2.
たとえ明日をも知れぬ病人が家に居ようと、人は日々を営まねばならない。
炊事洗濯は無論の事、出入りの増えた親族への応対も必要だ。見舞いこそ断っているものの、安否を気遣う電話がほぼひっきりなしに鳴っている。
幸いの週末であったから、父が電話口を一手に引き受け、母と叔母の負担は大分軽減されたようだった。私も一助になろうと、食料品の買出しを引き受けた。
しかし夕暮れの帰り道は、荷物以上に気持ちが重い。
明日になれば、私は何でもないような顔をして登校せねばならない。
父も母も、何よりも祖父も、学校を休めとは言わないだろう。家族の腹くらいは判る。子供は余計な気を回さずに、いつも通りの日常を送ればいいと考えているのだ。
こういう時、自分がまだ子供なのだと思い知らされる。
嘆息して、私は俯いたままとぼとぼと門を潜る。上っ面を取り繕うつもりにもならない。
「失礼」
不意に横手から声がかかって、私はびくりと身を竦ませた。
思考に没入していて、門前に人が居る事にも気付かなかったのだ。
「君は、この家の子かな?」
「あ……はい」
答える私の姿勢には、不審が滲み出ていたのだろう。そのひとは困ったふうに微笑んだ。
「私は君のお爺さんの、利一君の友人さ。先程病院の方へ足を運んだのだけれど、入れ違いで昨日退院したと言う。それでこちらまで押しかけた訳なのだけれど……」
言葉を切って、母屋を目線で指した。そこには傍目にもはっきりと、慌しい雰囲気が張り詰めている。
「聊か、声をかけにくくてね」
だからこのひとは門の前で、誰かが通りすがるのを待っていたというのだろうか。なんとも悠長な話だと思った。その余裕のある風情が、ささくれた私の心を逆撫でにする。
「祖父に何か御用でも?」
返答する声は自分でも硬く感じた。
このひとが先ほど挙げた名前は、確かに祖父の名だ。でも名前を知っているからといって、それで知人友人と信用するほど私は純朴ではない。
視線に籠めた敵意はふわりと受け流された。
そのひとは肩がけにしたディパックから封筒を抜き出し、裏を返して私に見せる。記されているのは祖父の名前とこの家の住所だった。筆跡も祖父の真筆であると見えた。
「急用、とだけ記されていてね。取るものも取りあえずで来たのだけれど、どうかな? ひとつ信じて、彼に会わせてはもらえないかな」
退院が決まる前、祖父が封書をしたためて、看護の人に託したとの話は聞いていた。
口述筆記をしようにも、結局喋る方が大仕事になってしまうから、代筆もできなくてごめんなさいと、そう詫びられたので記憶に残っている。
その手紙が、このひとを呼び出す為のものだったのだろうか?
不審を孕んだ目で、私は眼前の人物を観察する。
年の頃は二十代前半くらいだろうか。外見の印象は中性的で、まるで男女の別がつかない。私も同様の言いをされはするが、このひとは私に輪をかけている。
けれど今のやりとりの折の、静かでやわらかな声質から、そのひとが女性であるとは判っていた。そうと思って見ればその線の細さも、痩躯というより華奢とすべきな、女性の印象を与えるものだ。
黒のスラックスに白いイタリアンシャツ。サイズからして、あれは男物だろう。頓着しないのだろうか、手提げしたディパックもそのひとの雰囲気には馴染まないもので、色合いも妙に若々しい。むしろ私くらいの年代が好みそうな品だった。
そこへ明らかに安手のスニーカーをつっかけていたりするのだから、普通ならもっとちぐはぐな印象になるはずだ。
なのにその風体は奇妙にしっくりして見えた。見た目よりもずっと長く年を重ねた人物のような、そんな落ち着きすら感じさせる。
この女性は、一体ソフトはどういうつながりなのだろう。それがひどく不思議だった。
そこではっと我に返る。
思案に耽る間の不躾な視線を、そのひとは正面から受けて見返していた。心底まで見抜かれた気がして、私は一呼吸だけ狼狽する。
するとそのひとは微笑んで、
「ああ──君は利一君によく似ているね」
夕日が、風景を紅に染め上げる。
懐旧するように笑むその横顔を、私は何処かで見たと思った。