萌芽‐5
ドームポリスの畑では、女たちがキャリアの帰りを待ち受けていた。サクラがキャリアを畑の脇に停めると、寄って来て車体にべたべた触り、中を覗き込んだりする。そしてしとめた鹿を見て歓声を上げた。
俺は銃座に誰も触れないよう、サクラに見張るよう言いつけてから、荷台から小鹿だけを降ろした。そして小鹿から麻酔弾を引き抜き、首に農作業に使うロープを巻き付けると手短な杭に括り付けた。
女の何人かは、小鹿に興味を移したようだ。眠りこけて、腹を僅かに上下させる動物に寄り集まる。そして頬をつついたり、腹を撫でましたりし始めた。
「ナガセ。これどうするの? 食べないの?」
ドームポリスから出てきたプロテアが小鹿を指さす。俺は適当なバケツに、草刈りでできた枯草を放り込み、小鹿の目の前に置いた。
「食べるけどもっと太ってからだな。今日からこいつを育てろ。死なせたら駄目だぞ」
「へ? なんで。そんな手間かけずに殺せばいいじゃん」
プロテアは意味が分からないように真顔で聞き返して来た。そうだろう。お前らにとって、鹿とは歩く肉だからな。殺してただの肉ににしなければ、食うことはできないからな。
「可愛いもんだぞ。撫でてみたらどうだ?」
俺はそれだけ言うと、キャリアに戻った。俺と入れ替わるようにして、キャリアに興味を失った女たちが、ぞろぞろと小鹿の方に集まっていく。そして思い思いにその身体を触り始めた。
「あったけぇ~」「毛皮ふわふわだぁ」「しっぽ見てよ。ピコピコしてる」
サクラも小鹿が気になって仕方がないようだ。彼女はしっかりと銃座を見張りながら、そわそわと小鹿を気にしていた。
「サクラいいぞ。良くやってくれた」
俺は運転席に乗り込むと、銃座からキャリア内に飛び出しているサクラの足を叩いた。サクラはするりと銃座から降り、俺に一礼すると他の女に混じって小鹿に触り始めた。
俺は背後からの和気あいあいとした声を聞き流して、キャリアをドームポリス内のコンテナに戻した。機関銃とロケットランチャーをキャスター付きの台に乗せ、武器コンテナに戻しに行く。俺がキャリアのコンテナから出ると、アジリアが小鹿のいる方から歩いてきた。彼女は酷く困惑した表情で、俺と小鹿を交互に見る。やがて頭を掻き乱すと、小鹿を指さしながら言った。
「どういうつもりだ……? いまそんな余裕があるのか?」
「彼女たちには命の大切さについて学んでもらう」
俺はそれだけ言うと、アジリアを無視して武器コンテナに向かった。アジリアはスンと鼻を鳴らし、何かに気付いた。彼女はキャリアの荷台に走っていくと、その中を覗き込む。そして叩き付けるようにしてドアを閉めて、両手を怒りに握りしめた。
「お前……本っ当にサイテーだな……」
俺は足を止めてアジリアを振り返った。
「お前はまともな人間らしいな。子持ちを殺してはいけないことを知ってる」
「だから育てるのか!? お粗末な償いだな化け物! 次は何を教えてくれる!? 子持ちを殺しても平然とできるメンタルか!? そうやって……他の女も化け物にするつもりか!?」
アジリアはキャリアを思いっきり殴りつけ、威嚇するように吠えた。
「二度言わせるな。命の大切さについて学んでもらう。それだけだ」
アジリアの顔から表情が消えた。そして畏怖と嫌悪に顔をぐしゃぐしゃにすると、俺の脇をすり抜けて、小鹿の元に走ろうとした。逃がすつもりだろう。俺はアジリアの首根っこを掴むと、その場に引きとどめた。アジリアは必死で暴れて俺の手から逃れようとする。そして女たちの注意を集めようと大声を出した。
女たちは小鹿に夢中で気付いた風もない。俺は面倒になる前に手を打った。
「アイアンワンド。このコンテナを閉鎖」
『サー。イエッサー』
