暗中-2
俺はヘイヴンに帰還すると、管制室に戻ってマリアを呼び出した。
到着を待つ間、管制室の窓から倉庫の景色を眺める。目の前の倉庫を行き来するクロウラーズを見守りながら、その行動の隅々を細かく観察して不審点がないか探ってしまう。噂は自然発生したものではない。誰かが意図的に生み出したものだ。根元から潰し、悪い情報を覆さなければ、行軍のリスクはぐんと高くなる。
噂はかなり前から流れている。ついこの前、ピオニーに噂を連想させるようなことを質問された。その前も訓練後に、プロテアに呼ばれて先に進んでも大丈夫かと念を押された。振り返ってみれば、彼女たちの争いが激化したのもこの頃からだと思う。俺が帰ってきてから、冬の間に進展があったのだ。リリィの面倒を見ていた時かもしれない。
呼び出しを食らった時、マリアの出頭は俺の態度に左右される。機嫌がいい時は「明日でもいい?」と宣い、すぐに来いと返事すると、30分ほどかけてくる。聞き切れないほどの言い訳を抱えてだ。だが機嫌が悪い時は飛んでくる。今手にかけてる仕事を全て投げ出して。
今日のマリアは機嫌の悪い時の対応で、数分も待たせずに俺の部屋に現れた。駆け足で上がった息を両膝に手をついて整え、汗で額に張り付いた髪を指の先で払う。それから遠慮がちに俺の様子を窺ってきた。
「旦那ぁ~……私に何か用でごぜーますかぁ~……この前仕事をバックレた件なら、もうサクラに罰を貰ったよ」
マリアはクロウラーズの中でも噂好きで、何にでも頭を突っ込む軽薄な性格をしている。しかし軽率ではなく、仕事を避けるための身の振り方が上手い。情報だけを聞き入れる絶好の立ち回りが出来るのだ。持ち前の人当たりの良さも手伝って、マリアは誰とも仲良くしている。マリアにクロウラーズのことを尋ねれば、大抵のことなら答えてくれるだろう。
俺は軽く首を振ると、中央の椅子に座るよう促した。俺の背後で椅子を引く音がして、トスンと腰を下ろす音がした。
俺はマリアを緊張させるために、しばらく無言で窓の外を眺め続けた。背中からそわそわと身動ぎする音が、次第に聞こえ始める。ガタガタと神経質に椅子を揺らす音も。俺は物音が沈黙を破るほど大きくなる直前で、ゆったりと口を開いた。
「噂について知っているか?」
俺の言葉を皮切りに、マリアは堰を切ったように聞きもしないことを喋りまくった。
「なんのぉ? ロータスが牛のタマ搾って、飲めないミルク搾ろうとしたこと? あれはほんとだよ? それとも何? またプロテアとパンジーが喧嘩したって奴? 口喧嘩で済んでるからいいじゃん?」
重い沈黙の後だと、息が詰まってペラペラ喋りたくなるだろう。質問を重ねる。
「俺たちが進む先には、毒が潜み昆虫で溢れ、人の形をした化け物がいるという噂だ」
マリアの緊張が一気に解けて、耳障りな物音がしなくなる。彼女はあっけからんとして、ケラケラと無邪気に笑った。
「ああぁ~。たまぁ~に話してる奴いるね。ナガセが隠している秘密だって」
そういうことになっているのか。そしてマリアが楽になったのは、自分に責任がないと分かったからだろう。自分が関わっていなければ、責任は一切ない。そういう所がマリアなのだ。
「そいで危ないから進むのはやめておこうとか、ナガセは人間の振りして危ないところに連れていく悪魔の手先だとかさぁ~。ちょっと考えれば、ンなことあり得ないの分かるはずなのにね」
自分も噂話の尻馬に乗っていたはずなのに、マリアは声高く非難をする。
「なぜ黙っていた」
俺がマリアを振り返り、ややきつめの口調で問い質す。するとマリアは怪訝そうに、眉根を寄せて俺を見つめ返していた。
「むしろ聞いてなかったの? あんだけ蔓延ってた噂なのに」
それを言われると、返す言葉もない。俺なりに彼女たちとのコミュニケーションを頑張ったつもりだが、溶岩の中に唾を垂らしたぐらいの変化しかなかったようだ。俺に出来た事といえば、ローズの尻を追いかけて、リリィに人攻機を諦めさせたことぐらいか。腐った野菜の山に頭を突っ込んで、死にたくなってくる。気まずさに視線が俯いてしまい、悟られまいと顔は窓の方へ再び向いた。
