても、決して口に出せないような心理を、彼女はリリィに説いて見せたのだった。俺はローズの屹然とした態度に、自らの立場も忘れて敬意を抱いてしまった。
ローズが口にしたことは。本来俺がいうべき台詞なのだ。人の死を乗り越えることは、乗り越えることも、それを促すことも難しいものだ。一歩間違えれば、死を共有した仲間と決別する可能性もある。高い志を理解されぬまま、心無きものとして見捨てられる可能性もある。そのリスクを恐れず、ローズは矢面に立って知らしめたのだ。
リリィは激しく地団太を踏むと、首を振ってローズのすべてを否定した。彼女は後のない人間が浮かべる、必死の形相で唾をまき散らした。
「違うよ! マリアの死の責任は、誰かがとってはっきりさせないと! それもできていないのに、忘れたように楽しそうにして! 美化でもするように懐かしんで! そんなの絶対マリアは望んでいない!」
「抑えてどうするの? それはいつまで続くの? あなたの気が晴れるまで? そっちの方が失礼じゃないかしら。私、あなたを見てると、簡単に予想できることがあるの。きっとあなたは死ぬその時まで、マリアに気兼ねなく笑うことなんてできないわ」
ローズの容赦ない指摘に、リリィの顔色は土気色になった。怒りで赤くなり、恐怖で青く染まり、それらがない交ぜになってしまったのだろう。リリィは答えを知るのを恐れるように、腰を軽く引いた。それでも彼女の口は、ローズに聞いてしまったのだった。
「な……何でそんなこと言うんだよ……! 何でそんなこと言うんだよ!」
「あなたがマリアの死で、他人を責めているからよ」
リリィの顔が恐怖で引きつり、電撃でも浴びているかのごとく、四肢が小刻みに震え始めた。彼女は一度きつく瞳を閉じて、物思いに沈みだした。やがて吹っ切るように目を開くと、涙の雫を散らしながら吠えた。
「そうだよ! それの何が悪いんだよ! 私は生き残った! だからマリアのために生きていかなきゃならないんだ!」
「違うわ。私たちは苦しみに突き動かされて、『だから生きていく』んじゃないの。苦しみを背負って、『それでも生きていかなければならない』のよ。だから私は……変わろうとしたの……」
ローズは指の先で、教室の机をつつぅっと撫でた。彼女はおもむろにリリィから視線を外し、何故か俺の方を向いたのだった。そしておそらく彼女の本心であろう、今にも苦しみで崩れてしまいそうな、儚い微笑みを浮かべたのだった。ローズはリリィだけではなく、俺にも言葉を投げかけていると気づいた。
「過去を引きずったら、それは悲しみと後悔で重くなるだけだわ。忘れろとは言わない。美化しろとも言わない。ただ、その思い出を生かして、前に進むべきだと思うの。でしょ……?」
ローズは俺から視線を切り、再びリリィに向き合った。俺は彼女が差し出した言葉を受けて、脳裏を駆け巡る過去に翻弄されていた。
俺は生き残った。自らを捨ててまで戦ったにも関わらず、全てを奪い去られた。俺は失ったことで、責め続けている。軍を、アロウズを、そして何より自分を。だから贖罪のために、生きなければならないのだ。
しかし彼女は俺に、それでも生きていけという。ならば過去と、どう決着をつければいいのだろうか。俺を裁く軍はもうない。俺を殺す敵も、俺を受け入れる故郷も。何もないのに、どこから手を付けて、いずこへと向かえばいいのだろうか。
『言ったはずだ。私に執着しているのは、貴様の方だとな』
アロウズの幻聴が、俺を終わりのない繰り返しにいざなおうとする。それでも俺は、答えがこの教室にあると思って、踏みとどまることができた。
「知らないッ!」
ローズとリリィの話し合いも、決着がついたようである。リリィは玉のような涙をこぼしながら、捨て台詞を吐いた。そしてドアを開け放ったまま、教室から逃げ出してしまった。
女たちは目の前で起こった言い争いを目の当たりにして、各々が思うところもあった様子である。視線を伏せて、意気消沈をしたまま、何事かに思いを馳せていた。やがてプロテアが複雑な顔を上げて、ローズに声をかけた。
「どーするよ……あいつ……」
ローズは清冽なため息をつくと、両掌を上に向けて、首を傾げて見せた。
「今話しかけても、火に油を注ぐだけよ。落ち着いたらゆっくりとお話しするわ。でもいくら悼んでも、彼女は帰ってこない。あの子がそれを理解するしか、しようがないもの」
ローズは教壇へと歩んでいくと、置かれている俺の出席簿と教科書を手に取った。そして意味ありげなウィンクと共に、俺に手渡してきたのだった。
「そのために……ここから始めないとね……」
俺はローズから出席簿を受け取りながら、ぼんやりと考えていた。ここから始めるだと? ここに籍を置いて、彼女たちの敵と戦い、新たな故郷にしろということか? 受け取った出席簿が、急激に鉄の塊のように重くなり、俺の手のひらからこぼれ落ちそうになった。俺は今まで変わる、変わると言いながら、そのたび過去に引きずり戻されて、同じ過ちを繰り返した。
最初に変わると思ったのはいつだ? 彼女たちと出会って冬が終わったころだ。しかし俺が過去の存在であるがゆえに、未来を守るために身を引いた。次はヘイヴンを手にして、北への偵察から帰った時だ。壊れたサクラとローズを目にして、自分のあり方に疑問を持ったのだ。それでもやり方がわからず、マリアを死に至らしめた。そうして俺は道を見失い、だから生きることすらできなくなった。
そんな俺がどうして、再び彼女たちに何かをしようと思えたのだろうか。俺が物思いに沈んでいると、ローズが乱暴に残った教科書を押し付けて、現実に引き戻した。彼女は悪戯っぽく舌を出すと、おねだりするような甘えた視線をくれた。
「じゃないと、殺される覚悟をしてまで、あなたに逆らった意味ないから」
俺はやや瞠目して、彼女の顔を見返してしまった。進むための一歩にするため、命を賭して俺を引っ越しさせ、お膳立てをしたというのか。呆れてものが言えなくなり、げんなりと肩を落としてしまう。それでも不思議と、出席簿に宿った、不釣り合いな重さが消えたのだった。
少なくとも、俺にはできることがある。ローズが示してくれた。たとえ悲惨な過去とつながっていようとも、それでも生きていくことができそうだった。




