人功機に乗ろう! 実践編
リリィがやりたいのは、ただ走らせることではない。人間みたいにキリキリ走らせること、つまりフォーリンダッシュだ。
俺は深呼吸を一つして、気分を落ち着かせる。それから五月雨のフットペダルを軽く踏むと同時に、オートバランサーを切った。躯体は右足を半端に踏み出す。しかし軸足は、それによって失われたバランスを保とうとはせずに、慣性に引かれて前に倒れ込もうとした。俺は躯体のバランスが完全に失われ、前に倒れ込む直前で、オートバランサーを入れ直した。即座に五月雨は姿勢を持ち直すために、素早く振り出した足を接地した。
しかし躯体が前に進む勢いは衰えない。躯体の姿勢は相変わらず前傾のままで、慣性が前にかかった事もあり、五月雨は依然前に倒れようとしていた。オートバランサーは走っている今の姿勢を保つため、接地した右足を即座に軸足に替え、素早く左脚を振り出した。
五月雨は俺の要求に忠実に従い、位置エネルギーを利用したフォーリンダッシュを行った。
「これが初動だ。感覚を掴むんだ」
激しく揺れるコクピットの中、振動音に負けないように俺は大声で叫ぶ。リリィは身を縮めながらも、大声で「わかった」と返事をした。
俺はリリィのために、この初動を三回繰り返した。終わった頃には、俺の膝の上でリリィが、気持ち悪そうに頭を揺らしていた。手本の駆動による揺れに耐えられず、具合が悪くなったようだ。それでも気力はいささかも衰えを見せず、彼女は操作できる喜びに、笑みすら浮かべていた。
怪我をさせたら俺のせいだ。気張って面倒を見てやるか。
「じゃあ走らせてみろ。右ペダルを甘く踏みつつ、オートバランサーを切ると、躯体はバランスが維持できず前に倒れ込む。その時、躯体の転倒が急加速する前に、オートバランサーを入れ直すんだ。そして思いっきり駆動ペダルを踏み込め。一回入力に成功すれば、走行ペダルを離さない限り、オートバランサーを入れた時点の傾斜で走り続けてくれる」
俺は激励の意を込めて、リリィの頭を顎でトントンと優しく叩いた。
「一回でいい。一回でいいんだ。頑張れ。タイミングが合わない場合は、歩行ペダルを離してオートバランサーを入れろ。後は五月雨が勝手に制動してくれる」
リリィが生唾を嚥下する、決して大きくない音がコクピットに響き渡る。彼女は操縦桿をその手の中に包み込み、ブーツをフットペダルに擦らせて小さな音を立てた。
「いっくぞぉ……お願いするよ五月雨ちゃん……」
リリィが右ペダルを甘く踏み込む。五月雨は半端に足を振り出した。次いで左ペダルを前に倒し、躯体のオートバランサーを切る。躯体はバランスを失し、ゆっくりと前に倒れていく。
後はこの状態でオートバランサーを入れ直し、右ペダルを踏み込むだけである。
リリィはオートバランサーを入れ直したが――フットペダルを踏み込もうとはしなかった。
タイミングを失して、駆動を取りやめたのか? まぁオートバランサーを入れ直したのなら、振り出した右足を接地して、自動的にバランスを保ってくれる。しばらく様子を見るか。
五月雨は俺の予想通りに右足を大地に突き立てて、崩れたバランスを立て直した。
しかしこれからが問題だった。
「ヤッバなんか違ッ――」
リリィが悲鳴を上げた。どうやら彼女は、このまま走り出すとでも思っていたようだ。今になって、右ペダルを一気に踏み込む。五月雨は急な要求に忠実に従い、即座に走りはじめた。リリィは軽いパニックに陥り、髪を振り乱した。
「何!? 何で!? 何が!?」
「何も何でも何がもあるか! お前が走らせているんだぞ! 落ち着け! ひとまずペダルから足を離すんだ!」
リリィに見えているかどうかは知らんが、疾駆する五月雨のモニタには、ヘイヴンの外壁がどんどん迫ってくる。このままだと激突してしまう。しかし彼女の足が、一向にペダルから離れる気配がない。
俺はリリィの足に足払いをかけ、右ペダルから払い落とした――と同時に、躯体が身体をくの字に折り、姿勢が大きく崩れた。理由は分からないが、躯体の重心がずれたのだ。もうこうなったらバランスは取れない。
