辺獄-2
アイリスは嘲笑を浮かべて、抑えつけられたロータスに侮蔑の眼差しを投げかけた。
「だから、バカみたいですね……といったんですよ。自ら好きこのんで傷つきに行くなんて」
「それはテメェのことかァん!? 待ってろ! 一撃で床をしゃぶらせてやるからな! 反吐吐きながら糞でも舐めな!」
ロータスは顔を真っ赤にして吠えると、サクラとマリアを振り払おうとする。ロータスは格闘術の成績が優秀だが、自分と同じ体格の二人に押さえられているのだ。サクラとマリア、どちらの手も離させることができず、唾と共に悪罵を撒き散らすだけだった。
サクラはロータスを指揮車で抑えつけようと、マリアと共に車体へ引っ張っていった。そして忙しなく首を動かして、ロータスとアイリス双方に向かって叫んだ。
「相手にしないでロータス! アイリス? 人をおちょくる暇があったら、自分の仕事をしたらどう? さっさと消えて!」
「平和なら私が出る幕がないんですがね……その仕事を作るくせに……消えるのは貴女たちの方ですよ」
アイリスの冷笑に、サクラの顔が怒りで引きつった。彼女はロータスを引き留める手を緩めると、マリアを引きずるロータスと並んで、医務室へ速足で迫っていった。
ふざけるな。何を遊んでいやがる。それにプロテアの大事な大事な初陣に、ケチを付けられてたまるか!
「ほっとけ!」
俺の轟雷が飛んだ。サクラとロータスは、影を縫いつけられたようにピタリと止まる。そして俺とアイリスを交互に見た後、悄然と肩を落として視線を伏せた。
一体何のマネだ。俺がアイリスを睨むと、彼女は満足そうに微笑んでいる。どうやらアイリスの目的は、作戦を遅らせることだったらしい。すっかり淀んでしまった空気と、荒れてしまった現場を目の当たりにしてご満悦の様子だった。
「分かったわよん! ハーイやめやめ! チチまさぐるのやめろキモいんだよメスブタが! フザケンナくそったれ!」
ロータスは投げやりに叫び、いまだにしがみついて引き留めるマリアを乱暴に蹴り飛ばした。彼女は俺の方へ向くと、感情任せに喚き散らした。
「ナガセ。これだけは言っとくわよん。アタシぁ命張ってんの! そのアタシに向かってかける言葉があれか!? おかしいだろぉん!? ブチ殺せとは言わねぇ! せめてアタシと同じぐらいブチ食らわせろよ!」
「二度言わすな! ガキはほっとけ!」
俺も負けじと叫び帰し、指揮車を指さした。ロータスは踏みにじるような地団太を何度か繰り返し、肩を怒らせながら指揮車へと戻っていく。サクラもアイリスにきつい睨みを入れてから、蹴られた事で床に横たわるマリアを助け起こしに行った。
作戦に戻って背中を向けたロータスたちに、アイリスは追い打ちの言葉を投げかけた。
「さっさと行ってください。皆眠っているんですから。うるさくしないでくださいよ」
ロータスが足を止めて、まるで彫像のように微動だにしなくなった。あ、マズいな。これはいつもの癇癪とは違う。完全にキレたみたいだ。
ロータスはいつも額に巻いているバンダナをむしり取ると、思いっきり地面に叩き付けた。威嚇に吼えることも、罵詈で牽制もしない。ただ怒りを込めるように拳を固めると、バネが跳ねるように動いた。マリアが引き止めるより早く、サクラが見逃したのを良い事に、アイリスへと飛びかかっていったのだ。
「ブチ撒けな雌豚ぁ!」
ロータスの奴、こうなったら命令しても聞かないだろう。かといってグランドエレベーターから、医療室までは距離がある。俺が引き止めるのは間に合わない。このままでは雰囲気がぶち壊しになるし、アイリスもただでは済まない。
迷いに口が、意味のない息を吐いた。しかし切迫した状況に、安っぽいヒューマニズムは吹っ切れた。
「アイアンワンド。アイリスを黙らせろ。レベル3だ」
俺の決して大きくない声を、耳ざとく聞いたのだろう。アイリスがにわかに慌てふためいた。
「へっ! やめっ! やめなさいアイアンワンド!」
『命令の優先順位を確認。サーを優先』
次の瞬間――アイリスの身体が、気を付けをするようにピンと伸びた。全身が小刻みに震え、彼女は直立の姿勢のまま立っていられなくなり、棒が倒れるように地面に崩れ落ちた。
ロータスは横たわるアイリスの頭を蹴り飛ばそうとするが、俺はすかさず待ったをかけた。
「ロータス! それ以上の攻撃は、貴様を処罰する!」
ロータスは電撃も浴びていないのに気を付けをすると、俺を振り返って締まった敬礼をした。
「やめて下さいお願いします! やめます、やめた、やめました!」
それでいい。俺はアイリスの元へ歩み寄ると、電撃で脱力する彼女の首根っこを引っ掴み、医務室へと運んでいった。
「おちょくるなら俺にしろ。問題を起こすな」
アイリスを室内の手術台に横たえると、振り向きもせずに倉庫へともどった。最近突っかかって来ることが少なくなったと思えば、標的を構ってくれるロータスに変えただけか。
今度はお前か。医務室を出るなり、デージーが床を踏みにじるような強い足取りで俺へと詰め寄って来た。彼女は俺が手を出せない距離を保ちつつ、糾弾するように指を突きつけてきた。
「ちょっと……今のはやり過ぎだろやり過ぎだろやり過ぎだろッ!」
デージーはアイリスのことを酷く心配しているようだ。俺を睨みつつも、しきりに俺の肩越しに医務室を気にしていた。俺だって構ってやりたいが、今は時間がないんだよ!
