第62話 闇の声
王立医務棟。
石造りの廊下はひんやりと静まり返り、松明の炎が壁に淡い影を揺らしていた。
その最奥の一室。
騎士二人の見張りを配置したその場所に、聖堂から運び込まれた“男”が眠っている。
白いシーツの下、男の呼吸は浅く、時折、喉の奥で小さな音を立てた。
医師によれば、すでに昏睡というより、浅い夢を見ている状態だという。
だが、舌の奥に焼きついた呪印の痕は完全には消えておらず、その名残が男の体内をわずかに波打たせている。
「――準備はできました」
医務官が小さく頭を下げる。
その傍らでは、エルナが魔力計測器の針を確認していた。
針の動きはほとんどゼロ。完全に沈黙しているように見える。
だが、彼女は言う。
「万が一、ということもありますので」
俺は頷いた。
呪印の効力は聖女アリシアの奇跡とゼノンによって、沈黙したことは既に確認済みだ。
だが慎重に越したことはない。
俺達にある手がかりは彼たった一人なのだから。
「リリア様、装置の方は?」
次いでエルナはリリアに声を投げる。
「バッチリ!」
奥の机に腰をかけ、魔具を調整していたリリアが顔を上げた。
彼女の手元で、薄い金属板に埋め込まれた魔導結晶が淡く光を放つ。
音のような、光のような――その装置は小さな“魔力遮断器”。
周囲に様々な魔力の波長を発生させることで、安定した魔法を行使できなくする装置だ。
もっとも、完全に防げるようなものではなく、リリア曰く気休め程度なものらしい。
「では開始します」
エルナが短く答え、指先を組む。
彼女の掌に光が宿り、幾重もの環が空中に展開された。
聖句のような光の文字が、男の胸元にゆっくりと降りていく。
醒律。
それは他者の魔力波長を刺激し、過去の記憶を音として聞くことができる一級魔法だ。
精神系魔法の中でも特に高度で、対象が覚醒状態ではほとんど使えない。
俺だって見たのはこれが初めてだ。
もちろん一級という区分に属することもあって、使用するには免許と許可が必要となる。
ちなみにエルナがそれを行っているかどうかは、聞いていない。
光の紋章が輝き、中心に横たわる男の体が淡く照らす。
静寂の中で、針がひときわ鋭く震える音がした。
男のまぶたが、ほんのわずかに動く。
その変化を、俺達は息を呑んで見守った。
「――」
男の喉がひくりと動いた。
口の端がわずかに震え、低い声が漏れる。
音、ではない。
それは、空気の震えに近い。
耳ではなく、骨の奥で響くような感覚。
「……声?」
「これが記憶の音です」
エルナがそう言うと同時に、その音は明確に声へと変わった。
『――我々の――気付いた者が――』
低い。男の声ではない。
金属を擦るような、耳の奥で軋む声。
それはこの部屋には存在しない、誰かの声だった。
『――ラン・ベルモンド』
その名が、確かに聞こえた。
全員の息が止まる。
どう考えても俺の名前だ。
心臓の音がバクバクと耳の奥に響く。
『――者ですか?』
『――ん、――シアの元に姿を――だ』
『――した』
何かしらの計画を話し合っているような会話だった。
文脈からして俺の正体と、始末する方法についてだろうか。
初めてだ。
“影”の声を、直接聞いたのは。
その生の響きが、皮膚の内側を這い、背骨を凍らせる。
理屈も、分析も追いつかない。ただ――怖い。
『――失態は――奴以外――嗅ぎ――者がいる』
更に言葉が続いた、その瞬間。
――針が跳ねた。
計測器の針がゼロを突き破り、ガラスを叩く音がした。
男の体がびくりと跳ね、同時に光が弾ける。
「計測器が上昇してる!」
リリアが声を上げる。
『――三日後、――儀式を――』
途切れた瞬間、すべての光が消えた。
沈黙。
男は再び動かなくなっていた。
残ったのは、ひとつ。
俺の名を呼ぶ、あの声の残響だけだった。
耳の奥でまだ、小さく囁いている気がする。
「これで終わり……」
シンと静まり返った病室に声が響く。
全貌が分かったとは言い難い結果。
だが、得たものもある。
それは奴らが間違いなく俺をターゲットにしていたということ。
そして三日後――正確には今から二日後、奴らは何かをしようとしていたこと。
後のことは彼が起きた時に行われる尋問によって明らかになることを祈るしか無い。
