悪夢の終わり、されど未だ夢の途中.02
台所を見ると家族が誰もいなかった。
まだ皆が出るほど遅くは無いと思うのだけれど。
妹が登校している事や、父親が居ないのも、まあ、早朝に会議があったのかもしれない。
そこまでは分かるが、母親まで居ないのはどういうことだ?
アルバイトの始業時間は10時だった気がする。
机の上にも何も無い。
いつもは母が作っているはずの弁当や家族が食べた朝食の跡も、何の痕跡も残っていない。
食器は洗い桶につけているのだろうか、とシンクを覗いてみるが、シンクには水滴の一滴も落ちていない、これから水を流すことを躊躇わせるほど、きちんと片付いていた。
その癖、ガスレンジに掛けられていたヤカンが空焚き寸前の喘息のような蒸気を吐き出していた。
あわてて火を消す。
ヤカンは安心したように少しづつ、吐き出す蒸気を減らしていく。
私は思わずつぶやいた。
「・・・、マリーセレスト号事件?」
世界的に有名な、結局中の人間は氷山だったかなんだったかを見つけて避難しただけ、立ち上るコーヒーの湯気などはでたらめだったという、あの都市伝説を髣髴とさせる気がする。
そんな馬鹿な、と考えながらも少し不安になった私はやはり着替えて学校に行くことにした。
このキッチンに、どこか拭いきれない不安を感じながらも。
部屋に戻って、ハンガーに掛けている制服を見る。
昨日、クリーニングから戻ってきただけあって皺一つ無い。
私の学校の制服は少し変わっていて、セーラー服のような、そうでないような奇妙な形をしている。
友人に言わせると「某社会現象を引き起こした国民的人気アニメの制服に似てる」らしい。
彼女はそれを知って結構偏差値の高いこの高校を受験したそうである。
なかなか突き抜けたおばかさんだが、いい子である。
・・・本当ですよ?
さて、着替えだした私は、その友人に返すCDの事を考えていたのだが、何かが気になって仕方なかった。
何かがおかしい。
いつもの日常を構成する、とても大事ななにかが欠けてしまっている気がする。
ふむ。
私は顎に指を添えて考える。
この癖のせいで一時期私のあだ名はシャーロックだった。
ちなみに名付けたのは前述した友人である。
彼女がシャーロックと呼ぶたびに『じゃあお前はワトソン君か』と私が突っ込み、
彼女が『ううん、アタシはアイリーン・アドラーよん』と返すのがクラスの名物だった時期があった。
実に馬鹿馬鹿しい、良い思い出である。
そのせいで2、3下位彼女と喧嘩したりしたけれど。
・・・話を戻そう。
しかし何が欠落しているというのか。
「・・・くしゅんっ!」
静かな部屋に私のくしゃみが響き渡った。
うっかり着替えかけで考えていたものだから体が冷えてしまったようだ。
手早く着替えながら、ほと、気づいた。
欠落しているもの。
手が、止まった。
次いで、呼吸すらも。
ドク、ドクン、心臓がやかましく鼓動を響かせる。
この部屋からは音というものが欠落していた。
いいや、この部屋だけではない。
この家は、このマンションは駅の目の前に存在しているのだ。
それも、朝には快速特急も止まる、通勤ラッシュが中々すさまじい、えき、が。
恐る恐る、窓から駅を臨む。
ホームは・・・無人だった。
人が、居ない。
無人もいいところだ。
そんな私の目の前で、ゆっくりと、電車が動き出す。
中は空っぽのまま。
そんなのあり得るはずが無い。
まだ8時半だ、いつもならホームには人が、溢れてるはずなのに!
やっと、事態が飲み込めた。
この、異常事態が。
この部屋で欠けていたもの。
それは生活音だ。
人間、いや生物はすべて。
生きていく際には音を出す。
呼吸、食事、運動、その全ては音を発する。
「・・ぁ、う、あああぁ」
恐怖で、思考が回らなくなる。
がたがたと、足が震え始めた。
きびすを返して、家を出た。
生きている何かを、探すために。