疑念-4
数時間後――ピオニーは眠りから覚め、大きな欠伸をして身体を起こした。彼女は伸びをして、凝り固まった身体をほぐす。そこでようやく戒めの解けた身体に気付いたのか、眼をしばたたかせながら腕を見つめた。
「はぇ? 私腕さん縛られていたような……? でもナガセがそんな事するはずないですしぃ……夢さんでも見てたんですかねぇ……?」
ピオニーは恐怖の片鱗を表情に覗かせつつ、自らの身体を一通り眺めた。そして机越しに佇む俺に気付くと、安心したように朗らかな笑みを浮かべたのだった。
「ナガセ。私変な夢さん見てたんですよぉ。イーシーオーの偉い偉いさんで、悪い人の企みを暴こうとするんですぅ。でもそれが上手くいかなくて、ちょっと怖い思いをする嫌な夢でしたぁ……それであの……お話しって何ですかぁ?」
「終わったよ。ピオニー」
俺は涙を拭い、居住まいを正していた。しかし魂が抜けて萎え果てた感情までは、整えることができなかった。俺は酷い棒読みで、ピオニーに答えた。
「はぇ? でも私ぃ……眠っていたようでぇ……あれぇ……?」
ピオニーは頭を振って、眠りにつく前の出来事を思い出そうとしている様子だ。しかしバルビツールの副作用に、身体を蝕まれているのだろうか。すぐに額に手を当てて、頭痛を堪える仕草をした。
「お前は赦された」
俺は淡々と事実を述べた。唯一罪を知る俺が、彼女を許したのだ。彼女が責められるいわれはない。責め苦を負うべきは、赦すことでその罪を継いだ俺自身なのだ。
「はァ……? また私……何かやっちゃいましたぁ?」
ピオニーは尋問中のことを、まるっきり覚えていないらしい。恐らく彼女の人格は、ピオニーである今と、趙麗虎である昔とで、完全に分離しているのだろう。とてつもなく羨ましいことだ。お前は忘れて、前に進む事ができる。俺は過去という、棺を引きずったままだ。
俺は過去を知っているし、どういう結末を迎えたかも見届けた。ならば俺には繰り返させない責務があるんだ。途方もない虚無感が、俺の心を貪った。そう。繰り返させてはいけないのだ。
「ピオニー。俺に出来るのは戦う事だけだ。だからこれだけを誓う」
俺はピオニーの肩に手を置くと、正面から彼女の顔を覗き込んだ。そしてその澄んだ瞳を、目をそらすことなく真っ向から迎え入れた。
「もしお前を傷つけようとする者がいるのなら、全力でそれから守る」
ピオニーは驚いて、切れ目を大きく見開いて見せた。さながら当たり前のことをなぜ口にしたのかと、その理由に思いを馳せているようだった。やがてピオニーは穏やかな微笑を浮かべると、力強く頷き返してくれた。
「はぁいぃ。ナガセいつも守ってくれまぁす」
「片付けを頼んでいいか……? 俺は……疲れた……」
俺はテーブルに広げられたままの尋問セットを、手早く乱暴に片付けた。そしてぼんやりしたピオニーを残し、尋問室を後にした。俺が部屋を出るなり、アイアンワンドが詰め寄ってきた。彼女はアジリアに報告に行かず、事の成り行きを見守っていたようだ。幻覚にすら劣る、ブリキ人形め。そんなところにいて、何をするつもりだったのだ? ピオニーの死体を片付けるのを、手伝うつもりだったのか?
