ウラ君・後編・②
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『これ見て・・・ただのDMとは思えないんだけど・・・』
普段は下ろせば腰まで届く長い髪を頭の上へお団子に纏め年中猫と引き籠もってる三階で世界中から小包で届くアンティーク時計の修理に明け暮れてる母が、ネグリジェの裾を階段にゾロゾロ引き摺り、店舗である二階まで降りてきて、息子にiPadの画面を見せに来た。
三浦ジロー君が取り仕切るのは二階。この階では、引取先の決まったアンティーク家具や製品、高価で重たい商品の保管、取り扱い、大きな商談に使う客間等がある。服や靴、小物等100万円以下程度の安価な雑貨を扱う一階はアルバイト従業員の血縁関係に無い女の子に任せてある。
『どれ?』
ジロー君は駅前までアルバイトの子を走らせ買ってきて貰った、並ばなければ食べられないクロワッサンをブランチに囓りかけたところだった。
年代物の気まぐれトースターでの追加1分半焼きで、豊潤なバターの焦げかけた香ばしい香り、外はパリッカリッ、中はフワッモチッな自分好みの至福クロワッサンに仕上げる。小ぶりのを一つ、二つ食べただけで、食べ終わった後も贅沢なバターの香りは部屋中に広がり漂い続け、まるでここは町のケーキ屋かパン屋かだったかと錯覚する。やがて書類に目を通し仕事に集中するうちに細く開けっぱなしの窓から入る風も手伝い、クロワッサンの香ばしい香りは薄れ、仕事に集中するのであるが、スロースターターで集中力が高まり日が暮れてからがガッと仕事がはかどるジロー君が、深夜、燃え尽きて、自分用の衝立の奥の長椅子にゴロンと横になるときに、また、枕や布団など寝具が吸い込み中に蓄えていた甘いクロワッサンの香りがふんわり立ち上り、まるでパン生地の発酵に添い寝してるような心地で寝入る。
「嗚呼、明日の朝もあの店のクロワッサンを食べなくっちゃ始まらないな・・・あれで無くちゃダメだ・・・」と思いながら眠りに落ち、そして翌朝また、出勤してくるバイトの子を待ち侘びてクロワッサンを買いに走らせるのである。二つ隣の町から電車に乗ってここまで通って来てくれてるバイトの女の子は、この頃では、もう一回通ってきた道をまた引き返してクロワッサンの買い出しを頼まれるのが面倒なのか、言わないでも見透かしたように出勤前に買ってきてくれるようになった。『そんなに美味しいんですか?』『私もハマっちゃいました』『沼っちゃいました』と言って自分の家にも持って帰る用、友達にまで配る用と、だんだん買い込んでくる紙袋の数を増やしている。
母には、自分の端末にその問題のDMを送り直して貰って、食後のコーヒーの後で読もうかとも思ったが、腰の重い母がわざわざ妙な時刻に階段を降りてiPadそのものを持って見せに来たほどの案件でもある、(目だけは今、通しておこうか、やっぱり・・・)と、チラッと見てみた。
すると心臓をギュンと熱した手で掴まれたような、焼け焦げるほど熱い想い、あの情熱、少年期の身を尽くす憧憬が蘇った。『セリナ』と言う3文字の綴りが目に入ってきただけで、あの秋薔薇の香り、ススキの穂、すぐ近くの草叢からパッと飛び立った野鳥に驚かされ胸をドキドキ高鳴らせながらの葉陰での逢瀬、盗み取る細切れの情愛、あの4歳年下の幼気な少女の面影が、一挙にワッと、子供らしい汗の香りまで嗅ぎ取れそうなくらい鮮烈に浮かび上がった。
売り物も値を付けてない物も混在のアンティーク家具、古書に囲まれた埃っぽい室内で、書類の積まれた机の前の肘掛け椅子に座り、実際には身じろぎ一つしていないのに、まるでドボンと過去へ遡る沼の中に落ち込んだみたいだった。
・・・当時12歳位だったセリナ・・・彼女は彼の全てだった・・・生きる意味、行動を起こす理由、死ねないわけ・・・原動力の源・・・描く夢も彼女のためならば、それを実行に移すのも彼女のため、自分はセリちゃんの盾となり矢面に立ち、彼女が先へ進むためならば踏み台にされても構わないとすら思えていた・・・あんなに激しく深く盲目的に一人の少女を愛せたのは一生に一度きり、あれ以来一度も無いことだ・・・
彼女と別れて以来、彼はただなんとなく生きてきて今に至り、あのヒリヒリするようなスリルを潜り抜けることももはや無いかわりに、平和呆けで生きてる実感も遠退いた日々をボンヤリ漫然と、母の立ち上げた骨董品屋で修理職人兼交渉役として過ごしてきた。思えばあれから早・・・何年経っただろうか・・・?
