四日目
好きな人ができるって、凄く幸せなんだって初めて知ったの。毎日がキラキラしていてその子に会っても会わなくてもなんだかんだ幸せだった。会えばもちろん目が合えば、話せればこの世の幸せを一気に受けているかのように幸せなの。会えないのは寂しい気持ちもあるけど、今何をしているんだろうと考えたり、少しだけ幸せな想像をしたりすると胸が温かくなるの。今日は会えるかな?目を合わせて話せるのかな?そんな事を考えて教室に入ってすぐに違和感を感じた。何かがおかしい。空気が、目線が、皆の表情が、全てが冷たいと感じた。私の机に行けば一冊のノートが置かれていた。私が使っていたノートだ。恐る恐る開いてみる。私が使った最後のページをめくり息を飲む。赤い、赤いペンで気持ち悪いとかレズとか空気が汚くなるなんていろんな事が書かれていた。なんで。こんな酷いことを言われないといけないのか。顔を上げれば、私を見てニヤニヤとしているクラスメイト。男子も女子も私を見て笑っていた。私は現実味がなくて、こんな状況が信じられなくてこの時はまだ傷つくということはなかった。でも授業中にゴミを投げられたり、椅子を蹴られたりして休憩中には遠くから私に聞こえるように悪口を言ってきた。私は俯いて静かに時が過ぎるのを待つしかできなかった。……どうして。私が女の子を好きだって分かった途端に皆離れていくの。私が何か他のことは違う化け物のように扱われるの。すごく苦しかった。そして何より苦しかったのは、その子にいじめられていると知られてしまったこと。なんでいじめられているのかも聞かされたのか、その子は嘘だと言う目で私を見た。それがなにより私を絶望に落とした。その日、私は久しぶりに一人で家まで帰って行った。歩いている間、ずっとあの子の顔が思い浮かぶ。目を見開いて、恐る恐るこちらを見る姿。思い出して勝手に涙が出る。どうして、どうして。その言葉しか出てこない。家に帰ればお手伝いさんが玄関で待ってくれていた。いつもなら学校であったことを話しながら自分の部屋まで帰るのに。今日はそんな気分じゃなかった。それに話せることなんて何もなかった。楽しいこと一つも思い出せない。
「放っておいて」
そう一言だけ言って私は一人で部屋に閉じこもった。静かになった部屋で思い出すのはやはりあの子の姿。凄く綺麗な髪をなびかせて授業を聞いていたあの子、緊張した面持ちで私の家で遊んだ姿。楽しいことを考えたら少しは楽になれるのではないかと思って、大好きなあの子の姿を思い出す。それでも一番上にのしかかって離れない絶望した顔で私を見るあの子の姿。そして日記を取り出した。今日あったことを書かなきゃ。思い出したら余計にこぼれる涙。紙がしわくちゃになった。その瞬間悟った。私はもうずっといじめられて生きるのだと。覚悟と共に醜い感情が私を占めた。
蓮の最後の姿を思い出して俺は飛び起きた。この空間自体が俺の心臓なんじゃないかと錯覚するほどうるさく拍動している。頭を抱えつつ、冷静にならないといけないと考えて深呼吸をする。……うん、少しだけ落ち着いた。隣にいる彼を無意識に頼ろうとして視線を横に向ける。しかし視線の先に彼は――怜はいなかった。血の気が一瞬で引いた。指先まで冷たくて震えているのが分かる。
「嘘……だ、そんな……怜?」
震える体のまま怜が寝ていたはずのベッドに触れる。人の温かみなんて一切感じない。起きて、誰かがいなくなっていた。その場合何が起きているかなんてこの三日間で痛いほどに理解させられた。それでも信じたくなかった。しかし頭はいつもよりずっと正常に働いて、彼がもういないことを理解させた。喉からか細い音が鳴る。呼吸が浅くなるのを自身で感じた。俺のもう片方で寝ていた悠が、小さな俺の声を聞いて飛び起きる。そして怜がいたはずの場所で倒れ込むように座っている俺を見て、何が起きているかを瞬時に理解したらしい。急いで俺の近くに来て、背中を撫でている。その後大声で皆を起こす。俺はどうしてか第三者視点のようにその状況を見ていた。次々に起きては俺たちを見て慌てる皆。しっかりしないと。俺が冷静でなくてどうする。一番年上だろ。こんな時に皆を安心させられないで何が年上だ。苦しい胸を服の上から掴み、歯を食いしばる。だがみっともなく震える体と腕。くそ、くそっ。冷静になれ、皆を混乱に陥れるな。そう願うのに何も変えられなかった。
