第47話 不穏な気配
息が、止まった。
時間が凍りついたかのような錯覚。
目の前の光景が、現実のものとして脳に認識されるのを、全身が拒絶していた。
「……カイン、さん?」
もう一度、今度は震える声で呼びかける。
返事はない。
(嘘だろ)
震える足で、ゆっくりと近づく。
徹夜で寝落ちしているだけだと思いたかった。
昨日、俺に気さくに話しかけてくれた彼が、こんな、こんな無残な姿で転がっているはずがない。
だが、近づくにつれて、その淡い希望は無慈悲に打ち砕かれた。
確かに眠っているように見える。
その表情は、苦悶とは程遠い、穏やかなものだった。
しかし、その胸は上下しておらず、生気が完全に失われているのが、嫌でも分かってしまう。
「何で……」
困惑の声が思わず口から溢れる。 外傷はない。争った形跡もない。 まるで、眠っている間に、静かに命の火が消えたかのように。
「お兄さーん! ここにいるー?」
工房の扉が勢いよく開き、鈴を転がすような声が響いた。
そこに立っていたのは、昨日と同じ満面の笑みを浮かべたリリアだった。
「ごめんね、私って自分の部屋で作業するってこと言ってなかったね!」
彼女は楽しそうに言いながら、工房の中へと入ってくる。
そして――床に横たわるカインと、そのそばで呆然と立ち尽くす俺の姿を、その大きな瞳に映した。
「……あれ?」
リリアの足が、ぴたりと止まる。 その顔から、先程までの無邪気な笑みが、すっと消え失せた。
「お兄さん、なにそれ?」
「カインさんが……」
震える声で事実を伝える。
「死んでるの?」
リリアの問いは、子供特有の無邪気さで、しかし核心を突いていた。
その言葉が引き金になったかのように、俺の凍りついていた思考が、嫌々ながらも動き出す。
「……はい」
掠れた声で、俺は頷いた。
その一言を肯定するだけで、全身の力が抜けていくような感覚に陥る。
リリアの顔から、表情が消えた。
先程までの天真爛漫な少女の面影はどこにもない。
その瞳は、宮廷魔法師としての冷徹な光を宿し、目の前の惨状を冷静に分析し始めていた。
「お兄さん、そこから動かないで。遺体にも、周りのものにも、絶対に触っちゃダメだよ」
その声は、年相応の少女のものとは思えないほど、落ち着き払っていた。
有無を言わせぬ響きに、俺はただ頷くことしかできない。
「今、人を呼んでくる。誰もこの工房に入れないように、入り口に立ってて」
リリアはそれだけを早口で告げると、身を翻し、嵐のような速さで工房を飛び出していった。
残されたのは、俺と、物言わぬカインだけ。
工房には、焦げた魔石の匂いと、死の静寂だけが満ちていた。
どれくらいの時間が経っただろうか。
数分か、あるいは数十分か。
俺はリリアに言われた通り、工房の入り口で呆然と立ち尽くしていた。
やがて、廊下の向こうから複数の慌ただしい足音が聞こえてくる。
「――状況は!」
現れたのは、数人の騎士たち。
その内の一人はクライスだ。
彼らは早々にカインの遺体に駆けつけ、確認作業を始める。
俺は邪魔をしないように後ろに控えた。
「少年」
静かな声が、俺の名を呼んだ。
振り返ると、ゼノンとエルナが廊下の向こうから姿を現した。
「ゼノン様……」
俺の声は震えていた。
ゼノンは、いつもの軽やかな笑みを浮かべていない。
その表情は、宮廷魔法師としての冷徹さと、何かを推し量るような鋭さを帯びていた。
「状況を教えてくれるかい」
「はい……今朝、リリア様から課題を受けて、工房に向かったら……カインさんが、倒れていました」
俺は震える声で、起きたことを順を追って説明する。
ゼノンは黙って聞き、エルナは工房の中を鋭い視線で観察していた。
「外傷はなし。争った形跡もなし……」
エルナが冷静に呟く。
その声には、僅かな困惑が滲んでいた。
「まるで、眠ったまま――」
「はい」
ゼノンがエルナの言葉を引き取る。
「どこかで聞いたことがある状況だね?」
ゼノンは意味ありげに俺を見る。
「あ……」
言われて気付いた。
この死に様、穏やかな表情のまま命を落とす――
「影の教団の、呪殺……」
俺の呟きに、ゼノンは静かに頷いた。
「ああ。アレンとロイ、あの二人と全く同じ死に方だ」
ゼノンの言葉が、工房の空気をさらに重くする。
エルナの表情が、一瞬強張った。
「まさか……王城の中で?」
「そのまさか、だよ、エルナ殿」
ゼノンの声には、珍しく重い響きがあった。
「影の教団は、既に王城の内部にまで手を伸ばしている。そう考えるべきだろう」
その言葉が、俺の背筋を冷たいものが這い上がる。
あの手紙の件もある。
『歓迎する、異邦人よ』――あれは、単なる脅しではなかったのか。
彼らは本当に、この王城の内部にまで浸透しているのか。
「少年」
