思慕-2
「ローズはきっとマリアと別れたのがつらくて、精神的に参ってンだと思う。だから多少のオイタは勘弁してやってくんねぇか?」
俺の機嫌がみるみる悪くなっていくのを感じたのか、プロテアが後を追いかけながらささやいてきた。俺は歩く速度を緩めぬまま、浅く首肯だけをした。
「オイタも何も、間違ったことを止めるだけだ。変に構えなくてもいい」
プロテアがごくりと生唾を嚥下する。サンも青ざめた顔を、力なく左右に振った。どうやら想像以上のことを、ローズたちはやっているようだった。俺がさらに表情を厳しくすると、プロテアは場を和ますように、わざとらしく明るい声を出した。
「よっしゃ分かった! オーケイ、全部元通りになるよう手伝うからよ、穏便に済まそうな。ローズの野郎、死ぬのが怖くないみたいに、やりたい放題やってるから」
「うん……ナガセが見たら卒倒すると思うよ……」
「それは楽しみだな」
俺は肩を怒らせながら、初等部の廊下を突き進んでいく。モップでもかけたのか、床に積もっていた埃はさっぱりなくなっていた。天井にかかっていた蜘蛛の巣も見当たらず、格子で封がされた電灯には、新しい導光チューブが嵌められていた。
チューブを通う柔らかい太陽光に照らされた廊下で、デージーとリリィが忙しなく動き回っていた。二人は協力してカラフルな家具を、教室の方へと運んでいた。仕事をすることで仲間を亡くした、暗い気持ちを紛らわしていたのだろうか。汗の滴る表情は、どこか明るく輝いていた。しかし俺が脇を通り抜けると、石像のように硬直し、労働の汗に冷や汗を滲ませたのだった。
「急ぎすぎたか……」
俺は誰にも聞こえないように、小声で独りごちた。こんなつまらん仕事で士気が上がるなら、やりたいようにやらせておけばよかった。どうせ俺は学校の部屋を使わない。彼女たちに自由にやらせても、何も問題はなかったのだ。今となっては乗り掛かった船。俺は喧騒の源である、初等部最初の部屋――一年教室のドアを開け放った。
「おい……こんなところに我々の机を並べてもいいのか……? あいつは独りで部屋にこもるのが好きだったよな……? 顰蹙を……ねぇ……あの……聞いていますか?」
真っ先に聞こえたのが、初めて聞くアジリアの恐縮した声だった。見るとアジリアは及び腰になって、てきぱきと指示を下すローズを、眺めることしかできないでいる様子だった。アジリアは異形生命体はもちろんのこと、俺にすら屈する姿勢を見せたことはない。口では従いつつも、何らかの方法で反意を示してきた。俺は世にも珍しい、アジリアが圧倒されて、屈する様を目撃したのだった。
「あの……本当にナガセがやれと仰ったのね……? 私少し怖くなってきたんだけど……」
サクラはローズの指示に従って、学習机を教室に並べていた。ローズの嘘を信じて手伝いはしているものの、疑念が強まってきたに違いない。表情には疲れとは違う陰りが見え、動きはひどく緩慢だった。
「そうよぉ~、ナガセがやれって言ったのよぉ~。この部屋から新しく始めるつもりなんだってぇ~。だから気にしないで続けて続けてぇ~」
当のローズはというと、余裕の満面の笑みを浮かべつつ、壁を雑巾で掃除しているのだった。
教室をざっと見渡すと、すでにあらかたの家具が運び込まれた後のようだ。黒板を背にした教壇と向かい合って、十五脚の学習机が整列していた。壁には棚が並べられており、すでに書類が収められている。教室はすでに、授業が始められそうな状態にまで出来上がっていた。
「何をしている?」
俺は怒りに声を引きつらせながら、教室にいるアジリア、サクラ、ローズの三人娘に声をかけた。アジリアとサクラが俺に気づいて小さな悲鳴を上げたが、ひとりローズは朗らかに笑いかけてきた。
「あ。今頃起きたの? もう十時回ってるわよ? ここはやっておくから、あなたは休んでいたらどう?」
