暗中-1
鬱蒼と生い茂る森の中を、俺の駆るオストリッチがゆっくりと行進していった。春の若葉を踏みしめる柔らかい音が、静けさを微かに震わせる。加えてオストリッチの低い駆動音が、意識に溶け込むミュージックとして響いた。
現在地は、ヘイヴンとECOバイオプラントを隔てる、巨大な森の中だ。アカシアの訓練と、斥候の予行練習を兼ねて、森の中を行進しているところだ。
木漏れ日に目を細めながらも、行く手を遮る木々に視線を凝らす。三メートルはあろう針葉樹が、一定の感覚を置いて立ち並んでいた。隙間を埋めるようにして、腰ほどの高さの雑草がまばらに生えている。
俺は森の陰影の中、我々に害をなす獣が潜んでいないか確かめて、オストリッチを進ませる。一定距離を進むと、西の方角である右手へと視線を向けた。離れたところではアカシアも、同じように歩を進めている事だろう。そろそろ定期連絡の時間も迫っている。俺はデバイスでアカシアに無線を送った。
「LWからRWへ。状況報告せよ」
『あ……はい。こちらRW。現在北上を継続中。気になる痕跡は見当たらないよ……何かあったの?』
すぐに心配そうに、上ずった返事がした。今のところアカシアは目立ったポカをしていない。その上俺を気遣う余裕があるのは頼もしいことだ。
「いや。ならいい。北上を続けろ」
『あ……うん。何かあったら呼んでね。飛んでいくからね……』
「いらん気を回すな。そのまま計画通りに斥候を続けろ。オーバー」
俺は無線を切ると、オストリッチをさらに先に進ませた。
俺の予想した通り、アカシアは優秀な斥候だった。普段狩猟に勤しんでいるおかげか、獲物を追う目星のつけ方が効率的だ。さらにそこから獲物がどう動き、何を成そうとしているのか、予想するのも得意だった。彼女と何度も森へと出かけて訓練を繰り返したが、もうすぐモノになりそうだ。
アカシアに行った訓練は、逼迫した時間のこともあって、やや乱暴なものになってしまった。異形生命体の潜む、危険なユートピアの森で野営をする。緊張に慣れつつ感覚を研ぎすまし、危険をすぐに察知できるようにしようという訳だ。
俺は当初、アカシアが暗闇に怯えて、泣き喚くものと思っていた。しかし俺の予想を裏切り、アカシアはとても落ち着いて訓練に従事した。
『それってさ。僕を信じてくれているってことだよね? マテリアルバスターの時と一緒でさ』
記憶の中で、アカシアが微笑んだ。
野営の夜は、普段の夜と趣を異にする。ベッドがなければ布団もない。屋根も、壁も、仲間すらも。さらにAEUに察知されないよう、焚き火すら許されないのだ。
自らの鼓動が起こす、衣擦れと吐息に紛れるようにして、闇から何かが忍び寄ってくる。得体の知れない何か近づく恐怖。その音が何故離れるのか分からない不安。濡れたシャツが肌に張り付くような、不快感を伴う感覚だ。音の主が動物か異形生命体か、敵意があるのかないのか、そして目的は何か――漆黒のヴェールに視界を遮られる中、自らの知恵を灯火に探らなければならないのだ。
『ごめんね。迷惑かけて』
一回目の野営で、アカシアは気の休まらぬ夜を過ごし、憔悴しきってしまった。
『あ……朝日が綺麗だね。へへぇ……上手くできたよ』
三回目の野営でコツを掴んだらしい。彼女は俺の補佐付きとは言え、自衛しつつ夜を越える事ができた。
そして今日が六回目。彼女は単独で、視界の悪い森の中を行進している。二年間訓練をした下地が、生きてきたということだろう。あとは行軍の予行演習を実施しながら、不足の点を学ばせるだけでいい。
もう一度アカシアのいる方角に視線をくれる。ふと自嘲気に、口の端が釣り上がってしまう。まるで本物の、子煩悩の父親のようじゃないか。血のつながりも無く、同じ価値観を持っていないというのに。
