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夕景肖像  作者: 鵜狩三善
5/5

5.

 焼き場から戻ったら、すとんと気抜けしてしまった。

 朝早くから告別に伴う諸事をこなして、気付けばもう夕刻だ。

 葬儀とはきっと、遺族に悲しみを忘れさせる為にあるのだと思った。忙しく立ち働いけば、それに悲しみも喪失感も紛れてくれる。

 後の片付けに見切りをつけて、私は一人()を抜けて、離れの裏手へと回った。母屋からは見えないその西側には縁側があって、一息入れるには丁度いい。


「……」


 昨日まで祖父が居た離れを見れば、またぞろに気が沈む。

 けれどここに在るのはもう嫌な思い出だけではなくて──だからこそ私は少し泣いた。

 それゆえ、と言うべきだろうか。

 私の気づかぬうちに、そのひとはいつしか傍らに居た。最初に出会った時と同じように、静かに佇んでいた。

 葬儀に参列してくれていたのは覚えている。女性であるのに喪服もまたスーツで、しかしやはりその姿に奇矯(ききょう)は感じなかった。この人には黒が──喪服が、ひどくよく似合う。

 夕暮れから夜へと変わりつつある残照の中、その姿はまるで影法師のようだった。


「すまない。間が悪かったようだね」


 述べられた謝罪は、嘆きを妨げた事へか、泣き顔を見た事に対するものか。涙を拭ってから、私はいいえと頭を振る。

 詫びて母屋へ戻るのかと思いきや、何故か真っ直ぐにこちらへやって来たので、私は思わず背筋を伸ばした。どうもこのひとには、真摯(しんし)な教師めいた雰囲気がある。(えり)を、居住まいを正さずにはいられない。


「少し、良いかな?」

「はい。どうぞ」


 一体何の用件だろう。

 思いながら縁側を示したけれど、腰を下ろす様子はない。むしろ並んで座られたら緊張が増すだけのような気がするから、それはそれで有り難かった。 


「君から写真を受け取るようにと、そう言われている。持っているね?」


 逆光からそう切り出され、私ははっとなった。 

 すっかり失念してしまっていた。このひとに渡すようにと、祖父は最後に言っていたのだ。


「……」


 今となっては形見のような品だから、譲渡を忌避する気持ちは強かった。一瞬とぼけようとも思ったけれど、やはりやめる事にした。

 遺言めいた言葉を、思いつきで裏切ってしまうのは嫌だ。それに祖父はこのひとを友人と呼んだ。なら私が嘘をつくのを快くは思うまい。


「はい、預かってます。貴方に渡すように、と」


 それでも惜しい気持ちは捨てきれない。私はのろのろと制服のポケットから手帳を抜いて、そこに収めた写真を抜き出した。


「これでいいんで──」


 私の言葉はそこで途切れた。

 最初の邂逅(かいこう)のその折、どうしてこのひとを見た事があると思ったのか。その既視感の理由が知れた。

 赤く陽光の名残に染まった木立を背に、仲間達と並んで笑う、まだ若い祖父。

 そして、ああ、そこに写っているのは。

 祖父の隣に立っているのは。

 見間違いようもない、このひとだ。

 けれどこの写真は、もう何十年も前のもので──なのにどうしてこのひとは、その時からほんの少しも変わっていないのだろう。


 ──こいつには、大した秘密があるんだぞ。


 そう悪戯っぽく笑った、祖父の言葉が甦る。

 私の気づきを察したのだろう。遠い日の景色と同じように夕日を受けて、そのひとは私に小さく笑んだ。止まってしまった私の手から、するりと写真が引き取られる。


「僅かでいいから猶予(ゆうよ)が欲しいと、そう乞われてね」

 

 私の理解を促すように、ゆっくり言葉は紡がれた。


「君に、詫びたかったそうだよ」


 常識の目隠しを外せば、点と点とは繋がって見えた。

 祖父自身の要望による強引な退院。時を同じくして呼び出した古い知己。そして私との仲直り。

 あの祖父との一時は、きっと本来ならばないものだったのだ。私と祖父とはお互いに棘を抱えたまま死に別れる。そういうふうになるはずだったのだ。

 けれど祖父はジョーカーを持っていた。古い、夕景の一葉を。

 じんわりと胸の奥が、瞼の裏が熱くなる。

 弟の時にも切らなかった、そして恐らくは一生涯切らないつもりだった鬼札を、祖父は使った。自分の為ではなく、私の為に。自惚れではなくそれが判った。

 そうして、もうひとつ思い至る。

 この写真は多分、ただ持っているのが、そして無理に奪わないのが相互の信頼と友情の証であったはずだ。でもこれを理由に、半ば脅すようにこのひとの助力を取り付けたのだとしたら。

 祖父は私の為に、私の所為で最後に大事なものを手放してしまったのではないだろうか──。


「あ、あの!」

「私と彼とは友人さ。勿論、今もね」


 そんな私の不安を見透かして、そのひとは静かに告げる。そうして私の頭をふわりと撫でた。

 いつもの私なら、子供扱いするなと憤慨して然るべき行為だった。けれどどうしてか、少しもそんな事は思わなかった。それどころか細波(さざなみ)立った心が、なだめられて静まっていくのを感じる。


「優しい子だね、君は」


 そして、よく似ているよ、と付け足した。誰に、とは問うまでもなかった。


「……さて」


 やがて、指が離れた。


「そろそろお(いとま)するとしよう。──元気で」


 写真を大切にしまい込むと、そのひとは(きびす)を返す。

 遠ざかるその背を、どうしてか不意に、引き止めたいと思った。


「待って、待ってください。あの、えっと」


 呼ばわりはしたものの、後の事を考えていなかった。言葉が続かない。頭が上手く働かない。

 必死で取り繕おうとする私に、肩越しに振り返ったそのひとは、淡く微笑んだ。


「いずれ、また」


 そうして、もう立ち止まる事なく黄昏の影に溶けていく。


 ──いずれ、また。


 それは再会の言葉だ。いつになるかは知れない。本当になるかも分からない。

 けれど。

 けれど私はきっと今、祖父の秘密を受け継いだのだ。

 そう思った。そう思えた。

 祖父の死という(うろ)は決して埋まらない。埋めてしまえるものでも、埋めてしまいたいものでもない。だが欠落以上の様々を、喪失よりも大きなものを、祖父は私に残してくれた。その事実が抱き締められるほどに確かに、強く感じられた。

 それは随分と愉快で、幸福な事のように思えた。


 ──おやすみなさい、おじいちゃん。


 立ち上がれば夕暮れはもう終わりを迎えて。

 どこか優しい夜風だけ、告別のように吹き過ぎる。

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