今まで上がっていたシャッターが閉まり、俺とアジリアがコンテナの暗闇に取り残された。すぐに中の照明が点灯する。その僅かな暗闇の合間に、俺はアジリアをコンテナの壁に押し付けて、身動きができないようにしていた。
「あいあんわんど! 開けろ! 今すぐ開けるんだ!」
アジリアが悲鳴を上げる。だがアイアンワンドはアジリアを無視した。追い詰められたアジリアは、擦れた悲鳴を上げながらも俺を睨んできた。俺はその視線を真正面から見つめ直し、鼻先がくっつきそうなほど顔を近づけた。
「お前も世話に加われ。サボったらお仕置きだ」
「私は嫌だぞ! 勝手にしろ! おい、ここから出せ!」
「お前は俺ばかり化け物と責めるが、公平に話を進めようじゃないか。さて、少し昔の話をしよう。俺がここに来る前、締め出した女は何と命乞いした?」
アジリアは絶望と悔恨に瞳の色を失った。そして気が狂ったように髪を振り乱し、俺から逃れようとした。俺は彼女を押さえる腕に、より力を込めた。
「サクラから聞いたぞ。皆で行って殺されるより、一人で行った方が安全だと。それで犠牲者を孤立させ、誰も助けられなくしたそうだな。ん?」
「貴様に関係あるかァ! 黙れェ!」
「他の女に飯を取りにいかせ、お山の大将は檻の中で見物か。いいご身分だ」
アジリアはそこで、馬鹿力を発揮した。俺を振り払い、思いっきり俺の頬を殴った。口の中が熱くなり、唇の端から血が垂れた。
「十回行く内、半分は私が行ったんだ! それ以上は無理だった! わたしは精一杯やった! 私のできうる限りをやった! 貴様のように力を持てあまし、命をもてあそぶような化け物と一緒にするな! さぞかしいい気分だろうな! 神様気取りで知識を与え、女たちが道具を使えるようになるのを見るのは!」
「俺はゴッドではない。レッド・ドラゴンだ。それに道具が使えるおかげで、女たちは助かった」
俺は親指で唇を拭い、血を吹き取った。
「それが何だ! 確かに生活は良くなった! だが女たちは変わっていく! 皆お前に似ていく! 皆お前についていく! 眉一つ動かさず化け物を撃ち殺し、子持ちを殺しても平然とするお前のような化け物に! 淡々と仕事をこなし、そのために死体を撒き散らかすようなお前に! そんな事は許さん! それぐらいなら――死体をばら撒くぐらいなら、己の無力の内に死んだ方がマシだ!」
アジリアはズボンに手を突っ込み、股の中を探った。そしてそこから拳銃を取り出すと、真っ直ぐ俺に向けた。
「出ていけ!」
俺は冷静に拳銃を見つめた。よくある九ミリ拳銃で、銃把に弾倉があるタイプだ。銃口は僅かに上を向いている。それはマガジンに実弾が装填してあり、重心が後ろの方にあるからだろう。安全装置は解除済み、射線から俺の額を狙っていることが分かる。
俺はアジリアに銃をむけられていなかったら、狂喜した事だろう。よくぞここまで成長したと。
「断る。俺はここにいる全員を、人類の元に送り届ける」
アジリアは親指でハンマーを起こした。
「なら、お前に学んだこと、ここで使わせてもらうぞ。これからも使わせてもらうぞ。お前のような化け物を殺すためにな!」
そして引き金を引こうとする。俺は足元に転がっていた、小鹿から抜いた麻酔弾を蹴った。
麻酔弾はコンテナに当たり、小さな音を立てる。経験の少ないアジリアは、それに過敏に反応した。音のした方向に拳銃を向ける。その隙を突いて、俺はアジリアに肉薄した。銃のスライドを動かせないように掴み、ハンマーに小指を挟む。そして彼女の体の外側に自分の身体を捻じ込んだ。これで撃たれる心配はない。空いた右手で彼女の首を打つ。アジリアは軽くむせてふらつく。彼女の判断力が鈍ったところで、拳銃をもぎ取る。そして彼女を関節を極めて地面に叩き付けた。
