帰還-1
俺はまた、幻覚に溺れていると思った。酔っ払いのように頭を揺らして、額を内壁に何度も叩きつけた。衝撃が頭蓋を揺らすが、意識は鮮明になるどころか、より深く霞んでいった。俺は立っていられなくなり、その場で膝をついた。
「ナガセ!? 大丈夫ですか!?」
俺の胸の内で、サクラの悲鳴があがった。すかさず傍らから太い腕が伸びてきて、ウリエルの脇下に差し込まれた。腕の持ち主はそのまま俺に肩を貸して、優しく立たせてくれたのだった。
ふと隣に視線を向けると、モニタには小柄なバトルスキンが映し出された。ウリエルと違って装甲や拡張装備が少なく、かなり人型に近いフォルムをしている。全身がほぼ人工筋肉で構成されているようで、見た目はボディービルダーとよく似ているのだった。背中からは四本のアームが伸びており、エンドエフェクタとしてアサルトライフルが取り付けられている。アームは銃口を油断なく構えて、全方向を絶え間なく警戒しているのだった。恐らくミクロネシアのバトルスキン――アーシュラだろう。
「かなり無茶したようだな……とっととそれを脱げ。出口まで俺らで運んでやるからよ」
アーシュラに乗っているのはプロテアのようだ。彼女のやや不機嫌な声が、マイク越しに聞こえた。俺はその存在を確かめようと、アーシュラの機体に不躾に手を這わせた。そしてプロテアが困惑して身動ぎしたころ、その存在を確信した。
幻覚じゃない。彼女たちは確かにここにいる。
「お……おまえたち……ここで……なにをしている……!?」
俺は途切れ途切れの声で、プロテアを問い質した。すると彼女はウリエルの耳に、アーシュラの頭を近づけた。そしてマイクがハウリングするほどの声量で怒鳴ってきた。
「馬! 鹿! か! テ! メ! ェ! は! 助けに来たに決まってるじゃねぇか!」
勝手な真似をしやがって。俺はバイオプラントに突っ込んで来いと、命令を下した覚えはない。それにアーシュラの使用許可も出した覚えもない。お前達を危険な目に合わせたくないから、俺は独りでここまで来たんだ。これでは何の意味もないだろうが。
「俺は……このクソの掃き溜めに……来いと言ったか……? 上にいろと言っただろうが!」
俺は精一杯の気力を声に乗せると、罵倒に変えてプロテアに叩き付けた。しかしプロテアも負けじと声を張って、俺に怒鳴り返してきた。
「やかましい! 気付いたんだよ! お前独りで行かせるから、化け物になって帰ってくんだろうがよ! だから俺らも一緒に来たんだ! 案の定帰り道も忘れて彷徨いやがって! 分かってんのか!? テメェが帰れなかったらマリアも死ぬんだぞ!」
「設備は見つけた……今帰るところだった……いらん世話だ……」
「お前トチ狂ってただろうがよ!」
アーシュラは持ち前の怪力で、ウリエルを激しく揺さぶってきた。俺は抗う力もなく、コクピットの中で、繰り返し内壁に叩き付けられる羽目になった。胃の中に溜まっていた不快感が、吐瀉物として込み上げてくる。俺は我慢する事ができず、ヘルメットの中に盛大にぶちまけた。
「プロテア! やめなさ――やめろコラァ! バイタルサインが悪化してる!」
サクラの金切り声が辺りに響き、人影の一つがアーシュラに取り付いた。アーシュラはすぐに大人しくなると、すまなさそうに声を潜めた。
「うぇえ!? 悪ぃ……そんなつもりじゃ……」
「言い争いは後にしろ! マリアの治療に必要な物資は見つけたのだな? なら今はここを出るのが先だ! サクラもういい! 警戒に当たれ! 私がそのボケの面倒を見る!」
俺の背中から、アジリアの一喝が飛んだ。間を置かず背後から、アジリアらしき人影が現れた。彼女は俺の腕の中にいたサクラを押し退けると、入れ替わりに俺の正面に収まった。
「おい。聞こえるか? 我々の技量では、ここに留まるのは難しい。すぐに離脱するぞ。運んでやるから、ウリエルからとっとと出ろ」
目くじら立ててばかりの、アジリアにしてはお優しいことで。俺は乾いた笑みを浮かべながら、首を左右に振った。
「バトルスキンの……アシスト機能がなければ……歩行もままならん……このままでいい……」
