第7話 世界の行く末
俺は、マルタが何を言っているのか、すぐには理解できなかった。
婚約?
俺と、あのエルナ・グリーベルが?
「……ちょっと待ってくれ。俺が、エルナ・グリーベルと、婚約?」
「まあ、正確には候補として挙げられている状態ですが」
マルタは当たり前のように訂正を入れる。
「……初耳なんだが」
「はい?」
マルタは心底不思議そうに首を傾げた。その表情は「ご冗談を」とでも言いたげだ。
「いや、だからその婚約の話だ。俺は今ここで初めて聞いたんだが」
心の底からマルタに訴える。
「先程はご存知だと言っておられたではないですか」
「……何の話だ?」
困惑しか浮かばない俺に対して、マルタもまた困った様子で答えた。
「廊下でエルナ様の『縁談の話』をされた際に、オスカー様からお聞きになったと……」
「ああ……」
そこでようやく、俺とマルタの間で致命的な勘違いが生じていたことに気づいた。
俺はエルナの婚活話をしていたつもりだったが、マルタはエルナと俺の婚約話をしていた、ということらしい。
「そういうことか……、マルタ、さっきのは俺の勘違いだ。本当に俺は婚姻のことを知らなかった」
マルタは数秒間、瞬きを繰り返した。やがて事態を飲み込めたのか、彼女は慌てて深く頭を下げる。
「も、申し訳ございません、ディラン様! 私の早とちりでした」
「いや、気にしないでくれ。お前が謝ることじゃない。……それより、詳しい話を聞かせてくれるか。いつからそんな話になっていたんだ?」
俺は乱れそうになる心を必死で落ち着かせ、椅子に深く腰掛けた。マルタは顔を上げ、記憶を探るように少し視線を泳がせる。
「私が聞き及んだのは、ディラン様が山での修行に入られてから三ヶ月ほど経った頃でした。ベルモンド侯爵家と、宮廷での影響力を増しているグリーベル家との縁組は、双方にとって大きな利がある、と……。もっぱら、ご当主様方が進めている話のようです」
「父上が……」
ゼノン・ベルモンド。
ベルモンド侯爵家当主である父は、厳格ながらもそれなりに理解のある人という印象だ。
俺が十歳で記憶を取り戻し、突如として剣の稽古や勉学に打ち込み始めた時も、父は特に何も言わなかった。
貴族らしからぬ汗まみれの鍛錬、そして半年間の山籠もり修行も最終的には許可を出してくれた。
だが、それはあくまで俺が次男であったことが大きいのだろう。
俺の兄クラウディオ・ベルモンドに対する期待は、俺に向けられるものとは比べ物にならなかった。
跡継ぎである彼には、一挙手一投足に至るまで、家門の名誉を背負う者としての期待と責務が課せられる。
剣技も学問も、人付き合いの所作でさえ、すべては「次期侯爵にふさわしいかどうか」という物差しで測られるからだ。
それに比べると、やはり次男である俺は比較的自由にさせてもらえていたのだろう。
……いや、自由だったわけではない。
ただ、俺に課せられる責務の形が、兄とは違ったというだけのことだ。
兄が家を継ぎ、血をつなぐ役目なら、俺は家の価値を高めるための駒。政略結婚はその最たるものだろう。
「……それにしても何で俺と」
思わず本音が口をついた。
原作においてディランに婚約者がいたなんて話は一切出てこない。
もちろんそれは当然ではある。
原作ディランはベルモンド侯爵家の恥であり、政略結婚の道具としても使えない状態だった。
「……ディラン様は少しご自身のことを過小評価し過ぎかと」
「そう、かもな」
マルタの言葉は励ましとして俺に届いたが、同時に皮肉な結論へとたどり着いた。
今の俺は、もはや原作のディランではない。
この五年間、破滅フラグを回避するために死に物狂いで積み上げてきた努力——剣の腕も、魔法の知識も、貴族としての体裁も、すべてが俺を「政略結婚の駒として価値ある存在」へと変えてしまったのだと。
故に、有力者として成長しつつあった俺とエルナとの縁談話が持ち上がってしまった。
それはすなわち、俺の努力が知らずに世界の運命を変えてしまったことに他ならない。
ディランという小悪党でも、世界という大きな物語を動かす歯車の一つだった。
俺が俺自身の破滅を回避するために動いた結果、本来噛み合うはずだった他の歯車が狂い、物語全体が軋みを上げて崩壊してしまった。
「……ちなみに、その話はどこまで進んでいるんだ?」
僅かに期待を含みながらマルタに尋ねた。
「生憎と詳細までは聞かされておりませんが、まだ正式な決定とはなっていないようです」
「なるほど……」
マルタの言葉に、俺はわずかな安堵と、それ以上に大きなため息を漏らした。
希望の光というにはあまりに弱々しい。
問題の根本は何一つ解決していない。
勇者、聖女、賢者の三人はこれから来るであろう災厄に立ち向かうために、必要不可欠な人材だ。
それがたった一人の小悪党のせいで、台無しにされてしまったのが、今俺の目の前にある現実。
(いっそのこと、悪党に戻るっていうのは……)
一見、馬鹿げた考えかもしれないが、完全な悪手とも言い切れない。
もし俺が、原作通りの傲慢で思慮の浅い、どうしようもない放蕩貴族に戻ったとしたら?