「今日初めて聞いた」
「誰から」
「言えん」
マリアのため息が聞こえる。重く、深い、長い、飛行機雲のように尾を引く溜息だった。
「旦那はそこなんだよね。だから信頼されないの。私は口が裂けたってばらしゃしないよ。拷問すると脅されたらチクるけどね」
マリアはふふんと鼻を鳴らすと、俺が持たない何かを誇るように、意気揚々と喋りはじめる。
「おおかたアカシアかプロテアでしょ~ね。サクラは旦那の負担になること、全部自分で抱えてしまうから。ロータスは媚び媚びモードで不快になるような事言わないしィ。んで他の女の子たちは旦那を避けてるからさ? あってた?」
俺は返事の代わりに、軽く鼻を鳴らして誤魔化した。
「噂の出所は分かるか?」
「それとなく探ってみるけどさ……私と旦那の関係疑われたらトンズラするよ。分かってると思うけど、旦那にメロメロの奴より嫌いな奴の方が多いんだから。わたしはね~、仲間外れにされるのだけはマジ勘弁だからね」
「それで構わん……だが波風を立てるな。いいな?」
「分かってる。分かってるって。私は自分が不利になることはしないよ。私の好奇心をちょっとだけ、旦那に分けてあげるだけだからね」
一応対策を取ったが、遅きに失している。行軍の日までに犯人を見つけるのは難しそうだ。彼女たちをまとめる、別の方法も考えなければならない。
俺はポケットの中からイヤリングを片方だけ取り出して、窓を向いたまま背後のマリアの元に投げた。ヘイヴンの散策中に見つけたものだ。俺には鉄くずみたいな価値しかないが、彼女たちにとっては自然で採取できない最高の調度品らしい。これ一つで大抵の奴は、首と尻尾を振りまくる。
「もう片方は成果を出したらくれてやる。いっていいぞ」
噂の方はマリアに任せて、事の進展を待つほかはない。だが必ず見つけ出して――俺は――
頭の中が真っ白になる。
どうするべきなのだろう? 普段だったら、吊し上げてリンチにかける。共通の敵が仲間の団結力を高めるからだ。だけどそれはやってはいけない気がする。例え我々に仇為そうとしたとしても、例え敵対行為を取ったとしても、それだけは越えてはいけない一線のような気がした。彼女たちと過ごした歳月が、俺にやめろと縋り付いてくる。もっといいやり方が……もっと効果的な……その……でも俺は知らないんだよ。
裏切り者を殺す以外に、赦す方法を。
『何が違うものか。それで正解なんだよ』
『私たちにも同じことしたでしょ?』
『いくない。差別。いくないね。その時の気分でやり方変える駄目ね』
でもここはユートピアで。暴力はもうふるわないと決めた。でもそうしたら規律が乱れて。組織が上手く回らない。そうやって裏切り者が生まれたら俺の責任だろ? それで彼女たちが傷ついたら俺の罪だろ。
俺が思惑を巡らせていると、背後から遠慮がちに声をかけられた。
「旦那……聞くけどさ……」
今、俺の形相を見られたくない。振り返らぬまま、顔を手で覆って撫でまわす。そして気のない返事だけをした。
「何だ? やり方は問わん。好きにしろ」
「そうじゃなくてさァ……本当に大丈夫なんだよね? 外は安全で、いいものがいっぱいあって、危険を冒しても進む価値があるんだよね?」
心配で胃が捻じれているのか、絞り出すように彼女は言った。
「そうでなければ、お前たちを危険に晒してまで、進もうとは思わない」
「信じていいんだよね……毒なんてないんだよね? でっかい昆虫も、人の姿をした化け物も……いないんだよね。これ大事なことだよ? そうじゃなきゃ進む意味なんてないんだからさ」
「もちろんだ。この世界にそんなもの存在しない。あり得ないんだ」
その全てを消すのが、俺の使命だった。みんなマグマに飲まれて消えたんだ。
「いいか? 俺たちはより良い場所に帰るため、先に進むんだ。それを忘れないでくれ」