「ゆーさん、ゆっくりでいい。ちゃんと支えるから」
悠は落ち着いた声で話す。それでも俺を撫でてくれている手は震えている。動きたくなかった。きっとあの場所には怜がいる。キラキラと綺麗な空間に絶望させられる。なんで。……なんで怜なんだよ。叫びたく鳴る気持ちを必死に抑える。そして立ち上がった。ははっ、気を少しでも抜いたら膝から崩れ落ちそうだ。いつのまにか優真くんと智哉くんも俺の傍にいて心配そうに腕や肩を撫でてくれていた。
「ごめんね……行こうか」
少しでも皆を、自分を安心させるために笑顔を浮かべた。ちゃんと笑えていたかな。俺の隣にいた悠が悔しそうに俯いたのを見て、笑えていなかったことを自覚する。ゆっくりと歩いて行く。凄く遅いはずなのに誰も俺に文句なんて言わなかった。このまま一生あの場所に着かなければ良いのに。怜は生きているなんて甘えたことは言えない。しかし死んでいると信じたくなかった。苦しい。後ろで見守ってくれた蓮も、俺の隣で怖さを隠しながら一緒にいてくれた怜もいない。苦しいよ。下を向いて手を握りしめる。爪が食い込む感覚だけが俺を冷静にさせる。その時背中に二つの温かい感覚を感じた。後ろを見れば、優真くんと智哉くんが俺の背中に手を置いて俺を優しく押していた。
「俺は何を言われても悠也さんの背中を押します。それが唯一俺のできることだから」
「頼りないかも知れませんが、俺たちだって支えることはできます」
優真くんは泣きながら、智哉くんはぐっと泣くのを我慢している顔で俺を見ていた。俺なんかよりずっと頼もしく見えた。そして俺は隣にいる悠に目を向ける。悠は悲しそうにしながらもしっかりと前を見ていた。
「ゆーさんが俺たちにしてくれたことを返す。俺ができる最大の恩返しだ」
皆の言葉はすっと頭に入った。……もう覚悟を決めよう。甘えたことは言わないと言っていたが、心のどこかで生きていて欲しいと願っていた。見つけよう。怜の姿を。あいつの姿をちゃんと見て、せめて苦しんでいないことを願おう。まだ体は震えている。もしかしたら怜を見つけて冷静でいられないかも知れない。それでもあいつを見つけるまでは歩いて行ける気がした。歯を噛みしめて一歩前へと進む。そして少しして曲がり角が見えた。俺は立ち止まる。優真くんたちは俺を押さずに後ろから見ていた。深く息を吸う。ゆっくりと吐いて、曲がり角を曲がる。残酷なほどにキラキラと光る空間の中で、怜は蓮や隼くんと同じ体勢でうなだれていた。足の力が抜けて座り込む。……分かっていたことだろ。覚悟だって決めたつもりだっただろ。それなのに俺は。体を折って視界いっぱいに床を映し出していた。誰かが俺の隣に座り背中を撫でている。そんな感覚もどこか遠くに感じながら、俺は苦しい胸を精一杯動かして現状を否定しようとしている。この苦しさは呼吸が荒いからなのか現状を受け付けたくないからか分からない。どこか夢のような感覚がしてもう一度怜を見る。夢ならもう醒めてくれ。起きてよ。だが目に映るのは変わらず死んでいると言わせたいかのようにうなだれている怜の姿。俺はそれを見て口が開く。
「はは……っあははは」
何がおかしいんだろう。笑えるようなものなんてなにもないのに。俺はひたすらに力なく笑った。視界に入った智哉くんは驚いたように俺を見ていた。そうだよな、急に笑ったら誰だってびっくりするよ。それでも止められなかった。笑って、笑って、胸が苦しいままに笑っていた。そうしたら本当に全てがおかしく見えた。少し恐怖の混ざった瞳で俺を見る優真くんも、俺の笑い声を目を閉じて受け入れている悠も、どうしたらいいのか分からずひたすらに俺を見る智哉くんも――悲しいはずなのに涙の一滴も流さない自分自身も。全てが俺を笑わせる。あぁ、なんておかしい世界なんだ。そんなおかしな世界で全てを奪って存在するだけのこの館が恨めしい。息が続かなくて笑いが途絶える。それもおかしくて笑う。少しして俺は笑う力もなくなって、ひたすらに怜を見ていた。思っていたことを隣にずっと座っている悠に問いかける。
