第29話 魔力感知
圧倒的な光景が過ぎ去り、戦場には奇妙な静寂が訪れていた。
先ほどまで空を埋め尽くしていた魔物の軍勢は、その痕跡すら残さず消滅している。
残されたのは、聖なる光の結界に守られたルミナス学院と、呆然と立ち尽くす俺。そして、規格外の力を持つ二人の宮廷魔法師だけだった。
まるで庭の掃除が終わったかのように、ゼノンが軽くそう言ってのける。
その言葉に、エルナは不機嫌さを隠そうともせず告げた。
「まだ学院内の魔物は殲滅していません」
真っ当な意見が飛んでくる。
確かにそうだ。外からの侵入はなくなったとしても、内側には未だ敵が潜んでいる。
「おっと、そうだったか。では私は避難誘導をするとしようか」
そう言ってゼノンは俺を見る。
庇護すべき生徒が一人、ここに残っているのだから当然の判断だろう。
「……ありがとうございます。あの、とりあえず戦えない生徒たちは教会に避難しているようです」
俺は魔力感知を頼りに、現状を告げた。
「ほう?」
ゼノンが興味深そうに俺の顔を見る。
「教会には聖女アリシアがいます。彼女に頼んで聖域を張ってもらう手筈になっているので、避難場所として誘導していました」
「なるほど! それは良いことを聞いた。では私は教会に行けば良いのだな」
ゼノンは嬉しそうに言葉を発する。
「……まだ避難できていない生徒を探すのが先決では?」
エルナからの冷静な提言。
「む、確かにそれもそうだ」
「あの……それについては問題ないかと」
俺は言葉を挟む。
「……どういうことですか?」
エルナから鋭い視線と共に不満気な声が飛んできた。
明らかな敵意と苛立ちが感じられる。
「ええっと、魔力感知で生徒たちの反応は全てマッピングしていたので……現状、残らず教会にいることは確認できています」
俺の言葉にエルナとゼノンが互いに顔を見合わせる。
一人は愉快そうに、そしてもう一人は不愉快そうに。
「ほう、それはつまり、少年にはこの学院中に散らばる生徒たちの魔力を、個別に識別できるほどの精密な感知能力があるということかな?」
ゼノンは笑みを浮かべながら、具体的に問いかけてくる。
「……そうなりますかね」
その様子に少し気圧されつつも、俺は答える。
「なるほど、なるほど、いいね!」
俺がそう告げると、ゼノンは更に楽しそうに声を上げ、エルナに向き直った。
「ところでエルナ殿、彼はここの生徒のようだが、顔見知りだったりするのかな?」
その問いに、エルナは一瞬、言葉を詰まらせた。
まるで苦虫を噛み潰したような、あるいは想定外の質問に思考が停止したような、奇妙な間。
やがて彼女は、絞り出すように短く答えた。
「……知っては、います」
歯切れの悪い、肯定とも否定とも取れる返事。
しかし、ゼノンにはそれで十分だったらしい。
「ほう。知ってはいる、か。これほどの逸材を前にして、エルナ殿が何もしなかったと?」
ゼノンは心底愉快そうに、にこりと笑みを深める。
その目は完全に面白いおもちゃを見つけた子供のそれだ。
「……何が言いたいのですか」
氷のように冷たい声。
もはや彼女はゼノンへの苛立ちを隠そうともしない。
「いや何、大したことではないさ。ただ、最近のエルナ殿は、熱心に婚約相手を探していると聞いていたものでね」
(……うわぁ)
俺は内心で頭を抱えた。
地雷だ。それも特大のやつを踏み抜いた。
この男、絶対に面白がってやっている。
案の定、エルナの纏う空気が急激に冷え込んでいくのが肌で感じられる。
絶対零度の視線が、まずはゼノンに、次いで俺に突き刺さった。とばっちりもいいところだ。
しかしゼノンは止まらない。
「ああ、それともあれかい? 君が彼を助けた理由はそういうことだったのかな――って待った、待った」
ゼノンはそこで言葉を止めた。
視線の先には無言で魔法陣を書き換えているエルナの姿。
先ほどまで学院全体を覆っていた『天蓋聖障』の術式とは似ても似つかぬ、個人的な殺意に満ちた小規模な攻撃魔法だ。
その矛先は、言うまでもなくゼノン・アークライトに向けられている。
「おっと、これは失礼。どうやら少しばかり悪ふざけが過ぎたようだ」
ゼノンは悪びれる様子もなく、ひらひらと手を振って降参のポーズを取る。
「冗談だよ、エルナ殿。君ほどの才媛が、相手の内面を見ずに家柄だけで判断するはずがないだろう?」
「……」
エルナはぴくりと眉を動かしたが、やがて、ふん、と一つ鼻を鳴らして魔法陣を霧散させた。
(心臓に悪い……)
規模感はおかしいが、全く威厳の欠片もないやり取り。
これが宮廷魔法師の日常なのか?
