1.
死者老いず 生者老いゆく 恨みかな
──菊池寛
昔、まだ私たちの間に屈託のなかった頃。
祖父に一葉の写真を見せられた。
──こいつには、大した秘密があるんだぞ。
そう言って祖父は笑った。
思わせぶりな口調に覗き込むと、それはひどく小さな、辛うじて人物の顔が判るくらいに小さな写真だった。
赤く陽光の名残に染まった木立を背に、まだ若い祖父が他数名と並んで写っている。
祖父は一時期東京で雑誌を作っていたと聞いた事があったから、その頃のものであろうと見当はついた。若干の知らぬ顔はあれども、今でも親戚のように付き合いのある人々も居た。
幼い頃の私にも、彼らが祖父にとって特別な仲間である事は容易に窺い知れた。
そうでなければこうして、まるで勲章のように得意げに孫に見せる事もないだろう。その何よりの証拠に、写真の中の祖父は実に闊達に笑っている。
これを撮ったその時、その瞬間は、祖父にとって幸福なものであったに違いない。
だが、読み取れたのはそこまでだった。秘密とやらはどこにも見当たらない。
私が白旗を揚げると祖父は悪戯っぽく笑い、
──お前が大きくなったら教えてやろう。それまで大事に預かっておいで。
そうして、私は託された写真を、両手で大事に受け取った。
癇癖が強く、何につけても昔気質の祖父は容赦のない雷を落とす事があって、時折身内からすらも煙たがられた。けれど私には優しかったし、私も祖父によく懐いていたのだ。
その写真は今もお守りのように、私の手元にちゃんとある。
けれどそれを取り出して眺めれば、私は落涙を禁じえない。
遠い夕暮れの中の祖父は幸福に、健やかに笑っている。だが現実の祖父は離れにただ横たわって、明日をも知れない身の上だった。
数年前に、祖父は肺を病んだ。
最初は少し咳が出る程度だったが、徐々に体は悪くなっていった。止まない咳が気管を傷つけ、話すのにも努力がいるようになり、やがて会話は苦痛を介するようになった。じわじわと体力は衰えて、しばしば呼吸すらも難儀になった。
入退院を繰り返すようになり、やがて病室でコードと点滴に繋がれたきり、家にも帰れないようになった。会うたびに痩せこけていく祖父は、正直見るのが辛かった。
見舞いの私や母の姿を認めても小さく頷いて見せる程度で、どうしても伝えたい事がある時にだけ辛うじて筆談をした。
矍鑠としていた頃の面影はまるでなくて、祖父を知る者は皆、あの雷を懐かしんだ。
その祖父が昨日、家に帰ってきた。
離れの枕頭には母と叔母と私とが、代わる代わるで詰めている。
けれどこの退院は、健康を取り戻したが故の帰還ではなかった。それはもし次に発作を起こしたら家でも院でも大差ないという意味合いで、つまりはそういう種類の配慮なのだった。
聞けば医師の立会いのない死は、親族に囲まれた大往生であっても変死として扱われるのだという。だからこの帰宅は随分な横車を押し、相当な無理を言った結果のようである。
だが当の祖父が、家に帰る事を強く希望したのだ。気息奄々ながらも筆を執って、自らの意志を明示したのである。だから、誰もそれを妨げようとはしなかった。
階下からは母の声が聞こえる。親類縁者に電話をして、祖父の危篤を伝えているのだ。今は叔母が祖父についているのだろうと思われた。涙を拭って、私は写真を手帳にしまう。そろそろ叔母と交代すべきだ。
部屋の空気はどんよりと蟠って、母屋にも離れにも、ひとの死の気配が濃厚に立ち込めていた。