ローズは挨拶はすんだと、再び壁を雑巾でこすり始めた。俺は苦笑いを浮かべると、サクラの名札を取り出して、注意を引くため空で二回振って見せた。
「部屋替えの件だが、俺はそのような話はしていないぞ。サクラ。それ持って部屋に帰れ」
俺は机を手にしたまま棒立ちになるサクラに、名札を投げ渡した。サクラは名札を掴み損ねて、数回宙でお手玉をした。やがて手にした名札を恥ずかしそうに、ライフスキンの胸にしまい込んだ。彼女はローズを凄絶な顔で睨みつけると、低い声で静かにうなった。
「後で殺してやる」
ローズは深いため息をつくと、雑巾をいったん腰のベルトに挟んだ。彼女は両の手のひらをサクラに向けて、落ち着くようになだめる仕草をする。それから俺に視線をやり、不服そうに唇を尖らせたのだった。
「昨日話したでしょ? ナガセの部屋は、みんなが集まって相談するに狭すぎるでしょ? 物も増えて足の踏み場も無くなってきたし、せっかくだから広いこの区画に引っ越そうって」
ピロートークもリップサービスもした記憶はないぞ。俺がラリっている間に何を口走ったかは知らんが、命令の根拠である書類は作成も交付もしていない。明らかな規律違反だ。サクラも正式な手順を経ずに行動したので、監督不行き届きで罰せられるべきだろう。
「俺が命令を下すときは、書類を作成し、みんなに告示していただろう。大体俺はあの部屋に不自由したことは――オイ……何で資料室の書類がここにあるんだ……?」
俺はローズの肩越しに見える本棚に、見慣れた背表紙が並んでいることに気づいた。駆け足で近寄り、適当な一冊を手にしてまじまじと見る。間違いない。ここに並んでいるのは、俺の部屋に隣接する、資料室にあるべき書類だった。
「大変だったよ。ナガセを起こさないようにこっそり運ぶの」
「寝てるところ邪魔しちゃ悪いから、資料室直通のドアから運んだの。そうやれってローズが……」
サンとデージーのおずおずした声が、教室の外から聞こえてきた。だが二人を気にする余裕なぞなかった。資料の表紙には俺が綴った、厳めしい表題があるはずなのだ。しかしそれを覆い隠すようにして、不細工なクマのフェルトが貼られていたのだ。
「ファー!? バインダーにクマちゃんのアップリケがしてある! やめて下さい! かさばるじゃないですか!」
俺は反射的に表紙から、アップリケをむしり取ろうとした。しかしそれを遮るように、ローズが俺の腕の中に、別のバインダーを数冊放り込んできた。
「項目ごとに分かりやすいよう、アップリケを貼り分けたの。探索関係が鳥で、生産関係が牛、報告書類は蛇という風にね」
ローズの押し付けてきたバインダーには、禿げた鳥と萎びた牛のアップリケが貼ってあった。俺の達筆より、この異形生命体の親戚のほうがわかりやすいとでもいうのか!? 俺はバインダーをまとめて床に投げ捨てると、他にもいじられていないか棚をくまなく調べ始めた。
「黙れクソが! 俺が文字を読めないと思ったのか! うぉおおおお! 報告書にシールを張りまくるんじゃねぇ! ヒェ~! サンプルにリボンが括りつけてある! 俺をどうしたいんだ!?」
提出者ごとにまとめられる日報には、個々人ごとに異なる動物のシールが、やたらめったらに貼られていた。アジリアなら猫、サクラなら犬、プロテアなら牛、リリィならウサギといった具合にだ。地質標本や植物標本を収めたガラスのサンプルケースは、リボンで装飾がされている。いったい俺をおちょくる以外に、何の意味があるってんだ。
「ねぇこれ見てよ! ナガセの新しいデスクよ!」
俺が棚を漁り続けていると、不意にローズが手を引っぱってきた。彼女は活力みなぎる腕で、俺が抵抗する時間を与えず、教壇のある黒板の方へと引きずっていく。そこには生徒と向かい合うように、教職員役の机があったのだが――
「ワーォ!!!?」
