暗中-3
「失礼いたします。サー」
鈴が鳴るような声をノック代わりにして、返事も待たずに誰かが入ってきた。
この恐れのなさと馴れ馴れしさ、胸がむかつく慇懃さはあいつに決まっている。こめかみを襲う扁桃痛に、おのずと額に手が当てられた。俺は舌打ちをすると、つい声を荒げてしまった。
「何のようだアイアンワンド」
リノリウムの柔らかい床に、ヒールが埋まる鈍い音が微かに響く。そして純白のライフスキンをまとった女が、俺の傍らで足を止めた。
絶世の美女とは、どのような人間を指すのか分からない。だがアイアンワンドのボディは、きっとそれに分類されるのだろう。鼻筋の通った顔に、芯の強い横長の眼、そして柔和な曲線を描く眉。顔の雰囲気を偉人で例えるなら、ジャンヌ・ダルクといったところだろうか。
アンドロイドが身に着けるライフスキンは、付属の特注品で華やかだった。ライフスキンの局部――脇の下や太腿の辺り――の肌が、透けて見えるメッシュになっており、その艶やかな肢体をより扇情的なものにしていた。衣装用の飾り布は、ドレスの様にゆったりとしていて、布面積が多いとても贅沢なものだった。ウェーブが胸回りを優雅に飾り立てて、腰からは流星の様にリボンを流していた。
彼女のことはよく知っている。汚染世界のテレビで幾度となく拝んだからな。国際連合のお抱えで、兵士に歌を捧げていたアイドルである。それが慰安用ガイノイドの型に採用され、こうして目の前に立っているのだから闇が深い話だ。製作者もよもや得体の知れない人工知能の、外出用ボディに使われるとは思ってもみなかったことだろう。俺の顔はおのずとげんなりとしたものになってしまった。
アイアンワンドは俺の露骨に嫌そうな態度を歯牙にもかけず、華麗な笑顔を振りまきながら歩み寄ってくる。
「マム・アカシアが大はしゃぎでしたよ。サーに優しく撫でてもらったと、それはもう見ていて腹が立つくらいにですね。それで私めも御相伴にあずかりに来たわけです。どこから触りますか?」
「俺に近寄るなキ○ガイ」
しっしっと手で追い払う仕草をする。だがアイアンワンドが笑顔を絶やさぬまま、さらに距離を詰めてきた。腕を巻き付ければ、抱き寄せられるほどにだ。俺は思わず腰を引いて逃げてしまった。こいつボディを手に入れてから、ますます調子に乗りはじめたから始末が悪い。身体を取り上げてしまいたいが、パギの面倒は見るし、アジリアやサクラの良い助手を務めて、プロテアの頼む雑用をこなしている。士気の低い現在、絶好の人手で外しがたかった。
アイアンワンドは俺との間に生まれた空間を、にこやかに眺めながら言った。
「どうして距離をとる必要が? サー。私だけ邪険に扱うのをやめていただけませんか? 差別でございますよ?」
「気色の悪いボケだな。名作映画みたいに溶鉱炉に沈めてやろうか?」
「では私も沈む際に、中指を立てて差し上げますね――申し訳ありません。調子に乗り過ぎました」
俺が腰のモーゼルに手を這わしたのを見て、アイアンワンドが笑顔を一瞬で真顔に戻す。そして貞淑に一歩後退り、恭しくこうべを垂らした。
「『これで最後だ作戦』の決行日が迫っておりますね。私とマム・サクラの方で、作戦の下準備の方を進めておりまして、とりあえずの報告に上がりました。ご確認の方をお願いいたします」
アイアンワンドがすっと腕を伸ばし、俺に報告書の束を差し出してくる。俺は受け取ると何枚かめくって、指示した通りに事が進んでいるか確認した。
「デュランダルは出せそうか?」
ヘイヴンで保管されていたアメリカ共和国の最新鋭機――デュランダルは、リリィの手によって戦闘配備状態にすることができた。そしてアジリアに管理運用させているが、やはり従来の人攻機とは構造が違う上に、マクスウェルシステムという難物を積んでいる。整備に時間がかかる上に、戦闘配備状態にしておくのにコストがかかった。しかしここで使わず、いつ使うというのだ。必要経費だ。
「このままいけば間に合います。マム・アジリアの習熟訓練の方も問題ありません。ただマム・サクラが不平を漏らしておりました。私の方が上手く扱えるとのことです」