「おイタが過ぎるな」
俺は足で彼女の手首を踏みつけながら言った。アジリアは苦悶の表情を浮かべながら俺を睨み上げる。そして、魂を絞り上げるような声を出した。
「出ていけ! 頼むから出て行ってくれ! お前を殺せる頃には私はもう化け物だ! これ以上わたしを化け物にするな! もう一杯なんだ! たくさんなんだ!」
俺は溜息をついてかぶりを振った。そして、奪った拳銃に視線をやりながら聞いた。
「さっき機関銃を撃った時に、もっと……と思っただろ。もっと強く。もっとたくさん。そしてもっと早く。そう力を欲しただろ。だから人攻機に乗りたいと口にした。それがどうした?」
アジリアは泣き声をこぼすように話し始める。
「わたしは……お前をころしたい……だから使う。道具を使える様になろうとした。だけど――これは誰にでも使えてしまう! こんなもの使えたら! みんな殺し合う! 奪い合う! もう私には止められない!」
アジリアは人間の本質を知っているようだ。しかしこれ程の倫理感があるのなら、仲間を見捨て、弱ったものを切り捨てたことが、トラウマになっているはずだ。サイコパスには見えないし、きっと引きずっているだろう。俺はアジリアの手首に置いた足をどかした。アジリアは跳び起きると、すぐに俺から距離を取った。
「……その通りだ。俺はお前と同じことを危惧している。だが、それが人間なんだ。人間として生まれた以上、その力から逃れられないものだ。そして、それが存在する以上使わずにいられないし、作らずにいられないのだ。なら我々は何に重きを置くか、何を尊重すべきか、何を守るべきか、失って知るべきだ」
俺は拳銃のトリガーに指をかけると、アジリアに歩み寄っていく。アジリアはコンテナの壁を背に、恐怖に縮み上がった。俺はアジリアに拳銃を向けた。
「そして、恐怖から目を反らさず、脅威から逃げず、自制と自信を持って、強く生きていくべきだ。二度と失わないためにな」
ここはユートピア。取り返しのつかない過ちを経て作られた世界だ。過去のしがらみから解放されても、人間としての業からは逃れることはできない。そして二度と過ちを犯すことは許されないのだ。
俺は人類の罪科と、アジリアの無力、その両方に向けて言った。そのどちらに振り切ってもいけない。難しい事だ。
俺は銃を下ろしてマガジンを抜くと、薬室にある弾を排莢した。そして銃身を握ると、銃把をアジリアに向けた。
「携行を許す。お前は――あいつと違って俺を殺してくれるな?」
アジリアは狐に化かされたように、間の抜けた顔をして俺を見つめていた。そして俺の顔と拳銃との間で何度も視線を彷徨わせる。やがてゆっくりと拳銃を握りしめた。俺は空いた手にマガジンを預ける。
「あいつとは誰だ……サクラか……?」
アジリアはマガジンを持つ手を握りしめながら聞いた。だが俺はそれに答えるつもりはなかった。余計なことを口走ってしまった。だが自分を止めることが出来ない。さっきから喫煙室にいるみたいだ。安物の煙草の匂いが鼻から離れない。その幻覚が俺に正常な判断力を失わせていく。
俺は淡い期待を抱いている。こいつなら俺を殺してくれるかもしれない。あいつにできなかったことを、果たしてくれるかもしれない。俺の胸の内に欲求が渦巻く。このまま押し倒して、首を絞めたい。
だがまだだ。今のままでは殺してしまう。もっとアジリアが強くなり、俺の全てを否定できるようになるまで、待たなければならない。俺は辛うじて自制を聞かせた。
「アジリア。お前が自分の意思で、正義を貫くのは大いに結構だ。だが、今回は邪魔をするな。邪魔をするのであれば貴様を排除する」