「ねぇ、悠」
「何?」
「蓮も怜もいない俺に何ができるのかな」
目を開けて俺を見た悠の表情が硬くなる。それがまた俺の笑いを誘う。しかし笑うことはできなかった。そこで怜の胸に咲いた花が気になってふらりと立ち上がる。悠も立ち上がり、俺を支えるために横に立っている。近くまで来たら怜の表情がよく見えた。あぁ、怜も笑っていたんだ。胸の方に目線を向ける。紫色の丸い花が見えた。
「アリウムか……。怜にぴったりだ。お前はいつも正しくて、ずっと優しかったな。何度も……救われてたんだよ」
そう言って俺は怜の頬に触れる。とてつもなく冷たい。でもどうしてかその冷たさが心地よく感じた。
「怜、怖くなかった?お前、ホラーゲームで叫ぶぐらい怖がりなのに今までよく頑張ったなぁ。震えていたりはしたけど、一度も怖いなんて言わなかったね。優しい怜の事だし、怖いなんて言えば皆まで怖がらせると思ったんでしょ?いつまでも怜は優しいな」
返事がないなんて分かりきっていた。それでも俺は話しかけ続けた。いつか、俺の声が届いて奇跡が起こるんじゃないかって。悠は俺を止めようとして辞めた。俺が壊れてしまうと考えたのだろう。
「蓮とも仲良くするんだよ?いつも口喧嘩してたから不安だなぁ。隼くんもよろしくね。先輩2人だからって気を遣わせたらだめだよ。向こうでもホラーゲームは夜にしたらだめだよ。トイレに着いてきてくれる人いないんだからね」
二人の笑い声が頭の中で流れる。まだ悠達が来ていなかった時、夜にホラーゲームをしてトイレ行きたくても怖くていけなかったこと。俺を起こして連れて行ってって言われた時は笑ったよね。怜ったら何歳児なのって言ったの今でも覚えてるよ。それで声が大きくて蓮も一緒に起こしちゃったんだよね。それでまた言い合いになって。トイレに行っているときですらも言い合いをしていたね。なんだかんだ仲が良かったんだよ。よく覚えてる。……覚えてるからさ。もう俺に現実を突きつけないで。何かが崩れるような気がした。でも俺はそれを止められないし、止めようと思わなかった。このまま崩れて怜達と一緒に消えてしまえたらどれだけ良かったか。怜を見ていたらなんだか一緒に死ねる気がした。しかしそれを後ろから邪魔をされる。手で覆い隠されたのだろう。
「ゆーさん。きっとりょーさんはそれを望んでないよ。れーさんも望んでない。だからさ、諦めないで。ゆーさんが立ち止まっても俺たちが引っ張ることはできる。でも生きるのを諦めたら、俺たちにはもう何もできなくなっちゃう」
少しだけ意識が戻った。悠が止めなかったら、多分立ち直れないほどに壊れていたかもしれない。ゆったりと後ろを見る。俺より少し背の高い悠は悲しそうに俺を見ていた。智哉くんと優真くんは怜に向かって手を合わせていた。そうだ、彼が眠れていることを祈らないと。どこか他人事のように手を合わせた。もう怜が怖がらないでよくなるように。どこか冷静に状況を考える。いつまでもここにはいられない。情報収集や出口探しをしなければならない。もう一度振り返れば、悠は目を見開いて固く手を握った。何があったのかともう二人を見るが、彼らも俺を驚いた表情で見るだけだ。どうしたのだろうか。聞こうとした時、悠が話し始めた。
「智哉と優真は出口を探してくれ。俺たちは一応図書室に行くが……もう限界だ。多分まともに動けないはずだ。だから、そこは覚悟しておいてくれ」
「でもっ……」
悠の言葉に智哉くんは反論しようとするが、悠の表情を見て口を閉ざした。そして悠一言任せたと言い二人は曲がり角を曲がってしまった。
「ゆーさんも、行こうか」
情報は集めないとと考えて、足を前に出そうとするが動けない。それどころか力が入らなくて床にへたり込む。なんで?さっきまで歩けただろ。どうして急に。俺は……。動けないことを理解した悠はまた悲しい顔をして俺に近付いた。
「図書室に行くだけ行こう」
