ナガセの失敗
俺はプロテアの胸から顔を離す。だが彼女の顔を見ることができずに、視線は俯いた。
「誰かにそう吹き込まれたのか?」
「自分で考えたんだ。あんまし馬鹿にすんなよ」
プロテアが俺の頭に、弱めの拳骨を振り下ろした。そして軽く鼻をすすると、パギを相手にするように、俺の髪の毛をクシャクシャと撫でた。
「だからちょっと、安心したかったんだよ。お前がお前のままで帰ってきたって、確かめたかったんだよ」
プロテアは何かに怯えるように、微かに肩を震わせていた。彼女は竹を割ったような性格で、思ったことを率直に表現する。それが自分の胸の内を、上手く吐き出すことすらできなくなっていた。
俺が信頼と言い訳して誤魔化しているから、彼女は何を信じていいのか分からなくなっている。人の誠意も、善意も、本質も、目に見えるものではない。だから彼女は目に見える違いに、答えを逃げようとしている。差別が始まる前触れだ。
「離れろ」
俺の口調は、つい冷たくなってしまった。プロテアはショックを受けて目を見開いた後、初めて猜疑に濁る眼で俺を見下ろした。俺が不安を与えることで、プロテアをここまで変えてしまったのだ。
俺はふと、自分の手の平を見つめた。穢れている。俺は彼女たちに必要とされてはいけない。過去を引きずっている。彼女たちに良くない影響を与える。戦いで果てたい。彼女たちを巻き込むわけにはいかない。
しかしそれでも、彼女らに安心を与えられるのが俺しかいないというのなら、何かを与えなければ。
人を愛するにはどうしただろうか? 久しく人を愛していない。戦場では様々な出会いがあって、刃を交え、言葉を交わし、互いの心に傷を残して、すれ違った。
戦いに埋もれた過去から、温かいものを掘り出そうと躍起になる。
アロウズの時は……思い出したくもない。リタも同様。
過去を遡るうちに、ふと泉を掘り当てたように、胸に温かいものが込み上げてきた。
織宮――そして愛しき教え子たち――俺が教師で、まだ戦いを知らなかったころだ。
君たちの明日を願って戦った。なのに君たちには会えない。この手に抱くことも、言葉を交わすことも、何もかもが過去に埋もれて、叶わないだろう。俺たちが再び出会うには、離れすぎて、変わり果てて、そしてあまりにも時間がかかってしまった。
君たちに返せなかった想いを、少しだけプロテアに捧げよう。
俺はプロテアの肩を掴み、無理やり後ろを振り向かせる。彼女の膝の裏に蹴りをくれて、無理やり屈ませた。乱暴だが、気恥ずかしさに負けてしまったのだからしょうがない。プロテアがしゃがむと、ちょうど彼女の頭が俺の胸の位置にくる。俺はその頭を腕に抱えると、かつて教え子にしたように、わしゃわしゃと髪の毛を掻き混ぜるようにして撫でた。
プロテアは暴力を振るわれるとでも思ったのか、しゃにむに手を振り回して俺を突き飛ばそうとする。だが俺が頭を撫でていると分かると、困惑したように抵抗を身動ぎに変えた。
「何してんだよお前……」
無視して撫で続ける。真っ直ぐな人間には、理屈よりも接触の方が効果的だった記憶があった。
「おい。俺はガキじゃねぇんだ。やめろ」
プロテアは鬱陶しそうに、撫で続ける俺の腕を払いのけようとする。俺は頑として撫でるのを止めなかった。やがてプロテアの方が根負けして、されるがままになった。それどころか、勝気な彼女が発したとは思えない、か細い羞恥の呻きまでもが聞こえてくる。
でも嫌悪感は、獣の刻印のように消えない。自分の子供を殺したのだから。罪の意識が、不快感となって胃を下から突き上げる。
このまま罪を吐き出せたらいいのに。このまま俺の過去が流れてしまえばいいのに。俺がそう思えば思うほど、死への願望が強くなり、赤い竜が首をもたげる。
誰か俺を罰してくれ。
ひとしきり撫で終え、プロテアがそわそわし出す頃、俺は彼女の頭から腕を解いた。プロテアは俺を振り返り、じっと見つめてくる。猜疑の色は払拭できなかったものの、薄れてはいた。
「急にどうしたんだよ……」
「お前がそうしたいといったんだろ……もう満足だな? 俺はバイオプラントに行くからな。ついでにオストリッチの整備も頼む」
俺はプロテアにオストリッチの手綱を投げて、プロテアに背を向けた。
「昔に戻ったな……だけどさ……やっぱお前……誤魔化しで欲しいものくれてるよ……」
プロテアが引き留めるように呟く。俺の歩みが少し鈍った。それは違うと理性が発狂する裏側で、本能が見抜かれたことに戦慄していた。
「俺は誰かの……代わりなのか……? 他に好きな奴が――」
「うるさい」
俺は吐き捨てると、やや大股でエレベーターへと歩いて行った。
「おーい! ナガセが帰ってきたぞー!」
倉庫中に、プロテアの大声が響き渡った。倉庫にいる彼女たちに、呼びかけているようだ快活だが、どこか寂しさを含んでいた。。帰ってきた。その一言が強く耳に残った。
俺はエレベーターで居住区に上がり、管理区画へと足を向けた。そこにバイオプラントへ直通するエレベーターがある。