「何!? 何だ!? 何が!?」
右ペダルから足を離せば、人攻機は自動で減速するはずだ。急にバランスを崩すなんてことはあり得ない。一体何が――コンディションパネルを確認すると、画面の背景に透過文字で、『Auto Balancer Off』と表示されていた。
そりゃ姿勢を崩すわ。俺は得心すると同時に、全身の毛を逆立てた。
「何でオートバランサーを切る! このままだと倒れるだろ!」
「ごめ! 違うの! でも走らせないと!」
「躯体の重心がズレた! 立て直すのは無理だ! 一度五月雨を転ばせろ!」
転ばせるということは、安全に躯体を地面に倒すという意味だ。そこから復帰し、再度やり直せばいいのだ。しかしリリィは倒れるのを拒んだ。躯体が倒れまいと、くの字に折れた身体をまっすぐに伸ばし、その場で踏ん張った。コクピットはまるで鳩の首のように激しく上下に揺さぶられ、俺とリリィは繰り返し内壁に叩き付けられた。
「馬鹿野郎! 急にオートバランサーを入れるな! 切ったままでいいんだ! 反動が生まれるだろ!」
「でも倒れ――」
三度、躯体が激しく揺れた。あれだけ姿勢を崩していたんだ。人攻機があの姿勢から、バランスを補正できるはずがない。立て直そうと踏ん張った反動で、再び姿勢が崩れる。その姿勢を立て直す反動で、また姿勢が崩れる。オートバランサーが達成できない要求で、躯体を振り回すのだ。
人攻機の暴走だ! これを治めるには反動が完全に死ぬまで人攻機に踊らせるか、無理やり躯体を倒させるしかない。選ぶならもちろん後者だ。躍らせ続けると、大半のケースでパイロットが、繰り返し内壁に叩き付けられて、挽肉になってしまう。
「これ以上の駆動は暴走の引き金に――いやもうなってる! 待て貴様! それは緊急機動――!」
リリィの奴、何を考えたのかは知らんが、緊急機動を実行した。もうここまで来ると、俺は五月雨がどのような姿勢で、どんな動きをしているのか分からなくなった。ただ今までで、一番大きな衝撃が、俺たち二人を引き裂くように、コクピットを駆け抜けていった。
俺は顎をリリィの頭にカチあげられ、後頭部をシートに強打した。口の中にじんわりと鉄の味が滲み、胃からは不快感と共に、今朝食べたサンドイッチが込み上げてくる。悪寒が背筋を駆け抜けて、胃から内容物が逆流した。俺はきつく口元を引き締めて、吐くことを何とか堪えた。
まぁ俺の体は二の次だ。大事なのは膝の上に座った、駄目な教え子の方だ。
「リリィ! 大丈夫か!?」
顎で何度も、リリィの頭を叩く。彼女はメトロノームのように、左右交互に首を振っていた。
「ヴォエ!」
俺の膝の上で、遂にリリィが限界を迎えた。俺は溜息をつくと、座席に身体を投げ出して、スロットルをミリタリーからオフに入れた。
リリィはヘルメットの中にゲロを吐き続け、それが終わると激しくえずいて、喉に残ったカスを、咳で取り出そうと躍起になっていた。リリィは全てを吐き終えると、肩で息をして呼吸を整え始める。やがて落ち着きを取り戻すと、がっくりと頭を垂れて、ポツリと呟いた。
「ナガセ……私のこと殺す?」
「殺さん。すまないがちょっと血反吐はいてくる。俺の上から退け。お前もアイリスの所に行って、診てもらえ」
リリィは覚束ない手つきで、シートベルトを取り外す。そして五月雨のコクピットハッチを解放すると、肩の間に首を埋めてすごすごと歩き去っていった。
俺もその後を追って飛び降りると、背後を振り返り五月雨の状態を確認した。
五月雨は両の手を大きく広げ、仰向けにひっくり返り、両足を交差させて倒れていた。しかもプロテアが作ってくれた、雪のクッションの上にだ。これじゃあ復帰の支点を得られず、自力で立たせるのは難しいだろう。回収の部隊を出さなくては。
それにしても、一体何をどうしたらこうなることやら。人攻機の足が交差し、両手が広がっているのは、転倒時にオートバランサーが切れていたからだ。しかしオートバランサーが効いていたから、人攻機が暴走したはずだ。一体フットペダルをどのように弄ったのか全く分からん。後で機動ログを洗ってみるか。
