思慕-1
こんなに休んだのは、いつの日以来だろうか? 久方ぶりの休息は、身体に酒のように染みわたり、気付けばかなりの時間を費やしてしまった。ライフスキンの胸元にある時計をちらと見ると、ローズが部屋を出てから丸一日以上が過ぎていた。
現場から離れた時間が長いほど、把握していた現状と、実情がかけ離れていくものだ。変遷する事態について行けず、問題の予見や対応の初動に障害が出る。俺は焦りに落ち着かない心持になった。二度と誰も死なせてなるものか。
「休み過ぎた……もう昼前じゃないか……」
俺はぼやくと、床から腰を上げた。足元に散らばる吸殻を、苛立ち任せに踏みにじる。頭の片隅で、不安を押し殺すために、煙草が欲しいと思った。投げ捨てられたパッケージをざっと視線で撫でたが、どれも空っぽでクシャクシャに潰れている。よくもこれだけ吸ったものだな。俺は舌打ちをすると、皮脂で疼く頭を掻き毟った。
ドアを開けて保管庫へ出ると、床で何かが擦れる音がした。足元に視線を下ろすと、ちょうどドアに引っかかるようにして、ナプキンを被せた皿が置かれていた。片膝をついてナプキンを取り払うと、皿の上にはサンドイッチが載っており、芳醇な鳥の血のソースの香りが立ち上った。食欲をそそる芳香が鼻腔をくすぐって、俺の腹は空腹を思い出したように鳴ったのだった。
『お食べになって下さい。愛を込めて。アイアンワンドより』
皿に備えられた手紙を、握りつぶして適当に投げ捨てた。俺はサンドイッチを口に押し込むと、ろくに噛まずに飲み込んだ。肉体的疲労を引きずっているのか、精神的疲労によるものか、舌は泥をなめたように何も感じなかった。俺は指についたソースを舐めとりつつ、ローズの居そうな場所に考えを巡らせた。
「銃……返してもらわないと……」
ローズが銃を持って行ってしまったので、腰がいつもよりも軽かった。丸腰でいると落ち着かず、どうしてもそわそわしてしまう。だがローズが昨日の一件を苦にして、自傷に走っていないか気がかりだ。こんなところでまごついてはいられない。考えつつも、俺は恐ろしい事実に今更気づいた。
「しまった……拳銃のボルトを引いたまま渡しちまったぞ……」
ローズは銃の撃ち方すら、ろくに知らないと言っていた。訓練で使った9ミリ拳銃と異なる機構を持つ、モーゼルの排弾なんてできるはずがない。自殺の凶器になるし、暴発の恐れもある。
「俺がしっかりしないとダメなんだ……俺がやらないとダメなんだ……」
ノイローゼになりかかっているのだろうか? 頭にすべきことだけが思い浮かび、それに伴う情動は一切わいてこなかった。ただ達成感のない、使命だと思い込んでいる仕事を果たそうと、無気力な体を引きずっているのだ。
ぶつぶつと口の中で、しなければならない仕事を、項目ごとにぶつ切りにしてつぶやき続ける。仕事に時間を費やせば、その分だけ彼女らが良くなれると信じて。だが今のままでは、彼女たちは成長しても、花開くことも、実ることもないだろう。俺のように、いずれ現実につぶされてしまうのだ。例えようのない虚無感が、胸を引き裂いた。
「おかしい」
俺はヘイヴンを十数分歩き回り、保管庫周辺に人気がないことに気が付いた。普段なら狩猟に使用するキャリアの整備や、持ち帰った獲物や資材の解体で、多少なりの賑わいがあるはずだ。それがマリアの葬儀を彷彿とさせるほど、しんと静まり返っているのだ。
「代わりに人の気配がするところといえば……」
俺は保管庫と同じ七階にある、学校のある区画を壁越しに眺めた。廊下の彼方から、彼女たちが作業に勤しむ物音が聞こえてきた。重い荷物を運んでいるらしく、床をこする地響きがしている。加えて何か揉めているのか、鳥がさえずるみたいに黄色い声が聞こえたのだった。
「クソ……あいつら学校の方に集合してやがるな? ローズめ……それがお前の戦いか。過去を広めて、その象徴たる俺と対決するつもりか」
声の種類から推測するに、学校には五人以上が集まっているようだ。俺は現場に近づくことを躊躇って、しばらく区画の周りをぐるぐると回っていた。しかし俺がつまらない過去に囚われているうちに、暴発した弾丸が彼女たちを傷つけるかもしれないのだ。俺は意を決すると、ゆっくりと学校へと足を進めていた。
「――あっ……うん。わかった。じゃあ部屋の中にあるものを、全部ガッコーに運べばいいのね? 割れた注射器? 本の下にまとめて……わかった。ついでに掃除もしておくよ」
学校へと近づくにつれて、廊下の曲がり角からサンの声が聞こえてきた。足音が一人分しかしないことから、歩きながらデバイスで誰かと通信しているらしい。俺は昂る気持ちを抑えながら、学校正面を走る廊下へと入った。
