第9話 賢者様の婚活事情
オスカーの言葉は、俺の中で絡まっていた思考の糸をほぐす、一つの答えだった。
――大成する。
悪役を演じて価値を貶めるのではない。家の力に頼るのでもない。
俺自身の力で圧倒的な高みへと駆け上がり、誰にも文句を言わせなくすればいい。婚約の話など、立ち消えにさせるほどに。
その覚悟を胸に、俺がまず向かうべき場所は決まっていた。
「ディラン様、本日は法技会へ参加されるのですね」
支度を整える俺に、マルタが確認するように言った。
その声には、先日までの心配とは違う、どこか緊張の色が滲んでいる。無理もない。今や学院中の噂となっている俺が、その渦中の相手と顔を合わせに行くのだから。
「ああ。避けては通れないからな」
彼女を避けて授業を受けられないとなったら元も子もない。
それにあの噂が出てからエルナ・グリーベルの動向は掴めていなかった。
そんなことを考えながら俺は目的地である中庭に向かった。
「ディラン様?」
突然、寄り道を始めた俺にマルタが疑問の声を上げる。
「いや、昨日ここでちょっと落としたものがあってな……」
俺は適当な言い訳を口にし、中庭の東側――古い日時計のそばへ向かう。噴水から見て三時の方向。
石畳の目地を一つ、二つ、三つ……七つ数えて立ち止まる。
膝をつき、石の継ぎ目を指先でなぞる。
とはいえ、ゲームとは違いすぐに見つかるようなものでもない。
ふと、その瞬間、懐から鈴が落ち、ころころと石畳の上を転がった。
銀の小球は、わずかな勾配に従って右へ転がり、石の継ぎ目で止まる。
(あ、ここだ)
鈴が止まった場所。
そこがまさしく俺が探していた場所だった。
鈴が止まった継ぎ目の上で、鈴を拾い直すかのように腰を落とす。
石の間に薄く覗いた銀色――硬貨が一枚、縁だけ見えている。
指先でそれを引き抜いた。
それは金貨だ。
苔で多少は汚れているものの、そのアイテムは俺の求めていたものだった。
『赦禍判金』
表に極細の線で〈赦〉、裏に〈禍〉。
縁には肉眼では見えにくい刻みが走っている。
使い方は簡単。コイントスをするだけだ。
表なら――“赦”。対象者の呪詛を解く。
裏なら――“禍”。対象者に呪詛を与える。
まさにゲーム要素たっぷりの隠しアイテム。
元々は裁判なんかで使われたとか何とか。
この世界でもゲームどおりに生じるかは分からないが、あって困るようなものではない。
(この鈴は……幸運の鈴だったよな)
俺は左手で鈴を拾う。
これは先日アリシア商会で購入したお守りだ。
まさか、本当に効果があったのだろうか。
すると、中庭に面したラウンジから、氷のように冷たい女性の声が聞こえてきた。
「――よって、条件87『古代魔法文明期の標準語において、日常会話レベル以上の読解、記述能力を有すること』。あなたはこれを満たしていません。論外です」
この声には聞き覚えがある。俺は足を止め、恐る恐るラウンジを覗き込んだ。
そこには、予想通りの人物が立っていた。銀髪を揺らし、腕を組んで立つ賢者エルナ・グリーベル。
そして彼女の前には、一人の上級貴族らしき男子生徒が、顔を真っ赤にして立ち尽くしていた。
「そ、そんな……。ですがエルナ様、俺は家の爵位も高いですし、将来は父の跡を継いで――」
「条件34『将来の展望について、親の威光ではなく自身の言葉で具体的に語れること』。これも満たしていませんね。次の方どうぞ」
エルナは手に持った羊皮紙の巻物をちらりと見ながら、男子生徒の言葉を容赦なく切り捨てる。あれが噂に聞く『理想の男性の条件100箇条』か。
ラウンジは、宮廷魔法師による公開処刑場の様相を呈していた。
(……えげつない)
俺は内心で呟いた。
彼女は本気だ。
本気で、この百箇条という名の超高度なフィルターを使って、自分に近づく男たちをふるいにかけている。
今は関わらないのが吉だな。
俺は物音を立てないよう、そっとその場を離れようとした。
「――そこのあなた」
氷の刃のような声が、俺の背中に突き刺さった。
心臓が跳ねる。まさか、気づかれたか?