「10年?20年にはまだならないわよね?」と母。「セリナちゃん・・・懐かしい名前・・・あなたをウラ君と呼ぶのは当時の・・・あの・・・あそこでの友達だけでしょう?」
母は楽園の名を口に出すのさえも差し控えた。
「そうだな・・・」
今では親子は旧姓を名乗らず、母の婚約者の苗字で暮らしている。表向きの表札に三浦とは出してないし、郵便物も全て小野寺で届く。(男の子に間違われて育てられますよう)と願ってタローと名付けられた姉(現在フランス・クリニャンクール蚤の市に買い付け出張中)もまた別の苗字を名乗っている。
「どうする?返事は・・・」
「・・・うん・・・」
突然送られてきた差出人履歴の辿れないメッセージの中で、セリナの友人Rと名乗る人物は、突然の連絡を詫び、自分の名をハッキリ名乗れない無礼を詫び、更に申し訳ないことにと枕詞をおいて、続けて泣きの頼み事をして来ている。
今セリナがおかれている非常に危険な状態、一刻も早い安全な脱出経路の確保、場合によっては素早い専門的医療措置が必要だと訴えている・・・事故か事件か何かただならぬ事変が起こったらしいことは読み取れる。しかし・・・セリナ本人が重症を負い瀕死の瀬戸際に瀕しているのか、それとも応急処置だけで生き延びている人物(セリナ本人ではない)が他にいて今にも非情な彼女の弟公に殺されてしまいそうだということなのか・・・
・・・どうも説明が回りくどい割に核心を避けてるようで、胡散臭い文面なのだ。
「罠かしら?・・・」
母は眉をひそめる。
「いや、今更僕らを罠にかけて何ら彼らの得になることがあるわけでも無いだろ・・・楽園の旧体制も崩落し今は新時代が幕開けていると聞く・・・僕らのことは放っておくことにしたはずだ・・・無害、無益。用済み。僕らは彼らにとって使い道が無いから・・・」
そうは言ったものの、一抹の不安は無いでは無い・・・
秋風にサンキャッチャーが揺れ、眩しい光りに手を翳す老いた母をチラと見やる。
夜な夜な咲き乱れ瑞々しく花片散らす百花繚乱の花束みたいだった全盛期に比べれば、まるでドライフラワーにした花の軸のように痩せ細った首も鎖骨も皺と筋が目立つ現在の母。しかし、それでも、そこはかと無く醸し出される得も言われぬ色気・・・
所作、物憂げな眼差し、表情・・・?母親の女性らしさが一体どこから生じるものなのか、分析し解明するのは難しいが、彼女は若さを失ってなお、煮詰めたようなより濃い“女”を感じさせるタイプの老女となった。(男には負けるが勝ち、男を立てておいて、コチョコチョと陰ながら支えつつ自分好みに誘導していく、その古典的なやり方を板に付けた感じ、正に和のアンティーク。昔風な非力の演出がいつまでも母を守ってやらねばならぬ対象とまわりに見せているのだろうか・・・?)いまだ愛によって生かされ続けている現在も立証している。近頃、巷では“熟女”というジャンルが流行しているとも聞く・・・
現役を引退して久しい母がまた恥をしのいであそこに連れ戻されしなびれた体に鞭打たれて働かされる等という醜態が起こり得るだろうか?