「他にどうすればよかった?」
愚直に聞いた。デージーは一瞬怯んだが、すぐに怒鳴り散らしてきた。
「どうすればよかったって……それを考えるのがお前の責任だろ! 何も考えずにビリビリしたのかよ!?」
無責任な。お前も俺と似ているな。いや、俺から学んだのだろう。このまま進めば彼女たちは、帰る場所を忘れてしまうかもしれない。俺と同じところまで進んでしまうかもしれない。そうしたら、進む意味などなくなってしまう。
「しかし今は……早く人類に――」
消え入りそうな声で呟く。そしてその後に続けられる、優しい言葉を探した。詐欺師が人を騙るような作業だ。しかし甘言が思い浮かぶよりも早く、甲高い指笛の音が倉庫内に鳴り響いた。
「ザマーミロォ! それでヒスが治るといいなオカチメンコが!」
音のした方を向くと、ロータスが唾液の光る指を口から離し、次いで歓喜の雄叫びを上げたところだった。デージーは目を剥くと、悲鳴のような声をあげた。
「何て事言うんだ! お前なんか本当は殺されてるはずなんだぞジンチクヤロー!」
デージーは俺に背中を向けて、ロータスに駆け寄ろうとした。しかしサンがその行く手を塞いで、物凄い剣幕で怒鳴りつけた。
「うるさい! さんざん悪口言ってきて……当然だよ。一緒になって騒ぐなら、デージーはあっち行けばいいじゃない。こっちは命懸けなんだから邪魔しないでよ!」
俺はサンが怒りに満ち溢れた表情を――それも親友のデージーに向けるのを見るのは初めてだった。デージーは狼狽えて数歩後退ると、先程の気勢が嘘のように委縮して肩を落とした。彼女の背中からは、親友を失うことへの焦燥と、恐怖がひしひし伝わってくる。デージーは助け舟を求めるように、倉庫内をぐるりと見渡した。そして自分に集中する非難の視線に気が付くと、亀が頭を引っ込めるように首をすぼめた。
「わ……私はただ……昔みたいに……仲良く――」
「仕事に戻れェ!」
いつまでもおしゃべりを続ける俺たちに、プロテアの怒号がとんだ。サクラとロータスは、何事も無かったように持ち場のキャリアへと引き返していった。サンはデージーに多少の想い残しがあるようだった。立ち尽くして、頭を垂れるデージーとしばらく向かい合っていた。だがもう一度プロテアに呼ばれると、最後の一瞥で未練を断ち、持ち場の駐機所へと戻っていった。
「まっ……待ってよ……同じチームでしょ! 置いてかないで置いてかないで置いてかないで!」
デージーも慌ててサンの後を追いかけていく。だが去り際に俺を睨むのを忘れなかった。
部隊が予想以上にまとまっていると思ったら、共通の敵を持つ事での結束か。結構なことである。その敵が身内でなければもっといいのだが。
俺もそろそろ持ち場に戻らないとまずい。アカシアが心配して、俺の方を見たまま手を止めている。このままだと出発の6時に間に合わないかもしれない。
グランドエレベーターに戻る際に、積荷を確認しているキャリアの近くを通りがかった。運転席の脇を通り過ぎると、か細い声がかけられた。
「わたし……こんなのもういやだよ……」
運転席を覗き込むと、マリアがハンドルに組んだ腕を乗せており、まるで枕に頭にするように顔を押し付けていた。彼女は鼻をすすって軽く鳴らし、浅い呼吸の合間にしゃくりあげる。嗚咽は聞こえてこないが、ハンドルの隙間からはときおりきらめく雫が落ちていた。彼女は不仲の両親を持つ娘のように、懸命に感情を抑え込んでいた。
「だんながもどってから、ずっとこんなかんじだよ。めちゃくちゃだよ」
「AEUとの交渉が済めば、全て終わる。それまでの辛抱だ」
「もどれるんだよね……あのころにもどれるんだよね……」
「そのためにも早く終わらせるぞ」
どうしてこうなってしまうんだよ。また同じことの繰り返しじゃないか。もうこんな事しないと決めたのに。人として生きると誓ったのに。結局、ずるずると過去に引き戻され、今を汚染している。
「すぐに終わるさ。こんな戦い」
俺が兵士になった時と似ているよ。俺は教師のまま生き残りたかったが、兵士でなければ生き残れなかった。そして兵士になってまで生き残っても、故郷に帰ることは許されなかった。多分もう一度繰り返すに違いない。俺はユートピアに辿り着いたが、きっとやり直すことも許されないのだろう。
アイアンワンドの言った通り、俺はもう限界だ。早く。早く人類に、彼女たちを届けなければ。
この地に訪れてから感じていた焦燥は、俺をがむしゃらに前へ突き動かすようになっていた。




