釣果隊 東へ行く その5
まったり監視を続けて、どれくらい過ぎただろうか――。
「ん? 何だ……今何か……」
アタシは視界の端を何かが掠めたのに気付き、シートから体を起こした。一瞬で断言はできないが、赤茶けた何かが見えたような気がしたのだ。小動物ならどうでもいいが、今のところ赤茶けた皮膚を持つのは、異形生命体だけである。
運転席から視界では、警戒できる範囲に限界がある。銃座にいるプロテアに確認をとろう。キャリアの天板を殴り、プロテアの注意を引いた。
「おいプロテア。何か丘で動いているものはない?」
「ん? 別に何も。穏やかなもんだよ。何かあったのか?」
「赤茶けた何かが見えた。警戒して」
「へ? 見渡す限り、緑の草原と、青い海だ。赤なんてどこにもないぞ。太陽光の反射を見間違えたんじゃないのか?」
「そ……そう? ならいいのよん……」
プロテアがそういうなら間違いはないだろうけど……このアタシが見間違いだって? 12人相手の反乱に成功し、ナガセとのガ・チンコバトルを生き抜いたこのアタシが見間違いしたって? あり得ない。
アタシは違和感に、肌が泡立つのを感じた。どうしても安心して、背もたれに寄りかかることができない。アタシは眼を皿のようにして、キャリアの中から神経質に周辺を窺った。
外は快晴。やや傾いた陽光が車内に入り込み、眩しさの中にオレンジの反射光を見せている。この光の悪戯で、妙な幻をしたのかもしれない。キャリアの左手にはなだらかな斜面の丘に草原がのっており、右手には浜辺を挟んで海が広がっていて、どちらとも平穏の静けさを湛えていた。
アタシは引っかかるものを感じながらも、ひとまず身体を背もたれに戻して、正面のフロントガラスの方を向いた。
心臓が凍りついた。正面のフロントガラス越しに、いきなりマシラが見えたのだ。相対距離は100メートル足らず。マシラはキャリアに狙いを定めて、真っ直ぐ突進していた。
「プロテア! マシラだ!」
アタシは跳ね起きると、狂ったように天板を殴りながら絶叫した。ついで通信機を引っ掴むと、異変に気付かず呑気に釣りを続けるサンとデージーに向けて吠えた。
「おいボケども! さっさと戻ってこい! マシラだ! マシラが来たぞ! くそ! プロテア何やってるのん! さっさとマシラを殺せ!」
デカいマシラのガタイだ。流石に100メートル圏内に入ったら、プロテアも気付くはずだ。だけど銃座から銃声は一切聞こえてこない。プロテアに限って居眠りやサボタージュは考えられない。じゃあジャムったのか!? 絶体絶命じゃないのよ!
それにアンタたちもいい加減にしろよサンとデージー! マシラが来たっつってんのに、『何事もないよう』に釣りを続けているのよ!? 自分を餌にマシラでも釣るつもりか!?
アタシは直接怒鳴りつけてやろうと思って、キャリアのウィンドウコントロールボタンを押し込んだ。しかし窓がスクロールしない。仕方ないので、危険を覚悟でドアを開けようとしたが、レバーを引いても手応えがない。開かないのだ!
何で!? まさかアタシがパニクって、操作をミスってるの!? どうしよう? 落ち着こうにも、窓を確認しようにも、そんな暇はない。マシラはどんどん肉薄してくるし、サンとデージーも気付いた素振りすら見せない。ええい。考えている時間すら惜しい。この状況下で無為な時間を過ごすと生存率が駄々下がりよ! アタシがアイツらを迎えに行った方が速い。それにプロテアが機銃で撃退するチャンスも生まれる。
「締まりの悪い腐れマ○コ共だなチクショーが! 今キャリア寄せてやるから待ってるのよん!」
悪罵を吐きつつ、キャリアの電源を入れる。車内に通電音が鳴り響き、ダッシュボードではディスプレイが明滅した。自分でもうっとりするほどの手際で、素早くギアとクラッチを入れる。ギアチェンジとペダルからは、確かな手応えが返ってきたのだが、キャリアはぴくりとも動かなかった。
「エンコかよクソがァ!」
アタシは悲鳴を上げて、ハンドルを思いっきり殴りつけた。何が完璧な整備だ! リリィの野郎殺してやる! マ○コとケツの穴に電極差し込んで、灰になるまで通電してやる!
キャリアが動かない以上、頼りにできるのはプロテアの機関銃しかない。アタシは天板を開けて、銃座を覗き込もうとする。だが先程あっさりと開閉していたスライドは、今では溶接されたようにびくともしなかった。ここも開かないですって!? 一体何がどうなっているのん!?
