第40話 宮廷魔法師
王城レグルス。
王都アウレリアの中心に聳え立つ、この国の象徴。
白亜の壁と尖塔が青空に映え、その荘厳さは見る者を圧倒する。
一度だけ、幼い頃に訪れたことがあった。
父に連れられ、謁見の間で国王陛下に拝謁した時のこと。
あの時は緊張のあまり、城の印象などほとんど覚えていない。
だが今、改めて目の当たりにすると――その威容は、想像以上だった。
「ここが……」
馬車を降り、俺は思わず呟く。
門を守る騎士たちの鎧は磨き上げられ、陽光を反射して眩い。
整然と並ぶその姿は、まさに王国の力の象徴だ。
『すごいですね、ディランさん!』
ルーの声が、感嘆に満ちて響く。
(ああ、確かにすごいけど……)
俺の心臓は、緊張で早鐘を打っていた。
ここから先、俺は宮廷魔法師見習いとして、この場所で過ごすことになる。
一介の学生から、王国の中枢へ。
その現実が、じわじわと実感として迫ってくる。
「さて……」
俺はゼノンから届いた手紙を思い出す。
『到着したら、北の塔にある魔法師詰所まで来てくれ』。
門番の騎士に声をかけ、案内を頼む。
彼は俺の名を確認すると、恭しく頭を下げ、城内へと導いてくれた。
「北の塔はここからまっすぐ進んで左手の階段を上がった先にございます」
「ありがとうございます」
騎士にお礼を言い、広大な中庭を抜け、石造りの回廊を進む。
すれ違う貴族や官僚たちは、見知らぬ若者である俺を怪訝そうに一瞥していく。
その視線が、針のように刺さり、非常に居心地が悪い。
『ディランさん、大丈夫ですか?』
ルーが心配そうに声をかけてくる。
(ああ、大丈夫だ)
内心で答えながら、俺は背筋を伸ばした。
ここで怯んでいては始まらない。
やがて、北の塔の前に辿り着いた。
螺旋階段を上り、重厚な扉の前で立ち止まる。
扉には、金獅子の紋章――宮廷魔法師の証が刻まれていた。
ごくり、と唾を飲み込む。
俺は意を決して、扉をノックした。
返事はない。
もう一度、少し強くノックする。
それでも、返事はなかった。
(……いないのか?)
困惑していると、不意に背後から声がかかった。
「お兄さん、何しているの?」
振り返ると、そこには少女が立っていた。
年の頃はセリーナと同じくらいか、僅かに幼い印象を受ける。
「あ、いや……宮廷魔法師の方を探していて」
俺が答えると、少女はきょとんとした顔で首を傾げた。
「宮廷魔法師? お兄さん、何か用なの?」
「ああ、今日からここで見習いとして働くことになっていて……」
俺が説明すると、少女は目を丸くした。
「見習い? お兄さんが?」
「そうだけど……」
少女の反応に、俺は少し戸惑う。
何か変なことを言っただろうか。
「ふーん……」
少女はじっと俺を観察するように見つめてくる。
「えっと、君は?」
思わず俺は少女に尋ねる。
こんな場所に子供が一人でいるのは不自然だ。貴族の令嬢か、それとも――
「私? 私はリリア。リリア・ノエーデルよ」
少女は誇らしげに胸を張った。
聞き覚えのない名だ。
だがこの場にいるということは宮廷の関係者なのだろう。
「お兄さんの名前は?」
「ディラン・ベルモンド」
俺が名乗ると、少女――リリアは小首を傾げた。
「ベルモンド……って侯爵家の?」
「ああ、そうだけど」
俺が答えると、リリアは「ふーん」と興味深そうに呟いた。
「じゃあ中に入る?」
リリアは当たり前のように、扉に手をかけた。
「え、でも勝手に――」
「大丈夫よ。私、ここの人だし」
リリアはそう言って、躊躇なく扉を開けた。
ギィ、と重い音を立てて扉が開く。
「ほらほら、入って」
彼女は俺を手招きする。
俺は戸惑いながらも、その後に続いた。
部屋の中は、想像していたより遥かに広い。
壁一面に本棚が並び、古びた魔導書や研究資料が所狭しと積まれている。
まさに魔法師たちの詰所という印象だ。
「すごい……」
思わず呟くと、リリアが得意げに笑った。
「でしょ? ここが宮廷魔法師の詰所よ」
彼女は慣れた様子で部屋の中を歩き回る。
まるで自分の家のように。
「それで、お兄さんは誰に会いに来たの?」
「ゼノン様に。今日から見習いとして働くように言われて」
「ゼノン? ああ、あの人ね」
リリアは顎に指を当てながら言った。
「あの人、今いないよ。王宮の方に呼ばれてるから」
「そう、なのか……」
俺は困惑する。
呼び出した本人がいないとなれば、どうすればいいのだろう。
俺が困惑していると、リリアはくるりと振り返った。
「もう少ししたら戻って来ると思うから、少し私とお話してよ、お兄さん」
リリアはそう言って、部屋の奥にあるソファに座った。
まるで自分の家のように、自然な仕草だ。
「あ、ああ……」
俺も促されるまま、向かいのソファに腰を下ろす。
彼女がここの関係者なのは間違いないだろう。
もしかしたら、同じ見習い仲間なのかもしれない。
「ねえ、お兄さんはどんな魔法が使えるの?」
リリアは興味津々といった様子で身を乗り出してきた。
「どんな、って……」
「だって気になるじゃん。ゼノンが見習いに推薦したってことは、何か特別なことができるんでしょ?」
「特別、というほどでは……俺は魔力感知が少しできる程度で」
「魔力感知? ふーん……」
リリアは少し考えるように顎に手を当てた。
「それって、どのくらいできるの? 例えば今、私の魔力とか分かる?」
そう言って、彼女は手のひらをこちらに向けた。
「え、ああ……」
俺は集中し、リリアから発せられる魔力の流れを探る――
(……あれ?)