道中、並んで歩くローズとパンジーに、バッタリと出くわした。二人は世間話をしているようだが、様子が少しおかしい。パンジーは碌に声が出せないのに、しきりにローズに話しかけている。しかしローズは上の空で、曖昧に頷き返すだけだった。視線も俯きがちで、具合が悪そうだった。
二人とも勤務外なのか、ライフスキンでも作業着でもなく、ひらひらした妙な服を身に纏っている。よくよく見ると、シーツを裁縫して作られたシャツと、作業着を改造してできたズボンのようだ。俺にとって服の裾は、外気を入れないために閉じてないといけないという認識がある。だが彼女たちの服の裾は広く、それが空気にはためいて、妙な印象を俺に与えた。まぁ布の遊びが多い分、身体のラインが浮き彫りになる事もない。健全といえば健全だし、リネンの備蓄はあるから咎めなくてもいいだろう。
「ん。ご苦労」
軽く手を挙げて挨拶をする。ローズとパンジーは、声をかけられてようやく俺に気付いた。二人は俺を一目見ると、驚きに目を丸め、互いに抱き合って絶叫した。
うむ。これが正しい反応だ。プロテアにも見習ってほしい。そうすれば俺の手間も減る。何も与えなくてもいいのに。
「はしゃぐのも程々にな」
特に用事もないので、さっさと二人の横を通り過ぎた。
「いつ! 帰って! きた!?」
「ちょっと! 待ちなさいナガセ! どこに行くつもり! そっちには壊れたメインコントロールルームしかないわよ」
何を思ったのか、ローズとパンジーが慌てて引き返し、俺の行く先を塞いできた。
「バイオプラントに用事がある。直通のエレベーターがあるだろ」
俺の言葉に二人の顔から、さぁっと血の気が引いていった。
「ダメに! 決まってる! バカ!」
「それもいいけど、せっかく帰ってきたんだから……ネェ!? 冒険譚を聞きたいんデスケド! ちょっと談話室で、ゆっくりしていきなさいよ!」
ローズとパンジーはまくし立て、執拗に俺を足止めしてくる。俺が無視して押し退けようとすると、二人は後退ってなおも壁となって邪魔してきた。サクラを庇っているのか、それとも俺がキレることを恐れているのか、その両方か。だがこの様子だと、バイオプラントの状態が最悪だということだけは、ハッキリと分かった。
「壊れたんだろ? 現場の確認はしないとな」
俺がいうと、ローズとパンジーは本心を探るように俺の瞳をじっと覗き込んでくる。俺が面倒臭そうに溜息をつくと、パンジーの方はほっと胸を撫で下ろす。だがローズは何かが引っ掛かるようで、眉根を寄せた。そして俺の変化を欠片でも見逃すまいという意気込みを臭わせて、少し近づいてきた。
「それで……サクラをどうするの……?」
「どうもしない。あのバイオプラントは随分痛んでいたし、あってもなくてもいいようなものだからな。お前らが無事ならそれでいい。怪我人はでなかったか?」
「全然。みんな無事。火傷もしなかった」
パンジーが朗らかに答える。だがその隣では、ローズが俯き、肩を震わせていた。
「へ……へぇ~……無事ならそれでいいのね……無事なら……無事なら……」
彼女は俯いたまま、病気の人間のように弱々しく首を振る。そして俺の言葉を咀嚼するためか、何度も何度も口の中で繰り返した。
次の瞬間、ローズが勢いよく顔をあげ、怒りと憎しみに細った眼で俺を睨み付けた。そして右腕を振り上げて、強かに俺の頬を張り飛ばした。顔が僅かに横にぶれて、小気味のいい音が廊下に響いた。
「サイテー!」
ローズが金切り声をあげる。彼女はビンタで振り切った手を、握りしめて拳を固める。そしてハンマーのように振り回して、俺に叩き付けた。
「そう思ってるならッ……本当にそう思ってるならッ……他にすることがあるでしょう……あのコはあなたのために……あなたのために……自分を変えてまで……そうしてまで取り組んでいたのに!」
ローズの拳が、何度も何度も俺の胸板に叩き付けられる。訓練したとはいえ、貧弱な身体つきで、腕を振り回すだけの打撃だ。肉体的にはちっとも痛くない。だが俺の意識は、霞むほどの衝撃を受けた。
あのローズが誰かを守るためではなく、ただ暴力を振るっているのだから。
「それがどうでもいいんだ! あんなに真剣なのに! オモチャで遊ばせている感覚なのね!」
俺はローズの殴打を、微動だにせず受け止めた。彼女はそれが腹立たしかったらしい。俺の襟首を掴むと、まだ効果のあった頬の張り手へと攻撃を変えた。
「何で平気なのよ! 多少は痛がりなさいよ! サクラみたいに傷つきなさいよ!」
ローズは不安がる彼女たちを置いて、偵察に出たことを責めている――のでいいのだろうか? 俺は彼女たちを守るために偵察に出たし、それが唯一できることだ。それにサクラが俺のために変わったって……変わった? 不安の余り、差別に傾いたプロテアが脳裏に甦る。
ローズも俺が、ここまで変えたというのか? 俺はローズに何も与えていないぞ! そして何も奪っていない! 自由にさせてやったはずだ!