「助けるの?セリちゃんの事?」
母はオーナーとは思えないほど人任せ。これが実は追い詰められたときには頭角を現し本領を発揮するのであるが、土壇場になるまでは男に流され流されの人生を泳ぎ渡ってきた人だ。
「助けたいと思うよ、ただ・・・」ウラ君はそうして見れば別の意味、隠された行間の含みが読み取れるかもとでも言うみたいに、目を細め、首を捻りながらメッセージを読み直した。
「向こうも頼りたいと言いながらこちらを信じ切れてない。このメッセージの送信元も本名を明かしてない。多分、恐らくセリナの友達のRと言えば、僕になら伝わるとそれすら頼り切ってるのかも知れないけどね・・・もちろん、僕にはこれが誰のことなのか分る・・・
・・・タローがイタリアの蚤の市で竜にバッタリ会ったと言っていた、そう言えば数年前に・・・懐かしさも極まり、『園に居た頃よりも今の方が若返った綺麗になった』と褒めそやされ、相手も立派に健康的な円熟した大人の美女になっていて嬉しくて、腕を組まれそこらのカフェに雪崩れ込み、シャンパンの栓を抜いて昔話に花咲かせてしまったと・・・旦那からどこにいるのかと二人とも電話が鳴り止まなくなって、泣きそうになって別れ際、また会いたいねまだ話し足りないこともある、とか言い合い、その時、もう時効だろうと少し僕らの話もしてしまった、と言ってた・・・」
「タロー、あの子っ!」母がこの場には居ない娘へキツい目になる。
「まぁ、・・・大丈夫だろう。竜も天性の人垂らしだ。男だけじゃなくあの子は同性にも甘え上手だったからな・・・昔から・・・」
「で、どうするのよ?手を貸してあげるの?」
「見殺しにはできない・・・」
「はぁぁ!・・・貴方も、昔っからお人好しなんだから・・・」
「お母さん譲りだよ、お節介は・・・姉ちゃんも俺も」
「でも重体の人をどこに運び込むわけ?」
「ここ、二階に上げる。あれをどかして・・・」目で、年代物の新品アンティークの等身大人形が寝かされている診察台を見やる。今は精巧な造りのうら若い裸の女性像が横たわっている。その昔は、生きた女性にも美男子にも飽きてしまった王侯貴族が大枚を叩き制作を依頼したのか、それとも新妻だか娘だかを若くして喪ったかした極めて手先の器用な職人が生涯を賭して作り上げたのか、今にも長い睫の瞳をぱっちり開けて起き上がりそうな、溜息の出るほど美しい、精巧な造りのラブドールが寝かされている診察台を。「あれの修復がちょうど今夜には終わる。引き取りも急かそう。早くて明日の朝には、あの診療台の上にセリナを寝かせることが出来る・・・しかし・・・こちらも警戒は怠らない・・・いざ担ぎ込まれてみれば患者は全然見知らぬ奴って事もありそうだ・・・」
「あなた・・・まさか・・・」母が息を吸い込む。
「いや、僕はもう生きた人体の針縫い仕事はしないよ、その種の依頼からはキッパリ足を洗った。怪我の程度を見て僕らに無理があるようならすぐに救急車を呼ぼう。ここで死人を出したくはない」
「でも・・・」
「お母さん、安心して。」ジローは母のほっそりした両手を掴み、怯えて彷徨う視線を捕らえた。「今更また僕があの仕事に手を染めるという事は無い。人形の修理ならいざ知らず・・・」
ウラ君は“楽園”から逃亡してからすぐの一時期を、闇医者の助手として裏免許を習得した経歴があった。
セリナと逃げたあの夜が明けると、すぐに彼は住む場所、それと働き口を探した。
同じ車に同乗したトモヤの同志、革命軍の幼い二人は、山を下ってすぐのところで降りた。
「この車も出来るだけ早く乗り換えた方が良いですよ・・・このまま行くのでは危険だ。どこまで行かれるかは聞きませんが・・・」
