戦恐-1
撤退作戦はつつがなく進行し、約二時間で完了した。汚染されたジェルは道中の草原で、ビニールの隔離室内で剥離。回収した。汚染体であるマリアは、キャリアの荷台に隔離室を作り、その中で安置させた。
汚染をヘイヴン内に持ち帰る危険はなくなり、帰還した隊員は束の間の休息をとれるはずだった。しかし――キャリアが保管庫に入ると待ち受けていたのは、敵意を露わにした待機組だった。彼女たちはライフスキンにヘルメットを装着し、身体中に対汚染ジェルを塗りたくっていた。そして遠巻きに冷たい視線で、俺たちが中に入るのを拒んでいるのだった。
サクラとロータスは周囲の物々しい雰囲気を気にもせず、キャリアを跳び降りて荷台へと走った。荷台に安置しているマリアを、医務室に搬送するためだ。しかしキャリアから人影が飛び降りた瞬間に、パンジーの金切り声がこだました。
「おま、えら! 近、寄るな! ビョーキ! うつる!」
サクラは無視したが、ロータスはぴたりと足を止めると、鬼の形相でパンジーを振り返った。
「今なんつった……? 今なんつったんだ!? アタシの目を見てもう一度言ってみろ! キタネェ汁を出し切るまでブチのめすぞ!」
「や……やめてよ……喧嘩しないでよ! そんなことしてる暇あったら手伝ってよ!」
アカシアが荷台から顔を出して、ロータスに助けを求めた。ロータスは空気を殴りながらその場で足ぶんでいた。やがてパンジーに中指を立てると、サクラの後に続いた。アカシアは次いで、待機組に混じり侮蔑の表情で凄むアイリスを手招きした。
「アイリス! 手を貸して! 早く!」
「いやですよ。自業自得じゃないですか――ナンナンダコレハフザケンナ! ジュウタイジャネーカ! サッサトイムシツニツレテコイボケガ!」
アイリスは初めはアカシアに対して、冷たい薄ら笑いを浮かべていた。しかしサクラとロータスがマリアの担架を降ろした途端に、眼の色を変えて彼女たちへと駆け寄っていった。
マリアの担架には、付着した汚染物が広がらないように、楕円形のバルーンが張ってあった。アイリスはバルーンを引き裂いて、中にいるマリアに触れようとした。慌ててプロテアがその手を払いのけた。
「バルーンを破るな! 毒にやられてるんだ! 広がっちまうぞ!」
「汚染って……ダカライッタンダローガ! チクショウガァァァッッッ!」
マリアはアイリスたちの手で、保管庫の一角に建てられた医務室へと運ばれていった。プロテアはその様子を、心配そうに見送っていた。不安に苛まされているようではあったが、自分の仕事を終えたと落ち着いているようだった。
あいにく仕事はまだ山ほどあるんだ。呆けている暇はない。俺は医務室とプロテアとの間に割って入り、彼女の視界を遮った。プロテアは怯えにびくりと身体を震わせた。
プロテアはきっとこんな悲惨な状況で、他人とどう接するのか知らなかったのだろう。不安で崩れた双眸のまま、訓練で体に覚えている敬礼をした。俺はこの時ばかりは死にたくなった。それは彼女たちに見せまいとした、戦場で見慣れた光景だった。
ECOバイオプラントにこれ以上関わると、彼女たちが壊れてしまう。しかし地獄の蓋は開いてしまったのだ。俺は手の平で目元を覆い、プロテアを見まいと薄っぺらな目隠しにした。
「一時間以内に部隊を編成し、再出撃の準備を整えろ。装備に関してはヘイヴンからバイオプラントまで、行って帰れる事だけを考えればいい。出来たら俺に連絡を寄越せ」
プロテアは魂が飛び出すほど驚いたのか、口をあんぐりと開けたまま固まってしまった。俺はプロテアの頬を軽く叩いて正気に戻させると、整備用具がまとめてあるロッカーを顎でしゃくった。
「聞こえんのか? 再出撃の準備だ。キャリアの整備をして、バッテリーを取り換えろ」
プロテアは固まったまま、眼だけで俺の顔を覗き込んだ。そして俺が洒落や冗談を言っているのではないと分かると、相好を崩してヘラリと笑った。
わかるよ。もう笑うしかないものな。
「も……もうやめとこうぜ……マリアは大怪我したし、バイオプラントには虫どもが巣食ってる……あれを手に入れる価値はねぇよ。俺たちも……AEUも。マリアを治療してから、AEUとどう交渉するか考えようぜ!」
プロテアはショックで途切れ途切れになる口調でまくし立てた。俺は虚しく首を振るしかない。逃げが許されるのなら、とっくにそうしている。