俺の腕を取って自身の首に巻きつけた。そして無理やりに立ち上がった。ほぼ引き摺られる形で俺は図書室まで歩いていく。完全に力の入らない俺の体は重たいだろうに。悠の足取りはどこかしっかりとしていた。悠はすごいな。俺より年下なのにずっと頼もしい。智哉くんも優真くんもちゃんと動いてる。あの2人にはずっと出口探しをしてもらっている。見つけられない出口を探すなんて辛いだろうに。それなのに……俺は何をしてるんだろう。年上なのにこの現実を受け入れられなくて、こうやって年下に縋っている。あまりに情けなかった。
「着いたよ。椅子に座れる?」
力なく首を横に振る。今自分の力で自分を支えることは不可能に近かった。すると悠は周りを見て凭れられる壁を見つけて俺を座らせた。そして隣に腰を落ち着けさせている。ごめんねと笑って謝るが、悠は悔しそうに歯を食いしばるだけだった。
「ね、ゆーさん。無理に動かなくていいよ。年上とか関係ない。苦しいものは誰にだって苦しい。だからもう無理に自分の気持ちを抑えないで」
何を言っているのだろう。気持ちを抑えているつもりなんてない。さっきまでは苦しくて叫びたくて仕方がなかったけど、今はずっと冷静だ。何をしたって怜たちは帰ってこない。ちゃんと理解してる。だから冷静になれているんだ。ぽつぽつと呟けば、悠は両手を強く握った。爪を立てていて痛いだろうに。辞めさせないと。悠の手を握ってあげようと手を差し伸べれば、逆に俺の手が取られる。
「こんな時まで俺の心配なんかしないでよ。自分のことを考えてよ。……ゆーさんさ、笑ってるつもりなんでしょ?俺たちを安心させようとわざと声を明るくしてさ、笑顔で俺たちを見ていたつもりなんだろうけど。俺達から見たゆーさんは全く笑ってなかったんだよ」
「は……?」
「今のゆーさんはなんの感情もない人形みたいな顔なんだよ」
そんな……わけない。だって俺は、今笑えている。口角を上げているつもりなんだ。手で自分の口元に触れる。笑っているはずなのに、口は全く動いてなくて。口角を上げようとしてみても全く上がらない。どうして……?こんなの何もかもが抜け落ちた空っぽの顔じゃないか。
「は、ははっ。俺……どうしちゃったんだろ?なんで笑えてないんだよ……。さっきまで狂ったみたいに笑えていたのに……」
「ゆー、さん」
「どうして?悠。なんで。俺分かんないよ。自分では笑ってるつもりなのに。どうして。笑うどころか、悲しくても泣けないんだよ。蓮を見た時も、怜の時だって涙なんか流れてなかったんだよ。あれだけ悲しかったのに、俺は……」
頭を抱える。隼くんの時は泣いたんだ。ちゃんと目から涙を流した。それを無理やり拭ったのを覚えている。ちゃんと悲しめていたんだよ。なのに、なんで?蓮も怜も大切だって、守りたいものだって思っているのに。それを失って悲しくなっているのに……なんで泣けないんだよ。
「落ち着いて、ゆーさん」
「落ち着いてなんかいられない。俺おかしいよ。なんで。皆大切な仲間なんだよ。そう思ってたのに、蓮と怜の時はなんで泣けないんだ。苦しいのに、悲しいのに、なんで俺は何もできないんだよ」
悠は俺の前に来て落ち着かせようとしている。俺は目が泳いでいる悠の肩を掴んで項垂れる。こんなの八つ当たりだって分かってる。でも分かんないんだよ。自分のことなのに、何も分からなくて。おかしいことだけ理解してる。くそっ、なんで……。手は下に降りて、ポケットの上から服を握りしめる。昔の癖だ。昔ここにお守りを持っていて、苦しい時はそれを握って冷静でいようとした。今は何も入っていないのに。グシャと何かが潰れる音がした。悠にも聞こえていたようで俺を見ている。ポケットに何か入っていたのか?そんなはずない。なら何が……。ポケットに手を入れて入っていたものを取り出す。
「……紙?」
持ち上げたら一枚落ちた。二枚入っていたらしい。俺が握ってしまったせいでぐしゃぐしゃになっているが、本来は綺麗に二枚折にされていたらしい。知らないからこその恐怖と共に一枚の紙を丁寧に広げる。そこには名前も書かれていなかった。
「ずっと一緒に遊んだもん。落ち込むのも知っている。この願いが無茶なことも分かってる。でも進んで。生きて帰って。まだ悠也さんはこっちに来んな」