素直にその助言を受け入れ、街に入ると乗ってきた車は朝焼けの河原に乗り捨てて、ベソベソまだ泣きじゃくっているセリナを車から引っ張り下ろし、手を引いて少し歩き、コンビニ前に弁当でも買うためか不用心にも窓を開けたまま停めっぱなしにしてあった軽トラの窓から手を入れて解錠しセリナを積み、川を渡り、次の次の街まで盗んだ車でドライブした。昼前には車の旅も終わりにした。そこからは大型ショッピングモールを彷徨いて、スリ、置き引きして得た金で、電車に乗り換え、夜には服も髪型も変えていた。セリナのせっかく綺麗に伸びてきていた真っ直ぐなチョコレート色の髪も、ウラ君がバッサリ短く切った。
セリナは弟が一緒に来なかったことで相当ショックを受けていた様子で、ずっと口を閉ざし、ボーッとしていて人形のように大人しく、されるがまま、何に対しても無抵抗だった。逆に、ああだこうだと意見の相違を見ることも無く、楽園を出てからは完全にウラ君が主体となって次にどうするかを考え、決定し、セリナの手を引いて動き、やりやすかった。
しかし真面目な性格のウラ君ではあるが所在地も連絡先も無くてはまともに職業安定所などで職を得ること等は見込めない。職探し初日にその現実を思い知らされ、途方に暮れ肩を落とし職安から出て来たところを、怪しげな男にいきなり馴れ馴れしく肩を組まれ、誘われた。
「ちょいちょい、お兄ちゃん、可愛い妹ちゃん連れて歩いてるじゃない?面倒見といてあげようか?そんな小さい子を連れて回ってたんじゃあお仕事も見付からないでしょう?ねぇ?」
「結構です」
「私は良いよ」急にセリナの目に光りが戻り、人形が勝手に口を開きだした。「あたしがこの人に付いていけば・・・何分でいくらくれるの?・・・」
「おい、やめろ」ウラ君は激しく断ち切るように男とセリナの間を割って進行方向を急に変え、彼女をほとんど脇に抱え込むようにしてその場から急いで立ち去った。
「セリナちゃん!一体キミは何を考えてる?せっかくあの恐ろしい場所から逃げて来られたって言うのに、またここでもおんなじ事やってたら意味ないじゃ無いか!」
「そうだよ?」セリナの目はまだ焦点をキチンと結ばずに遠くを睨んでいた。「どこへ逃げても、やることは同じだよ?どこでやるかが違うだけ。そんなことも知らないでここまで来れたの」
「上の空に反抗するのはやめてくれ。仕事は何もしなくて良いんだよ、キミは。本来、楽園の外の世界じゃあ子供の仕事は勉強とか遊びとかせいぜいが家事、家の中のお手伝い位なんだよ。こっちの世界じゃ僕だってまだ子供と見なされる。アルバイトするにしろ学校と保護者の同意がいるんだって・・・」
「サインなら私がしてあげられるよ」
「・・・セリちゃん、字が書けるの?」
「少しなら」
「ふうん?」なら本も読めるだろう、とウラ君は考えた。(本屋か図書館で待っていてもらおう、自分が働いてる間・・・)「とにかくキミは働いてくれるな。僕が全部なんとかするから・・・」
そうは言ってもなかなか雇い主は見付からなかった。仲介業者を挟もうとすれば身元書類を提出しなければならない。案内役無しで、路面店入り口のドアに“アルバイト急募!時給1150円!”等と張り紙がしてある飲食店に飛び込みで入って交渉しようとしても、学生証も保険証も何も無しでは相手に不審がられる。
加えて、ウラ君は容姿が幼く見られがちだった。楽園ではもう立派に大人扱いで30代40代の大人と肩を並べ同じ仕事をやらされていたが、“楽園”から一歩出た外の現世では、まだ中学生か下手をするともっと下にも見られた。