今の俺は立っているのも、やっとの状態だった。ウリエルを捨てたらお荷物になり、隊全体の機動力を削いでしまう。ウリエルを纏ったまま、自力で動いた方が賢明だろう。
プロテアは俺の有様を聞いて、驚いているようだった。アーシュラが俺を支える手は、緊張で強張った。あれだけ強かった俺が、たった一時間足らずで這う這うの体になっていることが、信じられないようだった。
「こんな……こんなもの独りで抱え込んだら……頭おかしくなるに決まってんだろ……ばかやろ……」
「プロテア、後にしろと言っただろ。分かった。自分で歩くのだな? しっかりしろよ」
アジリアはこくりと頷くと、俺の足元で尻餅をついている、ロータスを助け起こした。そしてクロウラーズ全体を見渡して、てきぱきと指示を下していった。
「来た道を引き返すぞ。プロテアはポイントマンを頼む。サクラとロータスはそのすぐ後ろでバックアップだ。私がしんがりをつとめる」
『マム・イエスマム!』
彼女たちが声を揃えて返事をする。部隊は俺を中心にして、速やかにアローヘッドの陣形を組んだ。そしてアーシュラを纏うプロテアを先頭に、汚染の霧の中を進み始めた。俺は目の前で揺れるサクラとロータスの背中を、見失わないように必死で追いかけた。
「貴様ら……いつ準備した……いつ作戦を立てた……」
俺は迷いなく進んでいく部隊に追従しながら、後ろに詰めるアジリアに話しかけた。アジリアは不機嫌そうに鼻を鳴らすと、やや乱暴な口調で言った。
「貴様がリンボガスを取りに行っている合間に、サクラとプロテアが立案した。『様子がおかしい』『このままだと彼死ぬかも』って、気色の悪いことほざきながらな。輸送車には貴様が乗るから、指揮車の荷台に急きょ手配した。それからはウリエルのシグナルを追って……ええい、この話はもういい!」
アジリアは自分で言っていて不愉快になったのか、大きくかぶりを振って一旦話を切った。
「マリアの治療に必要な物資を見つけたと言ったな? 培養液か? 設備か? どっちだ?」
俺はウリエルの腰部に収めた、ソリッドメモリのことを思い出した。
「食肉の育成に必要な……ソリッドメモリを回収した……だがチェックしないと……分からん……培養液は諦めた……」
俺は答えを返しつつも、背後のアジリアに神経を集中させた。汚染世界では数え切れないほどの、裏切りを経験してきた。声色が帯びる息遣いと、刺すような気配で大体わかる。アジリアは俺の返答が気に入らなければ、バイオプラントに置き去りにする気だと察知できた。俺がこれ以上クロウラーズに害をなす前に、汚染の霧に乗じて終わらせるつもりなのだろう。
油断も隙も無い子娘だな。俺は収納していたソリッドメモリをまとめて取り出し、後ろ手にアジリアへと差し出した。
「先に渡しておくぞ……培養液は……冬眠用を……流用するといい……」
アジリアはソリッドメモリを、引っ手繰るようにして受け取った。メモリ同士がぶつかる固い金属音が、微かに辺りに響いた。どうやら彼女はポーチか何かに、メモリをしまい込んだようだった。
「フン……運が良かった。培養液はこちらで発見した」
「何ィ……?」
部隊が階段の踊り場に到達し、俺たちは第三層から二層へと上がっていった。
「降りる階段を探して、第一層を探索したのだが――そこが巨木の土壌だった。木々から栄養を収集する施設の中に、培養液を貯蔵したタンクを発見した……貴様はあんなバカでかいのを見逃したのか?」
アジリアがせせら笑った。俺は口をいの字に広げて、溜息をつく事しかできなかった。
「来てすぐ……落ちたんだよ……」
「間抜けが……培養液は既にキャリアに積載した。とっとと帰ってマリアの治療をするぞ」
アジリアはほっと胸を撫で下ろしたのか、安堵のため息が背中から聞こえた。ふと俺の背筋を撫でる、裏切りの雰囲気が薄らぐのを感じた。俺は肩越しにアジリアを振り返ると、皮肉交じりに呟いた。
「俺を……置き去りにしないのか……?」
アジリアは見透かされていた事に驚いたようだ。びくりと肩を跳ねさせて、すぐに身構えた。しかし俺が襲いかからないままでいると、当然と言いたげに肩をすくめて見せた。