父上も、宮廷魔法師として名高いエルナとの価値ある縁談を、俺のような家の恥に任せようとは思わないはずだ。
それに、俺が悪行を重ねることで、聖女アリシアとの間に原作通りの対立が生まれ、その状況が引きこもっている勇者リオンの正義感に火を付け、彼を再び立ち上がらせるきっかけになるかもしれない。
そう、それこそが『エターナル・クエスト』の本来あるべき姿なのだ。俺という悪役がいてこそ、勇者たちの物語は正しく紡がれていく。
だが、それはあまりにも危険な賭けだ。
俺が五年間、血反吐を吐く思いで必死に逃げてきた破滅フラグのど真ん中に、自ら飛び込むようなもの。
……嫌だなあ。
更に、今さら俺が悪役を演じたところで、一度狂ってしまった歯車が元に戻る保証はどこにもない。
勇者の心は、すでに修復不可能なほど折れているのかもしれない。聖女はもはや辣腕の商人として、俺の嫌がらせなど金と人脈で解決してしまうかもしれない。
すべてが無駄骨に終わり、俺だけが破滅する未来。
それだけは、絶対に避けなければならない。
「……はぁ」
思わず、深いため息が漏れた。
「ディラン様……?」
俺の様子を、マルタが心配そうに伺っている。
「いや、何でもない」
俺は平静を装って立ち上がり、窓の外に広がる夜景に目を向けた。
俺の行動が原作破壊の元凶の一つであることが分かった今、無闇に動くことは避けた方が良いのかもしれない。
相変わらずやることは曖昧なままだ。
ただ決めるべきことは見えてきた。
このまま原作を無視して突き進むのか、無理やり原作に戻るように立ち回るのか。
どちらが正しいなんて、この世界の誰にも分からない。
後は、覚悟の問題だ。
「今日はもう寝るよ」
「おやすみなさいませ、ディラン様」
そう言って俺は悶々とした気持ちを抱えたまま、ベッドに横になるのだった。
▼
翌朝、俺はほとんど眠れないまま目を覚ました。
エルナとの婚約話、そして俺自身がこの世界のシナリオを崩壊させた元凶かもしれないという事実。二つの重石が頭にのしかかり、一晩中考えを巡らせていたせいで思考は鈍く、身体も鉛のように重かった。
「……とりあえず、朝食にするか」
鏡に映る自分の顔は我ながら酷いものだったが、いつまでも部屋に閉じこもっているわけにもいかない。俺は重い足取りで食堂へと向かった。
食堂に足を踏み入れた瞬間、俺はいつもと違う空気に気づいた。
いつも以上に視線を感じる。
数人の生徒たちが、こちらをチラチラと見ながら何かをひそひそと囁き合っているのだ。その視線には、好奇と、そしてどこか憐れみのような色が混じっている気がした。
(何だ……?)
心当たりは、一つだけある。
昨日のマクスウェル教授の講義で、それなりの成果を残せたこと。
しかし、それにしてはその視線の色が奇妙に感じた。
「よう、ディラン」
俺の姿を認めたオスカーは、パンをかじりながら片手を上げた。その口元が、やけにニヤけている。
「おはよう、オスカー。……なんだ、朝から機嫌がいいな」
「まあな。面白い話を聞いちまったからな」
オスカーはバターナイフで俺を指しながら、楽しそうに言った。嫌な予感がする。
「面白い話?」
「とぼけるなよ。お前の話だ」
「俺の話?」
ますます訳が分からない。俺は眉をひそめた。
「昨日の法技会のことか? マクスウェル教授に誘われてな」
俺がそう言うと、オスカーはわざとらしく肩をすくめてみせた。
「ああ、それだよそれ! まったく、お前も大胆なことをしたもんだな。俺はてっきり、お前はそういう色恋沙汰には興味がない朴念仁だと思ってたぜ」
「……は? 色恋沙汰?」
単語の意味が分からず、俺はオウム返しに聞き返す。
その俺の反応が面白いのか、オスカーは堪えきれないといった様子で笑い出した。
「まだ白を切るか。もう学院中、その話で持ちきりだぞ」
オスカーは声を潜め、もったいぶるように続けた。
「――お前があのエルナ・グリーベル様に、熱烈な告白をして、見事に玉砕したって話でな」
「…………は?」
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作者、机の前でガッツポーズします。