「さて」
一頻りエルナをからかって満足したのか、ゼノンは咳払いを一つして、再び真剣な眼差しで俺に向き直った。
空気が切り替わる。
先ほどまでの軽薄な雰囲気は消え、そこにいるのは王国最高戦力の一角たる、宮廷魔法師の顔だった。
「先程の君の言葉を信じるならば、私は教会に行こうと思うが、エルナ殿はどうする?」
「私は学院内の掃討を続けます」
エルナは即答した。
「うむ、それが賢明だろう。ああそうだ、ちなみに少年は魔物の位置把握もできるのかな?」
そして再びゼノンの視線が俺へと向いた。
「はい……切り替えれば、すぐにでも」
俺の言葉にゼノンは笑みを浮かべる。
「良いね! さて、エルナ殿、ここは彼のナビゲートに任せて行動してみるのはどうだろう?」
ゼノンの提案にエルナは眉間にシワを寄せた。
その表情は、不満や不快感を通り越し、もはや侮辱されたとでも言いたげだ。
「……一介の生徒の指示を仰げ、と?」
「そう言わないでくれ、適材適所というやつだ。それに君だって、彼の力が本物かどうか知りたいだろう?」
ゼノンの言葉は、挑発的でありながら、的を射ていた。
エルナはちらりと俺に視線をよこす。その瞳には、疑念と、ほんの少しの探るような光が宿っていた。
しばしの沈黙の後、エルナは深く、長い溜息を一つ吐いた。
それは諦めと、覚悟を決めたような響きを持っていた。
「……分かりました、ここは貴方の提案に乗ります。ただし、彼の力が偽りであると判明した際には、任務遂行の妨害として責任は免れませんよ」
「ああ、それでいこう。安心してくれ、私は人を見る目はあるんだ」
ゼノンは満足げに頷くと、俺の肩を軽く叩いた。
「では少年、よろしく頼む。では改めて、私はゼノン・アークライト。君の名前も聞いておこうか」
「ディラン・ベルモンドです」
「ベルモンド……ああ、あのベルモンド公爵家の。なるほど、面白いことになってきた」
ゼノンがそう言うと、エルナは何か言いたげに顔を顰めたが何も言わず俺を見る。
その目は早く指示を出せと言わんばかりだ。
俺はすぐに魔力感知を人から魔物へ切り替える。
穏やかで色とりどりだった人の魂の光がすっと消え、代わりにどす黒く、禍々しい魔力の光点が学院の敷地内にいくつも浮かび上がった。
その数は……思ったよりも多い。三十は下らないだろう。
バグベアやガーゴイル級に強い気配は感じられないが、奴らは巧妙に気配を隠し、校舎の物陰や暗がりに潜んでいた。
通常の魔力感知ではこうも正確に捉えることはできないはずだ。
「さて、私は一足先に教会へ向かうとしよう。少年、いや、ディラン君。あとは頼んだぞ」
ゼノンは悪戯っぽいにやりと笑みを残すと、ふわりと宙に浮き、あっという間に夜の闇に消えていった。
その移動方法ですら、もはや魔法なのか身体能力なのか判別がつかない。
残されたのは、俺とエルナの二人きり。
重く、気まずい沈黙が流れる。
「……どうなのですか」
沈黙を破ったのは、エルナの不機嫌そうな声だった。
俺は意識を集中させ、脳内に描かれたマップから最短ルートを導き出す。
「一番近いのは、本館三階、西側の廊下です。数は二。おそらくゴブリンかと」
俺が言い終わるか終わらないかのうちに、エルナの姿が掻き消えた。
速い……!
目で追うことすらできない。風切り音一つしない、まさしく瞬間移動のような動き。
次の瞬間、本館三階の方角で、ほんのわずかに魔力が弾けて消滅するのを感知した。
「……終わりました。次を」
数秒後。
音もなく背後に現れたエルナが、感情の乗らない声で告げる。
その瞳にはまだ疑いの色が濃い。本当にいるのか、いたとして偶然ではないのか、そんな声が聞こえてきそうだ。
俺は間髪入れずに答えた。
「次は女子寮の裏手、倉庫です。数が四体。おそらくホブゴブリンかと」
再びエルナの姿が消える。
今度も数秒とかからず、倉庫の方角で明確な魔力反応の消滅を確認した。
それを繰り返すこと、十数回。
俺が位置と敵の種類、数を告げ、エルナが狩る。
その連携は、回数を重ねるごとに無駄な間がなくなっていった。
いつしかエルナは、俺の報告が終わる前に次の目的地へ向かって跳躍するようになっていた。
俺を見る目から、侮蔑や疑念が消え、純粋な『評価』と、わずかな『驚愕』の色が浮かび始めている。
彼女もまた理解したのだ。
この連携が、どれほど効率的で、驚異的なものなのかを。
「……次が、最後です」
俺は脳内のマップに残った最後の一点を睨み、告げた。
エルナが即座に跳躍しようと身構える。
だが、俺はすぐに次の言葉を続けられなかった。
「……? どうかしましたか、早くして下さい」
エルナが訝しげに俺を促す。
おかしい。最後の一体。その魔力反応は、これまで掃討してきた雑魚とは明らかに異質だった。
小さい。だが、異常なまでに凝縮され、巧妙に隠蔽されている。
そして、その場所は――。
「……ベルモンド?」
俺の顔から血の気が引いていくのを感じた。
「そ、の……最後の敵は……」
俺は震える声で、最悪の事実を告げた。
「教会です。……避難している、生徒たちの中にいます」




