用が終わったら出る
朝の水くみ口の前に、今日は六人いた。
ガルドは外壁の上を歩きながら、それを確認した。六人。一週間前は九人だった。三週間前は十四人だった。最初の日は二十三人いた。
日常になった、ということだ。
水が出ていることが当たり前になった。特別な日ではなくなった。それでいい。それが正しい形だ。水道は使われて初めて機能する。珍しがられている間は、まだ日常じゃない。
(六人が正常値だ)
ガルドは外壁の石の継ぎ目を確認しながら歩いた。東面。コルダが最後に確認した区間だ。先週、ラウドが引き継いで以来の初確認だ。継ぎ目は動いていない。石は動いていない。
正しく積んである。三十年の腕は、引き継いだあとも残っている。
外壁の南端まで来たとき、マルカが下から声をかけてきた。
「降りてこい。話がある」
「今確認中だ」
「終わったら来い」
マルカは待てない男ではない。何かあった。ガルドは残りの区間を早めに歩いた。欠け一箇所、継ぎ目のゆるみ二箇所。ラウドへの確認事項として手帳に書いた。
階段を降りた。マルカが南門の脇に立っていた。腕を組んでいる。いつもの立ち方だ。
「何だ」
「自警団の話だ」マルカは言った。「新しく三人増やす。南の見回りを分担させたい」
「俺に言う話か」
「一応報告しておく」マルカは言った。「お前が関係する区間の見回り担当が変わる。知らないと余計な話が出る」
「分かった」
「それだけか」
「それだけだ」
マルカが少し肩を動かした。言いたいことがある動き方だ。
「——三人、若いのが来た」マルカは言った。「先月から。南の農地が広がって、見るべき場所が増えた。増やすのが正しい」
「そうだな」
「俺が三人を一から教える。半年で形にする」
「できる」ガルドは言った。迷わずに言った。
マルカが少し間を置いた。
「——根拠はあるのか」
「三十年ある」
マルカが笑った。短い笑いだった。
「俺のことか」
「他に誰がいる」
設計小屋に戻ると、シオからの使いが来ていた。タルカ村の水路、第三区間に入ったという報告だ。工法変更の施工は順調に進んでいる。追加の問いはない。報告だけだ。
ガルドは手帳に記録した。「タルカ村水路、第三区間着工確認」。日付を入れた。
(追加の問いがない)
三区間目に入った。二区間で経験を積んだ。三区間目は一人でやれると判断した。だから問いを出さなかった。正しい判断だ。
ガルドは設計書を広げた。第三工区の区画割り。ラウドへの引き継ぎが終わった今、施工が動いている箇所は三か所ある。住居区画の第二工区、倉庫区画の排水路、そして駐留兵舎の地盤確認だ。
三か所が同時に動いている。三か所とも、ガルドがいなくても今日の作業が進む。
昼前にマルカが設計小屋に入ってきた。
「飯を食え」
「あとで食う」
「今食え。昨日も午後まで食わなかっただろう」
「——覚えているのか」
「シオに頼まれた」マルカは言った。「飯の時間を確認してくれと。タルカ村に行く前に言っていった」
ガルドは鉛筆を置いた。
(そういうことか)
シオが遠隔地からでも管理している。それはそれで正しい判断だ。記録係の仕事は設計図だけではない。
「分かった。食う」
二人で詰所の横の板台に座って飯を食った。麦粥と干し魚だ。マルカは飯が速い。ガルドよりも速い。
「お前は」マルカが言った。
「何だ」
「いつまでここにいるんだ」
ガルドは麦粥の椀を持ったまま止まった。
急な問いではなかった。マルカがいつかは聞くと思っていた問いだ。今日来た、というだけのことだ。
「用が終わったら出る」
マルカが箸を止めた。
「——用が終わったら」
「そうだ」
静かになった。遠くで職人の槌の音がしている。東の区画の方だ。石を積んでいる音だ。
「用が終わったとは、どういう意味だ」マルカは言った。「この要塞が完成したということか」