「プロテアいるんだろ!? 撃てよ! 何してやがんだ!」
アタシは他にどうすることもできずに、プロテアが気付くのを期待して、天板を殴るしかなかった。焦りで手汗が滲んだ拳を、恐怖で力いっぱい握りしめ、キャリアの分厚い天板に叩き付けた。繰り返すうちに拳の皮が剥け、鈍い痛みが走るようになる。だけどここでやめたら確実に殺されちゃう。狂ったように殴り続けていると、拳の中で何かが砕ける軽い音と共に、痺れるような感覚が広がった。アタシは思わず怯んで、拳を抱え込んだ。
手の平を見ると、指の付け根は内出血で青黒く変色し、力も込めていないのに小刻みに震えていた。これは骨がイッちまったかもしんない……。どうしよう。どうしよう。どうしよう。
マシラの状態を確認するため、顔をあげてフロントガラスの方を向く。
ガラス越しに、赤茶けた肉の塊が、アタシを睨み付けていた。
もう目の前にいる。アタシは恐怖に支配され、咽喉が裂けんばかりに絶叫した。
マシラは丸太のような右腕を大きく振り被る。そしてハンマーを振り下ろすようにキャリアに叩き付けた。
金属が歪む甲高い音が、けたたましく車内に鳴り響く。凄まじい衝撃にキャリアは激しく揺れて、アタシはフロントガラスに頭を打ち付けた。
眩暈で考えが鈍る頭で思った。ヤバい。このままだと死ぬ。嫌だ。それだけは嫌だ!
キャリアに腕を振り下ろした姿勢で硬直するマシラを睨み返す。
「テメェこのクソ汚らしい肉ダルマが! ぶっ殺すぞこの野郎! 殺す! 殺してやるからな肉のクズめ! テメェの首ぶった切って、巣穴にいるキタネェ女もガキもぶっ殺してやる! このクソがクソがクソがクソが! くそがぁぁぁぁ!」
精一杯の威嚇。虚勢。分かっている。
でもアタシにはこれしかできない。いつだって。分かってる。アタシが口汚いのは――
マシラが今度は左腕を振りかぶる。そしてキャリアにパンチを打ち込んだ。キャリアが前後に激しく揺れて、アタシはダッシュボードとシートへ、交互に叩き付けられた。顔面を強打してしまい、口の中に血の味が広がった。
「おいこのボケ! 今なら許してやる! 今ならゆるしゅ! 許してやりゅからやめりょ!」
急ぎまくし立てたせいで呂律が回らなくなる。混乱の余り、自分でも何を言っているのか分からない。
マシラはもちろん、アタシの慈悲に耳を貸さなかった。両手の手の平を合わせて握り、巨大なハンマーを作り上げる。そして振り下ろすために、天高く掲げた。マシラの屈強な身体が――分厚い胸筋、膨れ上がった腕部が、嫌に目に焼き付いた。
今までの交戦経験から分かる。こんなもの、いくら鋼鉄のキャリアでも耐えられない。
アタシは声にならない呻き声をあげながら、必死でドアを開けようとレバーを何度も引いた。やはり開かない。嫌だ。死にたくない。半狂乱になって、外の景色が見える窓ガラスを引っ掻く。でられない。アタシの双眸から、大粒の涙がこぼれ落ちた。こんな死に方、受け入れられない。生きていたい。何をしても生きていたい。
「やめろこのクソマシラぁ! やめろ! やめてくれよ! 頼むよ……! 勘弁してくれよぉ……!」
恐怖が押し隠していたアタシを、心の奥底から引きずり出す。アタシの声色からは自然と棘が落ち、自分でも怖気が走るほどの媚びたものに変わっていく。発する言葉も罵声が少なくなり、相手に懇願するものが増していった。極めつけに、アタシはぼろぼろ泣きながらも、相手の機嫌を取るために顔に満面の笑みを浮かべていた。
「なんでもする! なんでもするから! 頼むよ! たのむ……なんでもする……なんでもするから……殺さないで――」
アタシは無我夢中でライフスキンを脱ぎすてると、両の乳房をマシラに見せつけた。そして自分の身体が艶めかしく見せるために懸命になった。
いつだって、これの繰り返しだ。必死で媚びて、飽きられてゴミのように捨てられるまで、アタシはアタシじゃなくなるんだ。
アタシは僅かな期待を込めて、マシラを見上げた。クソが。あいつアタシのことを、ちっとも気に留めていない。これから殴ろうとするキャリアを冷たく見下ろし、全身に力を込める事で、筋肉を硬直させていた。
この時点で、アタシは必要とされないゴミになった。後はどうなるか分かっている。
マシラの筋肉が緩む。物凄い勢いで両拳が振り下ろされ、金槌の如くキャリアに叩き付けられた。
激しい衝撃にキャリアが揺れる。アタシの頭の中は真っ白になった。




