暴露-3
どれくらい涙を流しただろうか? 感情の波が退いて、ようやく目が乾いてくる。それほど長い時間、自分を憐れんだつもりはなかった。だが俺の顔面は慣れない表情を続けたせいで、筋肉痛で引きつってしまっていた。さらに顔の引きつりは、咽喉にも影響を及ぼしているようである。口からこぼれ出るのは、子供の様な情けない嗚咽だけだった。
「サー? サー? おかしいですねぇ……このあたりから密会のイケない臭いがプンプンするのですが……ハテ? サー? サー? どちらにいらっしゃいますか?」
唐突に間抜けな声が、廊下から聞こえてきた。アイアンワンド!? 呼びもしないのにきやがって!
こんな顔を見られてたまるか。このままではいられない。俺には責任がある。彼女たちを守るという、義務があるんだ。俺にしかできないことなんだ。こんなところでへばっている暇があるのか!? 一刻も早く立ち直らなければ!
俺は顔を懸命に拭って、今の表情を洗い流そうと躍起になった。
「あぅ……えぐっ……あぅ……あぅ……」
自らを奮い立たせようとするが、顔は言うことを聞いてくれない。依然、負け犬の泣きっ面のままだ。こんなツラをして命じても、誰が従ってくれるというのだ。
「ぅおお……くっ……ぅ……」
戦うんだ。頑張るんだ。戦って進むんだ。されど嗚咽は収まるところを知らず、呼吸の合間を縫って吐き出されていく。
致し方ない。出来ないなら。出来るようにするまでだ。
俺は握り拳を固めると、思いっきり自分の頬を殴りつけた。
一発。二発。三発。顔に衝撃が入るごとに、腑抜けて緩んだ顔が、徐々に引き締まっていく。顔の肉が軋み、引きつりの痛みが上塗りされると、負け犬の顔が狂犬の笑みになった。四発、五発と続けると、鼻血が垂れて口の中に鉄の味が広がる。嗚咽はようやく鳴りを潜め、興奮で荒々しくなる吐息に変わった。
視聴覚室の扉が、上品にノックされた。そして神経を逆なでする、猫撫で声が聞こえてきた。
「あらぁ~。ここからふしだらな匂いがしますねぇ~。いけませんねぇ~。私を差し置いてお楽しみとは、いけませんねぇ~」
スライドドアをガタガタと揺らす物音がする。その頃には俺の顔は、いつもの仏頂面に戻っていた。素早くハンカチを取り出して、顔を伝う涙と血を拭った。
「まぁ! 鍵なんかおかけになって! 何ていやらしいのでしょうか! 私も混ぜて下さい!」
アイアンワンドはこの事を見越していたのだろう。すぐに鍵を差し込む音がして、気色の悪いブリキが部屋の中になだれ込んできた。
アイアンワンドは入るなり、視線をくまなく室内に巡らせた。そのガラス玉に似た作り物の眼は、三角座りをして膝に顔を埋めるローズと、平静を装って屹然とした態度をとる俺を、交互に捉えた。そして最後に床に出来た血溜まりを確認すると、彼女は身構えるように身体を強張らせた。
気まずい沈黙が場を支配する。ほどなくしてアイアンワンドが、表情を変えぬまま静かに聞いてきた。
「野菜ジュースですか?」
「ああ。『俺が』こぼした」
「マム・ローズではなく?」
「ああ。絶対に」
アイアンワンドはふっと緊張をといたが、足元の血溜まりを見つめたままだ。彼女は労わるように俺の肩に手を置くと、焦った様子で視聴覚室の外へと押した。
「後始末は私がしておきますね。サーは早く、自らの為すべきことを為さってください」
「待て……ローズに言う事がある」
アイアンワンドに抗い、その場に踏みとどまった。酔っ払いの様に足取りがおぼつかない。こりゃ……もうちょっとしたら倒れるな。その前にローズに歯止めをかけないと。俺がいなくなってから、身投げや首つりをされては困る。
俺は蹲るローズと目を合わせた。
膝の隙間からこちらを見る瞳は、今までの剣幕が嘘のように穏やかだった。憎しみは薄れ、怒りは冷めて、鋭さは鳴りを潜めている。代わりに忌避感で遠慮がちになった眼付きには、助かる見込みのない人間に対する、形だけの優しさで溢れていた。