「手ぶらならそうしたさ。前を向け。さっさと歩け」
アジリアはぶっきらぼうに言い放つと、ウリエルの尻にある増槽を蹴り上げた。寺の鐘が鳴るような鈍い音がして、充填した液体ガスが激しく床にこぼれ落ちた。アジリアもエコーロケーターで外界を見ている様なので、そこで初めてリンボガスが残っていることを知ったようだ。軽い悲鳴を上げて、数歩退く音がした。
「まだリンボガスなんか持ち歩いているのか! とっとと捨てろッ!」
いかん。すっかり忘れていた。このNエリアでは、まだリンボガスを散布していない。俺はウリエルのディスプレイに視線を走らせて、素早く現在地を確認した。部隊はNエリアを内壁沿いに、Wエリア目指して進んでいる。俺はWエリアから反時計回りにバイオプラントを巡ったが、彼女たちは俺を探して最短距離を時計回りに進んできたのだろう。全くの偶然だが、ガスの散布は間に合う。
リンボガスはミューセクトの殲滅の他にも、会敵した対象を弱体化させる目的があった。なるべく保持したまま行軍を続けたいが、彼女らの行進速度に合わせたら、部隊も被害を受けてしまう。今の所は糜爛性に変質しなかったようだが、そんな幸運は長続きしないだろう。
俺は最後のガスタンクを切り離して、床の上に転がした。そして後ろに続くアジリアが躓かないように、足で脇にへと押しやった。
ミューセクトを迂回し、時には撃退して、部隊は進んでいく。俺が派手にドンパチしたおかげかが、他の要因があるのか――Nエリア内は閑散としており、ミューセクトの数は少なかった。おかげで大した障害もなく、俺たちはWエリアへの連絡通路へと到達した。先陣を切るプロテアが、通路内の安全確認を行う。しばらくの時間の後、彼女の合図を受けて俺たちは通路へと進出した。
俺は通路を抜けながら、ずっと気にかかっていた疑問をアジリアにぶつけた。
「そういえば……お前は何故……このガスの名を知っている……?」
「文字が読めて悪いか?」
アジリアはぶっきらぼうに言い放った。しかしそれは俺の疑念をより深めた。
「読めたのなら……ことさら不思議だ……ラベルに……書いてあるのは……『レインボー・ガス』……イニシャルは……R……リンボはLだ……文字が読めたのなら……間違えるはずがない……」
俺の背中で、アジリアの足音が途絶えた。振り返るとエコーロケーターは、汚染空気の中で立ちすくむ人影を拾った。彼女は俯いて、何かを堪えて肩を震わせていた。そうしている間にも、先陣を切るプロテアたちは、どんどん先に進んでいく。このままでははぐれてしまう。
「アジリア……どうした……」
俺は通路を引き返すと、アジリアの身体を揺すった。しかし彼女は思いつめたように、自らの世界に引きこもっていた。俺の問いかけには反応せず、小声でうわ言を繰り返しているのだった。
「ディック……アンダーソンは……それで……私は……同じ……」
ディック? ディック……アンダーソン? 聞き覚えのある名前だ。確かヘイヴンのシェルターで、死んでいた科学者がそんな名だったはずだ。アジリアはかなり高位の研究者だったようだし、仕事仲間で何らかの交流があったのかもしれない。しかしそれだと、奴があんな惨い死に方をしていた理由が気になるな。
「ディック・アンダーソンがどうかしたのか?」
俺はもう一度、アジリアの身体を揺さぶった。すると彼女は息を吹き返したように動き始め、強い力で俺の手を振り払った。どうやら息すら忘れて物思いに沈んでいたらしく、彼女の呼吸は激しく乱れていた。
「おい……アジリア、大丈夫か?」
「うるさい。喋るな。さっさと進め」
アジリアは身体に浮いた汗を振り落とそうとしてか、全身を大きく震わせた。それから彼女は気持ちを切り替えるように、アサルトライフルをしっかりと構え直す。そして俺に先に進むよう、顎でしゃくってきた。
謎は深まるばかりだが、追及している暇はなそうだ。プロテアたちの足音は、かなり遠のいてしまっている。このままだとはぐれてしまうだろう。俺はアジリアを引き連れて、部隊の後を追い、Sエリアへの連絡通路を抜けていった。




