第50話 悪役貴族
日が沈む。
窓の外は、赤ではなく紫に沈み始めていた。
魔道具の光が細く揺れる。
壁の影が伸びて、俺の顔をなぞっては消えていく。
コンコン。
扉が叩かれる。
返事を待たずに、金属音と共に扉が開いた。
顔を見せたのはクライスだ。
冷えた空気が、彼と一緒に部屋に入ってくる。
「夕食を持ってきた」
口数少なく彼は告げた。
それを受取ると、彼は早々に去ろうとする。
そんなクライスに向けて口を開いた。
「待ってくれ」
その言葉に彼は振り返った。
「……何だ?」
クライスの蒼い瞳が、まっすぐに射抜く。
「状況を教えてくれ」
端的に要件を伝える。
その問いにクライスは首を横に振った。
「……そうか、なら一つだけ頼まれてくれるか?」
立て続けに言葉を投げかける。
その提案にクライスは無言でこちらを見据えた。
それは次の言葉を待っているように見える。
「俺の今の状態を父アルフレッド・ベルモンド侯爵に伝えてくれないか?」
「……どういう意味だ?」
突然の提案にクライスは眉を顰めた。
「深い意味なんてない」
息を吸い、次の言葉を続ける。
「ベルモンド家の人間が、王城内で殺人事件の容疑者として軟禁されている。この事実を、当主である父が知らないままというのは、道理としておかしいというだけの話だ」
クライスは黙る。
その瞳は、言葉の真意を探っているようにも思えた。
俺は目を逸らさず、それを真っ直ぐ受け止める。
「俺の一存で決められることではない」
彼はそう結論づけた。
それは騎士としての立場を優先する、当然の答えだ。
いくら大精霊と契約した実績があっても、組織という中では歯車の一部でしかない。
「ああ、そうだな。騎士の一員として、お前が個人的な判断で外部に情報を漏らすことはできない。それは理解している」
一つ呼吸を置く。
「だがこれは、騎士であるお前へのお願いじゃない」
思わず声音に力が入った。
「……何が言いたい」
「これは貴族として――」
クライスの目をまっすぐに見つめる。
「――ベルモンド侯爵家として、クライス・フォン・アルトナに対しての命令だ」
そう言い切ると部屋の空気が、薄く張りつめた硝子のように軋んだ。
「お前……」
クライスの声が低く滲んだ。
その表情は驚愕か失望か。
今の俺には分からない。理解する必要もない。
「それで、どうする?」
俺の問いに、クライスは沈黙したまま、じっと俺を見つめていた。
その蒼い瞳の奥に、何があるのか。
怒りか。失望か。それとも――
「……分かった」
やがて、クライスは短く答えた。
「だが上には報告する。騎士として、それは譲れない」
彼の声は、いつもと変わらず平坦だった。
「構わない。むしろそうしてくれ」
俺は即座に答えた。
「報告されて困るような内容じゃない。俺は軟禁されている。その事実を、自分の家族に伝えるだけだ」
「……そうか」
クライスは何も言わず、扉へと向かった。
その背中は、いつもより遠く見えた。
「クライス」
俺は彼を呼び止める。
彼は振り返らず、ただ足を止めた。
「……頼んだ」
その一言だけを、俺は絞り出した。
クライスは答えず、そのまま扉を締めた。
ガチャリ。
鍵のかかる音が、やけに大きく響く。
「……はぁ」
俺は壁に背を預け、ずるずるとその場に座り込んだ。
『ディランさん……』
ルーの声が、心配そうに響く。
「ああ」
ため息混じりに言葉が溢れる。
自分のしたことは分かっている。
だが今はあれしかなかった。
そうでもしなければこの状況を変えることはできなかった。
「仕方なかった」
その言葉はルーに言ったのか、自分に言い聞かせたのか、自分でも分からない。
俺は窓辺に立ち、夜の王城を眺める。
星が瞬く空の下、静かに眠る石造りの建物たち。
カインの死。騎士の死。
そして、俺への濡れ衣。
全ては、『影の教団』の仕業だ。
彼らは、人の死を使って俺を孤立させ、追い詰めようとしている。
ふざけるな。
そんなことが許されるわけがない。
拳を握る。
