思慕-3
ローズ主導の部屋替えが終了し、はやくも一週間が経とうとしていた。俺は保管庫を追い出されて、不貞腐れながら教室で執務をとっている。サクラから上がってきた書類に目を通して、確認のハンコを押し、分類ごとにまとめるだけの簡単な仕事だ。だが俺はなかなか集中できずに、慣れた捺印すらてこずる有様だった。
俺は手元が狂って、ずれた捺印を目にして舌打ちをした。そして大きなため息をついたのだった。
(クソ……事務机だけは、俺の部屋のものを用意させたまではいいが――)
俺の仕事場である教室では、書類をめくりスタンプ台が擦れる音だけが響いて、静謐な空間を生み出しているはずだ。しかし今ではクロウラーズのひそひそ話が、あちこちから聞こえているのだった。
「それ豚?」
デージーの小声が、意識しなくても耳に入ってくる。それに答えたのは、プロテアの大声だった。
「ばぁか! ピコだよピコ!」
プロテアがむっとした声で言うと、がたりと椅子を蹴って、パギの黄色い悲鳴が上がった。
「ピコはそんなデブじゃないよ! プロテアお姉ちゃん、ピコのこと忘れちゃったの!?」
「忘れるもんか! 俺の絵がへたくそなだけだ!」
プロテアが慌てて弁明するころには、俺のこめかみにはやかましさのあまり、青筋が浮いていた。俺の様子を注意深く窺っていたのだろうか、サンが声を潜めて呟いた。
「シー……ナガセ仕事してるから……声を抑えて。またローズに説得してもらう羽目になるよ」
それすら俺に聞こえてしまうていたらくだ。サンの一言で教室は一時的に静けさを取り戻したが、変わらず女たちのひそひそ話は続いたのだった。
(これだから嫌になる)
俺は顔を机に向けたまま、上目遣いで教室を眺め渡した。対面に並べられた学習机では、サンとデージー、パギ、プロテアが、お絵かきに勤しんでいた。教室の壁にはクロウラーズの旗と一緒に、彼女たちがここ数日で描いた絵が飾られている。別に芸術的価値があるわけではない。ローズが勝手に張り付けていくのだ。
俺は頭を抱え込んで、机の上に視線を戻した。そして手短な報告書を、腹立ちまぎれに握りつぶしたのだった。
ローズの引っ越し計画によって、学校の初等部には大幅に手が加えられた。入ってすぐの一年教室は、俺の執務室兼、会議室兼、談話室となった。仕事中だというのに女どもが出入りをし、好き勝手遊ぶようになってしまった。
ちなみに隣の二年教室には、元居た管制室の機能がそっくり移されている。ここで仕事をしたいが、ローズの目もあって難しいことだ。そして最奥の三年教室が、俺のプライベートな私室として割り当てられた。
「それにしても……この馬鹿ども何か勘違いしてるんじゃないか……」
黒板と真向いの壁には、生徒のための用具入れが置いてある。そこにはクロウラーズ個々人の私物が、いつの間にか保管されている。ローズの縫いかけの服や、プロテアのギターはまだわかる。アジリアの読みかけの本までしまってあるのだから腹が立つ。
「俺の執務室を談話室代わりに使いやがって。最初こそ遠慮が見られたものの、最近では楽しそうにはしゃぎやがるんだからもう……」
ローズしかいなかった頃はまだ平和だった。彼女の裁縫は音がしないし、石のようにいるだけで一言もしゃべらないんだからな。だが彼女が執務室でくつろいでいても、俺が文句を言わないとわかると、女どもはこぞって押しかけてきやがった。サクラやアカシアは手伝いが目的だったが、プロテアやパギは遊びに来ている。もちろんアジリアどもは休みながら、俺を監視しているという寸法だ。
「仕事に身が入らない……かといってローズには逆らえんし……くそ……」
俺が机に膝をついて頭を掻きむしると、ノックもなしに教室の引き戸ががらりと開いた。
「ナガセ~。報告書だよ~」
アカシアが鼻歌を奏でながら、友達の部屋のように入り込んでくる。上官を上官とも思わぬ無礼極まりない態度に、正座させてせっかんすべきだとは思う。しかし俺は感情の抜けた顔になって、彼女を迎え入れることしかできなかった。
「うん。ありがとう」
