⑯事実と真実
「命の御使いよ、穢れなき魂らの訴え、確かに届きたり。
この子を、なお彼岸へと渡すべからずと。
闇に攫われし命の灯を、今ここに。
願いを受け、我が手を通して引き戻さん。
血は止まり、骨は結ばれ、心よ、再び鼓動せよ。
残されし想いと共に、この子に、明日を」
エディトが文言を口に出し、唱えることはほぼない。
今回は演出の為というよりも、力が足りなくてのこと。
神殿に引き取られてから、散々経典を使い学んではきたものの、エディトには信仰心らしい信仰心はほぼないと言っていい。
精霊に気に入られる彼女の鋭い感覚は動物に近く、死とは身近であり自然なもの。
それは神殿で学んだ宗教的な概念など遥かに超えて、ただ在るのみ。
自分は繋ぐ役割である、と理解しているエディトは、祈る際に自分の感情を乗せない。
だからこそ彼女の祈りは清廉なのだ。
どんなに直前まで余所事を考えていようと、なにかの対価として祈ろうとも、自己の思想とは上手く切り離す。
蛇足だが、それ故に元婚約者への祈りは効いていない。
だから彼に今後の彼(の頭)に輝かしい未来が待っていたとしても、それはエディトのせいではない。多分。
祈るエディトに、実体のないシュピュルクが重なる。
最早、朧気なかたちのみになっていたそれは、再び球体のように崩れ、小鹿の身体に吸い込まれていく。
祈りは静謐で長く、固唾を呑んで見守る周囲──人も、鹿達も皆、いつしか祈っていた。
そして、小鹿が立ち上がった。
歓声が沸き起こる中、その場にへたり込むエディトをすかさずユリウスが支える。
「旦那様……」
「……」
(無茶苦茶だ)
皆が祈る中。
止めるべきかと葛藤しながらも、その光景に呑まれ止められなかったユリウスの祈りだけは、皆とは質が違うもの。
彼だけは『早く終われ』と祈っていたのだ。
労うべきなのだろうが、口を開けば叱責の言葉が出てきそうになり、何も言えない。
きつく巻かれた包帯も、止める前に走り出したことで緩んでおり、そこから血が滲んでいる。
共にしゃがんだことでエディトはようやく彼が負傷していたことに気が付いた。
「あっ! お怪我を……!? 今」
「ッ馬鹿か君は!」
開口一番、やはり出たのはそんな言葉で。
『よっしゃ出番だ!』とばかりに意気込んだエディトは罵倒されて面食らったけれど──
「んぷっ?!」
次の瞬間に待っていたのは、強い抱擁だった。
「……もう、なにもしなくていい」
「でも、おみ足が」
「こんなのはいい。 充分過ぎる。 これ以上、無茶をしないでくれ」
「…………はい」
(怒られちゃったわ。 折角頑張ったのにぃ)
そうは思えど、思いのほかガッカリはしなかった。
『無茶をするな』と言われたのは初めてだったからか、それともその後、横抱きにされて運ばれたからか。
とはいえ、ちょっと気まずくはある。
「あ、あの、旦那様……お願いが」
「……なんだ」
不機嫌な様子のユリウスに少し気は引けるが、エディトには頼まねばならないことがあった。
「シュピュルクの遺骸ですが、引き取って頂けないでしょうか」
「えっ、それは……いいの? シュピュルク等は?」
「ええ、敵を呼ぶので。 彼等も納得しております。 その為の鎮魂の祈りです」
今はいいが、春になれば冬眠していた熊などの天敵も目を覚ますし、遺骸の腐敗も進む。
この遺骸の処分が、シュピュルクとの交渉材料にしたことの最後のひとつであり、『生活拠点の安全確保』。
やっぱり他人任せだが、シュピュルクの肉は食べられるし皮も角も骨も加工して使えるので、回収することは想定済だ。
この『お願い』はどちらかというと、鎮魂の祈りの為に集まった鹿達を見て、回収を躊躇うのでは、という懸念から。
彼等にとっては種の保存の方が優先すべきことで、だからこそ今回の祈りは最期の別れとして重要な役割を果たす。