(ふっくらつるりとした髭の薄い頬、クリンと大きな目、生まれつき優しげなアーチ型の眉、口紅を差したみたいに見られるもともと血色の良い薔薇色の唇・・・ここまでは綺麗か可愛いかのパーツの組み合わせ揃い、ただ唯一愛嬌のある不細工な鼻だけが顔の中心に居座っていた。ペタンと産道を通ってくるときに潰れちゃったみたいな生まれたての赤ちゃんみたいな鼻だけが・・・しかしこれがまた尚更にウラ君を童顔に仕上げていた。)
本人も正確な自分の歳など知らなかったが「高校生です」と言い張るなら親と学校の同意書が、(セリナもサインは出来ても書類そのものを作成することが出来なかった、)「中卒です」と言い張るにしても卒業校の証明書とか住所、身分証、何らかの書類の提示を求められた。
最終的に、日雇い労働の町・西成に二人は流れ着いた。
ここがどこかも分らぬ町の空地のベンチに二人肩を並べ、食べ終わったコンビニ弁当の殻を立ち上がって近くのゴミ箱へ捨てに行く気力も無く、ボンヤリ秋空が黄昏れて暮れ泥んでいく様を見上げていると、浮浪者のおじさんがビッコを引き引き寄って来て親切に教えてくれたのだ。
「西成って良い所があるぞ、炊き出しもあるし、足腰も丈夫なら歳とか国籍とか住んでる場所なんて細かいこと気にせず雇ってくれるよ、お若いの・・・」と・・・
半分は炊き出しのような安値で食べさせてくれるホカホカのおでんに煮込みモツ、水は無料おかわり自由・・・野良犬みたいな二人はワケありの格安自販機を見付け、三日に一本ペットボトルの安い飲料を買い、ドリンクを買わない二日間の間は空きペットボトルの中に食事させてもらった店の水を詰めさせてもらってそれを飲んだ。(『薄いオレンジジュースの味がするよ』とセリナが、賞味期限間近で10円だったオレンジジュースのペットボトルに水を詰めて最初の一口目を飲むと感想を述べた。まるでどこぞの火垂るの墓のジブリ兄妹を彷彿とさせる感想である。)
セリナを飢えさせないためにならウラ君は自分がコソ泥に手を染める事も厭わなかったが、それでも、盗みは最終手段に留め、極力は控えたい方針を貫いた。セリナが自分の真似をして万引きを働いたときには、
『セリちゃんはやっちゃダメだ。本当はいけないことなんだよ』と穏やかにだがしっかりと言って聞かせた。
『人として堂々と胸張って生きよう?立派な人間になろう、いつかは・・・そのためには今からだって、やってはいけないことは最小限に留めて我慢するという事を体に植え付けなくちゃいけないんだ。器用だからキミは盗めば何でも手に入る。でも、それはしない。なぜならキミは立派な大人になれるはずの立派な子だからだ。誰がどこから見ても素敵な大人の女性になれたとき、自分しか知らない自分のこれまでを振り返って見ても、己を誇れるようであって欲しいんだよ。他の誰が気付かなくても、自分には自分の過去全てが見えてしまう。自分で自分を軽蔑しだすと不幸だよ。自分を尊敬できる人になって欲しいんだ。分るよね?賢いセリナちゃんになら・・・』
ウラ君は自分が働いている間にセリナをどこに隠しておくかには頭を悩ませたが、手始めの小窃盗で得た小遣いと携帯電話とを持たせ、まず短時間だけを仕事に当てて、
「ここで待っててね、すぐ戻るから」と図書館や大型ショッピングモール等時間を潰せそうな施設内片隅のベンチへセリナを置いて行き、日中一日働いて、大急ぎで約束した場所へ駆け戻って来た。
一日中道路に穴を掘る粉塵舞う横で交通整備の旗を振り続けたり、高所作業の鉄柱などが頭上から落ちてこないかを下から見張ったり、地下に潜って汚水の中をザブザブ歩いてひたすら修繕器具をあっちからこっち、こっちからあっちへ指図されるまま運んだりと、汚れ仕事を請け負ってドロドロ、汗みずくの体を、セリナと合流したら先ずは銭湯でしっかり流す。それから二人でも身分証無しでも黙って泊まらせてもらえる安宿を探した。
一週間も経てば一番安くてそこそこ薄汚さもマシな宿がどこかは分ってきた。