「今はダミーバルーンで封をしているが、汚染空気が外へ漏れ出すのは時間の問題だ。そうなったら周辺環境は甚大な被害を受け、中にいるミューセクトも溢れ出てくる。そうなったら……世界が再び汚染されるだろう。それだけは何としてでも防がなければならない」
プロテアの瞳に涙が浮いた。彼女は取り乱して俺の胸に縋りつくと、滅多に聞かせない甲高い悲鳴を上げた。
「お前の責任じゃないだろ……私達の責任でも……ECOとか言うふざけた糞共が、バイオプラントと偽って毒を積んだのが問題だろうがよ! 何でそんな……おかしいだろ! 糞共をとっとと見つけに行こうぜ! そしてそいつらが始末をつければいいんだ!」
「時間がないんだ。クソ共を見つける余裕も、AEUと話をつける猶予も……ないんだよ。お前らは何もしなくてもいい。バイオプラント内には俺独りで行く」
「行くなよォォォ!」
プロテアが俺の動きを封じるように、縋りつく腕に力を込めた。胴体を締め付ける力は異様に強く、反して押し付けられた身体は儚く震えていた。
「行くなよ……行くなよ……! いったらまた化け物みたいになって帰って来るだろ! もうやめてよ……今のままのお前でいてくれよ……頼むよ……」
思わず苦笑いを浮かべてしまう。お前も分かるだろ? もう笑うしかないからな。似たようなことを教え子にも言われた。だが俺を止めることはできなかった。誰も……誰も――誰も、誰も、誰も!
俺がやるしかないんだ!
プロテアの肩を優しく抱いて、雪の彫像を扱うよりも慎重に、丁寧に、彼女を離れさせた。プロテアは俺の優しい仕草を受けて、訴えを聞き入れてくれたと思ったのだろう。プロテアがゆっくりと上げた顔は、悲哀で歪んでいたが希望で微かに綻んでいた。しかし俺の決意に固まった顔色を見て、すぐに言葉を失った。
「早く取りかかれ……」
プロテアの瞳から、ついに涙があふれた。小さな雫はつうっと滑らかな頬を滑り、光を反射しながら床へと吸い込まれていった。プロテアは俯いて俺から顔を隠した。その合間にも雫が地面で散って、いくつもの染みを床に生み出していった。
「分かった……しっかり整備しておくよ」
「頼む……失敗は許されない」
俺はプロテアの肩を叩いて、励ましにした。それから出撃の準備を整えるために、武器庫へと重い脚を引きずろうとした。それを遮るように、アカシアが医務室から飛び出してきて、おずおずと声をかけてきた。
「ナガセ……ちょっといい?」
「急を要することか? そうだとしても、手短に頼む」
焦りに余裕が殺され、ついつい声が刺々しくなった。アカシアは一瞬怯んで、視線を床に彷徨わせた。しかしすぐに俺へと一歩踏み出すと、強い口調で続けた。
「マリアが目を覚ましたんだけど、暴れて大変なんだ……」
「何だと――!?」
俺は胃袋が浮き上がるほど驚いた。マリアを毒した汚染物は微細な針となって、彼女に地獄の苦しみを与えているはずだ。このままでは憔悴して力尽きるか、苦しみで発狂するかもわからない。俺はアカシアを押し退けて、医務室へと飛び込んでいった。
アイリスの住居を兼ねる医務室は、テニスコートほどの広さで四つの区画に分かれていた。病人を見る診療所と、外科治療を行う施術所、薬をまとめた薬品保管所に、彼女が生活をするスペースで四つだ。
医務室の出入り口には、すでにビニール製のロッカーが設置されていた。陰圧隔離室と呼ばれるそれは、内部の気圧を外より低くし、汚染が外部に広がらなくするための設備だ。俺は陰圧隔離室をしっかりと閉めてから、備えてあったヘルメットを装着した。そしてライフスキンを密閉すると、陰圧室へと進んでいった。
簡素な鉄の骨組みに、ビニールを張った即興の廊下を歩いていく。行く先は施術所まで繋がっており、部屋いっぱいにビニールが張られて陰圧隔離室が作られていた。
真ん中のダブルベッドではマリアが寝かされていた。苦しみにのたうちまわって、ベッドの周囲にはどす黒い血と、抜け落ちた髪が散乱していた。マリアにはサンとデージーが噛り付いており、その両手を懸命に抑え込んでいた。
「ばがやろぉー……りょーどなぎごっがの……ぐぞっだれめぇ……」
マリアが唯一自由な口で、血反吐と共に怨嗟の言葉を吐き出していた。俺は彼女が口にした名前に戦慄した。クロウラーズが知っているのはECOだ。断じて領土亡き国家ではない!
