クロウラーズは電気柳の下で幽霊を見るか? 全滅
どのくらい暗闇の中を逃げ回っただろうか。気が付くと私は、薄暗い廊下の壁にもたれかかり、荒い息を整えていた。全身を冷や汗がびっしりと覆っていたが、身体は水に沈められたように冷え切っていた。この真夏の熱帯夜に、私は無様に震えていたのだった。
数分の時を経て、呼吸を整え一息をついた。ここで私はようやく、自分の置かれている状況を知ることとなった。
「あちゃ~……はぐれちゃった……」
蜘蛛から逃げるために無我夢中で走ったので、自分がどこにいるのかすら分からない。私は手掛かりを求めて、視線を周囲に巡らせた。しかし光源は床近くに設置された、避難誘導灯の淡い光だけだ。見通しが悪いのも手伝って、目星になりそうなものは目に入ってこなかった。
私は一寸先すら見えない闇に囲まれて、独りヘイヴンの廊下に佇むしかなかった。
懐中電灯は恐らく、偽アイリスの所に落としちゃったんだと……思う。それすら良く分かってないのだから、恥ずべき醜態だわ。
「とにかくみんなと合流しないと……でもどこから来たかすら分からないし」
何も見えない無音の中で、独りぼっちでいると心細くなってきた。周囲の暗がりから化け物が、飛びかかって来そうな気がして気持ちが落ち着かない。一刻も早く明るいか、人気のある場所に出ないといけない。壁に手を当てながら、安息の場を求めて脚を引きずった。
ひとまず誘導灯を避難経路とは逆に辿っていくことにしよう。こうすればいずれ私達が拠点にしている、ヘイヴンの中枢に辿り着くだろう。
「う……ナガセ……ナガセ……」
無意識のうちに、口があの人の名を連呼する。呟くだけで安堵感が増し、勇気が湧き出てくるのだから素晴らしい事である。やっぱりナガセは私にはなくてはならない方なんだと、無力な自分を実感するたびに思うのだった。
今頃あの人は、アカシアと訓練をしているのだろう。口の中に、苦々しいものが広がっていく。
「アカシアと何をしているのかしら……面白くない……そもそもパンジーの馬鹿が職場放棄しなければ、アカシアとナガセが二人きりになることも無かったのよ……」
ぶつぶつと愚痴りながら行く先に現れた角を、誘導案内に従って曲がった。瞬間、視界が白く染まり、私はあまりの眩しさに怯んだ。どうやら懐中電灯の光を、顔に直接当てられているらしい。私は手でひさしを作り目を守ると、光が差す方をねめつけた。
「誰!?」
私のヒステリックな悲鳴が廊下に反響する。突き刺すような眩さの向こう側で、金の長髪の女性が佇んでいるのが見えた。私はホルスターに手をかけると、ドスの効いた声で繰り返した。
「誰なの? 答えなさい!」
光の方から、息を飲む音がした。やがて懐中電灯の光が、床に向けて下げられる。そしてリノリウムで跳ね返った光が、懐中電灯の持ち主を暗闇の中からライトアップした。輝く金糸を空に遊ばせ、猫のように吊り上がった目を、懐疑で歪ませた女――
「私だ。アジリアだ……」
彼女は不機嫌そうに鼻を鳴らすと、警戒するように私から一歩遠のいた。どうやら私が偽物だと疑っているようだった。幸いこうなった時の対処法は、既に決めてある。
「バイオプラントのパーツ……」
落ち着いたというよりは、冷徹さで冷めた声色で聞いた。アジリアはやや警戒心を和らげると、口の端をニヒルに歪めながら答えた。
「抵抗値が違う」
さっきまではこのやり取りで本物と認めただろう。しかし偽アイリスとのやり取りが引っかかった。偽アイリスは現場にいなかったのに、どうして私がアジリアと交わした合言葉を知っていたのだろうか。二つの幽霊との遭遇場所は結構離れているし、私はマリアの後をすぐに追いかけていった。いくらアジリアが間抜けとは言え、幽霊を少しも拘束できないことはないだろう。それにプロテアがいないのも気になる。念には念を押して、質問を重ねることにした。
「三回目の調査で私があなたに言ったこと」
アジリアは一瞬、驚いたように唇を窄めた。しかし彼女にも思うところがあるのか、口応えをしなかった。
「杜撰な仕事をするから、こういった揉め事が怒るのよキィィィ」
「キィィィは言ってない……」
アジリアは肩の力を抜くと、私の元へと駆け寄ってきた。
「どうやら本物のようだな」
「次妙な脚色したら、その頭吹き飛ばすからね。あなたプロテアはどうしたのよ」