経営者の小父さん小母さんもきゅうきゅうな自転車操業の中、既にカツカツの利益でやりくりしているため、訳有りの子供二人に宿代の割引は出来ずとも、朝食にコッソリゆで卵をもう一つオマケして付けてくれたり、怪しげな他の連泊客、期間請負仕事の職人達、目付きの悪い目でジッと横目に見てくるバッグパッカーたちも、まるで捨て猫の兄妹にちょっと餌をやるような感覚で、パチンコの景品の菓子やオモチャの指輪、買い換える前に使ってたフライパン、日用品、小物等をちょこちょこくれたりして、長く居着くと可愛がってもらえた。
蛸部屋で雑魚寝する職人達は花札や麻雀のやり方をウラ君とセリナに教えてくれたり、またゼームで殺気立つほどの勝負をして今夜は同じ部屋では寝られない者同士が出たりすると、仕方が無いからウラ君とセリナが寝てる部屋に一晩だけ、一人勝ちしすぎた者を匿うように泊めてやったりもした。
ウラ君もセリナもゲームには参加せず見せてもらうだけにして、派手な遊びもせずコツコツ節約したから、少額ずつだが日増しに蓄えは増えた。
『ポケットを内側にしてカイロを入れて、底をパンツに挟めばお腹冷えないからね、』と言って、宿の小母さんがお揃いでプレゼントしてくれた虎柄の腹巻きの中で、カンガルーの赤ちゃんのように日増しに二人のヘソクリ袋は温められながらホカホカと成長した。ウラ君は仕事先で着替えたり水に浸かったり鍵の壊れた信用できないロッカーに身ぐるみ全部を預けねばならない現場に出向くことも多かったため、二人のヘソクリ袋のお守り役はセリナがした。
ウラ君には仲間も出来た。日本語がカタコトの年下の少年達、甘言で悪事に引き入れようとしきりと誘ってくる半分やくざな半分友達、油断できない「親友だよね」等と軽々しく名乗ってくる奴、皆少しずつ狡さやいつか手のひらを返し裏切りそうな危うさを隠し持ってはいるが、今日のところは表面上は仲間。その中でも、二、三人はまだそれでも信じられ、仕事上助けてももらい恩も着てしまい、派閥のような物にやんわりと組み込まれていき・・・
しかし仕事が終わると、よほどのことが無い限りウラ君は寄り道をせずに、後をつけられてないかはシッカリと確認し、脇目も振らず超特急、セリナの元へ急いだ。酒、女の誘い等はキッパリ断って。残業さえ断るか、イヤイヤ居残らざるを得なくて働いても気もそぞろなのがありありと態度に出てしまうため、責任のある立場へすぐに昇格はされなかった。しかしそれで良いと本人も内心自覚していた。
(セリナのために・・・)
自分が早く戻ること、早く戻れる立場のままでいること、それが何よりもセリナのためだと思っていた・・・
金が貯まっていくにつれ、同時に希望も膨らんできた。
このまま行けばその日その日安宿を借りる仮初めの生活からも足を洗い、身元保証人無しでも入居可の風呂付き安アパートを借りて・・・そうすればセリナも自分も落ち着いて、少し学を付ける余裕だって持てるかも知れない・・・このまま危険極まりない職場で替えがいくらでも沸いて出てくる職種で消耗品のようにこき使われていては身が持たない・・・替えのきかない専門知識を持たねば・・・手に職を付けるか・・・そしてゆくゆくはもっと安全で安定した職に就き、そのうち正式にセリナと家族になり子供も持て・・・庭のある小さな家を買い・・・
楽園でよりも口数が減ったセリナの態度にはあまり目を向けないようにしていた。ちょっと変だなと思うことは思っても、
(弟の事をまだ引き摺ってるんだろう、きっとそのうち生活が上向いて安定すれば機嫌も良くなるさ、もう少しの辛抱だ・・・)と思って自分を誤魔化した。