「ナガセ助けて! マリア自分の頭を掻き毟って、骨が見えてきちゃったんだよぉ!」
「早く抑え込むのを手伝って! 手伝って! 手伝ってェ!」
サンとデージーが涙目になって、助けを求めてくる。俺は不安で足をもつれさせながらも、ベッドの頭へと回った。マリアの両肩を上から抑えつけながら、血みどろになった顔をじっと覗き込んだ。
マリアを撫でた汚染は、顔を引っ掻いたことで内部まで浸透したらしい。顔全体に塗りたくられた対汚染ジェルの向こうで、肉は腐敗して赤緑に変色し、ふやけて骨格から浮いているように見えた。肉には爪で引っかいた跡が、深い溝として残っている。吐き気を催す赤と緑の肉の向こうに、白い骨が微かに見えているのだ。さらに彼女がもがくたび、頭部から髪の毛がこぼれ落ちていく。最早マリアの頭部に残されたのは、僅かばかりの髪の毛と、腐り落ちかけの肉だけだった。
「ぐぐぅー……なんでだよぉ……パパはぁ……ごれならいきのびれるっでぇ……いっだのにぃ……!」
「何してんだよ……モルヒネの量を増やしてやれよ! アイリス早く!」
見かねたデージーが絶叫したが、すぐに薬品保管所からのアイリスの罵声に掻き消された。
「ウルセー! ツカイスギルトヤクチューニナンダゾボケ! テメーセキニントレンノカダマレ!」
モルヒネはマリアの痛みを、和らげることしかできない。マリアを治療するためには、顔の肉を全てそぎ落として、新たな肉で覆ってやらなければならない。そのためには治療用のポッドと、筋組織の培養液、そして筋育成の装置が必要だ。それらは奇しくもバイオプラントに、食肉育成用の設備として存在する。
バイオプラントを汚染したのが、ECOでも領土亡き国家でもどっちでもいい。ECOが犯人なら、調査の追求から逃れるために、バイオプラントに必要な最低限の資材を搭載するはずだ。領土亡き国家が汚染したのならば、当然バイオプラントは本来の目的に必要な物資があるはずだ。
「マリア……」
俺はもはや人の顔を為さない、彼女に向かって語りかけた。マリアは俺が近くにいると分かると、口を開けて驚いて見せた。彼女の口内は血まみれで、歯が何本か抜け落ちてしまっていた。
「わだじ死ぬんだよね……死ぬんだよねぇ!」
「死なん。まだ助かる」
マリアは首を激しく振って、四肢を激しく暴れさせた。
「うぞだ! わだしは見てぎだんだぁ! おぜんぐうぎにふれだともだぢが! ちへどはいでしんでいぐのをぉ! わだしは死ぬんだぁ!」
「お前はまだ助かる見込みがある。暴れるな。生存確率が下がっていくぞ」
俺はマリアを落ち着かせるために、冷静に語り続ける。だがマリアは意に介さずに、血と髪を撒き散らして喚いた。
「こくじんだがらっでばがにずるな! わだじはぁ……わだじはぁ……ユートピアにいぐんだぁ……ゴニーは約束してぐれだんだぁ! ごのジゴグがらづれだじでぐえるっでぇ! だがらわだじわぁ! れいびあどあいあんわんどをもっでぎだんだぁ!」
マリアはAEUの出身で間違いないようだ。レイピアはAEUの躯体だし、ドームポリス運営システムの核は人工知能だ。アイアンワンドにはプロトタイプを意味する刻印が掘られていたが、その試作品を引っ張ってきたのかもしれない。
頭の片隅で組み立てられる、そのような推論を脇に押しやる。俺はデージーに目配せをして、マリアの右腕を抑えさせた。それからマリアに伝わることを祈って、そっと彼女の頬を優しく撫でた。俺の指先がふやけた頬に触れた瞬間、プリンに爪を立てたように、彼女の頬が削れてしまった。常人なら泣き叫ぶほどの激痛だが、マリアの反応に変化はなかった。それ以上の激痛が、顔面を駆け巡っているのだろう。
俺は手をずらして、振り回されるマリアの手に重ねた。俺の手は何度か跳ね除けられ、爪を立てられた。やがて痛みを堪えるためにか、強く手首を握られた。俺はそっとマリアの手首を握り返した。