クソめ。
「サー……」
アイアンワンドは何かを言いたげに、俺に手を伸ばしてきた。俺はブリキの指先が肌に触れるより早く、八つ当たり気味にその手を叩き払った。今日はもう、誰とも話したくはない。俺は棒になった足を引きずって、自室へと戻っていった。
俺は暗い部屋の中、電気もつけずに呆然と立ち尽くした。辺りはただただ静かだった。壁越しにクロウラーズの喧騒が聞こえるほどで、息を殺せば空気に溶け込んでしまえそうだった。俺にはその静寂が、何よりの恐怖だった。
平和を象徴する静寂を打ち破って、ミューセクトがクロウラーズを襲撃するかもしれない。不意にヘイヴンの周囲が汚染されて、俺たちは孤立するかもしれない。言いようのない不安が、日常を蝕んでいく。
戦うのか? どうやって。それにもう。疲れちまった。
俺は胃の中に鉛となって落ちた不安を、どうにかして発散したかった。俺は近場の棚を、力任せに押し倒した。部屋を揺るがす轟音と共に、収まっていた書類が床にばら撒かれた。それでも俺の気は晴れない。俺は転がる本を拾っては投げ、拾っては叩き付けた。
さっきから左腕が、燃えるように痛い。罪の意識を薪にして、灼熱の痛みが腕を焼く。鎮痛薬を取り出して噛み砕くが、一向に痛みが引く様子がない。焼ける腕の感触が、俺をさらなる破壊に駆り立てた。
「痛ェ……痛ェ……痛ェッ!」
気が狂いそうだ。俺はそれほどまでに追い詰められ、希望を見失い、暗闇に為す術を見いだせずにいた。辛い。死ぬほど辛いんだ。どうにかしないと。
俺はデスクに覆い被さる、棚から落ちた資料類を乱暴に払いのけた。引き出しに手を突っ込んで、奥深くに隠された注射器を数本取り出す。中に充填されているのは、兵士の恐怖を殺す薬――覚醒剤だ。
左腕をチューブで縛り、肘の血管を浮き立たせる。そして迷うことなく、麻薬を身体に流し込んだ。薬物が体内を巡っていき、快感が不安を塗りつぶしていく。俺の足からは立つ力が奪われて、その場にへたり込むようにして座り込んだ。
「気持ちいいなァ……」
口角から唾液を垂らして、上の空になって呟いた。もっと。もっと。もっと。全てを忘れさせてくれるほど、快楽に溺れたい。俺は二本目の注射器を取り出して、更に覚醒剤を投与した。
クルン――っと世界が回り、景色が一変した。薄暗い自室は、より暗い洞穴へと様変わりする。そしてどこからか湧いて出た、冷たい血の海が身体を浸していった。赤い水面を骸骨の腕が割って、俺を水底に沈めようと絡みついてくる。
「ククククク……アハハハハハ」
俺はしだれかかる腕を振り払いながら、心の底から哄笑を上げた。笑いが止まらない。こんなに面白いことがあるか? 今まで殺してきた連中が、俺を地獄に引きずり落とそうとしているのだ。俺はそこに堕ちるのが決まっているのに。
「ハハハハハハ……アッハハハハ!」
俺は笑い続けながら、身体にまとわりつく骸骨を払い続けた。全然怖くないんだ。それどころか楽しくすらある。憎しみをぶつけられる安堵感と、それに身を委ねられる達成感があり、何時までも揺蕩っていられる気がする。俺は止むことのない骸の群れと、延々と戯れたのだった。
「ナガセ……」
俺だけの世界に、誰かが呼びかけてきた。俺は無視してしだれかかる骸骨と、夢中になって遊び続けた。すると不意に血肉の通った腕が、俺の肩に置かれたのだった。
幻覚だろうか? 俺は仄かな温かみを帯びる腕を、骸骨を振り払うように退けた。しかし腕は間を置かずに、再び俺の肩に触れてくるのだ。一体誰だ!? 人の楽しみを邪魔するのは!