表情が落ち着いてきたので、俺は普段通りを装ってマリアを振り返る。背後でマリアは顎に手を当て、唇を歯で引っかいていた。
「帰るってェ……言うけどさァ……」
マリアは眉根を寄せると、俺を見つめ返してきた。微かに身体が震えていて、彼女の髪につけられたヘアピンが揺れて、軽い金属音が消え入りそうな音色を奏でた。
「あのさ。私の故郷は北にないよ。南の浜辺にあるんだよ。あそこで皆と生まれて、その……私たちなりに一生懸命過ごしていたんだ。そりゃ今は今で旦那のおかげで幸せになれたよ!? でもさ……あの時はあの時でも、今に代えられない幸せがあったんだ。私ヘイヴンに来てからも……あの時のことよく思い出す。懐かしいと思うの!」
マリアは自らの胸に手を当てて、そこにある物をさらけだすように必死に訴えかけてきた。
「今はもう砂と海しかないけどさ。皆であそこに帰れば……また故郷になるんだ。帰るって……そう言うことだよね? 知らない所に辿り着く事じゃないよね?」
マリアの声に熱がこもっていき、彼女は激しく身振り手振りを繰り返した。
「皆が進むのを嫌がってるのは、危ないのもあるけどさ、故郷に帰りたいというのもあると思うよ。ナガセがどこから来たのか知らないけど、ナガセの故郷は私たちの故郷じゃないと思うんだ。ナガセそれ分かっている?」
「分かっているとも。そしてお前は気付いていないだけで、女たちの現状は群れとはぐれた子羊と一緒なんだ。国家という名の羊飼いの元へ届けねばならん。お前にもそれだけは分かって欲しい」
今の生活がまともだと思っているのなら、それは大きな間違いだ。ユートピアの恵みで、ある程度はうまくはやっていけているが、いずれ限界が来る。そうなる前に国家に帰り、彼女たちの将来を保証してもらうべきなのだ。俺は譲れないという決意を視線に乗せて、マリアを真正面から迎える。すると彼女は悲しそうに、ふいっと視線を横に逃がした。
「私。ナガセにはお世話になった。だからナガセが帰るのを手伝ってあげるよ」
マリアは円卓にそっと歩み寄ると、ことりと何かを置いた。彼女の手が円卓から離れていくと、そこには俺が投げ渡したイヤリングが残されていた。マリアは物寂しそうな顔に、やや恐れを滲ませると、弱々しく首を左右に振った。
「イヤリング返すね。今回に関してはいらない」
くるりと俺に背中を向けて、マリアは足早に部屋を出ていった。残された俺は、円卓の上で軽く揺れるイヤリングを呆然と見つめることしかできなかった。
「過去を忘れたから……仕方のないことか。いやむしろ……忘れていたからかもしれない」
クロウラーズは汚染世界のことは忘れている。意識障害から目覚めた時、目覚めるまでの記憶を失ってしまう、逆行性健忘症だ。彼女たちがそれを患った原因は不明なままだ。汚染世界のことを忘れたくてわざと被ったのか、それとも出所不明のゼロ・ドームポリスが不完全だったのか。思えばクロウラーズについては、分かっている事はなにもないのだ。
「俺の知らない何かがあって……それを忘れたがっているとも考えるべきなのかな……」
とするとピオニーの態度は不思議だった。あの天衣無縫なピオニーが、策を弄してまで俺と二人きりになりたがり、秘密の話を持ち掛けてきたのだ。ECOと中国、そしてピオニーの関係が気になる。実はあいつ結構なお偉いさんで、重大な秘密を知っているが、逆行性健忘のせいで今の状態になった訳ではあるまいな。考えすぎかもしれないが、用心に越したことはないか。
クロウラーズのためだ。
「それだけでいいんだ」
どうすればいいか……俺のクソバカ野郎が。そんなの決まっている。彼女たちを守るために、俺が戦うんだ。
また過ちを犯すところだった。性質の悪い噂が流れただけで、スパイ狩りとは正気じゃない。例え何を言おうと、何を信じようと、誰であろうと、彼女たちはクロウラーズだ。大事な仲間なんだ。
赦さなければいけないんだ。
俺はテーブルのイヤリングを拾い上げると、ポケットに捻じ込んだ。
「でも……それが難しいんだ……」