予想外だった。
リリアから感じる魔力は、思ったより少ない。
俺と同じ宮廷魔法師見習いなのだとしたら、相応の魔力を持っていると思っていたのだが。
「どう? 分かった?」
リリアが無邪気に尋ねてくる。
「ああ、まあ……その、魔力はそれほど多くはないみたいだな」
正直に答えると、リリアはにっこりと笑った。
「そうそう、私、魔力少ないの。お兄さん、ちゃんと分かるんだね」
リリアは楽しそうに手をパチパチと叩く。
その様子から自身の魔力量については何も気にしていないようだった。
「魔力感知かぁ。便利そうだね」
「まあ、役に立つこともある、かな」
素直に褒められて気恥ずかしい気持ちになる。
「ねえねえ、お兄さんは学院で何か凄いことしたんでしょ?」
リリアは話題を変えるように、目を輝かせた。
「噂で聞いたよ。襲撃事件の時、聖女様を助けたとか、生徒たちを導いたとか」
「いや、それは……俺一人の力じゃない」
「謙遜しなくていいのに」
リリアはくすくすと笑った。
「お兄さん、面白いね。強いくせに自信なさそう」
「強くなんか……」
「でもゼノンが認めたんでしょ? なら、きっと何か特別なものがあるんだよ」
彼女は真っ直ぐに俺を見つめた。
その瞳には、子供特有の無邪気さと、しかし――どこか、大人びた洞察力のようなものが宿っている。
「……リリアは、ここにはよく来るのか?」
俺は何気なく尋ねた。
「うん、よく来るよ。お兄さんもこれからここで働くんでしょ?」
「ああ、そうなるかな」
「じゃあ、また会えるね」
リリアは嬉しそうに笑った。
「私もお兄さんみたいな面白い人と一緒に働けるの、楽しみ」
「面白い、って……」
何だかからかわれているような気がするが、悪意は感じない。
むしろ、純粋に楽しんでいるようだ。
「じゃあこれからもよろしくねお兄さん」
そう言ってリリアが手を差し出し、俺はそれを握る。
その時、一室の扉が開いた。
「……何をしているんですか?」
聞き馴染みのある落ち着いたトーンの声。
目を向ければそこには、見覚えのある銀髪の女性が立っていた。
「エ、エルナ……」
氷のような冷たい美貌。
エルナ・グリーベルだった。 彼女は部屋に入るなり、俺とリリアが握手している光景を目にし、僅かに眉をひそめた。
「あ、エルナ!」
リリアが嬉しそうに手を振る。
「お帰りなさい。ねえねえ、この人、今日から見習いで来た人だよ」
「……ええ、存じております」
エルナの声は、相変わらず冷たい。
その視線が俺に向けられ、思わず背筋が伸びる。
「ああ……ゼノンは呼び出されていましたね」
エルナは俺を見てため息をついた。
「こちらに来る前に伝えておくべきでしたが、彼は王宮での会議に出ています。戻るのは夕刻になるでしょう」
「そう、ですか……」
俺は困惑する。
「それまで、どうすれば……」
「待機していてください。案内できる者が来るまで」
エルナは冷たく言い放った。
その態度は、明らかに俺を歓迎していないことを示している。
「じゃあ私が案内する?」
割って入ったのはリリアだった。
「お兄さん、城の中とか見たいでしょ? 私が――」
「リリア様」
エルナが静かに、しかし有無を言わせぬ声で遮った。
「リリア様もこれから会議が入っていましたよね?」
「む」
エルナの指摘を受けリリアが頬を膨らませる。
「え、会議……?」
俺は思わず呟いた。
リリアが会議? この少女が?
「むー、エルナ、つまんない」
リリアは不満そうに頬を膨らませた。
「私、お兄さんと話してる方が楽しいのに」
「お戯れはその辺になさってください」
エルナの声には、僅かな呆れが混じっている。
「リリア様は宮廷魔法師です。職務を疎かにするわけにはいきません」
――は?
俺の思考が、完全に停止した。
「きゅ、宮廷……魔法師?」
掠れた声が、自分の口から漏れる。
エルナは冷ややかな視線を俺に向けた。
「ご存知なかったのですか? リリア・ノエーデル様。宮廷魔法師第七位です」
エルナの言葉に、俺の思考が停止する。
宮廷魔法師第七位。
どれも一つ一つが信じがたい情報なのに、それが全て目の前の少女に当てはまるという。
「あはは、お兄さん、すっごい顔してる」
リリアは楽しそうに笑った。
「驚いた? びっくりした?」
リリアは楽しそうに俺に問いかける。
「あ、ああ……その、申し訳ございません」
俺は慌てて深々と頭を下げる。
宮廷魔法師に対して、あんな失礼な態度を――
「いいよいいよ、堅苦しいの嫌いだから」
リリアは手をひらひらと振った。
「それに、お兄さんが普通に接してくれたの、面白かったし」
「リリア様……」
エルナが諭すように声をかけるが、リリアは気にした様子もない。
「これからよろしくね、お兄さん。見習いとして頑張ってね」
彼女はそう言って、またにっこりと笑った。
俺は――ただ、呆然と立ち尽くすことしかできなかった。