それでも分かった事もある。前傾姿勢をさせていたはずの五月雨が、仰向けにひっくり返っているのは、重心取りとバランス取りが、致命的にヘタクソだということだ。
冷静に分析する内に、不快感がまた込み上げてきた。今度は堪えられそうにもない。俺は小走りでヘイヴンの壁に走り寄ると、そこに手をついて激しく嘔吐した。血と吐しゃ物の混合物が、ヘイヴンの白い壁を滑っていき、雪に滴って吸い込まれた。
「人攻機埋没! 繰り返す! 人攻機埋没! 待機部隊は即座に復帰作業に当たれ!」
遠くから、拡声器を通したプロテアの声が響いてくる。間をおかず、控えていたらしい人員が、外に展開する物音がする。大地の震動から補足できるのは、人攻機が二躯とブルドーザーが一機だろう。ブルドーザーで雪を取り除きつつ足場を固め、人攻機で擱座した五月雨を回収する段取りだろう。俺は指示を出した覚えはないので、トップを任せている三人娘の内、誰かの命令だろうな。
「成長したな……」
後の始末はプロテアに任せることにしよう。俺はリリィのことが気になって、倉庫の医務室へと向かった。
倉庫の医務室は、アイリスが寝食し職務を行う、彼女の城だった。思えばヘイヴンをロータスから取り戻してから、彼女はここに引きこもるようになった気がする。最近顔を合わせていない。
医務室は中心から四つに区切られており、それぞれが診療室、手術室、資料室、そして薬品室になっている。その診察室で、リリィがアイリスと向き合っていた。アイリスは大きなデスクを背に椅子に座り、向かいの安楽椅子で楽にするリリィに問診をしていた。彼女は質問を終えると、リリィの目の前でペンシルライトをふったり、軽い触診をおこなっていた。それが終わるとアイリスは「異常ナシ」と呟き、戸口に佇む俺に、感情の籠らない眼を向けた。
「リリィに何をやらせているんですか?」
冷たい――木枯らしのような声が耳朶を打った。リリィがやや気まずそうに身動ぎした。
「人攻機の習熟を手伝っていた」
「そろそろ懲りたらどうですか? 私が車を運転できないように、リリィは人攻機に向いていないんですよ。あなた以前言ってましたよね。出来ないことをしようとするのは、横暴だと。これは違うとでも?」
責めるような口調に、俺は腰に手を当てて態度を硬化させた。
「責任は取っている。そして無理強いはしていない。何か問題が?」
「いえ……あなたがそう仰るのなら、そうなんでしょうね……怪我をしていないのでしたら、出ていっていただけますか? ここは治療の場です」
「リリィに問題はないか?」
「今のところは問題ありません。さぁ」
アイリスは出口をペンで指さすと、俺に顔を背ける。そしてデスクのカルテに視線を落とした。あまり俺と話をしたくないようだ。それもそうか。ロータスにあんな仕打ちをしたうえで、アイリスの神聖な場所であるここから引きずり出したんだ。嫌悪感もわくか。
「邪魔したな。リリィ。その気があれば明日も待っているから来い」
俺の声は、気落ちしてやや暗くなった。
「あ……ごめん。すぐ行くよ」
医務室を出る俺に反応して、リリィが安楽椅子から身を起こした。しかしすかさずアイリスが、リリィの胸をどついて、背もたれへと押し倒した。
「あなたは怪我人。残りなさい」
「でも――」
「マタ怪我スルダローガボケ! ホットイテヤスンデロ!」
俺がぴしゃりとドアを閉めても、アイリスの罵声は止むことはなかった。声はリリィに向けられたものだが、内容はどちらかというと、俺を責め立てているように思えた。
俺は追い立てられるように、ヘイヴンの外に出る。吐く息が白く濁り、吹雪に混じって虚に溶けていく。風の勢いが増してきたし、視界も悪くなってきた。リリィの体調もかんばしくない。今日はこの辺にしておいたほうがいいだろう。
