第51話 ねじれ
翌日の午前。
俺は部屋の中で、父の到着を待っていた。
窓の外を何度も見る。
王城の門を通る馬車を探しては、それは違うと気づいて視線を落とす。
その繰り返し。
まるで親の帰りを待つ子どもになった気分だ――まあそれに関しては間違ってはいないんだろうけど。
『ディランさん、ソワソワし過ぎです』
ルーからの指摘。
彼女が言うくらいなのだから相当なのだろう。
「ああ、分かってる」
俺は窓から離れ、机の前に座った。
だが、落ち着けるはずもない。
頭の中は、これから父に何を伝えるべきか、その考えがぐるぐると回り続けている。
カインと騎士の死。
手紙の内容の変化。
そして――影の教団の存在。
まずそれらを全てを説明しなければならない。
家の名を使ってまで父上を呼び出したのだ。中途半端な説明では済まされない。
しかし――
(どこまで話すべきだろうか)
少なくとも、事件に関して隠し事をする必要はない。
だが俺が今からやろうとしていること――それこそ影の教団を追い詰めるために明かさないといけないことは、教団内部の人しか知り得ないものと言っても良い。
学院の時と違い、証人は死者となった。
彼らの口が永遠に閉じてしまった以上、別口から情報を得たことにしなければならない。
(どうする……)
悩みながら、俺は再び窓へと視線を向けた。
その時だった。
王城の門を、一台の馬車が通過する。
黒く重厚な車体。
その側面には――二対の剣の紋章。
ベルモンド家の紋章だ。
「……来た」
心臓が、強く跳ねた。
扉が開く音がした。
だが今度は、いつものように鍵を開ける音ではなく、ノックの後に――静かに、しかし確かな存在感を伴って開かれた。
「失礼する」
現れたのは、見覚えのある白髪の騎士だった。
王国騎士団の副団長、レオンハルト・フォン・シュタインだ。
まさかの大物登場に目を見開く。
「たった今、アルフレッド・ベルモンド侯爵が王城に到着された。ご同行願えるか」
レオンハルトの硬質な声が、張り詰めた部屋の空気を震わせる。
その厳かな雰囲気に呑まれ緊張感が身体を震わせた。
昨夜、俺がクライスに放った「命令」。
それは、俺が想像していたよりも遥かに大きな波紋を広げていたのかもしれない。
「……分かりました」
俺は短く答え、席を立った。
レオンハルトは何も言わず、部屋の扉を開けて俺を促す。
一歩、廊下に出る。
おおよそ三日ぶりの外だ。
冷たく、静まり返った石の廊下。
そして俺を見る他の騎士たちの目に、昨日までの侮蔑や疑いとは異なる――「厄介ごと」を見るような色が混じっているように思えた。
レオンハルトは前を歩き、俺はその数歩後ろを続く。
誰も言葉を交わさず、足音だけがコツコツと響き渡る。
そうして着いたのは、王城の一画にある、いかにも高位の者たちが使うであろう重厚な会議室だった。
両開きの扉の前で、二人の騎士が直立不動で立っている。
レオンハルトが扉をノックする。
「ディラン様をお連れしました」
「入れ」
中から聞こえたのは、聞き慣れた――しかし、いつもより数段低い、父の声だった。
ギィ、と重い音を立てて扉が開かれる。
通された部屋の中央には、黒曜石のように磨かれた大きなテーブルが鎮座していた。
窓から差し込む光が、その表面に鋭く反射している。
そして、そこに座る二人の人物。
一人は、父、アルフレッド・ベルモンド侯爵。
父は俺を一瞥したが、その表情は硬い。
息子の無事を喜ぶ父親の顔ではなく、「ベルモンド家当主」としての厳格な貌だ。
そして、その真正面。
父とテーブルを挟んで対峙していたのは、王国騎士団の頂点に立つ男――騎士団長ガルム・ザリオンその人だった。
歴戦の傷跡が刻まれた顔。その瞳は、俺ではなく、真っ直ぐに父を見据えている。
(騎士団長まで……)
流石の俺でも分かる。
これは単なる家族の顔合わせなどではないことを。
部屋には、重い沈黙が落ちていた。
父と騎士団長は、互いの目を見据えたまま動かない。
ガルムの瞳がわずかに細められ、父の指先がテーブルを一度だけ叩く。
その二人の間に漂う、見えない火花。
俺は、その圧倒的な圧力の中心で、息を詰めることしかできなかった。
そして先に口を開いたのは、父だった。
その声は、俺に向けて発せられる。
「ディラン」
「はいっ」
急に呼びかけられ僅かに声が上擦る。
「お前の口から、この三日間にあったことを全て話せ」
父の声が、部屋中に低く響いた。
二人からの鋭い視線と、重く冷たい空気に心臓が脈打ちながらも口を開いていく。
カインの死。
騎士の死。
手紙の変化。
そして、“影の教団”の存在。
俺の声が進むたびに、父の表情は微動だにせず、ガルム団長の瞳だけが僅かに鋭さを増していく。
「――以上が、見たすべてです」
言い終えると、室内に沈黙が落ちた。
時間が止まったような静けさ。
心臓の音がこんなにもうるさく感じたのは初めてだ。
最初に口を開いたのはガルム団長だった。
「私が受けた報告とも一致する」
それは肯定の言葉だった。
俺は小さく息を吐く。
しかし、ガルム団長は、重々しく言葉を続けた。
「ただし、事実関係がどうであれ、王国騎士団の騎士が二人、王城内で殺害された。これは国家の根幹を揺るがす重大事態だ。そして、ディラン殿が唯一の目撃者であり、状況証拠において筆頭容疑者であったことも事実」