言ってしまえば――憐れんでいた。その目で見られるだけで、俺は何もかもが空しくなってしまった。教え子にしてきた精一杯が、何も生まないこの眼つきを育んだと知って、ただ息をするのもつらかった。
ごめんな。俺しかいなくて。ごめんな。
「俺は何時でも待っている。お前が何度でも繰り返すのを。その度に俺は止める。自分を傷つけるのなら、俺を倒してからにしろ。もう手首……やるな……もう一度今日を繰り返せ」
ローズはふっと、乾いた笑いを浮かべた。そして膝の谷間に、より深く顔を埋めた。
「自分勝手……ホントーに自分勝手……あなたはいつもそう……」
「まァな……ポンコツ。頼んだぞ?」
俺もそろそろヤバくなってきた。視界が二重三重にぶれてきやがったぞ……? それに聞こえる音も、妙な反響を伴うようになってきやがった。薬でもちこたえてもいいが、ラリったまま傷口の縫合はしたくない。
「サー。イエッサー」
アイアンワンドは俺の現状を察したのか、素早くローズの傍らに控えてその肩に手を置いた。俺には見送るように、軽い会釈をしてくれた。
「頼むぞ? 問題があったら俺の所に飛んで来い」
俺は悠々とした余裕を装いながら、視聴覚室を出ようとした。
「あっ……」
背後から、ローズの気の抜けた声が上がった。振り返ると彼女はまるで引き止めるように、俺の方へ手を伸ばしていた。だが自らの震える手先をぼんやりと見つめた後、再び膝に顔を埋めてしまった。
俺はローズに見切りをつけると、独りで、先へ、進んだ。
進んだ。
自室への道をひたすら歩く。上がる靴音はキッチリした甲高いものではなく、切れの悪い足運びで鈍いものとなった。焼けるように痛んだ傷口が、今では電撃が走るような神経痛に変わっている。あれだけ熱かった身体は、今では氷に浸かっているようだった。
倉庫に面した廊下に差し掛かった時、誰かが俺の手を掴んで後ろに引っ張って来た。咄嗟のことの上、体調の悪さが重なって、俺は引っ張られるまま廊下に倒れてしまった。
敵か!? 即座に廊下の上を転がって、姿勢を直して立ち上がる。そして腕を引っ張って来た誰かを、何者か確かめもせず足払いをかけた。相手が倒れたところを、すかさず首元を踏みつけて動けなくする。俺は威嚇のために吼えた。
「誰だ貴様ァ!?」
「どわぁ! ごっ! ごめ! 急いでたからつい引っ張っちゃって! ぶたないで! ゆるして! ゆるして!」
この声は――マリアか? 踏みつけた足を緩めると、すっかり委縮して縮こまるマリアがそこにいた。怪我で意識が朦朧としているとはいえ、またやらかしてしまった。俺は青ざめると、すぐに彼女を助け起こした。
「許して欲しいのは俺の方だ! すまん! 暴力を振るったうえ、怒鳴ってしまった。ごめんな。ちょっと今は急いでいる。あとにしてくれないか」
マリアは俺の手を取って立ち上がり、身体についた埃を手で払う。そして俺の顔色をじっくりと窺って来る。怒っていないか確かめているようだ。彼女は何か引っかかるものを感じているようだが、とりあえず話を続けてきた。
「私も急いでいるのよ! 旦那。噂の出どころっぽい情報見つけたんだよ!」
だとしたらそれは、信憑性の薄い噂話だ。掻き回していたのはローズだし、彼女は他の女をスケープゴートにするほど、性根が腐っちゃいない。その証拠に他の女がとばっちりを食らわないよう、俺を挑発して部屋に連れ込もうとしていたのだから。情報がどこかで間違ったのだろう。
「もういい。わかった」
俺は取り合わなかったが、マリアにしては珍しく食い下がった。
「分かったって……ピオニーだよピオニー! ピオニーが外の世界が危ないとか言ってたんだよ! だからあそこは手に入れるのは止めた方が良いって、皆に言いふらしていたらしいよ! パギもそれにつられて外は危ないって連呼してるそうだし……多分そこが出どころだよ!」