「気絶したので保管庫に後送した。引き返したところ、廊下を走り回る音がしたのでな。現場に向かったらお前と出会った次第だ。抜け目ないお前のことだ。幽霊を追いかけていたのだろ? どこだ?」
私は嘲笑われたと思い、アジリアをきつく睨み返した。しかしアジリアは私に蔑みの視線をくれもせずに、真剣な顔つきで辺りの闇に注意を払っていた。やがて彼女は私の刺すような目線に気が付くと、眉間に深いしわを寄せた。
「見つけて……追い回してたん……だろ……?」
アジリアは諸手を広げて、この近くに幽霊が潜んでいるのだろうと訴える。私は耐え難いほどの羞恥の炎に焼かれて、全身が赤く染まっていくのを感じた。ムキになって否定したいが、マリアの誤魔化しが誤解となって、くだらない争いになったのが分かったばかりだ。私はふいっとそっぽを向くと、小声でぼやいた。
「私が逃げたのよ……バカにするなら……しなさいよ」
アジリアは唖然として、あんぐりと馬鹿みたいに大口を開けた。
「あぁー……ナガセにでも化けて出たか?」
それならどれだけよかった事か。私は力なく首を振った。
「蜘蛛よ……」
「そ……そうか……状況が分からんが、私も蛇で同じことをされたら、逃げたかもしれんな……」
アジリアの慰めを最後に、ぷっつりと会話は途絶えてしまった。アジリアは私のプライドを刺激して、奮い立たせようとしたのかもしれない。ただ単に同情したのかもしれない。いずれにしろ屈辱的だが、今の私にはそれに反応する気力すら残っていなかった。
蒸し暑い夜の中、私とアジリアは久しぶりに、二人きりの時間を過ごすことになった。気色の悪い生ぬるさを帯びた静けさの中、互いの呼吸音だけがやけに大きく聞こえた。それは居た堪れなくなるほどの暗闇の恐怖を、くつろぐことができるほどに和らげてくれたのだった。
あんたのことは嫌いだけどさ、こういう時にやっぱり仲間だと思わせてくれるのよねぇ。
「バイオプラントのパーツね。あれは私が間違えたんじゃない」
おもむろに発した私の言葉に、解けていたアジリアの緊張が一瞬にして息を吹き返した。
「私ではないぞ」
頑なな姿勢に、私は思わず吹き出してしまう。アジリアの眉間の皺がさらに深くなり、敵意が増したが知ったことか。今はこの感情を抑える事ができそうにない。私は手の平で顔を覆うと、盛大に笑い声をあげた。
「何が可笑しい?」
私の爆笑に欠片も嫌味が混じっていないことに気付いたのだろう。アジリアは普段のように嫌味を吐かず、むしろ興味深そうに身を乗り出してきた。可笑しいに決まってるじゃない。馬鹿げた理由で何カ月もの間、互いになじりあっていたんだから。もう笑うしかないじゃないのよ。
「バイオプラントのパーツね。あれマリアが壊しちゃったんだって。だから似た奴とすり替えたんだってさ」
アジリアは口角を引きつらせて、疲れた笑みを浮かべた。
「は? つまらん冗談はやめろ」
「マジよ」
「はぁ? ふざけるなよ! それだけの為にあんな嫌な思いをしたのか!?」
アジリアのやさぐれた笑みが、吹っ切れたものに取って代わる。ほらね。もう笑うしかないじゃない。私もまだ笑い足りないのよ。今までの鬱憤を吐き出すように、腹からの笑い声をあげた。しばらくの間、場違いな笑い声が夜のしじまを切り裂いた。
ひとしきり笑い終えた後、私は目尻に滲んだ涙を指先で拭った。溜め込んでいた物を全て出せたから、とってもすっきりしたわ。今なら優しく笑えそう。私は自然と朗らかな面持ちになって、アジリアへと顔を向けた。
「ごめんなさいね。ちょっと厭味ったらしく責めすぎたわ」
「全くその通りだ。性格のねじ曲がった嫌な奴め。お前の陰湿な嫌がらせには殺意が湧いたぞ」
アジリアが頬を歪めながらも、笑みを崩さぬまま言った。あなたが私の説教から逃げるから、こっちも汚い手を使わざるをえなかったのよ。自業自得ね。
「ありがとう。効き目があるってことね」
「反省していないなこの野郎」
アジリアはへそを曲げて、子供みたいにふくれっ面になった。しかしそれも束の間のことで、彼女は頬から空気を抜くと、気恥ずかしそうに頬をかいた。
「私も済まなかった。最近は独善が過ぎたと思う」
あなたの独善が過ぎるのは、今に始まったことじゃないと思うんだけど。ナガセがいらしたあの日から、自分が正しいと思い込んで刃向かってきたんだから。
「今さら気付いたの? おバカさん。あんたなんかより、ナガセの方が頼りになるんだから」
「今のところはな……」
