ピオニーの窮P惨憤クッキング 後始末
試食後、アタシはサクラに呼ばれて、居住区のはずれにある廊下へ来ていた。この廊下はナガセが立ち入りを禁じた区画に近く、薄暗く人の立ち入りもない。埃が積もっていて、光も遠くのものが空気に溶けて、微かに足元が見える程度しかなかった。
アタシは指定された場所まで来ると、辺りを見回してサクラの姿を探す。すると廊下の暗がりの中に、彼女の脚だけが日の光に当たって見えていた。脚は壁に、つっかえ棒のようにかかっていて、彼女は背中を壁に預けて寄りかかっているようだった。
何か嫌な雰囲気だ。こんな所に呼び出したってことは、何か後ろめたい話があるんだろうな。それかアタシをハメる気かもしれない。いずれにしても長居は無用だ。
アタシは用件を聞こうとする。だけどそれは、サクラの大きなため息に遮られた。
「あなたって……本当に使えないわね。お嬢さん」
心底人を馬鹿にした声に、アタシの頭は一瞬で沸騰した。アタシを馬鹿にするな! アタシはゴミじゃない! アタシはゴミじゃないんだ!
我慢の限界だ。前々からお前は気に入らなかった。パンツに付いた血の染みのがマシなほどにね。壁で頭をかち割ってやる。アタシは暗がりにいる、サクラに掴みかかろうとした。
アタシはサクラへの一歩を踏み出す。すると暗闇から、カキンと金属音がした。
この音はヒスが愛用している、モーゼルの撃鉄が上がった音だ。こいつナガセと同じ銃を欲しがって、珍しいものばかり手に取っていたからな。この独特な音は、聞き間違いようがない。
アタシはびくりと身体を跳ねさせ、慌てて動きを止めた。サクラの性格上、この音以上の警告は望めない。
クソが。すっげぇイライラする。アタシは首からかけたポプリの臭いを嗅ぐ。泥と油の混じった、柔らかな花の香りが、鼻から肺へと駆け抜けていく。アタシの臭いだ。アタシは幾分か余裕を取り戻すと、目を細めて暗がりを睨み付けた。
「口には気を付けなよ……お嬢さん。マ○コから顔が飛び出るまでぶん殴ってやろうか?」
サクラは脅しに反応しない。ただ上品に鼻を鳴らして、クスクスと笑うだけだ。まるで自分が絶対優位であることを誇示し、アタシが無力であることを再確認させているようだった。
アタシはここに呼ばれた理由が分かった。
「許さねぇってか? じゃあどうすればいいんだよ! あんたがクソするたびに、ケツの穴を舐めて掃除しろってか? そうやって永遠にアンタのペットを続けなきゃいけないの!? ふざけろ!」
アタシは近くの壁を、拳をハンマーにして殴りつけた。閑散とした廊下に、衝撃音がこだました。その残響は次第に遠くに消えて、静寂が息を吹き返す。
その時になって、サクラはコケにするように鼻を鳴らした。
「早とちりしないで。あなたが許されたと思うならそれでいいわ」
サクラの尻が壁で跳ねて、足を直立に戻す。壁に寄り掛かる姿勢から、立つ姿勢に変わったのだ。
仕掛けてくるつもりか? アタシはこくりと生唾を飲み込んだ。
「興味がないのよ」
脚がこちらへと歩み寄ってくる。すると脚だけに当たっていた光は、腰から胴体を照らしていき、やがて暗闇の中から彼女の全体を浮かび上がらせた。
彼女は凛として引き締まった表情をしている。だが同時にリラックスもしていて、頬は強張っていなかった。その目は氷のように冷たく、妖しい輝きを宿している。そしてそこら辺の石ころを見るように、アタシに視線を注いでいた。
アタシは驚きに、一歩後退った。ナガセは異形生命体と殺し合う時、こんな顔をしているからだ。
サクラはアタシの隣で足を止めると、そっと耳元で囁いた。
「あんたなんて、生きていようが死んでいようが、私はどうでもいいから。それを言いたかったの」
吐息が耳にかかる。体温を感じさせない冷たい息が、耳だけでなくアタシの胆も冷やしていった。
「ア……アリガトね、ビッチ」