部下に接する際の、横柄な口調と態度がどうしてもできない。書類を手に駆け寄ってくるアカシアが、どうしてもテスト用紙を手にした教え子と重なってしまうのだ。アカシアは無邪気な子供みたいに、自らの報告書を俺に手渡した。
「はい。さっき出してって言われたやつ」
「ああ……飼育小屋の修繕に関するやつか。確認したよ。確かアカシアは、リスのハンコだったな……」
俺は気の抜けた声でつぶやくと、机の隅に置かれたポップなハンコ入れに手を伸ばした。中には可愛らしくデフォルメされた、動物のハンコが十五個収められている。俺はリスのシールが貼られたハンコをつまみつつ、ざっと書類に目を通した。
「うん。僕リス好きだよ。小さくてかわいいから」
「それはようございました」
俺は慣れた手つきでリスの印を押すと、棚へと歩いてアカシアのバインダーに書類を収めた。俺が机に戻ってくると、微笑みを投げかけてくるアカシアと目が合った。
「ナガセ。ほのぼのしてるね~」
はにかみながらも、溢れんばかりの満面の笑みだ。アカシアは俺の心境などつゆ知らず、心から現状を楽しんでいるようだった。彼女の無邪気さには拍車がかかり、感情を下手に押し殺すことは少なくなった。そして生のままに振舞うことが増えた気がした。
「そうだね」
俺は無表情のまま機械的に受け答えしたが、アカシアはしょげることなく爛漫に笑い続けた。
「僕その書類通ったら、午後の動物の世話まで休みなんだ。だからここでちょっと勉強していくね。ナガセの邪魔はしないから」
勉強していくね……か。前はしてもいいかなって、おどおどと聞いてきたんだがな。すっかり慣れてこのざまだ。俺はそれ以上喋る気になれず、浅い首肯を繰り返した。
「好きにしろ……」
「ありがと~」
アカシアはニコリと微笑んで、駆け足で用具入れへと向かった。彼女は家畜育成記録のコピーの束と、ノートを手に自らの椅子に腰かけた。そして絵描きにふけるプロテアたちに交じって、黙々と勉学に打ち込み始めた。
こうしてぼやいても、悪戯に時間を浪費するだけか。手元の書類に意識を集中して、仕事に没頭しようと試みる。しかし向かいに座るプロテアたちの気配や、ページをめくる物音に、どうしても気を引かれてしまうのだ。
書類に目を通す振りをして、彼女たちの様子を盗み見た。すると同じようにこちらを窺っていた、アカシアと視線がはちあった。彼女は頬を真っ赤に染めると、気恥ずかしそうに俯いてしまった。
(集中するよう叱責すべきだが……普段の調子が出ない。それもこれも、この教室が俺の古巣に似ているのが悪いんだ)
思い起こせば俺が教鞭を振るった教室と、この部屋はよく似ている気がする。支給された少ない教材を酷使して、懸命に授業を行ったものだ。壁一面には生徒の習字が貼られていて、用具入れには親の居ない子たちの私物が詰め込まれていた。そして俺が採点をする傍ら、子供たちは遊びに励んでいるのだ。
細かいところに差異はあるが、生み出される空気はそっくりそのままだ。今まで追い求めてきた幻想が、現実となって俺を包み込んでいるのだ。俺は忘れてしまった感情に、心を激しく揺さぶられていた。しかしその感情の名を思い出せずに、ひどく悶々とした気持ちにさせられていた。
「こんなことになったのも、ローズが悪いんだ。俺が手を出したのが、原因なのは間違いない。しかし人がラリっているのをいいことに、弱みに付け込むような真似をして。ああ、人を導く立場の人間が、ラリっていていいはずないだろう。駄目だ。どう考えても俺が悪い」
俺の脳裏に笑顔を取り戻した、ローズの顔が思い浮かぶ。昔の彼女の表情には、優しさの見返りがない淋しさと、満たされない虚しさが影を落としていたものだ。それがすっかりと余裕を取り戻して、無償の愛を周囲にばらまいているのだった。
「何がローズをあそこまで変えたが知らんが、あのヤロー……なんで俺の過去を知っていやがる? 教室のライブラリにあるはずはないし……俺の私物に過去に関するものはないはずだ。薄気味の悪い……何が目的でこんなことをしているんだ……」