俺は意を決し、ゆっくりと振り返った。
しかし、エルナの視線は俺を通り越し、俺の背後にいた別の男子生徒に向けられていた。彼はエルナの指名にビクリと肩を震わせ、おずおずと前に進み出る。
(……助かった)
内心で胸をなで下ろし、俺は今度こそ足早にその場を去った。
背後で新たな処刑宣告が聞こえた気がしたが、聞かなかったことにした。
▼
マクスウェル教授の研究室には、既に数人の生徒が集まっていた。
俺は、視線を感じながらも重厚な革張りの椅子に腰を下ろし、先ほどの光景を思い出して小さくため息をつく。
(あれが賢者の婚活……。完璧主義も、ああなると凶器だな)
原作での彼女は、魔法の探求にのみその完璧主義を発揮していたはずだ。その矛先が恋愛に向いた結果が、あの惨状というわけか。
俺との初対面の時は、まだマシだったわけだが、あれはあれで彼女なりに頑張って猫を被っていたのだろう。
「……お疲れのようですね」
法技会メンバーの一人、ヘンリーから声をかけられた。
「まあ、ここに来る途中でちょっと……」
俺が曖昧に答えると、ヘンリーは苦い笑みを浮かべる。
「……ラウンジですよね。最近のエルナ様は、少々おかしな方向に熱が入っているようでして」
その言葉に、周りにいた他のメンバーたちも、気まずそうにうなずいた。どうやらあの公開処刑は、日常茶飯事と化しているらしい。
「少しどころじゃ……」
「俺はもう、エルナ様と目が合うだけで寿命が縮む気がする……」
メンバーたちは口々に不満とも畏怖ともつかない感想を漏らす。
彼らにとって、エルナは尊敬すべき天才であると同時に、最も関わりたくない相手でもあるようだった。
皆がそんな話で盛り上がっていた、その時だった。
重厚な扉が静かに開き、室内の温度が数度下がったかのような錯覚に陥る。
振り向けば、噂の主、エルナ・グリーベルその人が、表情一つ変えずに立っていた。
「おはようございます」
凛とした挨拶に、先ほどまでエルナへの不満を口にしていたメンバーたちが、びくりと背筋を伸ばす。一瞬にして研究室の空気が引き締まった。
エルナは俺たちを一瞥すると、マクスウェル教授の隣、円卓の上座にするりと腰を下ろした。そこが彼女の定位置であるらしい。
「ディラン・ベルモンド様。先日は大変失礼いたしました」
不意に、エルナが俺に向かって静かに頭を下げた。
その予期せぬ行動に、俺だけでなく、他のメンバーたちも息を呑む。
「私の早とちりで、あなたに不快な思いをさせてしまったこと、お詫びいたします」
その言葉は、明らかに前回の法技会での豹変ぶりを指していた。
だが、彼女の碧眼には謝罪の色とは程遠い、探るような光が宿っている。
これは、俺の出方を見るための牽制球だ。ここで下手に激高なんてしたら、彼女の思う壺だろう。
「いえ、気にしておりません。それより、本日の議題が楽しみです」
俺は当たり障りのない笑みを浮かべて返した。
貴族として叩き込まれたポーカーフェイスが、これほど役に立つ日が来るとは。
俺の返答に、エルナはわずかに眉を動かしたが、それ以上は何も言わず、手元の資料に視線を落とした。
ぴんと張り詰めた沈黙が、研究室を支配していた。
やがて、マクスウェル教授が入室し、重々しく咳払いをした。
「うむ、全員揃ったな。では、本日の法技会を始める」
マクスウェル教授はゆっくりと口を開いた。
「さて、本日の議題だが……『無詠唱法の限界と、その先』について議論したいと思う」
マクスウェル教授の言葉に、室内の空気が変わった。
先程までの気まずさが嘘のように、全員の目が知的な探究心の色を帯びる。俺もまた、その例外ではなかった。
「ご存知の通り、詠唱とは魔法式を構築するための補助行為だ。術者の精神を集中させ、魔力の流れを整え、世界の法則に干渉するための『鍵』の役割を果たす。そして詠唱を破棄する、いわゆる無詠唱とは、その一連の工程を思考のみで完結させる高等技術に他ならない」