擱座した五月雨を、回収するのを手伝うか。回収部隊を確認すると、ブルドーザー一機に段平が二躯だ。段平はペイロードを取り外して、軽量化がしてあった。予想される仕事に合わせた、素晴らしい編成だ。しかし回収の手際は悪く、彼女たちは雪山に埋もれた五月雨を、支える足場を見つけ出すことができずに、その周囲でうろうろしている最中だった。
俺はまずブルドーザーへと駆け寄り、履帯を駆け上って、運転席のドアに取り付いた。中ではプロテアが無線機を手に、段平に指示を送っている最中だ。作業に熱中していて、こちらに気付いた様子もない。
窓ガラスを叩いて、プロテアの注意を引く。彼女はすぐに俺に気付き、邪魔そうに眉間にしわを寄せた。彼女はウィンドウを開けて、俺に追い払う仕草をした。
「お前ゲロと血反吐ぶちまけていただろ? 休んでいろよ」
「自分のケツぐらい拭く。それにお前らにも手本を示さんとな。どこに支点を置けばいいのか分からんのだろ?」
プロテアは少しムッとして、苛立ちに目を細めた。
「今音響センサで足場を探らせてるよ。だまぁッて見てろ。俺たちで何とかすっから」
「探らせんでも、ブルドーザーで雪をかけばいいだろ。それから雪かきした場所の足場が、固まっているか、音響センサで調べるんだ」
俺はプロテアの手から無線機を奪い取ると、弾平に一旦どくように指示を出す。それからプロテアに、ブルドーザーで除雪する場所をてきぱきと伝えて、彼女の胸元に無線機を押し付けた。
プロテアはしばらく、呆然と手元に無線機を抱えていた。だが不機嫌そうに鼻を鳴らすと、無線機を叩き付けるようにして、ダッシュボードに戻した。
「なァ。たまにはやりたいようにやらせてくれよ」
「そういう台詞は一人前になってからだな」
「ケッ。良く言うぜ。どうせ人類に会うまで半人前扱いなんだろ?」
プロテアはむくれて唇を尖らせながら、ハンドルを軽く手のひらで叩く。そして縁のくっきりとした精悍な眼つきを、猜疑心に鈍く細らせた。
彼女はこう思っているのかもしれない。アジリアだったら、手出しはされない。アカシアだったら、もっと優しく接している。俺は平静を装ったが、内心狼狽えた。やっぱり俺の対応は、どこかがマズいらしい。
プロテアに運転席を譲るよう、優しく肩を助手席の方に押した。
「いいや。俺をぎゃふんと言わせたら一人前だ。助手席に移れ。俺がやろう」
「うるせぇー。これ以上俺の仕事をとるな。ホレ。邪魔だからとっとと降りて休みな」
プロテアはやんわりと、肩に置かれた俺の手を振り払う。そして俺の胸を軽く突き飛ばし、ブルドーザーのドアから離れさせようとした。
これ以上は、無理強いしない方が良い――のかな? 俺はドア脇の手すりから手を離すと、プロテアに礼を言ってからブルドーザーから飛び降りた。
「苦労をかけるな……」
小声で呟いたが、プロテアの耳に届いたらしい。
「お前にほどじゃあねぇよ……」
愚痴っぽく、それでいてホッとした声が、耳朶を打った。俺は何とも言えない気分になり、足早にヘイヴンへと戻った。
人攻機が出入りする倉庫シャッターの脇には、人間用の小さな通用口がある。俺はそこの壁に寄りかかると、ぼんやりとプロテアたちの作業を見守った。プロテアは俺の指示通りに、人攻機回収の足掛かりとなる、整地を始めた。除雪を終えて足場ができると、そこに侵入する前に段平が出来たばかりの平地の脇に立った。どうやら音響センサで安全性を確かめているようだ。
しかし段平はそのまま棒立ちになり、動く気配はない。足場固めが不十分なのかと勘繰ったが、地ならしをする役目のブルドーザーも微動だにしない。
不思議に思っていると、不意に胸元に差し込んだ作業用デバイスが、通信を受けて軽く震えた。俺はチョーカーの通話ボタンを押した。
「俺だ」
『あっ、ナガセ? 今ダンビラに乗ってるサンだけど……今から音響センサの情報を送るからさ、足場が安全か確認してくれるかなぁ? プロテアは行けるって言ってるけど、ちょっと不安でさ』
俺は頷きかけて、慌てて首を振った。自主性を損ねるようなことはしては、プロテアがさらに機嫌を損ねる。それに現場の指揮官はプロテアだ。指揮系統の乱れを俺が生んでどうする。
