後編
トナカイは一心不乱に海の上を駆けていました。固く冷たい道が、トナカイの大きな体を支えています。
今日こそは。今日こそは、海を越えて遠くの陸に辿り着きたい。トナカイはそう願っています。強い願いが、彼の四本の脚に力を与えていました。
顔を出したばかりの太陽が、トナカイの両目をつぶさんばかりにまばゆい光を投げかけています。足下の氷の道はトナカイの蹄をきりきりと凍らせ、海の上を渡る風はトナカイの毛皮を裂かんばかりに体当たりをしてきます。それでも、トナカイは決して立ち止まろうとはしませんでした。帰りたい、帰りたいと心が絶叫している限り、足を動かさずにはいられないのです。
このトナカイは、かつて人間でした。海の向こうからやってきたのです。故郷に残してきた家族のために、異国で、ひと財産築こうとはりきっていました。けれど、なかなか思うままに稼ぐことができず、その日食べるパンにも困った末に、盗みや騙しに手を染めるようになったのでした。そして、ある時ついに罪のない人を殺してしまい、森へ逃げ込みました。
森の中で、彼は木の実や虫を食べ、追っ手を常に恐れながら過ごしました。大勢の警察官や犬が森に入り、じりじりと彼を追い詰めます。深い森の中を逃げ回るうちに、いつしか彼はトナカイ達のねぐらに迷いこみました。
そこには、年を取って動けない純白のトナカイが寝そべっていました。腹を空かせていた彼は、そのトナカイを殺し、腹がはちきれるまでトナカイの肉を食べ、ねぐらに潜り込んでぐっすり眠りました。そして目を覚ますと、彼はトナカイに変わっていたのです。
はじめのうち、もう警察官に捕まることはないと、彼は大喜びしました。けれど、トナカイになった彼を待っていたのは、狩人達や狼、熊に狙われ続ける日々でした。彼を見た誰もが、彼の肉や、毛皮や、銀の角をほしがりました。体が大きく森でもどこでも目立つトナカイには、気の休まる時が一日たりともありませんでした。
人の気配にびくびくし、苦い草を生きるためだけに食み、眠る時は重い角の置き場に困り、誰一人話し相手のいない日々の中で、彼の希望は故郷の妻子だけでした。幼い息子と、妻だけは、彼の味方でいてくれるはずです。彼らの元にどうしても帰りたい。そう願い続けて長い月日が経ちましたが、トナカイから人間に戻れる気配は少しもありません。だから、トナカイは身一つで海を渡ろうと、毎朝海岸に現れるのです。
夜の海は冷たく暗すぎて、故郷の方向に向かっているのかどうかも分かりませんでした。昼間は、船の上の人間に見つかり、網を投げかけられたり、鉄砲で撃たれてしまいます。こうして、挫折と負傷の果てにトナカイは、夜明けをめがけて海を走ることに決めたのでした。
海の中程で、トナカイは立ち止まります。息が上がってこれ以上は動けないと感じたからです。トナカイの角や毛皮には不思議な力が備わっているのか、はたまた誰かがトナカイを憐れんでくれているのか、トナカイが海を走る間は、氷の道が現れるのでした。氷の上で、トナカイは目をつむりました。
思い起こすのは、妻や息子のことでした。妻とダンスをしたこと、森の小径を二人で散歩したこと、息子を抱き上げて遊んだこと、息子と風呂に入り、体を洗ってやったこと。
息子の名前は、アンディと言いました。トナカイはその名前を片時も忘れたことはありませんでした。
不意にパンと固い音がしてトナカイの毛皮が後ろから貫かれました。トナカイは振り向くこともなく、氷の道の上に倒れこみます。
背後から駆け寄ってきたのは、狩人と青年でした。狩人は勝利の雄叫びを上げて、トナカイにしゃがみこみます。
彼らは、トナカイの作った氷の道を渡って、追いかけてきたのでした。海に出ていくことを恐れていた狩人に、青年が提案したのです。トナカイが海の上を走り、戻ってくることができるのならば、人間だって後をついていけば何も怖いことはないだろうと。実に若者らしい、無鉄砲な考えでした。
狩人が毛皮に触れると、毛皮はするりとはがれ落ち、角もごろりと氷の上に転がりました。そして、驚く狩人と青年の前に、ぐったりとした異国人の男が現れます。
狩人が、取り乱して叫びました。
「わしは、なんということをしてしまったんだ。今まで追っていたのは、トナカイではなく、人間だったのか?」
青年が、なだめます。
「落ち着いて。さっきまでは、確かにトナカイでしたよ。何か不思議なことが起こったみたいですね。でも、大丈夫」
傷の具合を見て、青年は横たわる男に向かって微笑みかけました。
「傷はかなり浅いみたいです。今すぐ手当てをすれば、きっとすぐによくなりますよ」
トナカイだった男は、知らない青年から顔を背けました。何故だか、人間同士で顔を合わせているのが、たまらなく恥ずかしくなったのです。
トナカイの間は、自分はただのトナカイだと思っていることができました。けれど、ようやく人間に戻ってみると、自分は妻子を捨てた、盗人で人殺しの、どうしようもない男でした。
アンディは男を抱きかかえ、ひびが入りつつある氷の道を、狩人と共に慎重に帰っていきました。