俺は軽いため息をつく。躯体の委譲は面倒も無くすんなりと済んだのだが、やはり時間が経つと嫉妬が鎌首をもたげてくるのだろうか。アジリアが自慢や挑発するはずもないし、サクラ個人のプライドの問題だろう。
「サクラは情報処理を一任したはずだ。人攻機で遊んでいる暇はないぞ」
簡潔に述べると、アイアンワンドは嗜めるよう、目の前で指を振って見せた。
「一躯しかない特別な躯体。それはサーから任されたのが悔しいのですよ」
「モノよりも、気持ちを察して欲しいものだが。今回のようなデリケートな情報処理は、彼女でなければこなせない。短気な子供や、ヒステリックな医者には任せられん。ま……鈍感なのは人のこと言えないからな。わかった。あとでご機嫌取りに行く」
「それがようございます。マム・サクラは保管庫にて、作戦に使用する物資の点検を行っていますので。近いうちに顔を出された方がよいでしょう。では私はこれにて失礼いたします」
アイアンワンドはもう一度深くこうべを垂れると、先程の馴れ馴れしさが嘘のように、折り目正しく部屋を辞そうとした。俺は慌ててその後姿を呼び止める。アイアンワンドは小首をかしげるという、愛らしい仕草で振り返った。どこでそういうのを学ぶんだか……疑問を頭の片隅に追いやり、俺は少し躊躇ってから聞いた。
「お前は噂についてどう思う?」
「サーが化け物で、外の世界には毒が溢れている――という噂にございますか? 根も葉もない噂と一笑に伏したいところにございますが、火のないところに煙は立ちません。毒や化け物を連想させるような要因があったと考えられます。サーが化け物という噂は、苛烈な訓練並びに支配行為が原因と察しがつきますが――」
アイアンワンドはここで考えるように、ちらと視線を上に向けた。こいつを作った人物に、どうしてここまで人に似せる必要があったのか問い質したくなってきた。
「毒の方は皆目見当つきません。強いてあげるなら、冬による荒廃と結びつけているのでしょうが、冬自体が毒としてマムたちを傷つけたわけではありません。話しが飛躍しすぎています。きっとどこかで何かが間違ったのでしょう」
当たり障りのない、どこに出しても角の立たない返事だ。しかしこいつは、ヘイヴンを管理する人工知能。唯一真実を知っているべき存在なのである。
「内部分裂を誘うために、噂が流されたとは思わんか?」
俺は視線を鋭くして、アイアンワンドを突き刺した。アイアンワンドは悲しげに柳眉を下げて、諌めるように一歩歩み寄ってきた。
「サー……それも可能性の一つです。しかし今までの歳月に誓って、最後に考えるべき事象です」
「だがこっちは時間がない。彼女たちの安全のためにも、早く安心させる材料が欲しいんだ。ヘイヴンを管理しているお前のことだ。何かしらの手がかりをつかんでいるんだろう?」
アイアンワンドはここで笑みから柔らかさを消し、相手を嘲るように口の端を軽く釣った。
「ははぁ……マム・マリアはそのための囮ですか。マム・マリアに仕事を頼んで騒がせて、自分は冷たい機械とご相談。サーはその手がお好きですね。しかしサーはどっちを、大切にしておられるのか……まるで患者を救うために、その身体で実験を行うようなものでございますね」
アイアンワンドめ。俺が二年前彼女たちの身体で水質検査をやったのを、まだ根に持っているようだ。ではほかにどうしろというのか? 出来ることをやるしかないのだ。
「座して待つ事しかできないのなら、致し方あるまい。もし身体の肉が腐っているなら、生き延びるためにナイフでそぎ落とすだろう? 多少の健康な肉を削ってでもな」
「まぁ恐ろしい。ではどの肉から削るおつもりで?」
アイアンワンドは興味津々といった様子で、俺に顔を寄せてくる。態度に恭しさはなく、幼稚な悪戯っぽさで満たされている。
幸いなことにこのブリキの、良いところと悪いところは感情が豊かな所だ。俺に賛同する時は、めい一杯の敬意を払ってくれる。だがそうでない時は、あの手この手を使っておちょくってくるのだ。まるで攻撃対象を、クロウラーズから自分へと変えさせるように。あいにくだが、俺に人形遊びの趣味はない。