「プロテアがリーダーだ。彼女に従え。嫌なら直接逆らえ」
素っ気なく言うと、サンは軽い悲鳴を上げた。
『え……えぇ……プロテアはいけるの一点張りだよ。それで駄目だったらどうするの? こけて怪我するの嫌だし。躯体に傷つけると、私がサクラに文句を言われるんだよ』
「俺の関知することではない。さっさとこの無駄な会話を終わらせて、プロテアに連絡を入れろ」
『わかったよ……もう――』
大きなため息とともに、通信が切られた。
ひょっとしてこれは、やらかしてしまったのではないだろうか。段平がのそのそと駆動を始める。結局、プロテアに意見を具申することはなかったようである。これでは困るな。俺がいない時、お前は一体誰を頼るつもりでいるんだか。
段平の動きは躊躇いと不安が目に見えるほど不安定なもので、作業をさせるにはあまりにも拙かった。
今の判断は兵士として正しいが、人として正しいかと問われると――一考の余地が残るところだ。俺は悪態をつきながら、リダイアルボタンを押した。
『はぁいこちらサン。なぁに? 今覚悟を決めてるから、後にしてくれないかな?』
少しつっけんどんな、サンの声がする。俺は親指の爪を食みながら、頭を悩ませて出来うる限り優しい言葉を探した。
「あー……何故プロテアを信用できない」
『何でって……初めての作業だし、だからナガセが途中から指揮してたんでしょ? 引継ぎのプロテアがナガセのような仕事できる分けないじゃない。だから怖いんだ』
「積雪の下はアイスバーンになっているし、除雪した場所に人攻機が倒れたわけでもない。俺が保証する。大丈夫だ。プロテアに従ってくれ」
『うん。分かった。ならいいんだ。ごめんね。手間かけて』
「別に手間という訳では――」
チョーカーが再び振動して、着信を知らせる。今度は俺が通話ボタンを押す間もなく、回線に第三者が割り込んできた。
『おい。何ナガセとくっちゃべってんだよ。大丈夫だから早く終わらせてくれよ。さみーんだここ』
プロテアだ。彼女は少し苛立っているらしく、声色はやや刺々しいものがあった。
『あ。うん。ごめんね。今動くから』
サンは先程とは打って変わって、鼻歌交じりにそう言った。彼女は一足先に通信を切った。後には気まずく黙り込む俺と、無言で圧力をかけてくるプロテアが残された。
どうしたものか。まさか馬鹿正直に、「お前がアテにならないから俺に連絡をくれた」とはいえない。さっきも信じる信じないで、不自然なやり取りをしたばかりだ。だが体の良い言い訳も、そう頭に浮かんでこない。
しばらく沈黙が続く。やがてデバイスから、プロテアが身動ぎする音がした。
『世間話って訳じゃァ……ねぇよな?』
駄目だ。誤魔化せない。ひとまず俺から連絡したことにして、指揮系統の乱れを防ぐか。
「すまん。俺が茶々を入れたんだ」
ピキリと、機械が軋む音がした。プロテアが無線機を強く握りしめているのだろうか。彼女は言葉にせずともわかる失望を、息に乗せて吐き出す。それから感情が失せた事で、妙に穏やかになった声がした。
『そんなに俺が信用できないのか……まぁ別にいいけどよ。お前はそういう奴だからなッ!』
アッ!? 何故キレた!? 訳がわから――さては俺がプロテアを信頼せず、サンに横やりを入れたと思われたのか!? メンドクサイアホだな畜生が! 何でこう拗れた。いかん。頭が痛くなってきた。
俺は再びリダイアルボタンを押した。
「プロテア? 話がある」
『んだよ!? 今俺は忙しいんだよ!』
「俺は横から指図した訳ではない。ただ――」
ブツリと、一方的に通信が切られた。
「クソアマ……」
俺は力任せにヘイヴンの外壁を殴りつけた。それから小走りにブルドーザーの元まで走っていった。
三十分後、俺はへとへとになって、元いたヘイヴンの通用口まで戻って来た。プロテアはおだてやなだめが通用しない女だ。だから根気よく、話し続けなければならなかった。俺からサンに連絡を入れて、ただの世間話だったと信じ込ませるのにかなり骨を折った。おかげで口の中がカラカラだ。俺は無造作にそこら辺の雪を引っ掴むと、口に押し込んで貪った。
