疑念-5
時計の針が進む音が、嫌に大きく耳に届いた。針は規則正しく時を刻み、時間が無情に過ぎゆくことを突きつけてくる。俺は時間の流れに取り残されたまま、自らの愚行を振り返ることしかできないでいた。
俺は大嫌いな煙草を燻らせて、平静を取り戻そうと躍起になっていた。腰を下ろす床まわりには、たくさんの吸殻が投げ捨てられている。それどころか火をもみ消した焦げ跡が、いくつも残っているのだった。
俺は紫煙と共に、深い溜息を吐いた。虚ろな視線で室内を見渡すと、倒れた棚と散乱した書類が目に入ってくる。俺が昨日、鬱憤晴らしにぶちまけたものだ。ここまではいい。
俺は煙草を咥えて、大きく煙を吸い込んだ。煙草の先端が音を立てて、少しずつ灰に変わっていく。俺は肺に溜まった煙を吐き出すと、漂う灰煙越しにベッドへ視線をやった。
ベッドのシーツは激しく乱れており、マットレスから外れて床にこぼれ落ちていた。すぐ傍の床には外されたチョーカーと、ライフスキンが脱ぎ捨てられている。そして肝心のベッドでは、一糸まとわぬローズが眠りこけているのだった。
「くそ……」
俺は吐き捨てると、咥えていた煙草を床でもみ消した。
どうしてこんなことをしてしまったんだ。俺が目を覚ますとベッドに横たわっていて、隣には裸のローズが寝息を立てていたのだ。シーツに斑点を描いた、赤い染みが脳裏をよぎる。俺は激しい苦悩に焼かれて、頭を抱え込んだ。
俺が覚えているのは、覚醒剤を打った所までだ。それからは幻覚に溺れてしまい、織宮と慰め合った断片的な記憶しか残っていない。察するに俺が相手にしていたのは、幻覚ではなかったらしい。どうして途中で気付く事ができなかったんだ。俺は荒れる心を鎮めるために、新しい煙草を咥えた。
ベッドの上で、ローズがむくりと上半身を起こした。彼女は惜しげもなく裸体を晒して、大きな伸びをした。そして寝ぼけ眼をこちらに向けると、気だるげな笑みを浮かべた。
「オハヨ」
俺の身体は、一瞬にして凍り付いた。俺はローズに何と詫び、どうやって償えばいいのだろうか。思い浮かぶこともなければ、考えもつかなかった。ただ悪戯に時が過ぎ、俺は怯えることしかできなかった。
「へぇ~……吸うんだ。嫌いじゃなかったっけ?」
ローズは俺の咥えた煙草を見て、冗談ぽく呟いた。それから少し悲し気に、眦を下げたのだった。
「出来れば吸わないで欲しいな……私煙草嫌いだからさ……」
俺は煙草を唇から離すと、指で二度、三度回転させた。やがて煙草をごみ溜めと化した床に弾き飛ばすと、ローズを手招きした。
「声ぐらい出しなさいよ……」
ローズは清冽な溜息をつくと、裸のままベッドから降りた。彼女はシーツを手に取り、俺の元に歩みながら身体に巻きつける。そして俺の正面に、ちょこんと腰を下ろしたのだった。
俺は俯いて視線を逸らすと、眼下の吸殻をぼうと見つめた。ローズから穴が空きそうなほどの視線を感じるが、応えられる自信が欠片もなかった。俺は見つめられているだけで、重圧に押しつぶされそうになった。
俺は長い沈黙の末、一つの答えに辿り着いた。俺が彼女にできることはないんだ。俺はローズの目の前に、モーゼルを大きな音を立てて置いた。弾倉には弾がたっぷり詰まっている。動かない標的を殺し損ねたローズでも、二十発もぶっ放せば俺を殺せるだろう。
「使い方なんてわかんないわよ」
ローズは苦笑すると、モーゼルを俺の元に押し返した。俺はモーゼルのボルトを後退させて、再びローズの目の前に置いた。ローズは失笑した。
「死にたいなら自分でやれば?」
ありがとう。罪を赦されることはなくとも、死ぬことは赦された。俺はモーゼルに手を伸ばそうとする。するとローズが俺の手を跳ね除けて、モーゼルを手に取ったのだった。
「何死のうとしてんのよ。もうちょっと苦しみなさい」
ローズはモーゼルを自分の背中に隠し、もう一度俺に視線を注いできた。俺は生きる価値もなく、死ぬことも許されない。ただ座り込んで、ローズのかけるプレッシャーに耐えるしかなかった。俺の精神は時計の針によって、時と共に寸分までに切り刻まれていった。
「喋らないんだネ……昨夜は饒舌だったのに……」
ローズは残念そうに声を曇らせた。その声色に非難はこもっておらず、むしろ寂しさを覚えさせた。ローズは俺に期待を寄せて、ひたすら視線を注ぎ続けてくる。俺は何も応えられず、時間だけが刻々と過ぎていくのだった。
時刻が午前四時を迎えたらしい。秒針の進む音に、鐘の音が四つ重なった。ローズは軽いため息をつくと、モーゼルを手にしたまま腰を上げた。彼女は身に纏うシーツをはらりと落とし、脱ぎ捨てられたライフスキンへと歩んでいった。