アジリアはさっきまでの朗らかさが嘘のように、急に相貌を険しくした。そして見慣れた猜疑心に細る眼で、私のことを舐めまわしてくるのだった。
私の中で生まれたばかりの希望が、薄ら寒い幻想だと砕け散るのを感じた。
結局、根っこのところは何も変わらないのだ。私も。あなたも。
私はこれからもナガセについていくし、彼のために全て捧げるつもりだ。あなたはナガセと違う方向に進むだろうし、より多くの仲間を連れていきたいのだろう。なまじ分かりあえるから誤解してしまった。私と、あなたは違うのだ。利害の一致で手を取り合う事はあっても、その果てに同じ場所へと辿り着くことはないのだ。
私の態度が刺々しくなったのに、アジリアも察したのだろう。いつものように不機嫌そうに鼻を鳴らすと、ふてぶてしい仏頂面になった。
「今お前と揉めるつもりはない。ひとまず誤解が解けただけでも大きな収穫だ。ナガセは『今ここにある危機だと証明しろ』とほざいた。十分だ。後はナガセの協力を得よう。一度保管庫にもどるぞ」
アジリアは引き返そうと、自らが来た道を懐中電灯で照らした。その方角に保管庫があって、避難誘導灯が私の背中にあるということは――げぇ! ここはヘイヴンの南西の廊下だ。私のパトロール区域は東側だから――悲しいかな。幽霊から逃げ回って、真反対まで走ってきたことになる。
ああ~、我ながらなんと情けない。報告書にこんな汚点を書き残さないといけないのか。頭を抱えたくなるが、まだ汚名返上のチャンスはある。部屋に引きこもっている真犯人と、幽霊に拉致されたヒステリーを探し出さないと。
「その前に、マリアとアイリスを回収しないと――」
『入れ替わりましょう……あなたたちより……私の方が上手くやれるわ……』
まるで天使の呼び声のように、頭上から声が降りかかってきた。その声は同じ大きさで、廊下にまんべんなく響き渡る。ゆえに反響から声の主がどこにいるのか、見当をつけるのは難しそうだった。私とアジリアは反射的に、素早く背中を合わせになった。
『ククククク……ウフフフフフ……アハハハハハ……』
謎の哄笑が辺りに鳴り響く。私はホルスターに手を這わせて、親指で留め具を外した。超常現象が、立て続けに起こっているせいだろうか。頭の中が妙にぼんやりとして、まるで夢を見るような心もちで銃を構える。そのせいか私は、ボルトを摘まんだ時の冷たい感触、薬室に弾が送り込まれた鋭い音を耳にして、ようやく殺傷兵器を手にしているのだと自覚したのだった。
「お前のモーゼル。私達の銃と同じ弾使っていたか? 実弾じゃないよな?」
背中越しにアジリアが囁いた。うるさいわねぇ。私がナガセの言いつけ守らないとでも思ってんのか?
「残念ながらナガセのとは少し違うの。ナガセのは7.63ミリだけど、これは9ミリ。ちゃんと非殺傷弾を装填してあるわ」
「姿が見え次第ぶっ放せ。顔は狙うな。胴体にしろよ」
「私に命令しないでくれる? あんたにぶっ放すわよ」
『クククククク……アッハハハハ!』
声は相も変わらず、私達のことを嘲笑してくる。相手の出方が分からないので、下手に動かない方が良いのは分かっていた。私とアジリアは背中合わせのまま警戒を続ける。だが嘲笑はその選択があまりにも幼稚だと言いたげに、響き続けるのだった。
緊張が私の身体を締め付けて、身体から汗を絞り出させた。顎を伝う雫を、手の甲で拭う。周囲を闇に囲まれた状態での警戒は、かなりの気力を消費するらしい。動いていないにも関わらず、拭った先から汗が滴り、意識は熱気と重圧に削られて朦朧とするのだった。
「どうする?」
非っ常~に不本意な話ではあるのだが、私はアジリアに意見を求めた。アジリアも私と同じ体たらくらしい。肩で大きく息をして、落ちた汗が床に散る音が微かに聞こえていた。
「動かん方が良いのは分かるが――向こうは持久戦を仕掛ける気らしいな。朝までまだ三時間はあるし、我々の方がもたんぞ」
「分かってるわよ。それを知ってて向こうは、私達が潰れるのを待ってるのよ!」
「このまま保管庫まで退くか……背中は任せたぞ」
「あなたが水先案内人よ。あなたこそしっかり前を警戒してよね」
ゆっくりと――私の背中から、アジリアが離れていく。私は背中の感触が消えないように、合わせて後退りをした。牛歩よりも鈍い、酷く小さな一歩だった。この調子では保管庫に辿り着くのに、朝までかかるかもしれない。私がそのようなことを思った時、操り人形の糸が切れたように、不意に脚から力が抜けていった。私は立て直す暇もなく、アジリアを押し倒すようにして、その場に尻餅をついてしまった。
