第30話 正常の力
教会に紛れ込む何者か。
俺がこうして見落とすレベルだ。魔力も外見も人に化けているのだろう。
そんなことができるのは、魔王の眷属たる「魔人」しか考えられない。
「教会内に入り込んでいるのですか?」
俺の言葉にエルナが問いを投げる。
俺は改めてその反応に意識を集中させる。
さっきは咄嗟のことで焦ってしまったが、よくよく感じ取ればその反応は教会の入口付近で止まっているようだ。
今の教会の状況はわからないが、もしかすると避難した生徒たちで溢れているのかもしれない。
「い、いえ、教会の入り口付近にいるようです」
俺は分かったことをそのまま告げる。
するとエルナは小さく頷き、口を開いた。
「分かりました、では念の為に私たちも向かいましょう」
その答えはおおよそ予想していたものだったが、俺の温度感とは全く違い、それはどこか落ち着いた様子に感じられる。
「お、落ち着きすぎじゃないですか!? 教会には他の生徒たちも――」
焦りから、思わず俺は声を荒げてしまう。
だがエルナは、そんな俺を冷めた一瞥で黙らせた。
「問題ありません、教会には聖女がいるのでしょう?」
エルナは続ける。
「聖女の使う聖域は単なる防御魔法ではありません。あれは神聖な領域そのもの。悪しき存在、魔の気を纏う者は、その結界に触れた瞬間に浄化されるか、少なくともその正体を暴かれます」
淡々と告げられた事実に、俺は息を呑んだ。
聖女アリシアの『聖域』に、そんな効果があったとは。
ゲームでは単に防御力が極めて高いバリア系の魔法という認識だった。
「つまり、その魔物は聖域に阻まれ、教会の中に入れずにいる……ということですか」
「そういうことです。下手に手を出せば、自滅するだけですから」
エルナの言葉に、俺は張り詰めていた緊張の糸がわずかに緩むのを感じた。
最悪の事態――生徒たちの中に紛れ込み、内部から虐殺を始める――は避けられたのだ。
「しかし、それでも生徒たちの危機には変わりないのでは」
俺の当然の懸念に、エルナは静かに頷いた。
「その点についても問題はありません。あの人が向かったのですから」
エルナは、さも当然のことのように言い切った。
「ゼノン様のことですか?」
俺は尋ねる。
「はい、そうです。しかし貴方は彼の名を知っているようでしたが、その異名はご存知ないのですか?」
異名?
そんなものはゲームの知識にはなかった。
そもそもゼノンは物語の序盤で命を落とすキャラクター。彼にまつわるエピソードはほとんど語られていないのだ。
強いて言うなら彼の羽織る『ゼノンのローブ』という装備品が、常時回復効果を持つ最高クラスの防具であったことくらいだ。
「……いえ、存じません」
俺の答えに、エルナはわずかに呆れたような、けれど同時に誇らしげでもある表情を浮かべた。
「――彼の異名は、『不滅の聖者』。彼の下では、誰一人として死なないと言われています」
「誰一人として死なない……?」
その異名は凄みこそ感じるが、同時に怖さも感じられた。
「少しばかり誇張は過ぎますが、貴方も経験したように彼の支援魔法は常識の範疇を遥かに超えています」
エルナは、俺とゼノンが最初に出会った時のことを指しているのだろう。
確かに、あの回復魔法は異常だった。
魔力枯渇と全身の疲労、そして負傷を一瞬で全快させた。
あれほどの即効性のある回復魔法を俺は知らない。
「彼の専門は、治癒や強化といった支援魔法です。しかしその本質は『状態の再定義』。通常、付与や阻害の魔法とは――対象に“力を与える”か“異常を与える”か、そのどちらかです。毒や疲労、出血や混乱といった阻害魔法は、対象に“正常ではない状態”を押し付けるものです」
エルナが説明を始める。
「ですが彼が行っているのはその真逆。対象の肉体や精神に刻まれた“異常”を、強制的に反転し、『正常』へと戻す。傷口を塞ぐのではなく『負傷していない状態』に、疲労を癒すのではなく『疲れていない状態』に――彼は異常そのものを無効化し、阻害の反作用を生み出しているのです」
エルナの説明に俺は驚愕を覚える。
まさか他人にデバフ効果をもたらす阻害魔法を、回復に使っているなんて考えたことすらなかった。
しかし同時に腑に落ちる。
『ゼノンのローブ』の効果――常時回復という仕様は、癒しではなく「正常な状態を保ち続ける」ことの結果だったのだと。
「……だからこそ彼の下では誰も死なない。――不滅の賢者と呼ばれるのも道理です」
少し不服そうにエルナはそう締めた。
「……なるほど、確かにそれなら安心かもしれません」
俺の言葉にエルナは一つ息を吐く。
「納得して頂けたようで何よりです。しかし万が一ということもありますので、私たちも急いで合流します。こちらへ来てください」
エルナに導かれ、俺は地に書かれた魔法陣の上に立った。
生憎と紋章法は得意ではなく、一目見ただけでこれが何の魔法かは分からない。
エルナは俺を一瞥すると、次の瞬間、俺の腕を掴んでいた。
「……えっ!?」
直後、足元の魔法陣が眩い光を放ち、俺の視界は真っ白に染まった。
浮遊感と、全身が強く締め付けられるような圧迫感。
ほんの一瞬のはずなのに、永遠のようにも感じられた。
次に目を開けた時、俺たちは見慣れた学院の噴水広場――その一角に立っていた。
目の前には、荘厳な佇まいの大教会。
そして、その入り口は淡い光の半球――アリシアの『聖域』によって固く閉ざされている。
(これは……転換魔法か?)