サンが壁面いっぱいに描かれたユートピアの青空を眺めながら、のんびりと歩いてくるのが見えた。彼女は普段と変わらぬ、落ち着いた雰囲気を身にまとっている。しかしその裏に秘めている、凄絶な環境に生きる者の冷たさが鳴りを潜め、朗らかさが増したように感じられた。サンは俺が近づいてくるのに気づくと、足を止めてくだけた敬礼をした。
「あ。ナガセ。ゆっくり休めた?」
「おかげさまでな。それより何をしている?」
俺がやや早口で尋ねると、サンは宥めるように両の手を前に出した。
「まだ昨日選んだ家具を、運び入れている最中だよ。私はナガセの部屋から、私物を運びに行くところ。部屋から出たって連絡もらったからさ。休んでくれてていいけど、触って欲しくないものがあったら教えてくれるといいな」
いったいこの小娘は、何の話をしているのだろうか。俺が呆然とした表情を、詰問する鋭い目つきに変えると、サンはにわかに慌てだし冷や汗を浮かべた。
「あの……ナガセの部屋さ、保管庫からこの区画に移すんでしょ? 確かガッコーとか言う施設がある場所にさ。昨日ローズから命令が出たって聞いて……みんなで家具を選んで……今朝から運び入れを始めたんだけど……」
俺の心臓が切なさで締めあげられ、かすれた息を吐いてしまった。あそこは俺の失くした左腕だ。灰になったにもかかわらず、その痛みを俺に与え続けるのだ。俺が学校に居を構えたら、それこそ三日も待たずにおかしくなっちまう。そんなふざけた話を許すと思うか。俺が苦々しい顔になったのを見て、サンは怯えに肩をすくめた。
「やっぱ家具はナガセが選びたかったよね……私もどうかと思ったんだよ。ローズったらみんなが止めるのに、子供用の家具ばっかり選ぶんだもん……」
いや。そっちじゃない。待て。今とんでもないこと言わなかったか? ローズは俺に子供用の家具を使わせて、歴史の勉強をさせたいのか!?
「俺はそんな命令だしていない」
サンはあんぐりと口を開いて、俺の言葉の意味を咀嚼していた。やがて飛び上がらんばかりに驚くと、手を激しく振りながら弁明をした。
「嘘ぉ! でも……あの……その……ローズが……ローズがそう言ったのよ!」
「現場に案内しろ」
「サー! イエッサー!」
サンは俺に敬礼をすると、作戦行動中のきびきびした動作に豹変した。そして俺の先に立って、学校へと案内したのだった。サンは足早に進んでいくが、俺が後を追う足はひどく鈍かった。それこそサンが何度も振り返っては、俺の到着を足踏んで待つほどだった。
俺は相変わらず、学校に行くのが怖かった。守れなかった人々を悔恨の念で思い出し、生き残った自分を惨めに思うことしかできないからだ。自らの犯した悪逆が、誰の為にもならなかったのではと、そんな恐ろしいことを考えてしまうからだ。
学校――ベーシックスクールの玄関は、大きな格子戸で封がされ、わずかな隙間しか空いていないはずだった。しかし今では門が大きく開け放たれて、厚い層を成していた埃が、きれいに掃除されているのだった。門の両脇には壁をくりぬいて作られた、警備員の詰め所がある。その片割れでプロテアが汗を拭いながら、水を口に休憩しているのが見えた。
プロテアは頭に埃除けのバンダナを巻いており、めったに見ないエプロンを身に着けていた。彼女は俺に気づくと、悪戯の最中に出くわしたように、緊張に頬を引くつかせたのだった。
「おっ。ナガセじゃねーか。病み上がりなんだから、まだ休んでろって」
プロテアは詰め所の窓口から身を乗り出すと、自らの体を門にして俺の行く手を遮ってきた。察するに学校で行われているのは、俺の怒りを買うような内容らしい。俺はプロテアの肩に手を当てて、強引に詰め所の中に押し戻した。
「この騒ぎを止めたらな」
「ちょっと待てよ!」
プロテアは叫び声をあげて、詰め所から飛び出てきた。そして校舎へと踏み入る俺の後を追ってきたのだった。彼女はバンダナごと頭を掻きむしりながら、投げやりにつぶやいた。
「やっぱそうか……おかしいとは思ったんだよ……引きこもりのお前が保管庫を出るはずがないもんな……」
校舎に入ってまず出迎えたのが、真四角の形をした大きなホールである。中央には案内と受付を兼ねた、円柱形のカウンターが置かれていた。ローズを探しに来たときは、カウンターは全ての引き出しが開け放たれ、そこら中に封印シールや雑貨が散らばっていた。
今ではどうだ? カウンターは奇麗に片付けられており、誰かの私物が整頓されて収まっているのだ。私物は資料類が大多数を占め、すでにここで事務処理を行っているらしい。カウンターには開いたままのバインダーが置かれており、ペンが栞として挟んであった。どうやら空気の読めないボケが、ここを仕事場にしようとしているようだ。
カウンターにくまなく視線を走らせると、校舎正面からよく見えるように、三角名札が置かれていた。俺は『Sakura』と記された名札を無言で引っ掴むと、和気あいあいとした声が響く、初等部へと続く左の廊下に目を向けたのだった。