ウラ君も慣れない仕事を覚え肉体労働で毎日がヘトヘト、クタクタだった。今日あった出来事は毎日その日のうちに話し合おう、等と口先では言っていても、ちょっと気を緩めて腰を下ろせば、ぐぅ、と自分の鼾でハッとなる。
「疲れてるんでしょ、寝たら・・・」と優しく促され、横になって肩などさすられたら、もうひとたまりも無い。イチコロだ。朝までスヤスヤ眠ってしまう。互いの今日の出来事を共有する話し合いの時間などいつまで経っても持てぬまま・・・
そんなある日、職場で仲間が機械に挟まれ重症を負った。国の法律ではとっくに安全装置を導入していなければならない重機だったが、それを導入する予算が会社に無く、そのために後ろ暗いところのある日雇い労働者を雇って暗黙の了解のうちに働かせていたのだ。脛に傷持つ者同士・・・
「ぎゃあああああああああ」
プレス機に片足を挟まれた若者の耳を聾する絶叫が工場内に響き渡り、やがて止まり、残響が静まった。若者は機械に脚を挟まれたまま気を失ったのだ。しかし・・・
ゴウウン、ゴウウン、ゴウウン、ゴウウン・・・
若者の脚を巻き込みズルリズルリと着実に脚を食いながらプレス機は無情にもまだ止まらない。ゴウウン、ゴウウン、・・・と鈍い唸りを上げ続け、稼働速度は鈍りも早まりもせず、普段には無いビチャッ、ビチャッ、と血が飛び散る湿った音を立て、濃い血肉の生臭い匂いを撒き散らして回転を続けている。
何故誰も機械を止めないのか?
近くに居た若者達は誰もこの機械のどこをどう触れば電源を落とせるのか、一時停止させられるのか、分らなかったのだ。ただ絶望し恐怖しながら体を引き摺られ飲み込まれていく仲間の腕を引っ張るしか出来なかった・・・
「タカ!タカァッ!!」気を失い片脚から巨大な機械に挟まれてぶら下がる友の名を別の友達が腕をグイグイ引きながら連呼した。「タカ!!タカーッ!!タカーッ!!」
「やめとけば良いのに・・・」ウラ君の傍に居た別の若者が口の中で呟いた。「俺がこんな目に遭ったら気を失ったままで居たい・・・」
「誰か何か斧みたいな物が無いか?!探し出して持って来い!!」若者を機械から引き剥がそうと頑張りながらも、これはダメだと気付いた者が、首を左右に振り、まわりでオロオロ見てるだけの者達に呼びかける。「持って来い!斧ッ!!早くッ!!」
両手で機械に挟まれた青年の腕を引っ張りながら、ウラ君はこの場に居た誰もが共有した想いを抱いた。(斧なんて、この工場内で見かけたことないぞ・・・)しかしまた誰もが口には出さずに同じ想いを実感していた。(ダメだ、本当に無理だ、・・・早く脚を切断しなければこいつは助からない・・・!)青年の肩の関節が外れた感触を、腕を引っ張っていた全員が感じ取った。気絶した若者の腿に腕を回して引っ張っていた男を、別の男が
「危ない!お前も巻き込まれるぞ!」と引き剥がし、引き摺って脇に避けさせた。
(脚の方から順番に、こいつを引っ張ってる者も巻き込まれないうちに手を離さなければならない・・・)
圧倒的な重機の力には敵わないと、このおぞましい綱引きから離脱し、横を向きざま、ゲボゲボ吐く者も現れた。グッタリと死んだような仲間の膝の関節が目の前で砕かれ潰れ、咄嗟に目を瞑っても音は響いて聞こえ、手にはありありとその震動も伝わって来、さすがのウラ君も膝から力が抜けかけた。
広い工場の反対側から急いで駆け付けたベテラン工員と社員が機械のスイッチを止め、片足がグチャグチャになった青年を重機から引きずり出した。
「持ち場へ戻れ」社員の一声。
仲間にすがりついて名を呼び続ける同郷の友らしい一人を除いて、他の者達は立ち上がり、横たえられた負傷者から少し離れて立った。
「散れ!言ってることが分らないか?持ち場へ戻って仕事を再開しろ!」
「しかし機械が・・・停まってます」