アジリアは私の尻に背中を押されて、前乗りに倒れこんだらしい。背後からうつ伏せになることで、くぐもった彼女の呻き声がした。
「何なんだ!? どうしたんだ!」
アジリアの悲鳴が耳朶を打つ。だけどこっちはそれどころじゃないのよ。どうしてかしら……まるで生気を吸われたように、足に力が入らない。暗闇での警戒が、こんなに消耗するものだとは知らなかった。私の足は震えるだけで、体を持ち上げるだけの力をこめることができなかった。
瞼が重い。疲れが睡魔となって、瞼の上に座り込んだようだ。くらくらする頭で、私はここで死ぬのだと確信してしまった。
死にたくない。死にたくない。死にたくない。頭の中で必死な想いが、単純な単語となって繰り返される。やりかけの仕事があるし、机の引き出しには食べかけのクッキーも入れっぱなしだ。何より、私はまだナガセに褒めてもらえていない。
でも――ここでナガセみたいに身を挺したら、彼のような存在になれるのかなぁ。そうしたらこの嘘みたいな死にも、価値を生み出せるのかもしれない。
「私はもう駄目みたい……さっさと行きなさいな」
私は床に身体を投げ出しながら、震える声で呟いた。死というのは、想像していた以上に意地の悪いものだった。受け入れた瞬間、泥沼に浸かったように鈍くなった感覚が、寝起きのように冴えわたったのだから。身体の末端から冷水に沈んでいくように。ゆっくりと、だが確実に、死が私を蝕んでいくような気がした。
怖くない。怖くないよ。自分に言い聞かせる。だって、やっと、念願のナガセの隣に並べるんだから。
私の背中の下で、アジリアが身じろぐ気配がした。彼女は不愉快に鼻を鳴らした後、反吐を出すようにして言った。
「ああ……そうさせてもらうぞクソが」
私の脇の下に、腕が差し込こまれる。そのまま腕には力が込められ、私の上半身をずるずると引きずりはじめた。
「アジリア……? 何してんのよアンタ……」
喋るのも億劫で、このまま闇に身を委ねたかった。しかし私は戸惑いを隠せずに、聞いてしまった。
「お言葉に甘えて先に行かせてもらっている」
アジリアはぶっきらぼうに言い放ち、私を保管庫へと引っ張り続けた。彼女自身の体力も、限界に近付いているのだろうか。普段はきびきびとしたアジリアの動きは、酷く緩慢で足元も危うい。そして急にたたらを踏んだかと思うと、倒れて私の下敷きになってしまった。
何やってんのよ。ここで死ねたら私は英雄になれるのよ。邪魔しないでよブス。
「私を置いて行きなさいよ……」
「そんな趣味はないんでな……」
何だってあんたはそうやって、私の嫌なことばかりするのよ。私は最後の力を振り絞って、駄々を捏ねるように身体を揺さぶった。私の背中の下で、アジリアが苦しそうにもがくのが聞こえた。
「置いて行きなさいよ~……」
「うるさい~……動くな苦しいだろぉ~……このゴミカスがぁ……」
アジリアの間の伸びた返事をする。そんなヘロヘロのくせに、なァに恰好つけてるんだか。それにしてもおかしいわね。蜘蛛から半狂乱になって逃げた私はまだしも、先程まで保管庫にいたアジリアの気力が、ここまで消耗しているのは理屈に合わない。もしかしてこいつも幽霊なのかしら。
ぞわりと背筋に悪寒が走る。打開策を考えたいが、朦朧とする頭ではそれも難しそうだ。しかしどうしてこんなにも、思考に霞がかかるのだろう。まるで『一服盛られた』みたいに。
背中からアジリアの気配がしない。先に気を失ったのかもしれない。手足の感覚がない。それを感じる頭が働かない。瞼が重い。虚無が私の意識を飲み込んでいく。まるで暗い洞窟の中に突き落とされたように、暗黒が私を包みこんでいった。
「オチましたわねぇ……」
声が聞こえたような気がした。
「お薬で心地よくお休みのようでございます。誤解も解けて仲直りできましたし、マムアジリアとマムサクラの仲も多少は進展したようで。全く面倒見がいのあるご主人様ですわ。サーもこれぐらい可愛げがあると宜しいのに……」
この声は聞いたことがある。あの薄ら寒い歌を歌った、あの声だ。
「さて……この幽霊という立場を捨てるのも惜しいですわ。サーったら束縛が激しいですからね。サーもやり口までは気付いていないようですし、まずはシラを切り通しまして、ばれたら媚びを売るとしましょうか……」
凪に揺蕩いて――空を舞う――