自分でも情けなくなる程、変な声が出た。ローズが用意したデスクは、無骨なパソコンデスクでもなければ、重厚なワークデスクでもなかった。子供が落書きをしてプレイドゥ(幼児用粘土。小麦粉を主成分とし、誤飲しても害がない)を捏ねたくるための、キャラクターの絵があしらわれたプレイデスクだったのだ。
ローズは俺に眩しい笑顔を見せて、俺の背中を机へと押し出した。
「どう? 喜んでくれた!?」
「ンな訳ねーだろ! 俺はこんなもの使わんぞ! お前これ全部元通りに戻せるんだよな!? 昔あった通りにできるんだよな!?」
俺は大股でローズに歩み寄ると、その胸倉を乱暴に掴んだ。彼女は涼しい顔をして、けらけら笑っているのだった。
「はいはい。過ぎたことを後悔してもどうしようもないでしょ?」
俺は軽く地団太を踏むと、辺りを見回した。教室内で固まるアジリアとサクラに、割って入るタイミングを窺うプロテア。廊下の窓からは、サンとデージーが成り行きを見守っている。こいつら全員同罪だ。
「お前ら全員説教だ! 部屋に来い!」
ローズが胸倉を掴まれたまま、笑顔で床をさした。
「ここでしょ?」
「違ェわ!」
俺は腕に力を込めて、ローズを片手で宙に釣り上げた。彼女たちの小さい悲鳴が、そこかしこから上がった。俺は止めに入ろうとするプロテアとアジリアを、左腕の断面でけん制する。そしてローズに鼻先を近づけて、どすの利いた声でうなった。
「貴様。調子に乗るのも大概にしておけよ。今すぐ元に戻さなければ――」
ローズの絶えることがなかった笑顔がさっと消えて、彼女は攻撃的なジト目になった。ローズは俺の言葉を遮って、押し殺した声でつぶやいた。
「ばらすわよ」
ばらす? 俺の過去をか。結構なことだ。この際皆には知ってもらった方がいいだろう。俺は救いようのない化け物で、マリアを殺した過去の悪意の象徴だと。そうすれば俺という共通の敵を得て、クロウラーズの結束を再び固めることができる。この絶望的な環境を、一気に覆せるかもしれない。それしか方法はない。俺はせせら笑った。
「好きにするがいいさ」
ローズは一度うつむいて、深い、それは深いため息をついた。そして俺に再びジト目を向けると、やや軽蔑を込めて言った。
「私とエッチしたこと」
俺の脳内に雷が落ち、思考が吹き飛んで真っ白になってしまった。ばらす? 何を? 関係を持ったことを? それはまずい……のか? 別にばれてもいいのではないか?
クロウラーズに与える影響は、未知数だと考えられる。俺の自惚れでなければ、アカシアとプロテア、サクラに好意を寄せられている。アカシアとプロテアなら理解してくれるだろうが、サクラは嫉妬で暴走するに違いない。二年前はカットラスで済んだが、今回はハートノッカーを持ち出すかもしれないのだ。痴話喧嘩で大地震を起こされたら、たまったものではない。
いや。問題はそこじゃないだろ。俺はかぶりを振って、頭を支配した無駄な考えを振り払った。俺がこのケースで考えるべきは、俺自身がローズをどう扱うかだ。ローズと持った関係を、俺がどう受け止めたうえで、彼女とどのように相対するかなのだ。
「まさかお前……」
ローズはその通りと、目を細めて口の端を釣った。俺を二度殺そうとしただけあって、彼女は俺の性格を熟知していた。俺は追い詰められたことを知って、身体から血の気が引くのを感じた。
ローズとの関係を認めたうえで、突っぱねたとしよう。俺は彼女を慰み者にしたことになる。関係を否定して突っぱねても同じことだ。俺は快楽のためだけに、ローズを貪ったことになるのだ。俺が今まで費やしてきた、彼女たちを守る戦いを否定することになる。俺はそれだけを支えに、この三年を戦い抜いてきた。しかし守ることを否定したならば、俺は自分で自分を許せない。彼女たちを導く、精神的支えを無くしてしまう。
AEUの脅威がある現在、俺は指揮を降りることはできない。俺が彼女たちの指揮を続けるためには――なんということだ。彼女の沈黙という、慈悲に縋るほかはないのだ!