「設計書に書いたものが地面に揃ったときだ」
「それは——いつだ」
「今はまだ分からない」
マルカが椀を置いた。腕を組んだ。
「分からない、か」
「まだ判断できていない」ガルドは言った。「設計書は今も書き直している。書き直す間は終わっていない」
「設計書を書き直すのをやめれば終わるということか」
「そういうことではない」
「じゃあ何だ」
ガルドは少し間を置いた。椀の中の粥を見た。
「書くべき設計がなくなったとき、だ。やり残しがなくなったとき。そこが用が終わった、になる」
「それは今じゃないのか」マルカは言った。「水道は通った。壁は立っている。道路は整った。自警団は動いている。住居は増えている。それ以上何が要る」
「駐留兵舎の地盤確認が残っている。北の空地の地下に古代遺構がある可能性がある。基礎設計を見直す必要があるかもしれない」
「そうか」マルカは言った。「それが終わったらか」
「——まだ分からない」
マルカが黙った。
槌の音が続いている。止まらない。誰かが石を割っている。ラウドか、ブレヴか、新しく入った石工のどちらかだ。ガルドが指示しなくても石が積まれている。
マルカはそれを聞いていた。聞いていて、何も言わなかった。
「——お前が来る前は」マルカはしばらくして言った。「自警団は五人だった。今は十八人になった。三人増えれば二十一人だ」
「そうだな」
「俺が一から教えて動かせるようになった。今の十八人を俺が全部教えた。それは——お前がここにいたから、やれた」
「マルカの仕事だ」
「そうだ」マルカは言った。「俺の仕事だ。だが、何かが変わったのは確かだ。街が変わった。俺も変わった。三年前の俺には、新しい三人を半年で形にできると言い切れなかった」
「今は言い切れるのか」
「言い切れる」マルカは言った。迷わなかった。「自警団の動き方を知っている。街の守り方を知っている。新しい三人に何を教えれば十分かを知っている。三年前は何も知らなかった」
「それはお前が積んだものだ」
「そうだ」
マルカが遠くを見た。外壁の方だ。南面の石が陽を受けている。
「お前が出ていっても、ここは動く」マルカは言った。
「そうだ」
「ラウドがいる。シオがいる。自警団がいる。水道が通っている。城壁が立っている。道路が走っている。農地が広がっている——用が終わった、とはそういう意味か」
ガルドは答えなかった。
マルカが言ったことは正しい。ヴァルダ・ノヴァは今、自分なしで動いている。今日の施工をガルドが指示しなくても、ラウドが石を積む。自警団がマルカの指示で動く。水道に問題が出れば、ラウドが確認して、シオが記録する。
設計師がいなくても、街が続く。
(それが完成だ)
「まだ判断できていない、と言ったな」マルカは言った。
「そうだ」
「本当に判断できていないのか」
「——どういう意味だ」
「お前が判断できないのか、判断したくないのか、どっちだと聞いている」
ガルドは椀を置いた。マルカを見た。
三十年の目だ。自警団を十八人に育てた男の目だ。この土地を誰よりも長く知っている男の目だ。
「——まだ設計書が残っている」ガルドは言った。「それは本当のことだ」
「そうだな」マルカは言った。「俺も急かしているわけじゃない。聞きたかっただけだ」
「どうして今日聞いた」
「シオが出ていった。コルダが引退した。区画が増えた。——何となく、区切りに見えたからだ」
夕方になった。
ガルドは外壁の北端まで来た。地下古代遺構の調査が確認されていない区間だ。北の空地を見下ろした。駐留兵舎の予定地だ。杭が数本立っている。まだ着工していない。
地下三尺に、三百年前の設計がある。
誰かがこの土地に来て、水と道路と排水を一体で設計した。外壁の外まで広がる、より大きな都市を想定して設計した。その人間がいつここを去ったのかは分からない。去った理由も分からない。