「何だ貴様ぁ! 俺は入出許可を出していないぞ!」
俺が喚くと、腕は怯んで闇の中に消えた。しかし腕は諦めずに、少しの時間を置いてから再び伸びてきた。細く白い腕は俺の背中へと回り、今度は強い力で抱きしめてきたのだった。
「もう大丈夫……もう大丈夫だから……」
耳元に熱い吐息がかかる。同情なんぞ、惨めなだけだ。慰めなんぞ、虚しいだけだ。俺はがむしゃらに腕を振って、抱き付いてくる相手を押し退けようとした。
「ネ……もう強がらなくてもいいから……頑張らなくていいから……思いっきり……泣いていいから……」
腕は必死に俺を抱きしめて、絶対に離そうとしなかった。それどころか耳元で優しい言葉を重ねて、懸命に俺そのものを受け止めてくれるのだった。凍える血の海に奪われた体温が、腕の持ち主の身体で次第に温まっていく。するとあれほど心地よかった血の海がおぞましく、骸の群れが恐ろしく感じたのだった。
「あなたは頑張ったわ……もう休んでいいのよ……」
誰かが背中をさすって、いたわりの言葉を繰り返した。とても懐かしい感触に、俺の心は酔いしれた。教師時代に似た経験を、数え切れないほど行った記憶があった。ただ俺は受け取る側ではなく、同僚と一緒に与える側だった。
俺の過去を知っているなんて、この人は一体誰なんだ? 待てよ……ひょっとしてこの人は……。
「織宮……?」
俺が問いかけると、腕の持ち主は驚いて身をすくめた。俺は相手の温もりを失うことを恐れて、赤子のように縋りついた。
ずっと会いたかった。ずっと抱きしめたかった。やっと巡り合えた。俺はこの瞬間のためだけに、戦い続けたんだ。失うことなど怖くはなかった。君さえいてくれれば、全て取り戻せると確信していたんだ。君が俺の全てだからだ。
「織宮……! 織宮……!」
俺はそうであって欲しいと願って、繰り返し彼女の名を呼んだ。腕の持ち主は困惑した様子で、戸惑いを身動ぎで表現した。やがて俺の縋りつく強さに応えるように、強く抱き返してきたのだった。
「そうよ……私はオリミヤ……イツカ・オリミヤ……」
腕の主が呟くと、赤い水面を割って、一人の女性が姿を現した。黒檀のような髪を垂らして、眦はお淑やかに下がっている。柔和な笑顔を浮かべる口元は、上品に結ばれていた。ライフスキンの上に纏ったエプロンには、俺が務めた学校の校章があしらわれている。見間違えるものか。
彼女だ。
堰を切ったように涙が溢れ、嗚咽をつく間もないほど呼吸が跳ね上がる。俺の全てが報われた。幼子を売り飛ばし、仲間もろとも敵を吹き飛ばして、非戦闘民を虐殺した。悪逆の限りを尽くしてまで、生き残った全てが報われたんだ。
「やっと会えた! 俺! 俺戦って! あいだがっだんだよぉ! ざびしがったんだよぉ!」
俺は感情に突き動かされるまま、織宮の身体に飛びついてその胸に顔を埋めた。柔らかい感触が頬に当たり、俺の壊れた心ごと包み込んでくれる。織宮は最初こそ抵抗したが、徐々に跳ね除ける力を緩めていった。そして最後には、頭を抱いて懐深くに受け入れてくれた。
「好きだった……言えなかった……怖かった……」
俺はさめざめと泣きながら、長らく心の奥底に秘めていた想いを、ここぞとばかりに吐露した。君を残して逝くぐらいなら、想いを胸に秘めたまま死のうと考えていた。君と教え子に未来を残して、地獄に堕ちる覚悟だった。
「私も……思い出したわ……あなたがここに訪れた時、自分がどうにかなってしまいそうなほど、あなたのことを愛していた」
織宮は俺の背中を撫でて、熱を帯びた息を耳元に吹きかけてくる。熱は言葉にのらなかった彼女の想いを、俺の存在全てに響かせたのだった。死肉と化した身体は息を吹き返し、左腕から嘘のように痛みが引いていく。まるで左腕の欠損なぞ、無かったかのようだ。壊れた心は元の形を取り戻して、忘れ去った慈しみの念を思い出させた。俺は目の前の愛おしい人に、何をすればいいのか分かった。
「私は……あなたを愛している オカエリナサイ」
織宮は囁くように呟き、そっと顔を近づけてきた。二人の唇が重なり、互いに啄みあった。今まで味わったことのない強烈な刺激に、俺は卒倒しそうになった。それは眠りより遥かに甘く、目覚めよりも多くの想いを呼び覚まさせた。そして飢えなぞ比較にならないほどの、渇きをもたらしたのだった。
もっと織宮が欲しい。お互いの境界があいまいになるまで。俺は織宮の気持ちを確かめるため、ゆっくりと覆い被さっていく。
そして――




