⑮聖女降臨
それはとても幻想的な光景であった。
逃げ惑う様子で荒々しく走り去っていった時とは違い、シュピュルクの群れはぎゅっと雪を踏み締め歩いており、その小さな足音で徐々に近付いてくるのが静かにわかる。
白が続く大地は風が雪を舞い上がらせて烟り、そこからやってた白い毛皮を纏った彼等の姿は、まるで蜃気楼の中から突如現れたかのよう。
やがて群れが止まると、中央から一頭のシュピュルクが歩み出た。
陽光に煌めきながら雪が舞い散る。
その背には、コートを風にユラリと靡かせ、白地に金糸の刺繍の聖衣を纏った聖女・エディトの姿。
誰もが息を呑んだ。
そのあまりに神聖な雰囲気に。
まさに──『聖女降臨』。
神秘的に口許に湛えたアルカイックスマイルの裏、聖女は思う。
(…………かんっっっぺきだわ!!)
そう。
もうお気付きだろうが、これらもほぼ演出──ヒグマの巣穴の近くが騒がしかったのは、逃げて来たシュピュルクの群れがいたからである。
まだ冬は始まったばかりで、シュピュルクの繁殖期は続く。
しかし、これから状態のいい窪地を探すのは困難……群れのリーダーに交渉し、『敵はウチの旦那様が倒すから大丈夫!』などと宣い説得し、今に至る。
あくまでも神聖なのは雰囲気だけ。
神々しく見えるのは美しい自然の風景と偶然のなせる技であり、実のところエディトはそこに──というか、シュピュルクの背に乗っかっている(※物理)だけである。
バッチリのシチュエーションで聖衣を着た女が鹿の背に乗っかって現れれば、そりゃ神々しくも感じるだろう。
宗教に騙される人の心理がよくわかる一幕と言える。
当初のイメージとは違えど、『劇的な合流』はこうして成功した。
あとは功績を作るのみ。
(旦那様はどこかしら?!)
真っ先に声を掛けたいところだが、実のところエディトは馬にすら乗ったことがない。
馬よりも不安定な、何もつけてない野生の鹿の背中でバランスを維持し、厳かな空気を崩さぬようアルカイックスマイルを保つので精一杯……それはさながら、水面下では足をバタつかせながらも、優雅に見えるように泳ぐ白鳥が如し。
今のエディトに、周囲を見渡しユリウスを探す余裕など……ない。
(ちょっと演出が過ぎたかしら? 誰も声を掛けてくれないわ!)
エディトを乗せたシュピュルクは、真っ直ぐ仲間の遺骸のある方へ向かうと手前で足を止め、しゃがみ込む。
(まあいいけど……どのみちこれを終わらせるのが先だし……さあ、切り替えていくわよ)
粛々と降り、躊躇うことなく血に染まる雪の中へと入って行くと、重なる骸を前に跪いた。
祈るのは『鎮魂』。
これが他人任せで甚だ無責任な敵の排除の約束以外で、シュピュルクとの交渉材料にした重要なひとつであり、唯一エディト自身ができること。
群れるだけありシュピュルクは仲間意識が強い。
そして彼等にも死を悼む気持ちはある。
群れとは生存率を上げる本能でもあるだけに、本来ならばこういう場合、わざわざ危険を晒してまで元の場所へは戻らない……というだけのこと。
憂いがなくなれば、仲間を弔いたい、と考えるのはむしろ当然だろう。
「──おお……」
「……!」
エディトが祈りを捧げると、シュピュルク達の遺骸からほわほわとしたものがいくつも浮かび上がる。
それらは重なり合い、一頭の個体を作り上げた。
キラキラと輝く半透明のシュピュルクは、群れの方をじっと見て声のない声で鳴くと、何かを訴えるように遺骸の周りをグルグルと回り出した。
群れはその訴えがなにか気付いたらしく、エディトの周囲を取り囲むよう、一頭、また一頭と集まり出す。
「なんだ……? なにが起こっている……!?」
「──エディト!!」
「あっ、閣下!」
その尋常ならざる様子に、ユリウスは駆け出した。
「エディト!!」
「──えっ、あ、だん……ひゃあっ!?」
シュピュルクの群れに分けいり、抱きかかえてエディトを攫うように鹿達の骸から離れる。
目を瞑り祈りに集中していたエディトは、なにが起こったかわからずにただ驚くばかり。
──ザシュッ
「「!」」
それ以上の言葉を交わすどころか目を合わすよりも先に、ふたりの視線と意識はシュピュルクの集まった方から発せられた異音に、そちらの方へ向く。
シュピュルク達はなんと、仲間だった筈の骸を角で持ち上げ、横へと飛ばしている。
異音は、喰われて損壊した無惨な遺骸が、雪を巻き上げて打ち捨てられた音だったのだ。
「一体……彼等はなにをしているんだ」
ふわり。
ふたりの前に降り立ったのは、先程より透明度を増した、実体のないシュピュルク。
『──、──』
頼りなげな姿で告げたのは、ふたつの単語。
だがエディトには充分理解できた。
「遺骸の下でまだ、子供が生きている……」
「!」
「治癒を。 旦那様、お離しに」
「いや、連れていこう」
──隠すように折り重なった骸の下。
辛うじて生存している子供が一頭。
浅い傷のみが、まるで刀傷のように斜めに大きく一文字の線を付けていた。
傷自体は遺骸が重なることで圧迫され止血されていたが、数体も重なった重みにやられている状態。
重なった骸はシュナイトファルへの抵抗の結果か、戦果を纏める為に重ねて置いたのか。
どこまでが故意でどこまでが偶然かはわからないが、他の……少なくとも一体のシュピュルクが子供を庇ったのだとは感じる。
(既に瀕死だが……)
だが、エディトはそれでも治癒を試みるらしく、跪き小鹿の身体に柔らかく手を乗せると、祈りの文言を唱え出した。