教授はゆっくりと円卓を見回した。
「だが、思考の速度には限界がある。人の脳が処理できる情報量には限りがあるためだ。ゆえに、無詠唱で扱える魔法の規模と複雑さにも、自ずと限界が生まれる。この壁を、諸君らはどう捉えるかね?」
重い問いかけだった。最初に口を開いたのは、やはりエルナだった。
「それは、術者個人の資質、そして工夫の問題です。事実として紋章法は無詠唱法を再現するために作られました。今では詠唱法よりも安定性の高い術法として確立されています」
エルナの答えは淀みなく進む。
「その通りだ。紋章法は、複雑な魔法式をあらかじめ紋章という形で身体や道具に刻み込み、魔力を通すだけで発動させる画期的な技術。これにより、術者は思考のリソースを魔法式の構築ではなく、魔力の制御や出力の調整に集中できる。無詠唱の『思考速度の壁』に対する、一つの優れた回答と言えよう」
マクスウェル教授はエルナの意見を肯定し、うなずいた。
だが、と彼は言葉を続ける。
「しかし、紋章法にも限界はある。紋章を刻める面積には限りがあり、一度刻んだ紋章を戦闘中に書き換えることは不可能だ。つまり、対応力に欠ける。さて、他に意見があるのもはいるかな?」
教授はゆっくりと円卓を見回した。
エレナは気に食わなさそうに腕を組み様子を窺い、他のメンバーは手を挙げる様子は見られない。
そこで、俺はおずおずと手を挙げてみた。
「……精霊術はどうですか?」
俺の言葉に、マクスウェル教授はほう、と興味深そうに眉を上げた。
「精霊術……ですか」
ヘンリーがつぶやく。
「うむ、精霊術とはこの世界に遍在する精霊に『語りかけ』、力を借りる技術。確かに、精霊の力を借りれば、個人の魔力量や思考速度を遥かに超えた、大規模な奇跡を顕現させることも可能だろう。しかし……」
マクスウェル教授が言葉を切ると、エルナが即座に引き継いだ。
「精霊は気まぐれな存在。今では誓約を結ぶことである程度の制御は可能にはなりましたが、その誓約自体が術者の資質に大きく左右されます。結局は不確定要素に頼る術理であり、完璧とは程遠いものです」
ピシャリとエルナは締めくくる。
いかなる奇跡を起こそうとも、再現性がなければ技術として不完全。それが彼女の譲れない信条なのだろう。
なるほど、と俺は俺で感心していた。
ゲーム『エターナル・クエスト』でも、魔法と精霊術は明確に異なるスキルとして存在していた。
前者はクールタイムと膨大な魔力を要求される一方で、後者は漠然とした効果の中のランダム性であったり、最悪暴発なんてこともあった。
「……ああ、失礼しました。ディラン・ベルモンド様はまだ誓約の儀式を終えていないのでしたね」
エルナが俺をチラリと見ると、さも今思い出したかのように付け加えた。
挑発のつもりなのか、議論についていけていない俺への気遣いなのか。
「む、確かにそうか」
マクスウェル教授も俺を見て頷く。
その様子からこの場で誓約の儀を終えていないのは俺だけのようだ。
「何事も行いて知るもの、この議題はディラン君が誓約の儀を終えるまでの宿題としよう」
そんなマクスウェル教授の言葉に、ホッとしたような申し訳ないような気持ちに包まれる。
「さて、今年度の誓約の儀はいつだったか……」
「確か、今月末だったかと」
マクスウェル教授の呟きにヘンリーが答える。
「それは好都合だ。ディラン君、ぜひ参加してみたまえ。君ほどの魔力感知能力があれば、きっと興味深い精霊と縁を結べるだろう」
教授の言葉に、俺は頷いた。だが内心では複雑な思いが渦巻いている。
(誓約の儀、か……)
原作では、この儀式がしばしば運命の分かれ道となっていた。強大な精霊と契約を結ぶ者もいれば、相性の問題で何の縁も結べない者もいる。そして勇者リオンは、この儀式で伝説級の精霊と契約したはずだ。
しかし、当の勇者本人は不在。
一体どうなることやら。
誓約の儀が、俺にはまた新たな波乱の火種になりそうな予感がひしひしと伝わってきた。