「マリア……聞いてくれ。お前はまだ助かる。駄目になった肉を削ぎ落し、新しい肉で埋めてしまえばいいんだ。そのためには必要な物資があるのだが、あの化け物溢れるバイオプラントに潜らないといけない」
「あだじがこんなこどになっでんのに! まだぞんなこどいっでるのが!」
マリアが俺に向かって怨嗟の声を上げた。唾に混じった血潮が、ヘルメットの風防にまだら模様を作り上げる。俺はマリアの手首から手を離して、手の平同士を重ね合わせた。
「俺はこれからバイオプラントに戻り、お前の治療に必要な物資を回収してくる」
マリアは万力のような力で、俺の手を握り潰そうとした。
「わだ……わだじをみずでるのがぁ! にげるのがぁ!」
「いや。だからお前ももう少し辛抱して、俺のことを待っていて欲しい」
「ぐ……グッ、ぐぐぅ……まだ……そうやっで! うぞづいてにげるんだ! にげるんだ!」
逃げる? マリアの言葉は光となって、俺の軌跡を照らし出す。サクラを避けて、アジリアを煽りたて、プロテアを突き放し、ローズに甘えた。逃げっぱなしの歩みだ。彼女たちには背中しか見せたことがない。
それでも俺は。いや、だから俺は、彼女たちに背中を追われて、進むべき正面に一度たりとも背中を向けた事はない!
「ボケドモドケ! クスリダァッ!」
アイリスが両手いっぱいに、薬を調達して戻って来た。彼女は立ち尽くすサンを押し退けると、ストレッチャーに一度薬をばら撒いた。その中から必要なものを見繕って、マリアの薬物取り付け口に、最大取り付け数の三本を接続した。
一本はニトログリセリン。暴れ馬のように猛るマリアの心臓を落ち着け、出血を抑えようと考えたのだろう。二本目は栄養剤。憔悴したマリアには欠かせないものだ。そして最後の一本はモルヒネだ。言わずと知れた、強力な麻酔で、麻薬である。
あまり薬を使い過ぎると、マリアは中毒者になる。例え命が助かろうと、その後の人生は辛いものになるだろう。
マリアは薬を注入されて、身体をぶるりと震わせた。早鐘を打つ心臓が、彼女の身体に薬の魔力を行き渡らせる。やがて俺の手を掴むマリアの力が抜けていき、ベッドの上で虚脱した。
「マリア。聞こえるか?」
マリアが落ち着きを取り戻す頃合いを見計らって、手を繋げたまま語りかけた。マリアは俺の姿を探してか、頭部を軽く揺らした。
「ヴ……うん……ぎごえるよ……ごわい……ごわい……ごわい……」
「お前はまだ助かる。そのためには必要なものがある。俺が全部集めてくるから、もう少し待っていてくれるか?」
マリアは首を弱々しく振った。彼女はきつく目を閉じたのか、微かに瞼が動いた。彼女の暗闇を湛えた眼窩から、涙交じりの血がこぼれていった。
「うぞだ……うぞだ……うぞだ……そうやって……いままで……うぞづいてきた……」
「確かにな……お前達には多くの嘘をついた……だが――同じくらい多くの事をこなしてきた自負はある……ここまで来られたのは、お前達のおかげだ。だがここまで案内したのは、俺の唯一の功績だ」
俺は嘘の塊だ。お前達を前に進ませるために、様々な嘘をついてきた。それでもお前たちに、嘘の結果を与えたことはない。幸福であれ、災禍であれ、あるがままを見せてきたはずだ。
「お前をユートピアへ導く。頼む。手を貸して欲しいんだ。もう一度騙されてくれ」
俺はマリアの手をきつく握りしめ、自らのヘルメットに押し当てて懇願した。密閉されたヘルメットの中に、俺の弱々しい呼吸音と、マリアの手の擦れる反響が聞こえた。息のつまる緊張の中、マリアが手を握り返してくれたような気がした。
「なわ……もっでぎで……わだじを……じばっで……」