でもなんだろう。それが当たり前なんじゃないのか? 同じ人として、重ねた歳月のみを絆に、共に明日へと歩んでいくことが。生まれや肌の色なんざは、たまたま。価値観や主義は、そういうものだと割り切ってしまえるような気がする。
「そうさな――アカシアは……」
アカシアは全く手のかからない子供だ。一度言えば聞くし、徹底的に注意する。もちろん忘れたり、うっかり失敗する時もある。でも指摘すればそれが悪いことだと理解して、すぐに改めてくれる。まぁ父親としてはもう少し自発的で、反抗的なほうが安心できるのだがな。パギの生意気さを少し譲ってもらえばいいのに。
でもそれがアカシアなのだ。俺が無理矢理変える必要など、どこにもありはしないのだ。
行進を続ける内に、アカシアから無線連絡が入った。彼女は息を潜めつつも、冷静で淡々とした口調で言った。
『RWからLWへ。ジンチクを発見。数は1体、はぐれの模様。今草むらで寝そべっているよ。こっちに気付いていないけど、どうする?』
怯えは毛ほども感じない。自分の安全を確保できているという自信。自分である程度こなせるという自負。この二つがひしひしと、無線越しに伝わってくる。となれば命令することは一つだけだ。異形生命体を生かしておく危険性はあれど、利益なんぞかけらもない。
「警戒を厳にし、観察を続けろ。群れが近くにいるなら、俺の所まで引き返せ。はぐれなら始末しろ」
『わかったぁ。オーバー』
さて。アカシアが対処するまで、俺はここで時間を潰しているか。腰に釣った水筒に手を這わせ、水をごくりとあおった。口の周りに残った雫を手の甲で拭い、考えを巡らせる。
ECOバイオプラントの占領作戦――彼女たちは『これで最後だ作戦』なんて名前を付けているが――その決行日が迫っている。
作戦開始日は春の三週・七日目。あと十日しかない。行軍訓練はアメリカドームポリス占領の下地が手伝って、つつがなく進んだ。アカシアの技能訓練も問題ない。僥倖だ。僥倖のはずなのだが――。
にわかに襲い来る頭痛に、俺はこめかみを指で押さえた。
やはり士気が低すぎる。クロウラーズからはまるっきりやる気が感じられず、何をするにしてもまず溜息。何を終えるにしてもとりあえず愚痴という有様だ。おっと。その間にアホみたいな理由で始まる喧嘩が挟まっている。まるでクソのサンドイッチだ。俺がどれだけ訓示を述べようとも、彼女たちは聞く耳を持たない。それどころかそれを燃料にして、身内で争いを始める始末だ。
そんな有様で、統率が取れるわけがない。今回の指揮官はプロテアだが、命令に逆らうような奴は彼女を蔑ろにするし、命令に従う奴は俺の所に伺いをたてに来る。皆、プロテアを無視しているのだ。俺が仲介に立つと、恐怖と忠誠で一時的に統率が戻る。しかし目を離した途端に、作戦に反対する者はふらりとどこかに離れ、賛同者は俺の所についてきてしまう。
「経験が浅いからな……クソアマとか言って悪かった。あれはスネる……」
指揮権をプロテアに移すには、少し時期が早すぎた。かといって俺が指揮をし続けるのは避けたい。俺が兵士として彼女たちと接したくないというのもあるが――プロテアには指揮官としての実戦経験を積ませておきたい。仮にこのECO奪還作戦という機会を逃すと、彼女は起こるやも知れぬ対AEU戦で、初陣を飾ることになってしまう。だからプロテアには辛いだろうが、ここで踏ん張ってもらうしかないのだ。
「影でコソコソしているようだがあいつら……それだけではないな……」