「サクラに連絡を頼む。対汚染兵装の準備をしてくれ。さしあたって全ての躯体に表面剥離装甲(装甲表面に電磁吸着させる追加装甲。汚染された表面から剥離して内部を守る)を装着し、関節部分に防塵措置を施してくれ。各戦闘員にはヘルメットを配布。ライフスキンに対汚染ジェルを塗布しろ」
出来ることをするだけだ。
アイアンワンドは意外そうに目を丸めて、人形の様な無表情になった。
「それはサーの肉では? 不安を煽りますよ?」
「やかましいな。お前が喋りたくないならもうそれでいい。それでいいんだ……分かってるんだよッ! 俺が一番腐っているってなッ! 俺がアカシアを撫でながら、何を考えたか分かるか? スパイ狩りだよクソッタレ!」
俺は思いっきり円卓の上に、拳を振り下ろす。まるで彼女たちの身代わりになるように、クロウラーズが作った円卓は、その衝撃を受けて悲鳴を上げた。
「こうなったら知らなかったことにしておいた方が良いのかもしれん。だが何かしらの対処はしなければならない。汚染対策さえ取っとけば、例え毒の海に突っ込むことになろうとも、多少は安心してくれるだろう。あとでサクラの御機嫌取りを兼ねて、確認のため保管庫に顔を出す。先に行け」
「サー」
消え入りそうなアイアンワンドの声がする。アイアンワンドの方へ顔を向けると、それは無表情のまま俺のことを見つめていた。そのガラスの様な透き通る瞳が、何を映しているのかは分からない。ただ人が放つものとは異なるきらめきが、言葉に出来ない儚さを俺に感じさせた。
「話す気はないんだろ? さっさと行け」
毒づくと、アイアンワンドが首を僅かに傾げた。それはとても機械的、かつ無機質で、アイアンワンドの素を思わせた。
「それですよ。サー」
アイアンワンドは俺から視線を切ると、部屋を見渡すようにその場で優雅に一回転した。俺もつられて、室内の様相に目を配ってしまう。
四方を資料が並べられた棚に囲まれ、管制室の狭さも相まって、情報の波に埋もれてしまいそうな圧迫感があった。そして生活の乱れからか、机から落とした報告書や戻し忘れた資料の束が、床に散らばって、足の踏み場もない有様だった。ここ最近ローズとの追いかけっこと、作戦の準備で忙しかったからな。整頓する余裕なんぞなかった。
「片付けをしろと?」
皮肉気に言うと、アイアンワンドは軽く首を振った。そして清冽な溜息を一つつき、前置きの代わりにした。
「サーはいつもこの部屋におひとり」
アイアンワンドは円卓に備え付けの椅子に手をかけて、物憂げに視線を伏せた。その仕草はサクラが悪い報告を、俺にするときとよく似ている。俺はまがい物の肉が、懸命に人の振りをしているように思えてムカつきを覚えた。
「サーがこの地に来られて、早や三年目にございます。その間サーはほぼ不休で働き続け、精神的にも肉体的にもかなり摩耗しておられると思います」
「休息なら取っている。食事も睡眠も問題ない」
いらない気を回すなと、やや不機嫌になってしまう。アイアンワンドはそんな俺を無視して続けた。
「ヘイヴンに男性はサーお独り。周りを見渡せばあられもない姿で、女性が走り回っています。理解してくれる人も、共感してくれる人も、助けてくれる人もいない。マムたちが和気あいあいと団らんする中、サーは暗い部屋の中で地図と睨み合い、獣をいかに殺すか思案に暮れる」
アイアンワンドか顔をあげ、真正面から俺の顔を捉えた。
「いかな聖者でも、狂人に変わりますよ? ストレスがかなり溜まっているのではないでしょうか? もっとご自愛ください」
アイアンワンドは、そっと自らの首元に細い指を持っていく。そしてライフスキンを身体に固定する、チョーカーのロックを躊躇いなく外した。まるでバナナの皮が剥けるように、アイアンワンドの裸体が露わになっていく。
透き通るような白い肌は、照明にまばゆくきらめいて、まるでアイアンワンドが光のドレスを着ているかのように見えた。形の整った乳房に僅かにあばらの浮いた胴体は、やや痩せぎすながらも刺し心地の良さそうな引き締まった肉をしている。そこからしなやかに伸びる四肢は、脂肪ではない熟れた肉がついて、女性の嫋やかさをありありと表現していた。