俺が愚痴をこぼしていると、不意にアカシアがすまなさそうに手を挙げた。俺は教師時代の癖で、席を立つと彼女の机に近づいて行った。
「どうした?」
俺がぶっきらぼうに聞くと、アカシアは気まずそうに口元をもごもごさせた。
「あの……その……冬に備えて飼料をね、どれくらい用意すればいいか調べたいんだ。それで去年の報告書を調べてるんだけど、ナガセから何かアドバイスはあるかな?」
なんだそんなことか。それぐらいの質問でもあれば、いくらでも答えてやれるぞ。
「今年は家畜の数も種類も増えたからな……去年の総消費量は出したか?」
「もちろんだよ。この数値から増えた動物の分を足そうと思うんだけど……単純に平均とるだけじゃだめだよね?」
「当たり前だ。動物ごとに飼料の種類も、消費量も違う。それに収集可能な飼料の量には限りがあるし、損失する可能性もあるんだ。全ての動物の飼料を用意することより、我々がどれだけの動物を囲えるかを考慮した方がいい」
俺はアカシアの目的に、必要な前提を提示してやった。するとアカシアは背中を丸めて、ノートに顔がくっつかんばかりに机に伏した。いきなり難しい話をされて、くじけたのかと思った。だが彼女の顔を覗き込むと、嬉しそうに相好を綻ばせているのだった。
「へへぇ……ローズの言ったことほんとだ」
アカシアが何かつぶやいたが、俺の耳にまでは届かなかった。まぁ何をほざこうが、課題が軽くなるわけでもない。俺は拳骨ではなく、手の甲で優しくアカシアの頭をはたいた。
「集中しろ。まず何から手を付ければいいかわかるか?」
「はぁい! 必要な飼料の総量を算出するんだね!」
アカシアが上体を起こして、嬉しそうに答える。俺は腰に手を当てて、首を振って見せた。
「違う。収集可能な飼料には限界があるといっただろう。俺たちは飼料に適した作物を発見しておらず、生産した穀物の一部を飼料に転用している。つまり俺たちと同じものを、家畜も食ってるわけだ」
前回の越冬では、家畜を囲い始めてすぐ冬が来たので、大した数がいなかった。それゆえ無計画で臨んでも、全ての家畜が冬を越すことができたのだ。しかし今では数が膨れ上がり、牛や豚が十数頭ずつ、羊も数頭もいる。そして鳥に至っては、三十を超える数がいるのだ。きちんとした計画を立てないと、生き物が餓死する陰惨な光景を目にする羽目になるだろう。
「だからまず出すべきは、冬までに貯蓄できる、俺たちの総食糧の数だ。そこから俺たちが越冬に必要な量を引き、残った分が家畜に使える分となる。まずそこから始めろ」
「もし今いる家畜の量をまかないきれなかったら?」
「人に慣れすぎた。逃がしても野生には還れん。屠殺して保存食にするのが一番だな」
アカシアが唇を軽く噛んで、物思いに沈み始めた。優しく責任感の強い彼女のことだ。自分で連れてきた動物たちを、自分の都合で殺すことに抵抗があるのだろう。俺は自然にその意をくんで、アカシアの背中をそっと撫でてやることができた。まるで俺ではない誰かが、俺の身体を操っているようだった。アカシアは唇を噛むのをやめたが、代わりに肩を小刻みに振るわせだしたのだった。
しかし失敗したな。いい年こいた大人がこれしきの計算、一人でできて然るべきだ。振り返れば今の今まで、彼女たちには戦闘と、道徳しか教えてこなかった。国語は読み書き程度で、数学は算数レベル。歴史を教える必要はないが、社会を学ばせた方が団体行動に利するだろう。基本的な勉学を叩きこんだ方が良さそうだ。
(俺は作戦を立案できないし、問題のAEUからは音沙汰がない。AEUに対しては個人で偵察を行うが、体力が回復するまでまだ時間はある。俺も彼女たちも、時間は有り余っているということだ。乱れた指揮をまとめ、地盤を固めるのにいい機会かもしれない)
彼女たちには一般的な、教養を身に着けてもらうか。見張りと業務のシフトを考慮し、午前と午後に分けて二コマずつ授業の枠をとろう。俺は元教師だし、教鞭をとるのは難しくない。問題は場所の設定だが、全員が気兼ねなく、一堂に会せる場所なんぞあったか?