クロウラーズの奴ら……恐らく俺に何か隠している。時たまに数人が寄り集まって、ひそひそと何かを話しているのを見かける。しかし俺の存在に気が付くと声を潜めて、蜘蛛の子を散らすように逃げてしまうのだ。
暴くのは簡単だ。俺が本気を出せばいい。しかし秘密を持つのは良い事なのだ。子供という奴は、心の中に飼っている秘密を育てていき、大人になるための礎にする。俺たち大人はそうやって、彼らが育て上げた秘密に驚かされながら、大人として迎え入れるのだ。その秘密とやらが、俺に対するレジスタンスの結成だったり、反対集会なら暴いてはいけない。俺はその宝箱を空けて、知ってしまってはいけないのだ。対処できるようになったら、全て台無しになるのだ。彼女たちが自立する芽を摘んでしまうことになる。
「手間のかかる奴らだな」
唇を軽く噛んで、愚痴をこぼす。
しかし、これは俺の勘なのだが――彼女たちが持っている秘密とやらは、そんな崇高なものではないような気がする。もっと根源的で、元からある物をひた隠しにするような、後ろめたいものを感じるのだ。彼女たちは俺に知られることを恐れるというより、俺が知らないことを恐れているそぶりなのだ。
確信はない。そう俺が思っているだけ。そう自分で分かっているだけに、強引に暴くことを躊躇ってしまう。
ふと俺の目元を木漏れ日が焼きはじめて、意識が現実に引き戻された。高い位置にあった太陽が傾き、日差しの角度が変わったらしい。どうやら結構な時間を考えていたようだ。そういえばジンチクの処理を任せてから、アカシアから連絡がない。にわかに胸元がざわつき始めた。
「遅い……遅すぎる」
手際が悪い。ゼロ点なら救いようがある。
くたばった。オシマイならどうしようもない。
俺はオストリッチの腹を蹴ると、急いでアカシアの元へと走らせた。行く手を阻む草木を蹴り飛ばしながら、胸元に挟んだデバイスでアカシアに通信を送りまくる。だが返答が一切ない。
アカシアの成長ぶりに安心し、気を抜いてしまった。
アカシアがいなくなる? そう考えると、冷や汗が背筋を伝っていった。一人も欠けずにここまで来られたんだ。誰も失うことなくユートピアに辿り着きたい。一人でも欠けたら、俺たちは最早クロウラーズではないのだ。
進むうちに木々が途切れ、小さな広場に飛び出た。土が剥き出しになった小さな空間の中、アカシアは弓を片手にぼんやりと立ち尽くしていた。
アカシアはとても神秘的な雰囲気を纏っていた。無駄な肉が一切ない、すらりとした身体をラッピングするように、黒いライフスキンで覆っている。起伏に乏しい体をタクティカルベルトで締めあげて、アクセサリの代わりにサバイバルキットで飾り立てていた。彼女の腰には、太い一本のベルトが巻かれている。そこには拳銃のホルスターとポーチ、そして行進の合間に狩ったのであろう、野兎が括りつけられていた。
彼女の足元には、矢の突き刺さったジンチクが絶命している。銃器ではなく、狩猟用の弓で仕留めたらしい。上手く急所を射止めたのか、肉に突き立つ矢は僅か二本だった。肝心の木の矢はジンチクの血に焼けて、根元から腐り落ちていた。アカシアは死体の傍らで棒立ちになり、冷たい目つきで見下ろしていた。
俺はオストリッチから飛び降りると、手綱を引いてアカシアの元に駆け寄っていった。アカシアは俺に気付くと、柔らかな笑みを浮かべて振り返った。
「遅いよぉ……もし僕が襲われていたらどうするの……?」
とりあえずは無事だったようだ。ほっと胸を撫で下ろす。だが弄ばれたと分かり、冷静になった頭が再び苛立ちで熱くなっていった。
「訓練で遊ぶな」
俺の怒りを敏感に感じ取ったのか、アカシアは慌てて頭を下げる。