「満足とは言い難い成果ですが、十分でしょう」
エルナが告げた。
その言葉で一つ、緊張の空気がトーンを落とす。
「リリア様、念の為に装置を」
「はーい!」
リリアが小さく頷き、魔導結晶に手をかざす。
光がひときわ明滅し、音もなく消えた。
今から何かが起こるわけでもないのだが、やはり用心に越したことはない。
醒律が半端に残り、永遠に目覚めなくなる可能性だってあるのだ。
「……聞こえたのは、間違いなく俺の名前ですよね」
沈黙を破ったのは自分の声だった。
エルナが小さく頷く。
「そうですね。ディラン・ベルモンド。明確にそう言いました。誤認ではありません」
言い切る声音に曖昧さはない。
その事実が、体温よりも冷たい。
「憶測は正しかった。少なくとも貴方が犯人という線が消えたわけです」
「……そうですね」
まさかまだ疑われていたとは。
多分、エルナのことだからそれは決して冗談で言ったわけではない。
「後は、三日後の儀式ですか」
エルナが情報を口にする。
それは間違いなく新たな情報だ。
だが、それがどこで何をするのかまでは不明なままではある。
「でも、儀式をする人っているの?」
リリアからの問い。
「……確かに」
俺は息を吐きつつ頷いた。
何しろ今日、その残党と思われる影の教団員は口封じのために始末された。
数にして十人。
王城にそこまでスパイが紛れ込んでいた、という事実は緊急事態と言ってもいい。
だが、まだいるかもしれない、という疑念は晴れないままだ。
「まだいるのか、それとも外部から侵入する算段なのかもしれません」
エルナが端的に可能性をまとめる。
いずれにせよ、まだ脅威は去っていない。
そう考える方が妥当だ。
「えっと、これからって」
俺は尋ねる。
「ゼノンの件も含めて、評議会へ報告します」
エルナは淡々と告げた。
その声には、疲れも迷いもない。ただ次にやるべきことを確認しているだけの、機械のような冷静さだ。
今やその落ち着きっぷりに安心感さえ覚える。
「評議会って……王城の、上層部ですよね」
「うぅ、私、あの人たち苦手」
リリアが苦い顔をする。
俺としても先日の父と騎士団長のやり取りを思い出し、胸が苦しくなる。
宮廷を統べる評議の座――宰相府、騎士団本部、宮廷魔法院、そして法務院。
それぞれが互いを監視し、抑え合うことで、王国の均衡は保たれている。
名目上は王の諮問機関だが、実際には王国を動かす最高の意思決定機関である。
「……報告って、どこまで話すんですか?」
「全てです」
即答だった。
エルナは書類を一枚取り出し、既に箇条でまとめられた報告内容に目を落とす。
彼女の筆跡は小さく、無駄がない。まるで冷たい刃のような文字だ。
「呪殺と被害者の関連性。ゼノンの失踪。聖堂での呪印解呪。十名の教団関係者の死亡。そして、“三日後の儀式”に関する記録」
そうやって並べられると、今までの自分たちが得てきた情報の多さに圧倒させられる。それと同時にこの事件の闇深さも痛感させられた。
「今からですか?」
「はい、迅速に報告を上げます。今夜中に、評議会は臨時招集されるはずです」
エルナは淡々と答えた。
机の上の書類を手際よくまとめ、封蝋を準備していく。
その動作に、もう一切の迷いはない。
「臨時……って、そんなすぐに開くんですか?」
「ゼノン様の失踪と、呪印関連の死亡事件。どちらも“国家機密級”です。放置すれば王国全体の信頼が揺らぎます」
「そうですよね……」
改めて自分の置かれている状況の重さを知る。
俺があの時、影の教団の名前を出していなければ。
そんなことさえ考え出してしまう。
「これで全て整いました。――行きましょう」
エルナはゼノンの残した封書と、そして今書き留めた封書を手に取った。
その一言で、室内の温度が少し下がる。
廊下に出る。
冷たい石の床が、足音を鈍く返す。
背後で医務室の扉が閉じる音がした。
その向こうには、まだ眠る男と、かすかに残る焦げた光の匂い。
俺は振り返らなかった。
未だ状況に振り回されたままだが、誓うように胸の奥でひとつ呟く。
(これで全てを終わらせる)
静かな誓いだけが、長い廊下に沈んでいった。