「で……許可はもらったよね?」
ローズは言葉を失った俺に、畳みかけるように睨みつけてきた。俺は彼女から視線を逸らすと、口をもごもごとさせるしかできなかった。
「あ……その……すまん……寝ぼけていたようだ……確かに……俺は許可した気がする……ただちょっと……いや物凄く……想像していたのとかけ離れていたから……」
教室内で軽いどよめきが起こり、ローズを除くクロウラーズが驚きに目を丸めた。それもそうか。俺は指揮の結果で間違いを犯しはしても、事務処理でミスをしたことは一度もなかったからだ。アジリアが驚愕で口をあんぐりと開き、サクラが訝しんで目を細める中、ローズは俺が胸倉を掴む手を気安くはたいた。
「じゃ、おろしてくんない?」
俺は腕に込めた力を緩めて、ローズを地面に降ろすしかなかった。ローズは俺を非難がましく横目で見てから、乱れた胸元を大仰な仕草で整えた。それから両の手打ち鳴らして、固まったままのクロウラーズを急かした。
「は~い。皆許可が下りたわよ~。続けて続けて~」
クロウラーズは事の真意を問うように、俺に視線を注いでくる。俺はやめさせるように、ローズに視線で訴えた。しかし彼女は愛用のノートを、『いらない』と書かれたダンボールに押し込めるのに集中していた。
「待って……そのノートを捨てないでくれませんか?」
俺はローズの背後に忍び寄って、情けない声でつぶやいた。ローズは『あたらしいの』と書かれたダンボールから、ネズミのキャラクターがあしらわれた、子供用のボードを俺に差し出した。それは子供が落書きに使う、小さなホワイトボードだった。
「こっちの使ってね」
「いやです」
俺は即座にキャラクターのボードを、わきに放り捨てた。ローズは頬を膨らませて、俺を一瞥した。何をキレてるんだ? 泣き喚きたいのは俺の方だ。俺とローズはしばらく睨み合ったが、何を思ったか彼女はサクラに視線を移した。
「ねーサクラ。あなたはもうしたの?」
「何を?」
「決まっているじゃ――」
勘弁しろ! それを言われたら全部ご破算になっちまう!
「わー。素敵なボードですね。俺気に入ったよ」
俺は酷い棒読みで、ローズの言葉を遮った。ローズは呆気にとられているサクラを残して、満足そうに頷いたのだった。
やがてローズは壁を拭き終えると、プロテアに目配せをした。プロテアは事態についていけずに立ち往生をしていたが、我に返るとバネが跳ねるように動いた。彼女は駆け足で廊下に飛び出し、クロウラーズの旗を手に戻ってくると、ローズへと渡したのだった。
「後これ……ネ。確認して」
ローズは磨いたばかりの壁に旗を飾り、手で押さえて俺に見せてきた。旗は制作当時から、さほど変わりないように思えた。上半分は木漏れ日を表現して薄緑に塗られ、下半分は大地を現し深緑に染められている。丘陵を意味する中央の緑には、角の短い牡鹿が描かれていた。彼女の言わんとしていることはわかる。
「みんなの象徴をここに置くからには、俺も逃げずに居を構えろということですか?」
「よく見て!」
俺の辟易とした口調に、ローズは憎しみや軽蔑ではなく、激しい怒りを見せた。彼女は旗に描かれた、牡鹿の角の間を指し示した。そこにはいつの間にか黄色い星が、新しく付け加えられていたのだった。
俺はそれ以上言われなくとも、黄色い星が何を意味するか分かった。マリアの胸に添えて、空に送り出した花と一緒の色だ。マリーゴールド。それが旗の空にまたたいて、誇らしげに咲き誇っているのだった。
「マリアか……」
俺が答えると、ローズはパギに見せる、柔らかい笑みを返したのだった。