「ごめんね。でもふざけてやった訳じゃないよ。ちょっとね……感慨深くなっただけ。泣き叫ぶしかできなかった僕が、ここまで出来るようになったんだって――」
アカシアはそういうと、足の爪先でジンチクの死体を突っついた。
「ナガセのおかげだよ。ありがとね」
その一言が、今までの全てを思い起こさせて、懐かしい雰囲気を蔓延させる。俺は叱るつもりで肺に空気を貯めていたが、それを郷愁の溜息に変えて全て吐き出した。
辺りを適当に見渡すと、苔むして黒ずんだ一抱えほどもある倒木が目に入る。腰を掛けるのにちょうど良さそうだ。俺は視線を倒木に注ぎながら、アカシアに言った。
「少し休むか?」
「うん……」
アカシアはややはにかみながら、俺に頷き返してきた。倒木に並んで腰を掛けると、木は中身が腐っているらしく、二人の体重に悲鳴を上げて表面が沈んだ。アカシアは軽く驚きの声をあげたが、すぐにその感触が面白いと思ったようだ。わざと倒木に尻を押し付けて、腐れ木を軋ませた。
「森……緑が芽吹いてきたね」
倒木を虐めるのに飽きたのか、アカシアがポツリとつぶやいた。
「まぁ、春になったからな。これからまた食料も実ることだろう」
「食べることばっかりなんだから」
彼女はクスクスと上品に笑う。
「お前ら全員が飢えないか、気が気でないんだよ」
「ごめんね。僕も楽しみだよ……収穫の日――」
アカシアが話す途中で、「くー」っと、その腹が鳴った。彼女は顔を真っ赤にして俯くと、黙り込んでしまった。斥候は神経も削るし、腹もより減る。俺はバックパックからピオニー特製のサンドイッチを取り出し、彼女の膝元に投げた。
アカシアは赤い顔のまま、俺とサンドイッチを交互に見やっていた。どことなく気まずそうで、申し訳ないと言いたげに口元が蠢いている。早く食べるよう顎でしゃくってやると、彼女はおずおずと包装しているラップに手をかけた。
「半分ね。半分。半分だけもらうよ」
「遠慮しないで独り占めしろ」
「半分だよ半分。半分でお腹いっぱいだからね」
アカシアは首を左右に振ると、サンドイッチを二つに割ろうとした。しかし誰がどう見ても、彼女が力を入れている場所は、ちょうど半分の位置ではなかった。すかさず釘を刺す。
「本当に半分にしろよ? もし不均等だったら、デカい方をお前の口に捻じ込むからな」
「えぇ……うん……あっ!? でも食べさせてくれるの? それはいい……ね……」
アカシアは俺の反応を確かめるように、顔を盗み見てくる。そして明らかに不均等に、サンドイッチを割ろうとした。今度は俺の方が恥ずかしくなってきたので、彼女の手からさっさとサンドイッチを奪う。そして適当に二つに割って、大きい方を彼女の膝元に投げ返した。
「むー」と彼女の不満げな呻きが聞こえるがそんなもん無視だ。
俺たちはサンドイッチを貪りながら、しばらく無言のまま時を過ごした。沈黙を言葉に、風のそよぎを相槌に、ただこうして並んでいるだけで、進軍の不安が空に溶けていくような気がした。
「あのね。ナガセ。僕は行く先に何が待ち受けていようと、ずっと……ずっとナガセについていくからね」
唐突にアカシアが言った。伏せがちの視線はここにない何かを見据えて鋭く、声色は決意表明じみて硬かった。俺の返事を待たず、アカシアは熱意を込めて続ける。
「どんな敵とも戦うし、どんな場所でも乗り越えていくよ。それだけ信じてね……ナガセはね、前だけを向いていれば大丈夫……後ろには必ず僕がいるからね……毒なんて怖くない。僕は怖くないよ……」
アカシアはかなり俺のことを、信頼してくれているようだ。上官として鼻が高いことだし、仲間として最高の栄誉だ。
しかしどういう事だ? 俺たちの共通の敵は異形生命体だ。毒を恐れないとはどういう意味だ?