頬を打たれ続けながら考えていると、急にローズの攻撃が止まった。何事かとローズを見ると、彼女は殴りつけていた、自分の手を見つめていた。その双眸は驚きに見開かれ、自嘲に歪み、最終的に嫌悪に引きつった。彼女は汚物を払いのけるように、俺を突き飛ばす。そして突然、自分を痛めつけるように、壁をめちゃくちゃに殴り始めた。
俺は幻だと思って、壁を砕かんばかりに拳を叩きつけるローズを見ていた。だが壁に赤い花が咲き、次々に開花していくと我に返った。
「やめろ! どうしたいきなり!」
ローズを後ろから羽交い絞めにして、壁から引きはがす。止めに入るのが遅かったせいで、ローズの拳からは涙のように鮮血が滴っていた。普通の出血じゃない。骨が折れて手の甲を突き破ったかもしれない。早くアイリスに見せないと危険だ。
「落ち着け! 何故自分を傷つける!?」
「うるさいわね! こんな手壊れちゃえばいいのよ!」
ローズは俺を振りほどき、壁に殴りかかっていこうとする。俺は必死にローズを抑えつける。パンジーもローズの足にしがみ付き、動きを鈍らせてくれた。俺はその隙に、ローズの耳元で叫んだ。
「おい……何でそこまで怒る。俺はお前達を第一に考えている。何が不満だ!?」
ローズがぴたりと、暴れるのを止めた。そして肩越しに俺を見つめる。その横顔からは、怒りが最初から無かったように流れ落ちて、感情で色付けされていない素のままの顔があった。人間の無垢な表情とでもいうべきだろうか。彼女の瞳は透き通り、吸い込まれてしまいそうだった。そのローズの無垢が、見る見るうちに内面から溢れ出る憎悪で、塗りつぶされていく。
「は……は? え? 何とも……まだ何とも思わないの!?」
「何って……何が! 言いたい事はハッキリと言え!」
訳が分からん。お前たち以外に、何を想えというのだ。俺は問題の提示されない、テストを受けている気分になり、ついかっとなって声を荒げた。
いつもならローズは、俺の剣幕に怯んだ。しかし今回は暴れるのを止めるどころか、怒鳴り返してきた。
「いっても聴かないじゃん! だから戦うのは止めてっていったのに! そうすれば……そうすればまだ戻れたかもしれないのに! 大事な時にそうやって逃げるんだから! 私たちのためとか言って! 私たちを都合よく使ってるだけじゃない!」
違う。俺はそんなつもりはない。お前たちを道具として使おうなどと、出来るはずがない。
「ローズ、俺は――」
懸命に話しかけるが、ローズは抵抗を止めない。ひとまず拘束して落ち着かせるか。後は椅子に縛り付けてでも、聞き出せばいい。掴んで抑えていたローズの手を、捻りを加えることで関節を極める。そしてローズを腹ばいに地面に伏せさせて、その背中を膝で抑えつけた。はは。憲兵の手が足りない時は、こうやって良く暴漢を――おい待て……俺は何をしている?
何故懐かしがっている。何故安堵している。何故こんなことをしている。
俺は目の前で苦しむローズを見ていない。過去の幻想に酔いしれている。
「ホラ! 戦うことならすぐできるのね!」
ローズが怒りに嘲笑を混ぜた。
「揚げ足をとるな! お前が暴れるからだぞ!」
拙い言い訳に、俺の声は情けなくなった。
「触らないで! 穢れる!」
咽喉が裂けんばかりの悲鳴に、俺の腕から力が抜けた。するりと手の中からローズが抜けだし、泥の中をもがくように何度も足を滑らせながら立ち上がった。彼女はあまりに勢いよく立ち上がったため、壁に激しく頭を打ち付けた。大きくたたらを踏み、上半身をふら付かせる。慌ててその身体を支えようとしたが、ローズは俺に触れられるのを拒むように踏ん張り、姿勢を立て直した。彼女はもう俺を見ようともせず、廊下を駆けてこの場から逃げていった。
自立している。一人の強い人間に育っている。自分の道を歩んでいる。
俺が望んだことだ。
だが喜びを感じることができなかった。




