4.
祖父の容態が急変したと連絡があったのは、午前の授業が終わろうという頃だった。
授業中に電話をかけて寄越した母は、
「おじいちゃんね、今日は具合がいいみたいなの。あなたにどうしても話したい事があるって、そう言ったわ。だから、早く帰ってきなさい」
そう言って歔欷を漏らした。
間に合わないかもしれないから。
最後になるかもしれないから。
そういう言葉を母は発しなかったけれど、空気は明瞭に伝わった。担任に事由を告げて、私は駆け足で家路を急いた。
着替えもせずに離れに入ると、祖父は布団に端座していた。
ぴしりと背筋が伸びていて、こういうところを見ると、ああ昔の人だな、と思う。
「おかえり」
私を出迎えた声は、肺を患っているとは思えないくらいに強い、昔の祖父の声だった。
「ちゃんと寝てないと」
「いいんだ。大丈夫だ」
言い出したら梃子でもきかない人だから、私はそれだけで諦めた。枕元へ鞄を置いて、私も畳に正座する。
それを確認すると、祖父は座ったままに私に向き直り手をついた。
「俺はお前に、詫びなけりゃあならん」
言って深く頭を下げる。
「謝るって……何を?」
突然の行為に言葉が出ない。問うた私から視線を外して、祖父は天井を睨んだ。それは熟考する折の祖父の癖だ。
「あの子もな、」
考えてから、搾り出した。
あの子、が弟の事を指すのだと、何故だかすっと判った。
「あの子もお前もな、同じように大事だ。そう思っている。なのに俺は目先の悲しさに囚われて、お前にひどい事をしたな」
何について言われているのか。やはりそれもすぐに判った。
あの夜。あの通夜の時の事。
「どうして俺は、こう気が利かんのだろうなあ」
押し黙ったままの私に、訥々と祖父は続ける。
「亡くした者よりも、在る者を大事にするべきだった。そう言ったらあいつに叱られたよ。そこまで判っていながら、何故もっと早くに伝えなかったのか、ってな」
「……」
祖父の言葉が沁みてきて、私の声はますます出なくなる。知らず力の篭ったてのひらが、スカートに皺を作った。
私だけではなく祖父もまた、あの時のささくれを抱えたままでいたのだ。
唐突の事故に死んでしまった弟と、急によそよそしくなった私と。
思えば祖父はあの時、二人の孫を同時に失ったようなものだった。
元々が怜悧な人だから、すぐに私の忌避の理由は悟っただろう。そして自分の失言を、長い事ずっと悔いてくれていたのだ。
「ずっとこんなふうに話そうとは思っていた。だがお前は俺を疎むようだったし、俺にも勇気がなくてなぁ。明日は言おう、明日は言おうと思ううち、とうとうこんな有様になった」
祖父は自嘲めいた、しかし暗さのない顔で笑う。
「ろくに喋れんようになってから、ますます後悔したよ。もう遅すぎる話ではある。あの頃のお前の気持ちを思えば、白髪頭なぞいくら下げられたって足りんだろう。だが──」
「おじいちゃん」
祖父の口上を、私は制した。
弟の件とは全く無関係に、本当にただ純粋に、祖父は私を慈しんでくれていた。それは確かな真実で、私だってとうの昔に、そんな事は承知していた。
けれど一旦出来た垣根を取り払うのは、なかなかに容易ではない。
祖父は自分が詫びるのが当然のような言いをするけれど、これは私が歩み寄って然るべき話でもあったのだ。だが双方に機の無いまま、とうとうここまできてしまった。
だからこれはいい機会だ。永い間私と祖父の間に横たわってきた鬱屈をなくしてしまうのに、本当に良い機会だ。
元々の発端からしてひどく些細な──今の私にはそれを些細と呼ぶだけの余裕がある──事柄だし、その刺をいつまでも心に残したままでいる事など私だって望まない。
それにもし、あまり考えたくない未来だけれど、万一このまま祖父と死別するような事になれば、私は一生、このわだかまりを抱えたままになる。
それは祖父にも同じものを抱えたまま逝かせてしまったという罪悪感をまとって、より一層に重みを増すに違いなかった。
何より、こんなものは理屈だった。
くだくだしく思考を巡らしはしたけれど、何の事は無い。ただ単純に私は、ずっと祖父と仲直りしたかったのだ。
だから、
「大丈夫だよ。私、気にしてないから」
自然な笑顔でそう言えた。
「……そうか」
祖父の目は微かに潤んだようだった。私の視界も何故か滲んだ。
「うん。気にしてたけど、もう、気にしてない」
祖父の謝罪を容れたのだと表明して、そこでようやく私たちは、顔を合わせて微笑んだ。
それは随分と久しぶりの事で、なんだか少しくすぐったい。ふわりと弛緩した、穏やかな空気が離れの中に生まれた。
「──なあ」
「うん?」
私に促されるまま、大人しく布団に戻った祖父がふと呟いた。
「俺のあの写真、未だ持っているか?」
「うん、持ってるよ」
「あれには秘密があるぞと、そう言ったのも覚えているか?」
「覚えてるけど……どうしたの、いきなり?」
意図を掴めず問う私に、祖父は悪戯っぽい笑みを見せた。
「あれはな──いや、じき判るな。悪いが、あれはあいつに渡してやってくれ」
意味ありげに匂わされて、私は頬を膨らます。
あの客人が、私の知らない秘密を祖父と共有しているというのは、なんとなく業腹だった。
「わかったけど、でも」
今教えてくれてもいいじゃない。そう続けようとした私を、祖父は笑って制する。
「せっかちが過ぎるのがお前の悪いところだ」
「そこはきっと、おじいちゃんに似たんだよ」
それからしばらくを談笑に費やして、私は弾む心で部屋に戻った。
──祖父が身罷ったのは、そのすぐ後の事だった。