「いいえ。礼を言う必要はないわ。こっちは私の好意よ。謹んで受けなさいな」
サクラはライフスキンの胸元に指を差し入れる。そして一枚の紙を指で挟んで取り出すと、アタシに差し出した。
「ンだよこれ」
「明日出立する、釣果隊の運転手の仕事よ。あなたに任せたから。隊構成はあなたが許しを貰っていない、サン、デージー、ローズ、プロテア、パンジーね。上手くゴマをすることね」
うげぇ。また新しい仕事を押し付けるのぉ? しかも許しを請うチャンスだとか言って、ただでやらせようとしやがって。アタシは論外だと、サクラの差し出した紙をひったくり、くしゃくしゃに丸めて放り捨てた。
「ローズはもう許したよ。それに仕事をさせたいなら見返りを寄越せ」
「へぇ。その許しが、私と同じ意味じゃないといいけどね。あの子キレると、私より過激だから。何をするか分からないわよ」
サクラは用が済んだと言わんばかりに、アタシの隣を通り過ぎていく。そして居住区画へと歩いていった。
アタシはしばらく、屈辱に身体を震わせながら、遠ざかるサクラの足音を聞いていた。だがなめられたままでは終われない。すぐに振り返り、彼女の後姿を凝視する。そしてドスの効いた声で言ってやった。
「いつか殺してやるからな……ビッチ」
別に自分に言い訳するつもりはない。だがこれだけは確かだ。アタシは憎まれ口を叩いただけだ。ナガセなら軽口か、無視で済ませてくれる程度のオイタだ。
だがサクラは違った。
ピタリと足を止める。そしてそっと、腰のホルスターに手をやった。
「あの雌猫も、あなたほど単純ならいいのにねぇ……」
アタシはびっくりして、思わず身構えた。ここは廊下だ。角に逃げ込めば、銃弾を避けられる。だがここから先の廊下は閉鎖されているので、距離を詰められたらおしまいだ。角を利用して奇襲を仕掛けるか? 無理だ。リリィやピオニーならまだしも、サクラは分かり切った奇襲を受けるほど間抜けじゃない。
身体が絶望で冷めていき、心臓は狂ったように早鐘を打ちだす。そして全身から、じっとり嫌な汗が噴き出してきた。アタシは凍ったように動けなくなり、サクラが何をするか、じっと待つ事しかできなくなった。
仮にマシラと一緒に檻に閉じ込められると、こんな感じになるのだろうか。いつでも自分を殺せる相手は、檻の中の全てを――時間すらも支配して、悠々と動き回るのだ。それに対して無力なアタシは、身体も心も――時間すらも凍りつき、ただ相手の気まぐれを待つ事しかできなくなる。下手に動くことはできない。何が相手の気に障り、襲い掛かってくるか分からないからだ。
サクラの手はモーゼルを握り、上がっている撃鉄に親指があてられる。そして暴発しないように、ゆっくり、優しく、撃鉄が下ろされた。
それから――サクラは笑った。心底楽しそうに笑った。
そこには絶対強者の余裕と、それを誇示する必死さが顕れていた。
「行かないなら結構よ。アジリアに行かせるから。その時は二人で、楽しくお仕事をしましょう。ネ?」
サクラはそう言い残して、すたすたとこの場を去っていった。
サクラがいなくなると、ようやくアタシの時間も動き出す。アタシは膝から地面に崩れ落ち、がっくりと肩を降ろした。心臓は激しく波打ったままで、気付くと呼吸も荒れていた。じっとりと濡れた肌に張り付く髪をかき上げると、玉になった汗が頬から顎へと伝っていった。
正直、命拾いした気分だった。
そしてここに呼ばれた、本当の理由も思い知らされた。
アタシは脅されているのだ。
サクラは元々、許すつもりはないに違いない。いや、許しを請う必要すらなかったのだ。アタシがした拷問は、すでに過去の物となり、もはや恨んではいない。ただ、二度とこのような事が起きないように、下手な真似をするなと釘を刺しているのだ。
そうして得られる安心感こそが、彼女なりの許しなのだろう。
皮肉なことに彼女は、キレたナガセによく似ていた。