俺はいつもの調子で淡々と言った。だがアジリアは俺の中で膨れ上がりつつある狂気に、気付いているようだった。俺に投げられた時より、俺に銃を向けられた時より、アジリアは恐怖を感じているようだ。四肢を戦慄かせながら、蛇に睨まれた蛙のように、俺の瞳から目を離せずにいた。
「返事をしろ」
俺は殺気を放ちながら、アジリアににじり寄った。アジリアはびくりと身体を震わせると、こくりと頷いて見せた。この涼しい時期に、彼女は汗にまみれていた。
「昔のことを引き合いに出して悪かった。アイアンワンド。コンテナを開けろ」
『サー。イエッサー』
コンテナが解放される。アジリアは俺から目を離さないまま、逃げるようにコンテナを出ようとした。
「アジリア。俺はミスを犯した。子持ちかどうか確認しなかった」
俺はそんな彼女に正直に話した。
「知るか……それで同じ痛みを分かち合おうと? きさまと罪悪感を共有するつもりはない」
アジリアはそういうと、ドームポリスの中へと駆けていった。
アジリアも恐らく悪夢を見るのだろう。閉じた扉の向こうで叩き殺され、生きたまま食い千切られる仲間の悲鳴を聞いているに違いない。だが一人で抱え込もうとしている。理解者が必要だ。だが俺は相応しくない。
そこで俺は恥の余り顔を手で覆った。
なんてことをしようとしたんだ。自分の胸中を満たした狂気的な欲求に、顔が嫌悪に歪んだ。俺はこのユートピアにいても、過去から逃れられずにいるようだ。
当然だ。今の自分を形作るのは、過去の行いだ。振り返ると、俺の歪んだ人生の記憶が思い起こされる。俺が俺である限り、その足跡は途絶えることはない。
存外。彼女たちに記憶が無いのは、そこに理由があるのかもしれない。
新しい世界で新しい人生をか。夢のような話が目の前にあるが、俺が御相伴にあずかることは無理のようだ。
「アイアンワンド。このコンテナを閉鎖。それと外部連絡。運転を教えるのはまた今度にする」
『サー。イエッサー』
俺は荷台から鹿を降ろすと、排水溝の近くまで運び解体を始めた。
*
その情景が浮かんだ時、私はすぐにこれが夢だと分かった。
見飽きた悪夢だ。
私がアジリアと呼ばれるようになる遥か前、月光の眩い夜の事だ。私は見張り台から、ドームポリスの入り口を見下ろしていた。
『たすけて! あけて! おねがい!』
悲鳴が聞こえる。いや、絶叫という表現が正しい。あの猿共――ナガセはマシラと呼んでいるが――は、なかなかその子を殺さなかった。その子の身体を使って、何かをしようとしているようだ。それが何なのかは分からないし知りたくもない。その子の身体を鷲掴みにして、ライフスキンを引き剥がすために爪を立てた。そして執拗にその子の股間を狙い、何かを探しているようだった。猿の巨躯と膂力に耐えられず、その子の身体は少しずつ千切れていった。肩の骨が外れ、腕がもげ、肌にはひっかき傷の大きな溝ができ、人の形を失っていった。
なぶりものだ。
私は何もできないまま見ている。見張り台からただ見ている。私の他の女も見ている。何もできないから見ている。
その女たちも倒れていく。眼から光を失い、肌を青白く変化させて、崩れ落ちていく。
延々とこれが続く。その子の声が小さくなっていく。早く終れ。私は心の中で祈る。
ふと、背後で気配がした。いつもの悪夢と違う。
私が振り返るより早く、気配は草原へと躍り出て、猿共に襲い掛かっていった。鋼鉄の巨人だ。それはあっという間に、手に持った銃で巨人を撃ち殺した。わっと女たちが歓声を上げる。
猿共の仲間が森から出て来る。だが巨人はそれをも撃ち殺した。
私は突如にして現れた、強大な力に震えた。
巨人は私を振り返る。そしてあいつの声で話しかけてきた。
「何故待てなかった? 俺が助けてやったのに。何故できない事をした? こうなることが分かっていたのに。返事をしろ。これは命令だ。お前より強い俺に従え」