食堂はダメだ。料理の匂いにやられて、彼女たちの集中力が削がれる。談話室も論外だ。遊び道具が多すぎて、集中することができないだろう。新しい場所を設定しようにも、手間がかかるし、反発者が呼びかけに応じるとは考えにくい。
ふと俺の視界に、教室の風景が目に入ってくる。ここは人に教えるために作られた場所だから、勉学に必要な道具はそろっている。それに俺はここで執務をとっているので、彼女たちも来ざるを得ない。まさにおあつらえだった。
「腹が立つ」
俺は歯ぎしりをして、小声でうそぶいた。俺は強大な運命に圧し潰されて、最早出来ることがないと悲観に暮れていた。そんな俺にもできることがあると、ローズの成したことが意味をもって、俺の前に道を作り上げているのだ。
「いぃッ!? 僕何か間違えた!?」
俺のつぶやきを耳にして、アカシアが肩をはねて驚いた。俺はぶっきらぼうに首を振ると、今の自分の顔を見られないよう、乱暴にアカシアの頭をなでて俯かせたのだった。
(左腕の傷が塞がり、体力が戻るまであと二週間といったところか。俺が偵察をできるころには、『これで最後だ作戦』から四週間が経過することになる。AEUは森の焼け跡に前線基地の設営を試みるだろうが、粘菌汚染の可能性が捨てきれないので、実行には多少の時間がかかるはずだ)
AEUとの約束を果たし、バイオプラントは封鎖したので、多少なりとも交渉の余地はある。しかし攻撃される可能性を捨てきれないので、戦闘に突入した際の達成目標も、定めておかなければならない。戦争の勝利は不可能。孤島では逃げられる場所は限られている。人類が残っていそうな孤島の最北端――天風に辿り着くには無理があった。となると一番現実的なのは、戦争を膠着状態に持ち込んでしまうことだ。
幸か不幸か、手札にはジョーカーがあった。
(局地型ポールシフト爆弾――ハートノッカー。やつら環境再生用のポールシフト爆弾で、こいつの脅威は嫌というほど知っているはずだ。こいつをちらつかせれば、AEUの動きを制限できるだろう。時間さえできれば、こちらの選択にも幅が増えるはずだ)
「なぁ、ナガセ。アカシアだけずりぃよ。俺にも絵の描き方を教えてくれよ」
物思いに沈んでいた俺を、プロテアの拗ねた声が現実に引き戻した。振り返るとプロテアが、鼻と唇の間にペンを挟んで、ジト目で俺のことを睨んでいた。しょうがない奴だな。
「アカシア。お前はサクラのところに行って、去年の冬季総消費食糧を調べてこい。プロテア。俺には絵心がないから、大したことは教えられんぞ。ひとまずペンを持ってみろ」
俺はアカシアを教室から送り出し、プロテアの机に向き直った。そして机の上に置かれた紙を指で叩き、何か書くように促した。プロテアは「やりぃ」と言うと、あろうことかペンをこぶしで握りしめて、紙に突き立てたのだった。
プロテアの字は汚いと思っていたが、そういう風にペンを使っていたのか。眩暈がするが、教えなかった俺の責任だ。
「お前は鉛筆の持ち方がなっちゃいない。絵が上手い奴は字も奇麗だ。字が奇麗な奴は、正しいペンの持ち方をしている。なんたって、道具を正しく使っているわけだからな。そこから始めるぞ」
俺がプロテアに正しいペンの持ち方を教えていると、サンが興味深そうに机を覗き込んでくる。しかしデージーは複雑な顔をして、プロテアに近寄ろうとはしなかった。むしろサンの興味をとられたことで、俺とプロテアに怒りを覚えたようだ。横目に苛立ちをのせて、こっそりとぶつけてきたのだった。
俺に対しては、デージーはアジリアに組みしているので、相いれないのだろう。プロテアとはアイリスとピオニーの処遇について、真っ向から対立している。きっとサンがいなければ、彼女はこの場に近寄ろうともしないだろうな
授業の開始と共に、彼女たちの不和も解決すればいいのだが。俺はプロテアの手を取りながら、一番の悩みの種に思いを馳せていた。