手が震える。名前が書かれていなくても筆跡が、言葉遣いが誰かを示している。俺は救いを求めるようにもう一つの紙も丁寧に広げる。震えているせいで破らないように広げるのに時間がかかった。
「もう限界だよな。体も思い通りに動かなくなるよな。俺も凄く分かる。でも守るべき後輩がいるだろ?そのために動いて。あいつらを守ってやって。悠也さんならきっと出来るよ、信じてる」
普段そんなこと言わないくせに……。誰が書いたなんて、答え合わせなんていらない。だってずっと見てきた文字だ。ペンの持ち方だって分かる。蓮の書いた辛辣に見えて優しい文字たち、怜の書いた少し震えた文字たち。二人ともきっと死ぬ直前に書いたのだろう。なんだよ……。いつも俺のこと悠也って呼び捨てにするだろ。こんな時ばっかりさん付けで呼ぶなよ。視界が滲む。俺は体操座りの体勢で顔を自身の足に埋める。ふと俺と悠以外の気配を感じた。
「悠也さん」
二つの声が重なり、俺を呼んだ。その声に俺は顔が上げられなかった。だって、泣きそうだから。さっきまで泣けないってあんな悠に八つ当たりしたのに。
「大丈夫や」
「頑張れ」
その言葉に俺は顔を上げる。二人とも俺の前にいたんだ。俺が望んで見ている希望じゃない。ちゃんといるんだ。少しだけ口角を上げて俺を見る蓮も、ただただひたすらに優しく笑う怜もいるんだ。手を伸ばせば届くんだ。でも俺の視界は歪んでいる。二人の姿を見たいのに。どうして……。手に温かい感覚があって目線を下げる。その瞬間、目から落ちる液体が見えた。
「な……いてる?」
涙が流れた。その瞬間にいろんな記憶が蘇る。初めて会った時、ゲーム同好会を作った時、夜に三人で学校に泊まった時、下らないことで喧嘩をしている二人をなだめた時、新しく後輩が入ってきた時……七人で夜まではしゃいでゲームした時。温かい記憶に触れてまた涙が溢れ出る。
「蓮、怜……」
涙を拭った時にはもう二人はいなかった。それでも手の中にとても温かいものがあった。二人の手紙だ。今度は握り潰さないように、優しく優しく包み込む。……ありがとう、二人とも。お前らのお陰で俺は前へ進めるよ。丁寧にポケットの中に入れる。そして振り回した悠へと目を合わせる。
「傍にいてくれてありがとう……八つ当たりしてごめんね」
「……っ、お互い様だよ」
今なら笑顔でお礼を言えていると、そう確信できた。悠も安心したように笑って俺を見た。
「さっきの質問、今返すよ。ゆーさんは立ち上がって前へ歩いていける。俺たちを守りながらかっこよく引っ張ることができるんだよ」
蓮と怜がいない俺に何ができると思う。自分自身で見つけられなかった答え。そして今なら正直に答えられる。
「俺が立ち上がれるのも、守ろうと思うのも、お前らがいてくれたからだよ。悠たちが頑張ってくれるから、俺は俺でいられる」
戻してくれてありがとう。壊れた時もずっと傍にいてくれてありがとう。そう言えば、悠は涙を流して嬉しそうに笑った。そして俺は立ち上がった。やるべき事とやりたい事がある。二人に任せられたものであり、俺が俺をそうさせるもの。
「時間は少ないけど、情報を探そう」
――君たちを守るために。怖い気持ちはまだ残ってる。二人の死も完全には受け入れられていない。それでも支えてくれる人がいる。泣いても笑っても傍にいてくれる人がいる。だから、悠に手を伸ばす。繋がった手をちゃんと引いて、俺たちは情報収集をする。本を見つけては中身を読んで、情報にならないと肩を落とすということを何回かした時のこと。隣で同じく本を探していた悠が自信がないのか少し小さい声で俺を呼んだ。
「ゆーさん、これ……何か凄く大事な気がするんだ」
よく見つけたねと言いつつ中身を見る。内容はどちらかというとファンタジーな小説に近い。人間ではなくなってしまった女性の恋愛話。1ページ目には一つの文章があった。
『想いと欲……それにより形成される物は時に誰にも止められないものになる』
昨日読んだ日記と少し似たものを感じたのだろう。ちらりと悠の顔を伺う。とても真剣そうに本を抱えている。少し考えて悠を引っ張り机へと歩く。悠は少し焦っている様子だ。……何を焦っているのだ?
