第16話 騒がしい余韻
「――では、これにて誓約の儀を終了といたします」
老司祭の締めの言葉と共に、緊張に満ちていた精霊の間はゆるやかに解散の空気に包まれた。
しかし、誰一人として軽々しく声を上げる者はいない。数刻前に起きた衝撃の余韻が、いまだ会場全体を支配していたからだ。銀狼フェンリルの降臨と契約――それは、この学院の歴史の中でも前例のない出来事だった。
会場のあちこちで生徒たちが小声で噂を交わす。
「まさか本当に伝説級の精霊が……」
「アルトナの名を、これで誰も笑えなくなるな」
そんな声を背に、俺は人混みから抜け出すように早々に会場を後にした。
――疲れた。
ただ一度儀式に臨んだだけだと言うのに、まるで一仕事終えたような気分だ。
しかも得たものは精霊契約以上に「深刻な問題」だ。
完全にシナリオが崩れた今、この先どうなるのか、ますます見通しが立たない。
「――ディラン様」
会場を出ると、心配そうな表情を浮かべたマルタの姿があった。
俺は軽く手を挙げて、平静を装う。
『あの方は? 綺麗な方ですが……まさか奥方ですか!?』
突然やかましい声が思考に割って入る。しかも声だけじゃなく表情までも浮かんでくるという余計な機能付きだ。
今まで寝てた癖に、全く調子の良い精霊である。
「ディラン様……?」
怪訝そうに首を傾げるマルタの視線。俺は慌てて咳払いをし、取り繕った。
「ああ、何でもない。少し考え事をしていただけだ」
『考え事ですか? 私という美しき精霊を得て、喜びで胸がいっぱいなのだと正直に言っても良いんですよ?』
(どの口が言うか……)
頭の中で響く軽薄な声は無視するに限る。
俺はマルタに向き直った。
「待たせてすまなかったな」
「いえ、それは構いませんが……儀式の結果はいかがでしたか?」
マルタの問いに、俺はどう答えるべきか一瞬迷う。
馬鹿正直に聖女神と契約した、など言えるはずがない。
「ああ、契約はできた。光の精霊で、ルーという名らしい」
「光の精霊……ルー様、ですか。おめでとうございます」
マルタは丁寧にお辞儀をした。
「寡聞にして存じ上げない御名ですが、きっとディラン様と縁の深い御方なのでしょうね」
「……だといいんだが」
確かに縁があったのだろう。
ただそれが良縁だったかは分からない。
『ああ、従者さんですか! これは主人と従者の禁断の愛の予感……!』
……どうしよう、こいつと契約したのを物凄く後悔してきた。
俺は心の中で悪態をつき、こめかみを押さえた。
この調子で四六時中話しかけられるとなると、精神が持たないかもしれない。
「ディラン様、顔色が優れませんが、どこかお体に障りましたか?」
「いや、大丈夫だ。少し疲れただけだ。部屋に戻ろう」
マルタの気遣う視線から逃れるように歩き出した、その時だった。
「ディラン殿」
静かだがよく通る声に、足が止まる。
振り返ると、そこにはユリウス・デ・アルティウスが立っていた。黄金の髪を後ろに束ね、紫の瞳は相変わらず涼やかで、彼の背後の喧噪さえ遠のいて見える。
「先程は見事であった。同じ王国に連なる者として、契約の成就を祝わせていただこう」
さらりと口にした賛辞は、威圧も皮肉も含まれていない。
ただ事実を述べただけ――それが逆に重みを帯びるのだから、公爵家嫡男という立場の恐ろしさを感じざるを得ない。
「……恐縮です」
俺が頭を下げると、ユリウスは一拍置いて言葉を続けた。
「色々と積もる話もあるが、ここで長話をするのも無粋だろう」
ユリウスは僅かに視線を逸らし、神殿の奥でまだざわめく生徒たちを見やった。
「――後日、精霊契約を果たした者だけで催される集いがある。“精霊会”と呼ばれている。卿も招かれることになろう。ぜひ顔を出していただきたい」