ただ、設計は残った。三百年、地下に残った。
(残れば次が作れる)
コルダが言っていた——いや、ガルドが夜に一人で考えていた言葉だ。渡した分は残る。残れば次が作れる。
今ここに立っている石積みも、三百年後に誰かが掘り出すかもしれない。継ぎ目の精度を見て、設計の意図を読むかもしれない。
ガルドはそれが正しいかどうかは判断しなかった。ただ、設計書が残れば記録が残る。記録が残れば次の誰かが使える。それだけだ。
設計小屋に戻った。
机の上に草稿が四枚ある。第三工区の区画割り。駐留兵舎の基礎設計の草稿。地下遺構の平面図の写し。タルカ村水路の記録書。
四枚が並んでいる。
どれも途中だ。
(まだ残っている)
ガルドはそう思った。正直にそう思った。自分が判断できていないのか判断したくないのか——マルカの問いには答えなかった。正確に言えば、どちらでもある、という話になる。
設計書が残っているのは本当のことだ。だが、もし設計書が今日全部終わっていたとしても、ガルドはすぐにここを出ると言えたかどうか。
それは分からない。
シオが戻ってくるのは、タルカ村の水路が全区間通った後だ。三週間か、もう少しかかるか。
コルダは来月の正式引き継ぎを終えたら、ヴァルダ・ノヴァを出る。
自警団は二十一人になる。
住居区画の第三工区が動き出せば、ヴァルダ・ノヴァの人口は今の一・五倍になる計算だ。設計書の三項目に書いた数字に近づく。
設計書を書いたのはガルドだ。だが、それを地面に実現したのは——ラウドとコルダとシオとマルカと、名前を全部は言えない職人と領民だ。
(俺の仕事は設計だ)
地面に揃えるのは、他の人間がやる。ガルドは設計を出す。設計が正しければ地面に揃う。地面に揃ったなら設計が正しかった。それだけのことだ。
夜になった。
ガルドは草稿の一枚を取った。第三工区の区画割りだ。残り三本の境界線を引く。引けば今日の仕事が終わる。
手を動かした。
線を引いた。一本、二本——三本目を引こうとして、手が止まった。
別に止まるべき理由はない。計算は出ている。境界の根拠は決まっている。引けば終わる。
ただ——マルカの問いが一度だけ頭に出てきた。
「——用が終わったとは、どういう意味だ」
ガルドは答えを出さなかった。今日、自分に対しても出さなかった。
設計書が残っている。それは本当だ。だが設計書は書けばいくらでも増える。増えることを理由に留まり続けるのは、正しい判断ではない。
(終わったと判断するのは俺だ)
それも分かっている。分かっていて、今日はまだ判断しない。
三本目の線を引いた。
窓の外が暗い。ヴァルダ・ノヴァの夜だ。外壁の石が月を受けている。水くみ口の方は見えないが、今夜も水は出ているはずだ。止まらずに出ているはずだ。
自警団の夜番が動いている。ラウドが今頃、明日の施工段取りを確認しているかもしれない。
誰に頼まれたわけでもなく、動いている。
(ヴァルダ・ノヴァは動いている)
ガルドは草稿を重ねた。机の端に置いた。
用が終わったら出る。それは本当のことだ。出ていくとき、この街は動いている。そういう形で出ていく。
いつになるかは、まだ分からない。だが——出ていける形には、近づいている。
(そうだな)
ガルドはそう思って、鉛筆を置いた。
あとがき
Arc 6の起フェーズ後半。マルカの「いつまでいるんだ」という問いに「用が終わったら出る」と答える、ただそれだけの話です。ヴァルダ・ノヴァが完全に自走できる状態になっていること、ガルドがそれを分かっていながらまだ「用が終わった」と言い切れていないこと——その曖昧さごと描くのが今回の核です。終わりに向かいながら、まだ終わっていない。