その言葉は、俺の証言を肯定しつつも、騎士団の初動捜査の正当性を主張するものだった。
そしてそれは俺と言うより父に向けられた言葉なのが分かる。
「ほう」
父が一言零す。
「つまりガルム殿は、ベルモンド侯爵家の人間を、正式な取り調べも、ましてや当主たる私への通達もなしに、三日間にわたり軟禁・拘束したという事実を、今ここで『正当な職務であった』と主張されるか」
声に怒気はない。
だが、その静けさこそが、彼の怒りの深さを物語っているように感じる。
「ベルモンド卿。これは貴族のいざこざではない。国家の非常事態だ」
ガルム団長も一歩も引かない。
「故に法と規律に則った。王国の法の下では、身分に関わらず、容疑者は拘束される。我々はそれに従ったまでだ」
「法、か」
父は嘲るように鼻を鳴らした。
「その『法』とやらは、貴族の名誉を三日も地に落としめて良いと定めているのか? ベルモンド家が国に捧げてきた長年の忠誠は、『規律』とやらの前では無価値だと?」
「名誉より、王国の法が優先される。それこそが国王陛下の求める秩序そのものである」
静かに、だが確実に熱が、二人の間にこもっていくのが分かった。
「秩序、か。その秩序とは、一体誰が築いたものだ? ガルム殿」
父が、静かに問う。 それは、貴族という存在の根幹に関わる問いだ。
「……」
ガルム団長は黙して答えない。
「我ら貴族が、代々、血と忠誠をもって国を支え、築き上げてきたこの国の秩序だ。それを、お生まれも知れぬ『法』だの『規律』だので踏みにじるのが、貴殿の言う『剣』か」
それは明確な、貴族という今や旧体制側からの批判だった。
騎士団の論理――ひいては王権の進める中央集権的なシステムそのものへの侮辱とも取れる。
「ベルモンド卿。些か言葉が過ぎるな」
ガルム団長の低い声が、テーブルを震わせた。
「法は、国王陛下の御心そのものだ。いかなる貴族の血も、その法の下にある――この一件、陛下も既にご承知の上だ」
切り札が切られた。
心臓が掴まれたように痛む。
(国王……)
父上が家名を出したことで、騎士団長が出てきた。
そして騎士団長は、国王の名を出した。
権力は、常により大きな権力によって対抗される。
昨夜、俺がやったのは、この巨大な権力闘争の引き金を引くことだったのだ。
国王の名。
それを聞いても、父の表情は変わらない。
むしろ、その口元に、冷たい笑みすら浮かんだように見えた。
「……陛下が。ほう、ならば話が早い」
父は、まるで待ち望んでいたかのように頷いた。
「陛下は、この国の柱石たるベルモンド家が、騎士団の不手際によって不当な容疑をかけられ、三日も拘束された事実を、どうお考えかな? 騎士団長」
熱が、一瞬にして冷える。
「そして、もう一つ」
父の視線が、初めて俺へと正確に向けられる。
「私の息子が証言した『影の教団』。騎士団は、この王国の深奥に巣食う病巣について、いったいどこまで掴んでおられる?」
空気が凍る。
それは、ディランの容疑を晴らすための質問ではない。
騎士団の能力を問う、純粋な政治的攻撃だった。
王城内で官僚が二人も殺害された。
そしてその犯人が俺ではないのなら、彼らは犯人を取り逃がしている事実が存在する。
これは、騎士団の明確な「失態」だ。
ガルム団長の眉が、ピクリと動く。
「……それは、現在調査中だ」
絞り出すような声。
それを待っていたとばかりに、父は深く頷いた。
「調査中、か。国の中枢が攻撃されて、なお『調査中』。……結構」
父は立ち上がった。
その威圧感に、部屋そのものが軋むようだ。
「ガルム殿。政治の話はここまでだ。陛下には私から直接、お目通りを願おう」
父は俺に向き直る。
「今は、事実の確認だ。ディラン」
「は、はい」
「お前の軟禁は、この瞬間をもって解く。……それでよろしいかな、騎士団長?」
それは、交渉の通告。
家の名誉を傷つけた「失態」と、影の教団を掴めていない「失態」。
二つの失態を抱えた騎士団に、拒否権はないのだろう。
ガルム団長は、数秒間、硬く目を閉じた。
やがて、重い息と共に、その口が開かれる。
「……ああ。ディラン殿の容疑は、現時点では証拠不十分と判断する。拘束は解く」
「当然だ」
「ただし」
ガルム団長は、鋭い目で俺を射抜いた。
「王城からの外出は禁ずる。捜査への協力は、引き続き“正当な手続き”をもって願う」
「結構。我がベルモンド家は、王国の病巣を炙り出すため、騎士団への協力を惜しむつもりはない。……それが貴殿の言う『法』に則った『正当な』捜査である限りはな」
父は、最後の釘を刺すように、ガルム団長の言葉をそのまま返した。
解放された。
だが、安堵はない。
俺の口から語られた「影の教団」という真実は、二人の前では何の重みも持たなかった。
目の前で重要視されたのは事件の詳細などではなく、どちらの秩序が国にとって有益か。そんな冷徹な政治の駆け引きだけだった。
呼び込んだのは俺だ。
助けられたのも俺だ。
理屈では、全て筋が通っている。
なのに、胸のどこにも“救われた”感触はなかった。
たぶん――まだ何も、終わっていないからだ。