アイアンワンドの身体は、この俺の目から見ても一級品の代物だ。
アンドロイドはそっと円卓から離れると、まるで猫の様なしなやかなさで、再び俺へと忍び寄ってくる。そして鼻先がくっつきそうなほど顔を近づけて、誘う様に囁いてきた。
「私で良ければ、お相手を努めさせていただきます。どうぞお好きになさってください」
アンドロイドは息をしないはずだ。事実、俺の顔の産毛は、吐息に揺れることはなかった。だが鼻はその事実に反し、甘ったるいチェリー酒の芳香と共に、安物の煙草の残煙で濁る、生暖かい空気を吸い込んでいた。
『冷える……今日は冷えるな……まるで死んでいるようだ……』
アロウズはそう呟き、俺を――あの一回コッキリ。そして俺の原罪が生まれた。
まるで腐肉がすぐそばに迫ったような嫌悪感が、全身を駆け抜ける。俺は反射的に手を振り上げて、アイアンワンドを殴りつけようとした。力を込めた握り拳が、頭上に振り上げられる。そこで俺の脳裏に、もう一つの記憶が焼き付いた。
『こんなはずじゃないのにぃ……こんなはずじゃないのにぃ……』
かすれた嗚咽の中、辛うじて言葉になった呻き声。腕の中に抱いた、確かな感触。油と体臭で薄れつつも、サクラ特有の乾いたインクの、どこか懐かしい香りがする。
傷つけたりしないと誓ったんだ。兵士であることをやめて、彼女たちと生きると。もう逃げてはいけない。これ以上の裏切りは許されない。落ち着け。汚れた過去よりも、大事にするべき未来がここにあるんだ。
どっちを取る? もう存在しないクソッタレか。今ここにいる愛娘か。
俺の腕から、次第に力が抜けていく。拳は力強く固めたままではあるが、そっと太腿の位置まで降ろすことができた。俺は怒りの残滓を、荒々しい鼻息に乗せて吹き出すと、暴力と呼ばれない程度の強さでアイアンワンドを押し返した。
「俺に近寄るな。そして服を着ろ」
アイアンワンドは目を丸めて驚いて見せる。だが口元は嬉しそうに、笑みを形作っていた。
「意外です。自制できましたね」
「アカシアに続いて、お前にまでおちょくられるとはな……次やったら、その外出用ボディ取り上げるからな。三度目はないぞ。服を着ろ」
アイアンワンドは柳眉を悩まし気に歪めながら、足元に脱ぎ捨てられたライフスキンを拾い上げた。そして右の腕で乳房を、手の平で恥部を器用に隠し、ライフスキンに袖を通し始めた。
「サー……ここに来られた時のサーは、とても理知的で、誇り高く、そして優しかったです。今のサーは違います。妄想に耽り、理想に溺れ、酷く曖昧な態度をしておられます……お気づきですか? 今のサーは支離滅裂です。それはサーの本性が露わになったからではありません。サー自身が限界だからなのです」
俺は何も答えずに、衣服を身に纏うアイアンワンドから目を背けた。悩ましい衣擦れの音が、虚しく室内に響く。
「サーには休養が必要ですわ。正直今回の作戦は、レベルが低すぎて目も当てられません。未熟者を指揮官に据え、情報統制もしない。さらには監督もおざなりになりがちです。そしてサー自身、決心を付けぬまま眼前の目標ばかりに囚われて、足場が定まっておりません」
「aceLORANの活動限界もある。膠着状態を続けるわけにもいかん」
「南端に引き返しては? ヘイヴンの策源地を潰した今、そこで救助を待てばいいのです」
「救助? どこにまともな人類がいるのか分からないのにか? 南には逃げ場はないし、ヘイヴンは強力な前線基地になる。手放すには使用不能にしなければならない。封印? 意味がない。すぐこじ開けられる。爆破して退避する? 何と言い訳する。後には引けないんだよ」
「ゼロを船舶化し、カッツバルゲルで牽引。大陸へ脱出しては?」
「一番近い大陸まで直線距離千キロ。ゼロに備蓄可能な燃料を消費しきって、ようやくたどり着ける距離だ。クソ貴重なロケット燃料を一か八かの賭けに使って、手に入るのは行き先不明の片道切符。まさに泥船だ。おい。手を休めるな。とっととおめかしして失せろ」