ゼノンが改めて俺に視線を向けた。
「君が最後にカインを見たのは?」
「昨日の夕方です。工房での作業を終えて、別れました」
「その時、彼に変わった様子は?」
「いえ、特には……いつも通り、気さくに話してくれました」
俺の答えに、ゼノンは静かに頷く。
「そうか。では、今朝工房に入った時の状況を、もう少し詳しく聞かせてくれるかい?」
俺は記憶を辿りながら、できる限り正確に伝える。
扉を開けた時、工房が荒れていたこと。
魔石の欠片が散らばっていたこと。
焦げた匂いがしたこと。
そして――机の陰に、カインが倒れていたこと。
「魔石の欠片、か」
ゼノンは工房の床を見つめ、顎に手を当てた。
「リリア、これは?」
ゼノンは突然後ろを振り返って問いを投げる。
するといつの間にかそこにはリリアが立っていた。
「うん、これは魔力の暴発だよ」
「魔力の暴発、か」
ゼノンは床に散らばる魔石の欠片を見つめながら呟いた。
「誰かが魔道具の実験に失敗した、ということかい?」
「うん、そうだね。多分あの人が作業中に何か失敗したんだと思う」
リリアは床の欠片を見つめながら、淡々と分析を続ける。
「でも、変なの」
「変?」
ゼノンが眉を上げる。
「うん。この魔石の破片の飛び散り方、普通の暴発じゃない。本来なら中心から放射状に散らばるはずなのに――」
リリアは床を指差しながら説明する。
「これ、まるで誰かが後から撒いたみたいに均等に散らばってる」
その言葉に、ゼノンとエルナの表情が険しくなった。
「つまり……」
「うん。偽装の可能性が高い」
リリアの声には、もはや子供らしさの欠片もなかった。
そこにいるのは、『万器の聖匠』として名を馳せる、王国最高の魔道具技師だ。
「カインが魔道具の実験中に事故死した――そう見せかけるための工作」
ゼノンが冷静に結論を述べる。
「だが実際は、呪殺。影の教団による、計画的な殺人」
その言葉が、工房の空気をさらに重くした。
「なぜカインさんが……」
俺は思わず呟いていた。
「彼は、ただの見習いの指導係でしかなかった。なぜ、彼が狙われなければならなかったんですか?」
ゼノンは俺を見つめ、静かに首を横に振った。
「それは、これから調べなければならない。だが――」
ゼノンは一呼吸置き、真剣な表情で続けた。
「少年、一つ聞きたい。君は、何か心当たりはないか?」
「心当たり……ですか?」
「ああ。カインは君の指導を担当していた。そして君は、影の教団についての情報を持っている唯一の人物だ」
ゼノンの言葉の意味が、ゆっくりと理解できた。
「まさか……俺を、狙って?」
「可能性の話だ」
ゼノンは慎重に言葉を選びながら続ける。
「君に近づく者を排除する。君を孤立させる。あるいは――君への警告」
その言葉に、俺の血の気が引いた。
カインは、俺のせいで死んだのか?
俺が影の教団の名を明かしたせいで、俺に関わった人間が標的にされたのか?
「落ち着きたまえ、少年」
ゼノンが俺の肩に手を置いた。
「まだ断定はできない。だが、君の安全を確保する必要がある。当面の間、君は――」
「ゼノン」
エルナが割って入った。
「騎士団長がお呼びです。すぐに謁見の間へ」
「……分かった」
ゼノンは溜息をつき、俺の肩から手を離した。
「少年、今日は部屋で待機していてくれ。外出も、一人での行動も控えること。分かったね?」
「はい……」
力なく頷く俺を残し、ゼノンとエルナは工房を後にした。
騎士たちはカインの遺体を運び出し、リリアもまた何かを調べるために工房の奥へと消えた。
残されたのは、俺一人。
静まり返った工房で、俺はただ立ち尽くしていた。
『ディランさん……』
ルーの心配そうな声が、頭の中に響く。
(……俺のせいだ)
その思いが、胸を締め付ける。
カインの笑顔が、脳裏に浮かんでは消える。
「お疲れさん」と気さくに声をかけてくれた彼。
「変な奴だ」と笑いながらも、温かく見守ってくれた彼。
彼は、俺のせいで死んだ。
「――お兄さん」
不意に、背後から声がかけられた。
振り返ると、リリアが立っていた。
その表情は、先程までの冷徹さとは違う。
どこか、悲しげな色を帯びていた。
「お兄さんのせいじゃないよ」
「え……」
「お兄さん、自分を責めてるでしょ」
リリアは俺の目を真っ直ぐに見つめた。
「でも、違うの。悪いのは、殺した人。お兄さんじゃない」
その言葉は、優しかった。
けれど、俺の胸の痛みを和らげることはできなかった。
「……ありがとうございます」
俺は力なく微笑み、工房を後にした。
廊下を歩きながら、俺は拳を強く握りしめる。
(影の教団……)
怒りと、恐怖と、そして後悔が渦巻く。
だが、一つだけ確かなことがある。
これ以上、誰も失わせない。
そのためなら――俺は、何でもする。