「そろそろ皆が起きる時間ネ……私シャワーを浴びてくるわ……」
ローズがライフスキンに袖を通す、艶めかしい衣擦れの音が聞こえてくる。やがてチョーカーをはめる固い音を締めにして、着衣を整えたローズが目の前を横切っていった。
「待て」
俺は引きつる肺を懸命に絞って、ローズを呼び止めた。このままローズを帰したら、二度と会えなくなってしまいそうな予感がした。俺が目にしない所で自分を傷つけ、溢れ出る血に慰めを求めるのではないかと思ったのだ。
ローズはドアノブに手をかけたまま、俺の方を振り返った。二人の視線が一瞬重なるが、俺はすぐに足元へと逸らした。俺は煩悶としながら、手の平で額を擦りつける。そして震える声で言った。
「悪いのは俺だ。酷いことをしたのも俺だ。責任は俺にある。だから……だからこれ以上、自分を傷付けないでくれ」
ローズは頼りない俺の言葉を、無様と憐れまなかった。いつか出会った頃のように、クスリと笑い声を漏らしたのだった。
「ナガセはどうだったか知らないけどサ、私は良かったわ。お互い合意の下でしたわけだし、今さら罪悪感に苦しまれても困るんだけど? またしようネ?」
俺は何も言えずに、ただただ彼女の主張を否定して、駄々っ子のように首を振った。俺は彼女らの保護者であり、指導者なのだ。それが一人を死なせて、一人を汚してしまった。俺は取り返しのつかない失態を立て続けに起こして、どう立て直せばいいのか分からなくなっていた。
「俺は間違っている……駄目なんだ。こんなことをして……違う。駄目なんだ。俺は違うんだ。俺が悪いんだ。罰せられるべきなんだ」
俺が罰を求めて吐き出した苦悩は、もはや懺悔の形すら為していなかった。根拠もなく、理由すら挙げられないまま、楽になりたいが為に罰だけを求めている。薬と悲しみで鈍ったままの脳でも、それだけは自覚することはできた。だがしかし――
「俺にはもう……わからない……どう償えばいいのか……どう報えばいいのか……どう進めばいいのかすらも……俺は間違っているということしか……もうわからないんだ。だから罰してくれ……」
俺は佇むローズに、視線で縋りついた。彼女は視線を上向かせると、顎に手を当ててしばらく考え込んだ。その仕草は考えると言うには知性を感じさせず、彫像を思わせる儚げな情緒に溢れているのだった。やがて彼女は、嘘偽りも、虚栄もない、満ち足りた微笑を返してきたのだった。
「私さ。何であなたと上手くやっていけないか、ずっと……それこそずっと、考えていたんだ。昨日あなたと愛し合って、私は何をすべきかやっとわかった。私は私の戦いを見つけたのよ」
ローズは胸に手を当てて、胸中に沸く思いをくみ取ってか目を瞑った。そして再び目を開く頃には、瞳は覚悟で強い光を宿していたのだった。その双眸の何と美しく、芯の通っていた事か。瞳はここにはない理想を見つめて焦点がぼやけていた。しかし自分が何を見ているかきちんと理解しているために、固い意志を感じ取る事ができたのだった。
「私は死ぬまで戦い続ける。そして全て捧げるつもりよ。それがあなたへの何よりの罰となるわ」
ローズはドアを開けて、優雅に部屋を出ていった。彼女は去り際に、ドアの隙間から俺を覗き込んだ。そしてやや心配そうに眉根を寄せると、優しく囁いたのだった。
「今日はゆっくり休んだらどう? アジリアとサクラには、私から伝えておくワ……」
俺を部屋に残して、ドアがそっと閉じられた。俺は静寂に微睡みながら、新しい煙草を口に咥えた。言葉に甘えさせてもらおう。今の俺はもう何も考える事ができない。虚空をぼんやりと見上げて、立ち昇っていく紫煙を目で追いかけた。
唐突にドアが空き、その隙間からまたもやローズが顔を出した。彼女は煙草を口にする俺を一目見て、一瞬嫌悪に表情を歪めた。しかし小さな溜息をついて、しょうがないと言いたげな表情を浮かべた。
「煙草はいいけど、覚醒剤はもう駄目だからね!」
ローズは怒鳴りながら室内に入ってくると、目につく限りの注射器を足で踏み潰した。そして本を箒がわりに破片を隅にやって、誤って踏まないように本を被せたのだった。彼女は煙草を燻らせる俺の前に立つと、びしりと指を突き立てた。
「煙草もそのうちやめてね。キスする時嫌な味がするから!」
ローズは一方的にまくし立てると、慌ただしく部屋を出ていったのだった。
「畜生……」
次があってたまるかってんだ。俺はガラクタの中からライターを探り出すと、煙草の先端を火で炙った。




