産声のあとに、女王はペンを執る
ホーフブルク宮殿の執務室には、蜜蝋の匂いと、乾きかけたインクの匂いが漂っていた。
マリア・テレジアは机に向かい、羊皮紙に目を落としていた。腹部は大きく張り出し、身じろぎするたび、重みが身体の芯に響く。十四人の子を産んだ彼女にとって、これが十五度目の出産だった。
「陛下。カウニッツ伯から、パリとの交渉について急ぎの書状が届いております」
側近が差し出した書類を、彼女は受け取った。プロイセンとの争いで失ったシュレージエンは、いまも胸に刺さった棘だった。だが、その地を取り戻す道は戦場だけにあるのではない。長く敵対してきたフランスとの関係を見直し、ヨーロッパの勢力図を変える。カウニッツは、その難しい賭けに国の行く末を懸けようとしていた。
胎内で、子が強く身じろぎした。彼女は一瞬だけ眉を寄せ、腹に手を添えた。
「ずいぶん気の強い子ね。母親が書状を読んでいるときまで、黙ってはいられないの」
「陛下、少しお休みくださいませ。産褥の支度は整っております」
侍女頭がそっと言った。マリア・テレジアは書状から目を上げず、返書の末尾に署名を記した。
「休むのは、返事を書いてからです」
声に迷いはなかった。父カール六世が亡くなったとき、彼女を待ち受けていたのは、揺らぐ国庫と、十分に備えのない軍、そして「娘ひとりに何ができる」と値踏みする列強の視線だった。王位を継いだあの日から、彼女は一度も、国を背負うことをやめられなかった。
扉が開き、夫のフランツ一世が入ってきた。皇帝の礼装をまといながら、その顔には、かつてトスカーナ大公として過ごした頃の穏やかさが残っている。
「テレジア、また仕事かい。顔色がよくない」
「あなたこそ、夜会を抜けてきたのでしょう」
「少しだけね。帳簿と、商いの話をしていた」
フランツは苦笑し、手にした書類を机に置いた。彼は政治の表舞台に立つことこそ少なかったが、財政や事業に才覚を発揮し、帝国を支える資金を生み出してきた。
「君が国を動かし、私はその足元を支える。そういう役割分担だろう」
「ええ。そして、あなたは私を心配する役目も担っているようね」
「それは役目というより、私の望みだよ」
彼は彼女の傍らに立ち、膨らんだ腹にそっと手を置いた。
マリア・テレジアは、夫の浮気に心を痛めたこともあった。それでも、少女の頃から愛した人だった。彼女が背負う政務の重さを知り、言葉にせずとも支えてくれる人でもあった。
「あなたが稼ぎ、私が治める。私たちが子を育てる。たしかに、悪くない分担ね」
彼女は微笑んだ。だが、その笑みはすぐに消えた。
十四人の子どもたち。その小さな手を握り、病に倒れた子らを見送った夜を、彼女は忘れたことがない。母であることと、君主であること。そのどちらかを選べる日など、彼女にはなかった。
子どもたちは、家族であると同時に、ハプスブルク家の未来をつなぐ存在でもあった。婚姻は同盟を結び、血縁は国と国のあいだに橋を架ける。いつかこの子も、遠い国へ嫁ぐことになるかもしれない。そう考えたとき、彼女の胸に、まだ名も知らぬ悲しみがよぎった。
「うっ……」
下腹部を鋭い痛みが貫いた。彼女は机の縁をつかみ、羽ペンを取り落とした。黒いインクが、書類の上に広がる。
「テレジア!」
フランツが駆け寄る。侍女たちが寝室へ走り、産婆を呼ぶ声が廊下に響いた。
それでも彼女は、夫の腕をつかんだ。
「カウニッツへの返事を……」
「今は何も考えなくていい」
「パリとの交渉を、止めてはなりません。シュレージエンを取り戻す道を、閉ざさないで」
フランツは彼女の手を握り返した。
「わかった。私が伝える。だから、もう話さなくていい」
彼の肩を借り、マリア・テレジアは寝室へ運ばれていった。
幾度もの陣痛と祈りののち、産声が宮殿の静けさを破った。産婆は赤子を白い布で包み、母のもとへ運んできた。
「おめでとうございます。皇女様でございます」
疲れ切った腕で、マリア・テレジアは小さな命を抱いた。赤子は軽く、けれど確かな温もりを持っていた。白い肌に、金色の産毛がかすかに光っている。
「アントニア……」
指を差し出すと、赤子の手が母の小指を握った。あまりに小さく、頼りない力だった。そのぬくもりに、彼女の表情がゆるむ。
やがてこの子は、マリア・アントニアと呼ばれ、遠いフランスでマリー・アントワネットとなる。二つの家のあいだに結ばれる縁が、いつか国々の関係を変えていく。その運命を、いま腕のなかにいる子はまだ知らない。
「お前には、遠い道を歩かせることになるのね」
囁きは、赤子の寝息に溶けた。
夜が明ける頃、寝室の外には、皇女の誕生を祝うために高官たちが集まり始めていた。マリア・テレジアは赤子を胸に抱いたまま、扉の向こうの気配に耳を澄ませた。
母として、この子を腕に留めていたい。
君主として、国の未来を見据えなければならない。
その二つの思いを抱えたまま、彼女は静かに目を閉じた。やがて差し込む朝の光のなかで、彼女は再び目を開くだろう。ハプスブルク家の母として、そして国を治める者として。