「大事だとは思ったけど別に俺の勘だし……この館とはなんの関わりもなさそうだよ?」
なるほど、それで焦っていたのか。自信なく俺を呼んだのもただの勘だったからだ。だが、俺にも一応こう動いた理由があるのだ。
「悠って案外俺たちに遠慮することがあるから、本当に大事だと思わないと言わないと思う。悠の遠慮を超えた勘なら俺はそれを信じる」
それに小説に書かれた恋愛、欲、想い。昨日見た『恋愛で生じた独占欲は時に恐ろしいものを作り上げる』の意味が分かる可能性がある。この館のことじゃなくても、恐ろしいものが何か分かれば少しは対処のしようがあるかもしれない。時間は少ない。幸いにも小説は短編だ。急げば今日中に読み終えられるだろう。悠もそれを分かっているからか、すぐに本を開いた。内容としては、恋愛をした女性は叶わない恋で醜く変化した。そして叶わない悲しみで無差別に人を殺したという話だ。もしこれが恐ろしいものだった場合……。ここのお嬢様は普通と呼ばれる恋ではなかった。だからこそいじめられて悲しみ、誰もが言葉を見つけられないような恐ろしいものになってしまったのだろうか。変わってしまった彼女は、何かしらの条件を満たした俺たちを殺している。そう考えるととても対抗できるような相手ではない。想いの力はとても強い。人を立ち上がらせることも、人を壊すことも出来てしまう。そんなものとどう戦えば良いのだろうか。
「……ゆーさんは、殺してしまいたいほど嫉妬したことはある?好きな人にでも、その周りの人でも、自分でも」
突然そう質問した悠の表情に感情は感じられなかった。嫉妬か。俺にも心当たりはある。悠たちとは少し年の離れている俺はその分恋愛をしてきた。どれも真剣だったからこそ、嫉妬して苦しんでそれを受け入れてきた。
「あるよ。でも俺はそれを抑える方法を知っていたんだ。だから普通でいられているのかもね」
もしかしてここに連れて来られる条件は恋愛をして嫉妬をしたことがある人……なのだろうか。でもきっとそんなの俺たち以外にもいる。俺たちである必要性は見当たらない。本当に無作為なのだろうか。大きすぎる謎で答えは見つけられない。どうすれば、助かるのだろうか。
「――悠?悠也さん?」
その言葉にハッとする。少し考えることだけに集中しすぎていた。顔を上げれば、心配そうにこちらを見つめる智哉くんと優真くんの姿。特に二人は俺を見ておかしな所はないかと探している。そうだ、彼らにも感謝を伝えなければ。
「もう大丈夫だよ。皆が支えてくれたから、俺は歩いていけるよ。本当にありがとう」
怖がらせてごめんねとも謝れば、俺の表情をしっかりと見つめて安心したように胸をなで下ろしていた。出口は相も変わらず見つけられないようだ。やはり隠されているのだろう。情報集めに集中した方がいいのだろうか。正直わからない。本を閉じる。見つけたことと考えた仮説を話しつつ寝室へと向かう。また一つ減らされたベッドに目を伏せる。少なくなったな、なんて。ここまで亡くなった彼らを否定されると、本当に一緒にいたのか分からなくなってしまいそうだ。ちゃんと彼らとの記憶はあるのに、どこにもそれを証明するものがない。ポケットを握って手紙に触れる。これがある限り彼らは生きていたと証明できるはずだから。寝転がって天井を見る。……静かになると必然的にあの三人の姿を思い出す。皆抵抗の跡がなかった。もしかしてなんていう可能性を浮かべてはそうであってほしくないと考えてしまう。その可能性は信じたくないな。
「少し……いいですか?」
俺のちょうど反対側で寝転がっている彼の声が聞こえた。何か伝え忘れたことでもあるのかなと声に集中する。他の二人も静かに待っている。そしてとある事を聞かされた俺たちはそれぞれ息を飲んだ。抗いたいというのに、無理矢理に寝かされるような感覚で睡魔がやってくる。寝たら駄目だと分かっているのに……。