「毒とは……何だ……?」
愚直に聞いてしまう。それは腰が引けた物言いで、狼狽えていることが丸わかりだった。しかしアカシアは気にした風も無く、それどころか慈しみ深い笑顔で俺を見つめてくる。
「う……うん……隠さなくていいからね。古い世界の毒が、たまに溢れ出てくるんだよね。そのせいで植物が枯れたり、雪が降ったりするんでしょ? その毒の源が、これから進む先にあるって」
誰がそんな事を言った? 俺は世界が汚染される前の、旧世界のことはよく知らない。四季すら体験したことがなかった。だが世界が汚染される前の世界でも、秋で実り森が枯れ、冬に凍え雪が降っていたことは知っている。四季は汚染が作るものではないのだ。
「誰から聞いた……?」
「誰って……皆話してるよ? 触ったら死んじゃう毒の空気があって……おっきな昆虫がいて……あと私たちみたいな化け物がいるって――」
ここでアカシアは失言だったと、慌てて口を抑えた。
「僕違うよ! これは聞いただけだからね! 僕はナガセが人の形をした化け物だって、思ってないからね!? 悪口は言ってないからね!?」
誰かが俺を、領土亡き国家に仕立てようとしているのか? それに汚染空気とミューセクトを知っているだと? 彼女たちは記憶を失って、過去のことを何も知らないはずだ。
「戯言はいい。それよりも誰から聞いたかを知りたい」
アカシアはそんなことを聞かれるとも思ってみなかったのだろう。先ほどの柔和な笑みは鳴りを潜め、焦りで引きつった顔になってしまう。そして震えて俯くと、力なく首を振った。
「えぅ……あ……あ……ごめんなさい……わかりません……」
きっと皆がまことしやかに噂するのだから、信じてしまったに違いない。そしてこんなに進むのに不都合なデマが、真実として受け入れられているのはまずい。毒の蔓延する死地に、誰が進みたいと思うか。
彼女たちの急激な態度の悪化に戸惑っていたが、こんな噂を流されていたのか。浸透具合を鑑みるに、噂が流れたのは昨日今日の話ではないだろう。噂は流れ終え、事実として定着してしまっているのだ。もっと前、恐らく俺が北の探索に出た時期かもしれない。あの時ならやりたい放題できるからな。
「お前なぁ……そんなものを信じていたのか? どこの誰が言ったかもわからない、証拠すらない戯言を」
「え……あ……うぅ……だってぇ……だってぇ……」
俺も一体何をしていたのか。彼女たちを見ていれば、噂の片鱗に気付きそうなものだが――っと、俺はローズの尻を追いかけて、リリィの尻を引っ叩いていたのだった。彼女たちの監視がおざなりになっていたのも否めない。
しかし一体誰がこんなことを? このデマを流すには、汚染世界を知っていけないといけない。しかしライブラリの閲覧は制限しているし、娯楽の本も歴史書だけは封印している。過去に縛られて欲しくないのだ。
もしや誰かが……記憶を取り戻して……パニックに陥っているのか……? いや、これはむしろ訓練の妨害を、狙っていると考えるべきだ。秋と冬は毒のせいだと、創作までしているのだからな。
俺は無視することにしたが、クロウラーズの中に領土亡き国家が紛れ込んでいる可能性は捨てきれない。そして俺たちに牙をむこうというのなら、戦わなければならない。
不意に腕に、アカシアがしがみついてくる。彼女は大粒の涙をこぼしながら、捨てられるのを怖がるように、俺の腕を抱きしめていた。
「ごめんね……ごめんね……ナガセの邪魔するつもりはなかったんだよ……許してね……許してね……」
「泣くな泣くな。別に怒ってないだろう? 誰から聞いたのかと質問しただけだ。それだけ」