疲れた……本当に疲れた……。
俺は24時間を超えてデスクワークができるし、三日間ぶっ続けで戦闘を敢行できる。しかしこれは、使う神経の質が違う。解体作業員に、ケーキのデコレーションをやらせるようなものだ。
いかに俺が、彼女たちのケアから逃げてきたか思い知らされる。パンジーが弱いと怒る訳だ。しかしこんなのが毎日続くのは、あまりいい傾向ではない。意見を聞き、精査するために判断が遅れる。そして彼女らの意見など、現実的には子供の駄々に等しいものだ。
『今更善人ぶってどうなる? お前の性に合わん。今まで通りでいいじゃないか』
耳元でアロウズが囁いた。そうだ。疑いを忠誠で塗りつぶし、反意という選択を奪い、つまらぬ夢を破壊する。それだけでずっと、ずっと良くなる。我々は現実的な未来へと進める。だけどそれでは、ユートピアに行けないんだ。
「ここで過去を引き合いに出してどうする。もうそんなものどこにもないんだ」
俺はめいいっぱいの殺意と憎しみを込めて、そう唸った。
『フフフ……だが私はここにいる。私が見えるか……? 私の姿が――』
彼女は白い外見に反し、黒を夫のように好んだ。真っ赤に泣きはらした目、トリガーから指が離れた拳銃、そして大きく膨れた――腹――。
「見えない……見えない……」
必死で嘘をつく。自分を否定する。それは俺ではないと。しかし自分を否定すると、赤い竜しか残らない。
アロウズは全てを見透かしていた。
『私はここにいる。お前が辿り着くその時まで、ずっと……ずっと……「私たち」はお前を待っている』
「もう過去だ。終わった」
『いや。まだ終わっていない。お前の罪が、私を蘇らせる。お前への罰が、繰り返させる。赦されるその時まで』
ふと、俺はクロウラーズのことを想った。拙く歩み、泥に汚れ、草木を薫らせる、彼女たちを。
愛おしかった。守りたかった。触れたかった。
だけど彼女たちに近寄れば近寄るほど、彼女が育てば育つほど、期待と共に憎悪が募る。
だからその前に、赦して欲しいのだ――。
にわかに早鐘を打つ心臓に、俺は胸元を握りしめた。
負けるわけにはいかない。負けるわけにはいかない――のだが……。
俺の背後でゴム底が、コンクリートを擦る音がした。足音からは体重と、その歩幅が推測できる。かなり体重は軽く、歩幅は小さい。まるで子供のようだ。
「苦しそうだったけど大丈夫? やっぱぶつけたんでしょ? アイリスに診てもらったら?」
リリィだ。彼女は心配そうに、俺に声をかけてきた。
頼むから少し休ませてくれ。そろそろストレスで血便が出そうだ。
「いや。大丈夫だ。ちょっと他の娘と折り合いが悪くてな。へこんでいただけだ」
俺はリリィを振り返らぬまま、ヘイヴンの外壁に身体を預けてぼやいた。気疲れと、リリィを直視することの恐ろしさから、視線は五月雨を回収するプロテアたちの方へ向いた。
リリィはそのまま立ち去らずに、俺の隣にそっと壁に寄りかかる。そしてまるで独りごとのように呟いた。
「みんなああいう風に言うから、私もムカつくんだ」
「すまん。結構時間が空いたから、何のことを言ってるか分からん」
視線の先では足場の整地を終えて、段平が両脇から五月雨を抱え上げたところだった。段平はゆっくりと五月雨の四肢を折り畳み、大地に尻をつけて正座をする、降着姿勢をとらせた。
「どうせ怪我するんだからやめとけよーって……アイリスがいってたじゃん。余計なお世話だ」
「分からんでもない。だが出来もしないことを、出来ると粋がるのも寒いものだ」
「お……おまえ……」と、リリィが怒りに声を震わせる。しかし咳払いを一つ、滾る感情を吹き飛ばした。
「だから手伝ってくれるんだよね……? 今日のでもう駄目とか……言わないよね……」
「明日は座学をしよう。理解を深めれば、それを動作に生かせる。それでいいか?」
「……うん……そうだね……一歩ずつ」
心地よい沈黙の中、俺たちの間を風に揺られる粉雪が舞っていった。