意識が浮上する。俺は目を開けたくなくて、腕で光を遮断するように目を覆い隠す。分かっていたとはいえ怖い。なぜあの三人は抵抗せずに終わってしまったのだろうか。俺は凄く怖いままだ。きっと何かが来れば怯えて暴れるだろう。でも目を開けないといけない。深呼吸して目を開く。視界は寝室のままであった。その事実に少しだけ安堵して、ゆっくりと起き上がる。死ぬとしても、せめて誰によるものかは知っておきたい。彼らがどのようにして殺されたのかは想像上でしかないけれども。寝る前の事を思い出す。きっとあの三人ならここから脱出できるかもしれない。何もこの館について知っていないのに、そう思ってしまうのは願いなんだろうな。立ち上がって、窓へと向かう。外の景色は真っ暗で何も分からない。暗さに慣れた目ですらも窓の先を見通すことができない。やっぱりここは現実とは離れた世界なんだろうな。どれだけ歩いても見つかる気配のない出口。広いなんていう次元じゃない。あまりにも構造がおかしすぎる。……現実と違うなら、どうやって逃げれば良いんだろうな。今になってはもう分からない。窓を撫でていれば、後ろから足音がした。ゆっくり振り返るとそこはもう見慣れたと言ってもいいほどの場所だ。そして前を見る。黒いローブを着た人間の顔を見て、今までの全てのピースが繋がる。
「何かがおかしいとは思ったけど、そうだとは思いつかなかったな」
先に旅立った彼らもこんな気持ちだったのだろうか。信じたくない現実と向き合わされる苦しみ。いろんな感情が交ざり彼を睨む。目の前の彼は悲しそうに俺を見つめた。どこか嘘っぽく感じる表情に夢じゃないことを悟る。そんな自分に心の中で笑った。今も正直信じられないままだ。しかし俺はやらないといけないことがある。少し遠くにいる――に走って近付く。まさかそんなことされると思わなかったあいつは焦りつつ口を開く。
「【かごめ かごめ かごのなかのとりは】」
歌を歌ったすぐに俺の足元に蔦が伸びて拘束される。それでも腕が動けば十分な距離にいた。俺は腕を振り上げ、おもいっきり頬を殴った。よろめくあいつを横目に俺は蔦に捕まった。そんなことはもうどうでもいい。死ぬかも知れないなんて、一番初めにあいつが死んだときに悟ったさ。
「ふざけるなよ。どういうつもりでこんなことしてんだ!?」
感情のまま叫ぶ。俺を見るあいつの顔を見て、少し絶望した。本気で殴ったのだ、だからあいつもよろめいた。それなのにどうして頬には痕の一つもないのだ。叫ぶ俺を見て、――は首を横に振る。そこで俺は思った。あいつはもう人間じゃない。あれは人間の皮を被った化け物なのだ。
「お前、なんとも思ってないのかよ!あれだけ人を殺しておいて、どうして普段通り振る舞えるんだ!」
怒りや悲しみ、無力感。いろんな感情が俺を溺れさせる。それでも言わなければならないと思ってしまった。しかしあいつは泣き出しそうな顔で笑い首を横に振る。その瞬間俺はもう駄目なんだと理解した。そう思ってしまったら、もう止められなかった。涙があふれ出す。
「お前にとって……あの時間は大切じゃなかったのかよ……」
皆とゲームをした記憶が蘇る。楽しそうに笑っていただろ。どうしてだよ。体の力が抜ける。なんでどうしようもなくなっても何も言わないんだよ。俺はずっと助けたいと思っていたのに。またもや首を振る――に笑う。
「【うしろのしょうめん だあれ】」
救われる人間は、助けてと言ってその権利を受け取ってからだ。どこかで聞いた言葉が思い出される。一言言えば、変わった話じゃないのかよ。痛みもなく胸から白い花が出てきた。殴ったって言うのに、痛みを与えない。最後までお前らしくて、どうしようもなく悲しい。……これ以外の未来はなかったのか?