「皆が普通に喋っててね……それで話が通じてるからね……僕もほんとのことなんだって思ったんだ……ごめんね……ごめんね……」
「いい。毒なんざ嘘っぱちだし、昆虫なんぞいない。いてもピオニーのポケットに入る程度だ。だからお前も変な気遣いをしなくてもいいんだぞ?」
アカシアの背中を撫でて慰めてやる。彼女なりに一生懸命だったのに、こういう形で裏切られると辛いだろうな。背中を俺の手が何度も往復していく内に、アカシアの嗚咽が小さくなっていく。やがて小さな溜息を最後に、安らかな呼吸に取って代わった。一応泣き止みはしたものの、アカシアは俺の腕をつかんで離さず、そのまま甘えるように顔を埋めてきた。
しばらくは好きにさせてやるか。俺はアカシアの背中を撫で続け、広場の中央に転がるジンチクの死骸に視線を注いだ。
「アジリアは何と?」
「ガキじゃないんだから、下らん噂を口にするなって。気にしてないよ」
アジリアはシロ。あいつは徹底的にやるからな。日常会話でも煽ってくる。
「パンジーは?」
「あのだみ声で何言ってるのか分からないよ」
ちょっと怒ったようなアカシアの声。仲が悪いようだ。
「嘘ついた人探す? 見つけてやっつけるよ。ナガセの邪魔はさせないから」
人狼ゲームを始めて、完全に疑心暗鬼の渦中に陥るのは避けたい。俺はアカシアの背中に置いた手で、頭をクシャクシャっと撫でた。
「何もするな。いいんだ。ただそれが嘘だって分かってくれればいい。お前も今までの会話はなかった事にしてくれ。いいな? 帰っても余計な真似をするなよ」
「うん……? え……あ……うん。わかった」
アカシアは戸惑ったようにいいよどんだが、すぐに頷き返す気配がした。
俺の視線は、ジンチクの死骸に吸い寄せられたままだ。汚らしいくすんだ肌色、溢れる赤い血、そしてどこからか集まってきた蝿の一群を見つめる。悍ましいはずなのに、不思議と落ち着く。
誰かが囁いた。
『あら大変。一大事だわぁ』
『ボウズ。やることは分かってるな?』
『これ逃したら、取り返しつかなくなるよ』
これも幻聴なんだろ? 分かっている。だけど裏切りは現実で起きている。どういうことだ。頭に靄がかかって、上手く物事を考えられない。だけど分かり切った事はある。
『ナガセ……もうあんなのはごめんだろう?』
「そうだ。もう二度とあんなのはごめんだ」
「うん? ナガセ。何か言った?」
俺の膝の上で、アカシアが身動ぎする。まるで日向ぼっこで微睡む猫が、あくびをするようだった。膝元で愛おしい仕草をする普通の女性がいるにもかかわらず、俺の視線は負の瘴気を放つ肉塊に釘付けになっていた。
ああすれば、終わらせられる。一人を傷つければ、皆が助かるんだ。
「今日の訓練はこれまでとする。ヘイヴンに帰還するか」
アカシアはびくりと身体を跳ねさせると、聞き直すように俺の顔を覗き込んできた。
「はぇ? サー。もう一度お願い」
どうしてだろう。俺はにっこりと柔らかく笑えた。心の底から。そして優しくアカシアの頬をひと撫ですると、立つように促した。
「帰ろうか。今日の訓練は終わりだ」
「あ……ぇ? うん。イエッサー。了解しました」
アカシアは一瞬戸惑いの表情を浮かべたが、急いで立ち上がってしまった敬礼をした。そして装備の点検をして、落とし物がないか確認し始める。俺も倒木から腰を上げて、尻にこびり付いた苔を払い落とす。そしてデバイスで帰路を確認した。
アカシアはそんな俺を横目に見ながら、小さくぼやいた。
「珍しいね……ヘイヴンに戻るまで訓練は終わりとか言わないのに……ま、いっか。優しいし」
その通りだ。帰るまでが訓練だ。だがもう実戦が始まっている。優先順位が違うんだ。
スパイを狩り出さねば。