足元には先ほどと同じように魔法陣がある。
転換魔法とは指定した地点と地点との物体を入れ替える魔法だ。
しかし都合よく魔法陣が置かれているわけもない。
恐らくだが先んじてゼノンが設置していたのだろう。
「まだ事は起こっていないようですね」
エルナが冷静に告げる。
教会の扉の前には、数十人の生徒たちが不安げな表情で集まっていた。
きっと教会に入りきれなかった生徒たちだろう。
だが、彼らがパニックに陥っていないのは、その生徒たちと、聖域の境界線との間に立つ、一人の男の存在があったからだ。
「やあ、その様子だと万事順調に済んだようだね」
俺たちの出現に気づいたゼノンが、まるで旧知の友にでも会ったかのように、気さくに手を上げた。
その表情はどこまでも穏やかで、背後に迫る危機など微塵も感じさせない。
「……その魔物はどちらに?」
エルナはゼノンを無視して俺に尋ねた。
俺は彼女の言葉に頷き、再び意識を集中させる。
魔力感知の精度を最大まで引き上げ、聖域のすぐ外にいる生徒たちの集団に意識を向けた。
一人一人の魂の光を丁寧になぞっていく。
この中に、明らかに異質な反応が一つだけ混じっている。人のそれとは似ているが、その核にどす黒い澱のようなものを抱えた、歪な光。
「……あそこの、茶色い髪の……男子生徒です」
俺は震える指で、群衆の中の一点を指した。
俺と同じ、一年生の制服を着ている。見覚えのない顔だ。
「ん、何の話だい?」
エルナはゼノンの言葉を待たず、俺が指差した方向へと一歩踏み出した。
その手には既に、新たな魔法陣が淡い光を放って形成されている。
その瞬間、俺が指差した男子生徒が、隣にいた女生徒の首に腕を回し、その体を盾にするように引き寄せた。
「……気づくのが早すぎるだろう、人間どもがッ!」
男の姿がぐにゃりと歪み、肌は土気色に、目からは凶悪な光が放たれる。腕には鋭い爪が伸び、女生徒の白い首筋に突き立てられていた。
「きゃあああっ!」
「ひっ……!」
周囲の生徒から悲鳴が上がる。
「動くなよ! この女の命が惜しければなァ!」
魔人は下卑た笑みを浮かべる。
人質を取られた状況。もはや誰も手出しはできないはずだった。
だが、その脅迫が届いたのは、パニックに陥る生徒たちと、一瞬顔をこわばらせた俺だけだった。
エルナは表情を変えず、ゼノンに至っては、心底つまらなそうに大きな溜息を一つ吐いた。
「……人質、か。魔族というのは、どうしてこうも芸がないのかね」
その言葉に、魔人の顔が怒りに歪む。
「なんだと……!」
その言葉に臆すことなくゼノンは魔人との距離を詰めた。
魔人の爪は女生徒の首に突き刺さり、赤い血が、白いブラウスの襟を濡らしていく。
脅しなどではない。奴ら魔人は人間の命など、塵芥ほどにも思っていないのだ。
俺は焦る気持ちを抑えて、エルナとゼノンの出方を待つ。
今の俺には彼らを信じるしかできない。
しかし、エルナは魔法を構えたまま動かない。
そしてゼノンは――信じられないことに、なおも魔人へと歩み寄っていく。
「それ以上近づいたら、こいつの首をへし折るぞ!」
魔人が女生徒の首へ爪を突き立てようとした、その瞬間。
――空気が「反転」した。
耳鳴りのような低い響きとともに、ゼノンの周囲に淡い光がぱっと広がる。
まるで夜空に走る稲光のように、ただし雷ではなく温かな輝きだ。
光は直線上に女生徒と魔人を覆った。
女生徒の白い首筋を裂こうとした爪は、その光に触れた途端、ぼろりと崩れ落ちる。刃が欠けたように鋭さを失い、ただの手のひらへと戻っていく。
同時に、既ににじみ出していた血も逆巻くように傷口へ収まり、赤い染みは白布に溶けるように消えていった。
魔人が目を剥き、叫びを上げる。
「な、何が……!?」
そして膝をつき、魔人の瞳がぐらりと揺れた。
女生徒を抱え込んだままゆっくりと地面へ崩れ落ち、そして何も言うことはなくなった。
「さて、これで終わりかな」
そう言ってゼノンは変わらない笑みを見せた。