衣擦れの音が途絶えたので、罵倒を浴びせる。間をおかず着衣を終えたアイアンワンドが、俺の傍を通り過ぎて戸口へと歩いて行った。着替えを早くに終えて、余った時間で分かり切ったことをくどくど喋っていたらしい。俺は責めるような目でアンドロイドを見送っていたが、ふとアイアンワンドは俺の方を振り返った。
「こういう会話を、誰かとすべきなのですよ。独りで正誤判断に苦しむより、吐き出して確認したほうが宜しゅうございます」
やかましいわ。
「ドアは閉めておけよ」
俺がぶっきらぼうに言い放つと、アイアンワンドはそっとドアノブに手を置いた。だがそこからなかなか動こうとしない。ドアの戸板をぼんやりと眺め、なにか思考――もとい演算をしているようだ。やがてアイアンワンドは、虚空に囁くような小声で言った。
「サーにおひとつ助言です。噂はゼロにいた時では発生せず、ヘイヴンに移った時に立ち始めました。ゼロとヘイヴンの違いを洗ってみてはいかがでしょうか」
何を言うかと思えば。ヘイヴンの施設機能を八割近く制限し、立ち入り禁止区画は全体の九割近い面積になる。そして容易に侵入できる場所を勘案しても、彼女らが立ち入れる範囲は七割程度だ。その全ての施設が、ほぼゼロにもあった場所だ。
「心にとどめておくよ」
適当に返事をすると、さっきよりも強い口調でアイアンワンドは後付けした。
「そう。例えば情報の閲覧に、制限のない部屋など……」
「何? それはどういう――そんなものがあるはずないだろう?」
「今のサーなら、彼女を傷つけることがないでしょう」
「彼女?」
俺の問いかけに答えず、アイアンワンドは今しがたの硬直が嘘のように、俺の部屋を出ていった。
情報の閲覧に制限のない場所だあ? どこの夢の国の話だそれは。汚染世界は検閲社会。何事も政府のチェックが入り、加工された情報しか閲覧できない。
デバイスで制限されていない、紙に印刷された情報を読んだとも考えにくい。サクラが良く言っているが、紙は高級品だ。それは材料の木が貴重ということもあるが、紙に情報を印刷して、民衆にばら撒かれるのを政府が嫌ったのが大きな理由だ。国民が受け取れる情報は、デバイスに映し出される電子情報に一元化されており、それによって国民は統制されていた。
あり得ない。情報が自由に引き出せるなんて、あってはならない。そしてデバイスを封印しているのなら、情報を引き出せる端末があるはずがない。
図書館? 違う。そんなもの危険極まりないから物理的に閉鎖した。
資料室? もっと違う。機密のうえ、ヘイヴン心臓部である管理区画の近くにあるんだぞ。俺が最も神経質に封印したところだ。周囲をぶらつけても、中には絶対入れない。
なら――一体――どこで――
「あっ……」
今まで上げた可能性に、連想する形で導き出される、一つのロケーション。
やばい……忘れていた……。
あそこなら、向上心のある者のために、情報が公開されている。
俺は慌ててライフスキンの胸元を捲り上げると、デバイスを操作してマップを表示した。
九階管理区画――ない。そんなことは分かり切っている。何故さっさと確認しない?
八階居住区――ないのは分かっているんだろ? まだ逃げるのか? もう逃げ場などないのに!
七階――やっぱりありやがった! しかも立ち入り禁止区画にメチャクチャ近い! 少し禁を犯すだけで、誰でも出入りできる!
俺は捲り上げた布を胸に張り直し、ドアを蹴り開けるようにして部屋を出た。
「どっ! おわぁ! 何何何!? 敵襲!?」
廊下に躍り出ると、ケーブルの束を運んでいたリリィと鉢会った。彼女は太さ五センチもある送電ケーブルを、体に巻き付けて運んでいたようである。しかし飛び出てきた俺に驚いて、ケーブルを取り落してしまい、それに足を絡ませて転んでしまった。
俺は彼女の脇を駆け抜けて、目的地へとひた走った。
何で忘れていた?
そうじゃない。
意図的に避けてきたのだ。
ゼロになく、ヘイヴンにある物――過去が――俺の全てがあるところ。何もないところ。
それは。
学校だ。