一度は冷めた怒りが、再びふつふつと湧き上がってくる。
俺は拳を握りしめる。
だが、今の俺には、何もできない。
この部屋に閉じ込められ、外の世界から隔離されている。
一刻も早くどうにかしなければ、また犠牲が出るかも知れないのに。
『ディランさん……きっと大丈夫ですよ』
ルーの声が、優しく響く。
だが、その優しさは、今の俺には届かなかった。
「……ああ」
力なく答え、俺はベッドに横たわった。
天井を見つめる。
そこには何もない。
ただ、白い石が、静かに俺を見下ろしているだけだ。
(父上が……来てくれるだろうか)
不安が、胸をよぎる。
クライスは「分かった」と言った。
だが、それが本当に実行されるかは分からない。
騎士団の上層部が、貴族の介入を嫌うかもしれない。
あるいは、この軟禁自体が、誰かの意向で行われているのかもしれない。
だとしたら――いや、考えるのをやめた。
今は、ただ待つしかない。
目を閉じる。
だが、眠れるはずもなかった。
▼
――翌朝。
いつもと同じように、扉がノックされた。
クライスが朝食を持ってくる時間だ。
いつものように返事を待たずに開かれる扉。
姿を現したのはクライスではない、騎士だった。
その顔に見覚えはなく、もしかすると昨日の件で俺から遠ざけられたのかもしれない。
「朝食だ」
彼はぶっきらぼうにそう言い、机の上に盆を置いた。
そして――
「明日の午前、アルフレッド・ベルモンド侯爵が王城に来ることになった」
その一言を、淡々と告げた。
「……本当ですか?」
俺は思わず顔を上げた。
「ああ。上層部の判断だ。貴族の子息を軟禁している以上、当主への報告は避けられないとの結論に至った」
その声は事務的で、感情の色を一切含んでいない。
「……そうですか」
今の状況が変わる。
その僅かな希望が胸に広がった。
「後でまた来る、それまでに準備をしておくことだ」
それだけ言って騎士は部屋から出ていく。
扉が閉まり、再び静寂が戻る。
俺は窓辺に歩み寄り、外を眺めた。
朝日が王城の石畳を照らし、新しい一日が始まろうとしている。
(父上が、来る……)
その事実が、胸の奥でじわじわと実感として広がっていく。
昨日まで絶望しかなかった状況に、ようやく光が差し込んだ。
だが――
「……はは」
思わず、笑いが口から溢れた。
俺が昨夜クライスに頼んだこと。
それは、ただ「父に伝えてくれ」というだけのことだった。
僅かな希望、賭けに近い行動。
だが今朝、その願いが叶えられた。
名を告げ、貴族の立場を使っただけで、事態はこうも簡単に動いた。
「……簡単すぎる」
これまでの苦労が嘘のように。
「ベルモンド侯爵家」という名を出しただけで、騎士団の上層部は動いた。
「……権力、か」
その言葉が、妙に重く感じられた。
クライスは言った。
「俺の一存で決められることではない」と。
だが、俺が貴族としての立場を使った途端、彼は動いた。
騎士団の上層部も動いた。
権力とは、こういうものなのか。
名を出すだけで、人が動き、状況が変わる。
(原作のディランは……これを当たり前に使っていたんだろうな)
権力。
名声。
金。
持てる者にとって、それらはあまりにも便利な道具だ。
面倒な手続きも、煩わしい交渉も、すべて名前一つで解決する。
そして、それに慣れていけば――
「……そうか」
俺は苦笑した。
原作のディランが、あれほど傲慢で身勝手だった理由が、少しだけ分かった気がした。
彼にとって、権力を振りかざすことは呼吸をするのと同じくらい自然なことだったのだろう。
それが当たり前すぎて、他の方法を考える必要すらない。
こればかりは実際に経験してみないと分からないことだった。
『ディランさん?』
ルーが心配そうに声をかけてくる。
「いや、何でもない」
俺は首を横に振った。
「……難しいな」
呟きながら、俺は窓から視線を外した。
机の上には、朝食が置かれている。
まだ温かい。
俺はそれに手をつけ、ゆっくりと食事を始めた。
味は、昨日よりも少しだけ感じられた。




