第68話 底知れぬ闇
王立魔法院の研究室。
窓の外がようやく白み始めた頃、俺たちはあの忌まわしい地下から戻って数時間が経過していた。
研究室はエルナのペンが、羊皮紙の上を走る音だけが響いている。
『何か重たい空気ですねぇ』
呑気なルーの声が響く。
(まあ、な)
無理もない。
あの地下への調査は、かなりの期待感を持って挑んだものだった。
それなのに、得られたのは“誰かが儀式を止めた”という、曖昧な情報のみ。
止めたのが誰かも、なぜ止まったのかもわからない。
ただ“終わってはいない”という、不気味な現実だけが残った。
肩透かし、その言葉に限る。
もちろん教団との決戦を望んでいたわけではなかったが、それでも何かが掴めると思っていたのに。
「報告書、完成しました」
エルナが手を止めた。
ペン先にこびりついた黒いインクが、まだ乾かぬままかすかに光る。
「評議会に提出するんですか?」
俺は尋ねる。
エルナは頷いた。
「はい。結果はどうあれ、正式な記録として残さなければなりませんので」
エルナもまた、不満そうに呟いた。
例の儀式は明日――だというのに、手元の情報はほとんど出尽くした。
彼女の苛立ちは、魔力の“垂れ流し”が観測されているのに、その流出先が特定できないことにもあるのだろう。
「今からですか?」
「はい、早めに提出することにします」
エルナは立ち上がり、手早く書簡を封蝋した。
印章が押される音が、乾いた室内に小さく響く。
「同行します」
「必要ありません。報告は私が行います。あなた方は休んでください」
エルナがチラリと視線を向けた先には、ソファの隅でリリアが丸くなって寝息を立てている。
「……わかりました。お気をつけて」
俺が言う事ではないかもしれないが、それでも言わずにはいられなかった。
エルナは小さく頷いて、出ていく。
――静寂。
魔導灯の光がゆらめき、壁にかかった影が細く揺れる。
リリアの寝息と、窓の外の鐘の音だけが現実の気配を繋ぎ止めていた。
『落ち着きませんね』
(ああ。噛み合ってない)
やっていることは間違っていないはずだ。
だが、絶妙に答えが得られない。
あと一歩のところで、何かに指先を弾かれるようにして真実が逃げていく。
そんな感覚がずっと胸の底に張り付いていた。
(ルーは何か感じないか?)
ルーに尋ねてみる。
影の教団はまさにルーが感じている闇そのもの。
彼女なら俺の魔力感知とは違う、もっと根源的に「魔王」の気配を感じ取れるはずだ。
『うーん、特に何も?』
(……そうか)
やはり答えは得られない。
ただ、それは同時に魔王復活のシナリオは変わっていないという証拠でもある。
それは間違いなく良いこと。
今は気持ちが悪いが、何も起こらないことに越したことはない。
――そのとき、扉がノックされた。
俺が反射的に顔を上げるより早く、扉が静かに開く。
入ってきたのは、騎士――クライスだった。
「……エルナ様は?」
クライスは俺の姿を認めると、少しだけ眉をひそめた。
「ちょうど今、評議会に報告書を届けに」
「そうか」
そして静寂。
俺としてはあの時のことがあってから、やはり気まずさが残っている。
『クライス・フォン・アルトナに対しての命令だ、って言っちゃってましたからね』
(おい、やめろ)
ルーの唐突なからかいに顔を顰める。
あれは、俺の精神的に追い詰められていた。
決して失敗だとは言わないが、もう少しやりようがあったんじゃなかったとも思う。
「クライス、あの時は……」
せめて本意ではなかった――と言いかけたところで、クライスが静かに片手を上げた。
「気にするな。あの場では、あれが正しい判断だった」
その声音に怒気はなかった。
その表情は相変わらずの仏頂面で、真意は分からない。
だが、彼がそう言うのなら、そう受け取るしかないだろう。
「……助かる」
俺がそう礼を返すと、クライスは「それより」と本題に入ろうとする。
「旧市街の調査の件なんだが」
「ああ、そっちでも何かあったのか?」
そう言えばもう一つの候補、旧市街も同時に調査をしていたんだった。
こうしてクライスが尋ねてきた、ということは何か進展があったのだろうか?