「貴様には関係ない事だ――ここは私たちの砦だ! 貴様は帰れ! 元いた所に帰れ!」
私は怖かった。あいつの存在が怖かった。私の知らないことが次々と明るみに出る。そして私の無様さが際立っていく。
それでも私は正しい。あいつは危険で、私たちの変化も危険で、あいつの目指す場所も危険なのだ。それは確かなのだ。
「分かった。じゃあ帰ろう。達者で暮らせよ」
あいつはそう言い私に背を向けて、草原を内陸に向けて歩いていった。その後ろを女たちがぞろぞろと続いていく。女たちが巨人に乗り込み、あいつと同じ姿になって、草原を歩いていく。
私だけが残る。私があの子たちを見殺しにしたという事実だけを残し、間違った指導者というレッテルを貼り付けて。あいつの存在が私を罪人にし、間違いにする。
だが私は間違ってはいない。
「違う……連れて行くな……独りで帰れ!」
私は必死で追いかけた。草原を蹴り、大地を駆けて。だが追いつかない。追いつけない。巨人の立てる地響きがどんどん遠ざかっていく。私は泣きそうになった。
もっと早く。もっと強く。気付くと目の前に人攻機があった。そして手の中には駆動キィが。私は迷わず人攻機に搭乗し、駆動キィを差した。人攻機を駆って、あいつらに追いつく。
「遅かったね」
サクラの声がした。私は人攻機の集団の中に居た。あいつらと一緒になっていた。そしていつの間にか、周囲の空気が濁っている。空気が太陽を偏光し、七色に輝いて見えた。大地が赤茶け、気色の悪い植物が生い茂っている。
私は絶望した。そして、自分でも訳の分からない言葉を口走った。
「もう待てない! もしこの世界に私たちしかいないのであれば、人類なんて滅んでしまえ!」
私は跳び起きた。目の前には光るコンソールがあり、人攻機のセットアップの途中だった。どうやら作業中に寝てしまったらしい。
「あの糞ヤロー……」
思わず悪態が口をつく。おかげで最悪の目覚めだ。白の上下は汗でじっとりと濡れ、染みができている。肌には髪の毛とシャツが張り付き、酷く気持ちが悪い。私はシャツを脱いで上半身裸になった。そしてシャツをタオル代わりに汗を拭う。
シャツから何かが落ちて、地面を転がった。拳銃だ。私は慌てて拾い上げると、コンソールの上に置いた。
あいつは訳が分からない。よくこんな危ない物を、私に持たせる気になるものだ。もし私の気をそらす事が出来なかったら、あいつは死んでいた。それはあいつ自身も良く分かっているはずだ。
私は胸の前で服をくしゃくしゃに握りしめた。純粋に悔しい。まるで遊ばれているようだ。あいつは真摯な態度を装っているが、実際腹の内では楽しんでいるに違いない。
昼の小鹿もそうだ。命の大切さを教えるとか言っていたが、命の扱い方を教えるだけに違いない。飼い殺し、肥し、屠殺するだけだろう。
私はあいつを止めることができない自分に苛立ち、コンソールに視線を落とした。そして皮肉気な笑みを浮かべた。私も同じ穴の狢だ。それが余計に腹立つ。
「あいあんわんど」
私は今日はもう何もする気にはなれなくなり、あいあんわんどを呼んだ。
『マム。中断した作業の再開でしょうか?』
「いや。今日はもういい。それより例のコンテナの件について聞きたい。何故無視した?」
あいあんわんどを奪回できれば、これ以上道具を使わずに逆転できる。そしてあいあんわんどに道具の管理を任せれば、私たちは汚れずに済む。私はそう考え始めた。
『マム。サーの命令と両立不能からです。私はサーの命令を優先します』
「何故ナガセに従う? 私がお前を従わせるのに何が不可欠だ?」
『マム。アイアンワンドを使うものが、アイアンワンドのマスターです。今アイアンワンドはサーに使用されており、そのルールに則って行動しています』