おもむろにマリアがそう言っって、重ねた手に力を込めて握りしめてきた。
「もういっがいだけ……しんじたげる……わだじは弱いがら……きっどじぶんに負げる……だがら……じばっでうごげないようにじで」
俺はマリアの瞳を、言葉の真意を求めて注視した。輝きを失した瞳は何も答えてくれず、俺は眼窩の中の闇に吸い込まれそうになった。それでも食い入るように、マリアの観察を続けた。
やがて俺はマリアが、首を小刻みにぐるぐると巡らせて、俺の姿を探している事に気付いた。見えていないのは俺だけではない。マリアこそが見えていないのだ。俺はマリアの頬に手を添えて、俺の方へと向けさせた。
一瞬だけだが、俺とマリアの視線が重なった。その一瞬、僅かだが彼女の心に、触れることが出来たような気がした。
「オイナニシテンダコラー! マリアハキトクナンダゾー! キタネーテデサワルナー!」
アイリスは全ての元凶である俺と、マリアを近づけさせたくなかったのだろう。俺とマリアを隔てるようにして、身体を割り込ませてきた。俺はベッドから押し退けられて、重ねた二人の手が離れそうになった。
「にげるのがぁ!」
マリアの絶叫が、隔離室のビニールを震わせた。俺は咄嗟にマリアの手を強く握り直し、アイリスを跳ね除けた。
「逃げんさ。だからマリアも……逃げずに戦ってくれるか?」
マリアはこくりと、浅く頷いた。そしてこぽりと血の泡を吹きながら、力強くこういったのだ。
「わだじどナガゼのやぐぞくだ」
「ああ。約束した」
俺は合わせた手の平から、力を抜いていった。マリアも俺の手の平に信頼を残して、するりと腕をベットに落とした。それから薬の力に浮かされて、くぐもった呻き声を漏らし始めた。
「紐」
俺が短く言うと、サンが素早く拘禁用のバンドを持ってくる。俺はマリアをベットに縛りつけると、アイリスの胸に指を突きつけた。
「治療が必要なのは顔だ。他は触る必要はない。薬物取り付け口を避けて拘束したから、絶対に外すな」
アイリスは憤慨して俺の手を払いのけると、怒りに歯ぎしりをしながら睨み付けてきた。彼女は不満を視線に乗せて、俺にもう何もするなと訴えていた。しかし俺が泰然とした態度を崩さないでいると、小声で悪態をこぼしてマリアの看護を始めた。
俺はここにいる人間に、現場を任せられるかが少し不安だった。マリアのベットを取り囲む、サン、デージー、アイリスを順番に見渡した。皆が不安と恐怖で瞳を揺らして、進むことを止めない俺への憤りに口元を歪めていた。俺が彼女らに言えることは、一つしかなかった。
「今回出撃するのは六名だが、バイオプラントに侵入するのは俺一人だ。それ以上犠牲者が出る心配はない。お前らはマリアを付きっきりで看護してくれ。こっちは任せて、専念してくれ」
ヘルメットにこびり付いた血の斑点を、ライフスキンの袖で拭い落とす。そして保管庫に戻るために踵を返した。
「ナガゼ……」
マリアのだみ声が、俺を引き留めた。俺は足を止めて、血の滴るベッドを振り返った。シーツの上では芋虫のように、死にかけの肉が蠢いている。それは俺の足音から、相手のいる方向を推測して、ぐしゃぐしゃになった顔を向けた。
「いっでらっじゃい……」
俺は予想だにしなかった激励に、限界まで目を見開いた。風――表現するには、それが相応しい感覚が、胸の中に巻き起こる。それは灰になって彼方に埋もれた、俺の人間らしい想いを意識へと巻き上げた。
理由は分からない。マリアが突き進むしかない俺を、止めてくれそうな気がした。同時に赤い竜となった日から、止まってしまった時間が動き出したような気持になった。
上等だ。ずっと聞きたかった言葉がある。それを彼女の唇から聞けると言うなら、竜を屠るには十分な報酬だ。
俺は胸に熱いものを滾らせながら、汚染された服を仕替えて医務室を出た。