「旧市街の廃墟で、例の石と見られる欠片を見つけた」
クライスが差し出した布包みは、掌に収まるほどの大きさだった。
布をほどくと、中から黒ずんだ結晶片が現れる。
表面はひび割れ、ところどころ焦げたように変色している。
だが、中心にわずかに残る赤紫の光を見た瞬間、俺は確信した。
「……間違いない。魔誘石だ」
「やはりか」
クライスの目が細められる。
リリアも起き上がり、寝ぼけ眼のまま近寄ってきた。
「え、魔誘石? どこにあったの?」
「旧市街の南区、教会跡地の地下だ。崩落した礼拝堂の裏に、小さな祭壇のような場所があった」
「それって……」
リリアが俺を見た。
旧市街と大聖堂、二つの地下構造が同時に見つかった――つまり。
「儀式は一つじゃなかった」
俺の言葉に、室内の空気が凍る。
クライスがうなずいた。
「ただ地下ほど大規模ではなかったようだ」
「“分散型”かも。私たちが見つけた場所が中心核で、旧市街側は補助陣……魔力供給の中継とか」
リリアが顎に手を当て、思案するように言った。
「確かに……理に適っていますね」
エルナ不在の室内で、俺が自然と分析を引き継ぐ。
「魔誘石は魔力を吸い上げる装置にもなる。教団がそれを利用して、儀式の魔力を分散させていたとしたら……」
「本体の所在を隠すためか」
クライスが低く呟く。
「一箇所に集めれば目立つ。だが、いくつかの小規模な陣を連結させれば、王都の魔力網の監視を逃れられる」
その仮説に、リリアがぱっと顔を上げた。
「ねぇ、それってつまり――どこか“中心”に魔力が集まってるってことだよね?」
「そうですね。地下の儀式場はまだ動いていた。つまりまだ終わっていない」
言葉を発した瞬間、胸の奥で嫌な鼓動が跳ねた。
昨夜、地下で感じたあの残留魔力の流れ――。
もしそれが今も動き続けているなら、どこかに“受け皿”があるはずだ。
「不味いかもしれません」
俺は不安をそのまま吐露する。
今まで影の教団に及んでいないまでも、追い詰めていると思っていた。
だが、まだ届いていない。
学院のように魔誘石が使われたら、被害は比べものにならない。
「分かった、じゃあ直ぐに準備しないとね」
そう言ってリリアは備品室へ飛んでいった。
彼女の行動は相変わらず読めないが、この状況においては信頼していいだろう。
「直ぐにエルナ様にも伝える。クライスは騎士団に」
「ああ、分かっている。ただ魔誘石の件は既に報告済みだ。今、騎士を王都中に配置するよう動いている」
クライスと目を合わせる。
後手であることは否めない。だが、学院の時とは違ってある程度の予防はできている。
しかし不安は拭えない。
また魔物が現れたら、そう考えると恐怖心が芽生える。
「報告は以上だ」
そんな中、扉が再び叩かれた。
俺とクライスが同時に顔を上げる。
「ただいま戻りました」
それはエルナだった。
彼女は俺とクライスの姿を認めると、口を開いた。
「その様子だと魔誘石のことは聞いたようですね」
エルナは静かに扉を閉めた。
報告を終えたばかりのはずなのに、彼女の顔はどこか険しい。
封蝋の残る書簡を机に置くと、短く息を吐いた。
「リリア様は?」
「ああ、何か魔誘石のことを話したら、準備をするって言い出して」
そう言って俺は備品室を指さした。
エルナは「なるほど」と小さく呟いて、視線を窓へと向けた。
「事態は思いのほか深刻です。王都で事件を起こすわけにはいきません」
エルナの言葉に、室内の空気がさらに冷えた。
「評議会では、これまで以上に人を割いて、王都中を捜査、警備することになりました」
「そうですか」
それなら少しは安心できる。
予防ではなく、事件そのものを起こさせない。
評議会はその方向に動くことを決めたのだ。
大量死事件、ゼノンの失踪、そして儀式の情報。これらがなければ評議会もそこまで本気にならなかったかもしれない。
無駄なことなんてない。全ては繋がっているのだ。
「魔法院としては、王都中に魔力探知陣を展開します。既存の監視網を増幅して、異常反応を一斉に検知できるように」
「それって……そんな短時間でできるんですか?」
リリアがいつの間にか備品室から戻ってきていた。
両腕いっぱいに杖と魔導灯を抱え、寝癖を直す暇もなく瞳を輝かせている。
「じゃん! これを街中に置けば魔物感知はできるよ!」
リリアが胸を張る。
彼女の両腕に抱えられた魔導灯は、よく見るとどれも即席で改造されている。
魔力感知用の触媒が挿し込まれ、内部の結晶構造が繋ぎ直されていた。
「ありがとうございます。では騎士団の方にも協力していただきましょう」
エルナはクライスを見て言った。
クライスは頷く。
「市民区域は騎士団と連携して配置します。各区画の魔力流を観測できれば……儀式の中心がどこか特定できるかもしれません」
俺達は互いに顔を見合わせる。
何はともあれ、行動あるのみ。
今、できることをするだけだった。