「酷く曖昧な理由だな。私だってお前を使っている。私が知りたいのはナガセの絶対性の理由だ。何か特別な命令の仕方があるのか?」
『マム。理由は三つ挙げられます。一つ。サーは最上級アカウントを作成し、それ以外の命令をワンクラス下げたからです。一つ。アイアンワンドがサーに学ぶものがあるからです。一つ。マムは自殺願望をお持ちです。アイアンワンドはマムたちを生かす義務があります。よってマムの命令の優先度を自主的に下げています』
「お前も化け物になりたいのか……うんざりだ」
私は地面に唾を吐いた。アイアンワンドはしばらく黙り込んだ。おかしな表現だが、そう感じた。普段なら声が途絶えるとともに切れるスピーカーが、今回は低い雑音を響かせ続けたからだ。やがてアイアンワンドは言葉を続けた。
『マム。私は人になりたいのです。形だけでもいい。真似るだけでもいい。偶像でもいい。己の存在意義を果たすため、人になりたいのです』
訳の分からない事を言い出した。これ以上は時間の無駄だろう。あいつから知識をかすめるまでこの件は保留にしておこう。
そう言えばナガセも訳の分からない事を言っていたな。
「レッド・ドラゴンとは何だ?」
『検索――ヒット。レッド・ドラゴン。ヨハネの黙示録に登場する悪魔。黙示録の獣に、自らの権威が宿る鉄の杖を与え、人類を統治させる。神との最終戦争に敗れ、硫黄の海に投げ落とされる。旧約聖書に登場する背徳の赤い蛇としばし同一視される。この赤い蛇は最初の人類であるイヴをそそのかし、知恵の実を食べさせ、人類に知識を与えたとされる。神は言いつけを破り汚れたイヴを、夫アダムと共に楽園から追放した――以上』
私は呆れて頭を掻いた。
「あいあんわんど。それはおとぎ話か? ナガセは自分をおとぎ話の登場人物だと言っているのか?」
『マム。情報不足。回答不能』
「じゃあ、あいつはどこからか投げ落とされてきたと? お前はあいつが何処から来たか知っているのか? 正直に言え。お前は過去のことをどれ程まで知っている? お前は何を隠している」
『マム。私の過去のログは全て消去済みでございます。私は過去に何があったのか存じません。私が目覚めた時、私はサーのご質問を受けました。それが私の最初のログです。私には宗教から哲学、医学、化学、生物学、様々なライブラリがございます。しかし、歴史というカテゴライズされるべき概念のログはございません。何らかの理由で意図的に抹消されたものと思います。ですが、サーのご質問以前に残っているデータが一つございます。計画書です』
私は眉を潜めた。
「どんな計画だ?」
『続きはサーのいない時に致しましょう。申しておきますが、私はサーを信頼しております』
私はそれを聴いて、周囲を見渡した。すると倉庫の入り口に、廊下の非常灯を受けて影法師が伸びていた。私はぞっとした。
影法師が揺らめく。
「アイアンワンド。ライブラリから宗教のカテゴリのアクセスを制限しろ。貴重な資料だから消すな。彼女たちには自分で信じるものを決めてもらう。それと、後で指定する単語と、それがタグとして付随する資料を検索不能にしろ。ひとまず、レッド・ドラゴン。そして国際連合軍第666独立遊撃部隊だ。このログは裁判の証拠として保管しろ。人類と合流後、俺の行動が適正だったか審問を受ける」
『サー。イエッサー』
「お前のデータはほとんど確認したはずだが……計画とやらを閲覧したい。ドライバーでゴリゴリされるのと素直に話すのと、どっちがいい?」
『サー。二人で親睦を深めるという選択肢を提案します』
「今度ウイルスを御馳走してやる」
『サー。それはご勘弁を』
それから廊下から、コツコツと甲高い足音が響き、遠ざかっていった。