成程。クロウラーズの間で情報がどう巡っていたか、おぼろげながらに分かってきたぞ。ローズが流した誤情報を、一番純粋なピオニーとパギが真に受けてしまったのか。彼女たちは自分なりに行進を止めようと、皆に噂を広げたに違いない。
「そうか。ご苦労だった」
ねぎらいの言葉をかけて、さっさとこの場を去ろうとする。クソ。さっき倒れたせいで、傷口が変に開きやがった。痛みで頭がおかしくなりそうだ。早く縫わないと……死ぬかもしれん。
「ご苦労だったって……なんとかしてよ! そのために調べたんでしょ!? まだ他の子たちは喧嘩してるし、早いとこ収拾しないと私も居づらいのよ! ねー! 旦那ってば――」
マリアはしつこく追いかけてくる。だが犯人を口にすれば、ローズの立場は危ういものになるだろう。そうしたら彼女は、もう立ち直ることはできないかもしれない。
俺は自室の前で足を止めると、マリアの頭をクシャリと撫でた。そして朗らかに笑った。
「じき、終わる。心配するな」
返事を待たずに、部屋の中に滑り込む。そして後ろ手でドアの鍵を閉めると、その場に崩れ落ちた。怪我を負ってから……三十分は経ったか……? ライフスキンを着てなかったら、とうの昔に死んでいるな。俺はもうこれ以外の服を着るつもりはないぞ。
「止血剤……縫合キット……ぇあ……消毒せんとマズいな……クソッタレが……頭が馬鹿になっちまってる」
医療道具を探して、部屋の中を徘徊する。その間ずっと、入り口からはドアが荒々しくノックされ、耳障りな大声が響いていた。
「旦那ってばぁ! それどういう事!? ねぇ! 自分だけ納得しないでよ! ねぇってばぁ!」
医療品の入った箱は、ベッドの下に押し込んであった。這いずるようにして、それを引っ張り出すと、壁に背中を預けて治療を始める。
止血剤を打って出血を止める。それから患部の保護シートを外すと、抑えられていた血液が一気にあふれ出し、辺り一面を血の池にした。患部の血を拭って、注意深く観察しする。胸の外側に刺さったナイフは、肋骨の上の肉を切り裂いて、脇の下へと抜けていた。傷口の末端は背中と繋がっており、さながら魚のえらの様に開いていた。
「クッソ……こんな傷……領土亡き国家にも……つけられたことがねぇぞ……」
ぼやきながら、消毒液を医療箱から取り出す。デスクに転がっている鉛筆を口に咥えると、これから襲い来るであろう激痛に備えて、めい一杯噛みしめた。
傷口に消毒液を浴びせる。傷口をもう一度抉られたかのような激痛に、唸り声と共に口角から涎が垂れた。食いしばった歯が鉛筆を噛み砕き、口の中におがくずと血の味が広がった。
意識が……トぶかと思ったぞ……。
未だ患部に残る鈍痛に、四肢が戦慄く。だがここで呆けっとしていたら、くたばってしまう。
唾と共に、口内の砕けた鉛筆を吐き出す。そして縫合針で患部を縫い始めた。
肉に針を刺し、傷口を塞ぐ間、ふと懐かしいと思った。
俺がスケープゴートと呼ばれていた時も、よくよく独りで傷を縫っていたっけ? ダンの野郎に殴られて、良く頭を切ったもんだ。懐かしいとは思うが、この時に戻りたいと思わない。
だって寂しくて、惨めで、辛いのだから。この暗い気持ちを吹き飛ばすために、早く戦いたいと考えている。
何が何だか。自分すら分からないのか。
30針ぐらいの治療を終えた後、俺は微睡の中に落ちていった。
そう言えばノックの音が聞こえない。耳障りな黄色い声も。幻聴すらも。
翌朝目覚めると、気怠さで身体が上手く動いてくれなかった。それでも鉛のような足を引きずって、いつものように仕事を始める。見回りをして、書類を片付けて、作戦の進捗を確認する。
倉庫の視察に向かった際、ローズとすれ違った。彼女は俺を見てびくりと肩を跳ねさせる。そして捕食者に見つかったように、固まってしまった。
ローズと目が合う。その瞳に以前のような恐れはない。ただ、安っぽい同情と、ぞんざいな憐れみだけがあった。
俺たちはすれ違った。
もう。巡り合うことはないのかもしれない。
気付くと、「これで最後だ作戦」の決行日が、翌朝に迫っていた。