それは人間とて変わりない。
亡き家族の遺体を弔い墓に入れるのは、そこに住み続ける人間側の都合による遺体の処分でもあるのだが、それを認識していないというだけのこと。
ユリウスはエディトを抱えたまま、固い表情で皆に指示を行う。
「それから──今日見たことは、この部隊だけの秘密にしてほしい。 少なくとも、今はまだ」
エディトの力を目の当たりにした騎士達は重く頷いた。
本人だけは、ちょっとガッカリしていたけれど。
「閣下、後は私が指揮を。 怪我もなさっておりますし、聖女様を連れて犬ゾリで先にご帰還下さい」
「だが」
「どのみち少し荷が多い、近くの部隊を呼ばねばなりますまい。 それに──ホラ、」
「!」
「おんっ♪」
申し出は有り難いが、犬ゾリはグラムの一台しかない……そう思い躊躇したユリウスは、グラムと違い少し間の抜けた声の方を見て驚いた。
「アマロ……?! まさかアマロの治癒も君が?」
それに焦ったのはエディトである。
(くっ……旦那様ったら雪玉の個体までしっかり把握してるだなんて……!)
しかし彼女は諦めが早いので、アッサリ暴露した。
「ここまでの交通手段が欲しくて」
「計画してたのか……まったく、君という人は……」
「はは、閣下。 愛されてらっしゃいますな。
…………なんですかな? その表情は」
ユリウスは色々複雑過ぎて、チベスナ顔になっていた。
アマロの引く戦闘用でない犬ゾリで、ふたりは下山する。
載っていた荷物の中味を見たユリウスは、演出を多少察したが、それにはなにも言わず、荷台に載せたエディトに無言で掛けた。
ここまで来る為に準備していたと思えば、この程度の演出なんて可愛いものだ。
「旦那様……怒ってらっしゃいます?」
「……」
エディトはバツの悪そうな顔でそう聞いたけれど、ユリウスはそれに答えず、聞こえないフリをした。
「……君は羽根のように軽い」
「え?」
「いや、なんでもない……行くぞ、アマロ」
「わぉん!」
走り出したソリ。
前の荷台に座る嫁の人をチラリと見て、ユリウスは嘆息した。
(まったく、規格外だ。 こんな力を持つだなんて……『当代一』どころか『歴代一』じゃないのか?)
あまりに凄すぎて、若干引いたことにより彼はスッカリ冷静になっていた。
先程口を吐いて出た『溺愛テンプレ~横抱き編~』の台詞である『君は羽根のように軽い』も、また。
煽られたところはあるけれど、それでも自惚れではなく『まあまあ好かれている』くらいは感じていたし、情は育まれていると思う。
だがそれにしたって、あまりにも必死すぎるのだ。
勝利と無事を祈ってくれたまではまだいいとして。
自分の危険を顧みず、単身雪山に追い掛けてくる程の愛情を、彼女が自分に抱いているとは思えない──なので、
(健康になってもまだあの軽さ……それより更に痩せていたことを思うと、やはり王都では酷使され力を搾取されていたに違いない……!)
ユリウスがそう思うのも、仕方ないことだろう。
そんな事実はないにしても。
思えば先程も、『秘密にする』と言ったことにガッカリしていたようだったし、ずっとこちらの顔色を窺うように不安げだった。
それをユリウスは『献身的に振る舞い、自分の価値を示してここにいようと努力している』と捉えてしまった。
まさか、『トンチキ聖女嫁脱却の為、聖女アピールをしようとするも、絶好調に調子に乗ってやり過ぎちゃっただけ』などと、誰が思うか……
気の毒ではあるが、ユリウスの感覚こそ正常であると言える。
(これから誰に何を言われようとも、エディトは絶対に渡さない……彼女は俺が護る!)
彼はその誤解のまま、勝手に決意を固めていたけれど。
まあそれはそれでいいのではないだろうか。
とりあえずは、の話。