「あなたが教えてくれたのよ。忘れようとするから辛いのよね。だから、形に残した」
俺は旗に歩み寄ると、輝く星にそっと手で触れてみた。ローズが縫ったのだろうが、彼女が持てる全てを注ぎ込んだのが、布越しに伝わってくる。星は奇麗な真円を描いており、針の通る間隔も均等で、実に丁寧に刺繍されていた。
俺の指先が、縫い目に沿って動いていく。するとその滑らかな感触が、『懐かしき』マリアとの記憶を呼び覚ました。
物事の発起人になることはなかったが、女たちの活動の場には、大抵その姿があった。一年目に畑の前身となる室内プラントで、アカシアとともに植物の世話をしていたな。二年目から訓練を始めたが、俺の予想に反して貴様は最後まで耐え抜いた。三年目にお前は故郷に帰ろうといい、そこが浜辺にあると言った。お前は故郷に帰ろうと必死になって――星になってしまった。
目頭が熱くなり、胸の奥から熱い何かがこみあげてきた。それは空しい吐息となって口からこぼれ、マリアの星に吸い込まれていった。俺を押し潰そうとする重圧が少し和らぎ、気持ちが楽になったような気がした。
俺は名残惜しさに躊躇いつつも、マリアの星から指を離した。そして自分でも驚くほど、緊張の解けた顔でローズを振り返った。
「自分の教えたことで、自分が助けられるとはな……俺も老いたものだ。助かった」
ローズは微笑みを返して、俺の腕を優しくとった。しかし急に表情を険しくすると、手に力を込めて俺を出口へと引っ張っていった。
「じゃあ、お部屋の準備をするのに邪魔だから、とっとと出てってくれるかしら?」
逆らうのは容易だが、苦手な教室ということもあり、踏ん張る気力もなかった。俺はあっという間に、ローズに教室から追い出されてしまった。ローズはドアを閉める前に、その隙間から顔を覗かせて、廊下で棒立ちになるサンを睨みつけた。
「サン。いつまでもそこにいないで、ナガセの部屋のもの全部持ってきてちょうだい」
サンがびくりと肩を震わせて、許可を求めるように俺に視線を移した。俺は首を横に振るが、ローズはサンを急かして、手で追い払う仕草をした。俺はローズの恩情にあやかろうと、口をいの字に広げて、情けない声でつぶやいた。
「どうしてもやるの……?」
ローズが視線を、サンから俺に戻した。
「は? あなたが命令したのよね?」
「そうだったね……じゃあ銃だけ返してくれ……」
「あれは私が貰いました。弾なら返してあげる」
ローズはそう言って、懐から実弾の入った透明なビニルを取り出した。ざっと見てモーゼルに込められていた、二十発全部がまとめられているようだ。彼女はビニルを俺の手に押し付けると、有無を言わさずドアを閉めてしまった。
「え? え……えぇ~……」
もはや何を言っても無駄だし、俺にできることもなさそうだった。俺はがっくりと肩を落とすと、教室を離れることにした。すぐに背後から、二人分の足音が追いかけてくる。そしてサンとサクラが、俺の両隣に並んだのだった。
「部屋に戻るんだったら、触って欲しくないの教えてね。ナガセのプライバシーは守るからさ……でも本当にいいんだよね? 後で取り消して怒るの無しだよ」
サンは複雑な表情をしながら、俺に念を押してきた。本音を言えば今すぐやめさせたいが、俺が選択できる立場にないのだからしょうがない。力なく頷くことしかできなかった。しかし自室がもぬけの殻となり、新しい部屋の教室が準備中ときたら、俺はどこで仕事をすればいいんだ? それ以前に、どこでいじけていればいいんだ?