「精霊会……?」
「うむ。精霊を得た者同士、縁を確かめ、互いの力を認め合う場だ。社交の場でもあるが、決して無駄ではないはずだ」
ユリウスは一歩近づき、俺を真っ直ぐに見据える。
その瞳は真っ直ぐで、純粋に俺という存在を見極めようとしているようだった。
「承知しました。謹んで参加させていただきます」
「うむ、楽しみにしている。ではその折に」
ユリウスは短く頷くと、背を向けて去って行った。背筋の伸びたその姿は、やはり他の生徒とは一線を画していた。
『おおっ、社交の舞台! ドレスとワルツとロマンスの予感ですね! これも私と契約した箔のお陰!』
そんな粛然とした気分を台無しにする軽薄な声が頭に響き渡る。
俺は額に手を当てて小さく溜め息をついた。
「……精霊会か」
余韻に浸かりながらポツリと呟く。
そういえば、この学院に来て貴族の社交場に参加するのは始めてかも知れない。
我ながら妙な学院生活を送っているなと思う。これでは、オスカーが呆れるのも無理はない。
「さて、帰るか」
何はともあれ一度ゆっくりとしたい。
そうして歩き出したところで、横に並んだマルタが小さく息をついた。
「大分、お疲れのご様子ですね」
「まあな。……正直、胃がまだ痛い」
俺の冗談めいた言葉に、マルタは苦笑した。
「それでも精霊会までには、体調を整えていただかないと」
「おい……プレッシャーを増やすな」
『そうですよディランさん! 精霊会なんて、もうウキウキのイベントじゃないですか!』
頭の中で、妙にテンションの高い声が響く。
俺は心の中で頭を抱えた。
(お前は気楽でいいよな……)
『気楽? 失礼ですね、私はもう衣装のイメージトレーニングまで始めていますよ! ディランさんには漆黒のマントに赤い薔薇、マルタさんは……』
「何をぶつぶつ言っているのです?」
マルタが怪訝そうに首を傾げる。
俺は小さく息を吐いて答えた。
「ちょっと精霊ルーが思いの外おしゃべりでな……」
「……おしゃべり?」
マルタが瞬きを繰り返す。
『おしゃべり!? ちょっと待ってください! 私は“知的で美しい精霊”です! それをおしゃべりなんて! 名誉毀損です!』
(うるさい……!)
「言葉を介す精霊は高位な証と聞きます。まだ名が知られていないだけで、ルー様も上位精霊なのかもしれませんね」
『聞きました!? 上位精霊認定ですよ! さすが私!』
お前は上位精霊どころか聖女神だろ。
「……そうだな、せっかく契約できたんだ、前向きに考えるようにするよ」
自分に言い聞かせるように呟くと、マルタは少しだけ柔らかい表情を見せた。
「はい、それに精霊については私も詳しくありませんので、精霊会で知見を得られると良いですね」
「ああ、そうだな」
精霊契約者だけが集う場――そこではきっと、俺の知らない情報や、今後の手がかりも得られるはずだ。
だが同時に、あのクライスも呼ばれるに違いない。
大精霊と契約した期待の新星。
俺から見れば勇者の代わりとなった者。
彼が一体何を考えて行動して、何を目指しているのかは知っておいて損はないだろう。
「……とにかく、今は休もう。精霊会に向けて、少しでも備えておきたい」
「承知しました」
マルタは恭しく一礼すると、俺の後ろに付き従う。
学院の廊下はもう夕闇に染まり始めていた。長い一日が、ようやく終わろうとしている。
『そうそう、精霊会は情報戦でもありますからね! 私がしっかりフォローしてあげますって!』
(不安しかないんだが……)
俺は小さく息を吐いた。
窓の外では、夕陽がゆっくりと沈み、学院の尖塔の影が長く伸びていた。
今日一日の疲れと、明日への重さが肩にのしかかるのを感じながら、俺は静かに歩みを進めた。