俺のげんなりした顔を素早く読み取ったのか、サクラが素早く寄ってきた。彼女は俺にそっと耳打ちをした。
「管制室の機能はそっくりそのまま、教室に移せますからご安心ください。しかしながらお部屋の準備が整うまで、ナガセの業務に支障が出ると思われます。逆に機会ととらえて、お休みを取られてはいかがでしょうか?」
「それしかないだろうな」
俺は額に青筋が浮かぶのを感じながら、やりどころのない苛立ちに肩を震わせた。ローズのやつが、ここまで計算して事に及んだなら褒めてやりたいことだ。奇麗に仕事を奪い、休みを押し付けやがって。
「移転作業中の報告は、私がまとめておきますので……それで……その……」
サクラは躊躇いに言い淀み、俺の顔色を何度か盗み見るそぶりを見せた。やがて俺が投げ渡したネームプレートを取り出すと、許可を願うように俺に見せてきた。
「私の部屋なんですが、ナガセが好きにしろと仰ったとローズが申しまして……学校のホールに移してしまったんです……私があそこに居を構えるのは、ダメなのでしょうか?」
ローズが頭の固いサクラを書類無しで、いかにして丸め込んだと思ったら――サクラが秘書の振る舞いをできるように話を振ったのか。この調子だとアジリアの方も、俺の力を削げるとでも抜かして、賛同させたのだろうな。
「ダメに決まって――」
喉を出かかった声を、俺はすんでのところで抑え込んだ。サクラの引っ越しを反故にしようものなら、それをダシに使ったローズに何を言われるかわかったもんじゃない。今の状況は俺が圧倒的に不利だから、大人しくやりたいようにやらせておいた方がいい。
「好きにしろ。だが私物は元の部屋においておけ。仕事とプライベートは、物理的にも分けておくんだ」
しかしながら逆転の可能性は、限りなくゼロに近かった。事実を否定すれば俺の負けだし、ローズが秘密を守ってくれる以外に、穏便に済ます方法がないからだ。消すか? と、心にもない計画を思い浮かべてみた。俺は馬鹿げた考えに時間を費やす前に、胸に渦巻くやりきれなさを、ため息とともに吐き出した。
「ローズと何かあったのですか?」
サクラが声を潜めて、俺に聞いてきた。俺はぎくりと身を強張らせて、サクラを横目に見た。彼女は初めて見せる懐疑の眼差しを、俺に投げかけている。教室で不自然なやり取りをしたから、疑われるのは仕方ない。これ以上ボロを出さないようにしなくては。
俺は小さな咳ばらいを一つ払うと、普段の尊大な態度を取り繕う。そして取るに足らないと言いたげに、そっけなく言った。
「心配をさせるような物言いになってすまないが、疲れのせいで間違いを犯しただけだ。特に何もない」
「普段お見せにならない、かなり狼狽したご様子でしたが……」
「初歩的な失敗をしたからな。指導者として致命的だし、情けないが狼狽えて然るべきだ」
サクラは納得がいかない様子だった。顎を引いて質問をやめたが、疑いで細る視線は俺を向いたままだった。これ以上詮索されては敵わないので、俺は歩幅を広めて足を速め、サクラとサンを置いて先に進んだ。
サクラとサンは慌てて俺を追いかけてくるが、俺が会話を避けているのを気にしてか、隣に並ぶことはなかった。ただサクラのこぼしたつぶやきが、風に乗って耳に届いたのだった。
「ローズの時と雰囲気が違う……ずるい……」
クロウラーズの前では、ローズのご機嫌の取り方を考えねばならんな。そして彼女が部屋を移動させた狙いも、早く探らなければなるまい。ローズは絶対に俺を憎んでいる。俺を破滅に追いやるだけならいいが、AEUとの決着がつくまで待ってほしいのだ。
自らの心の弱さが招いた事態とは言え、えらい爆弾を抱え込んでしまった。俺は明日からの生活を思うと、鬱屈とせざる得なかった。