「持ち場がここです・・・」暗い呟きの抗議が集まって渦となり巻き起こった。
皆解消されない不満、恨み辛みを抱え、日頃から鬱々としている者達・・・出口のない闇の底で藻掻く者達・・・
不穏な気配を嗅ぎ取り、この場で一番立場が高位の普段は偉そうにしてる社員がサッと逃げるように立ち上がった。「救急車呼んでくる」と言い置いてこの場から去ろうとする。「誰か他に先に救急車呼んでくれたか?」
「携帯電話は入り口で没収されてます。毎朝」
「そうか・・・そうだった・・・」
社員が走って行くと、皆ブツブツ台詞を続けた。「機密を写真に撮って証拠を外部へ流されないように・・・」
「そうだ・・・」
「明日は我が身・・・」「危ない汚れ仕事だけ低賃金でさせやがって・・・」「足元見てらぁ・・・」
その場にただ立ち尽くす者、ドクドクと脈打って流れ出続ける仲間の脚の止血を始める者、何か手を貸したいがどうして良いか分らずにオロオロ辺りを見回してばかりの者、・・・
“兄貴”と呼ばれる先輩達はどこからか、竹箒やモップ、チリトリを持ち出してきた。
黙って血と肉片を掃き、さっきまで若者の脚だった、歩くため立つための機能する体の一部だった脚の千切れた残骸を、その他の床の汚れやゴミと一緒にチリトリに掃いて集め、捨てるためにゴミ箱の方へ持って行った。
「それ・・・捨てるんですか・・・?」まるでとっておけば脚が修復できるとでも思ってるかのように、誰かが尋ねる。
「他にどうする?」“親父”と呼ばれるベテラン工員がボソッと返す。
「でも・・・何か・・・まるでゴミみたいに・・・」
「ここじゃあ、たまにあることだよ。慣れる」
入職し立ての若者達は絶句し、まだよく言葉の分らない外国人だけが誰かが通訳してくれるのを待ちかねて「ナニ?ナントイッテルデス?」と両隣の者に尋ねた。
「くそぅ、こいつも運が悪かったな、」と潜めた暗い声で“兄貴”と皆に呼ばれているおじさんが言った。「命が助かってもこれから先は一生車椅子生活だ・・・まだ若ぇのに・・・」
「組む相手が間抜けだったから悪い」別の“兄貴”が言った。「間抜けに自分の命綱任せる奴は遅かれ早かれああなってらぁ」
「車椅子に座れたら一生安泰だ、むしろ」とまた別の兄貴が言った。「もうあくせく働かなくて済む。俺も機械に挟まれてぇ」
「じゃ挟んでやろうか」
「ああん・・・?」赤い血を見て闘牛のように血気盛んになった兄貴連中が掴み合いの無駄な喧嘩を始めかける。「やんのかこら・・・!てめぇ!機械作動させる鍵も持たねぇ癖しやがって・・・!」
「やめて・・・」「兄貴達・・・!」「ちょっと落ち着いて・・・!」「怪我人を踏んでまでしなくちゃならない喧嘩ですか?!」ウラ君を含む新入り達も、負傷者から乱闘を遠ざけるための乱闘に加わり、一時場は騒然、誰にも止められないカオスと化した。
やがてやっと救急車のサイレンが聞こえだし、警報音が急速に近付いてきた。
「おい、良かったな、救急車が来たぞ!」
新入り仲間が同期を励まそうと床に横たわる友の肩をバシバシ叩いた。
「何・・・救急車・・・」朦朧と青年が目を開けた。
「救急車が来たぞ!」仲間達が意識を取り戻した青年の顔を一斉に覗き込み、皆、励まそうと口々に同じ事を教えた。「ほら!サイレンが近付いて来てる!」「助かったな!」「死なずに済みそうだ!」
ピーポーピーポー・・・ウウウウウウウ・・・サイレンそのものも励ましの声援に聞こえだす。
が・・・
「ダメだ・・・待って・・・救急車には乗らない・・・!」負傷者が目の焦点をくっきりと皆の視線に合わせ、ムクリと上体を起こし、尻を引き摺りまだある左脚と手だけでズリズリと動き始めた。
「は?・・・」
「助かりたくないの?・・・」仲間達が顔を見合わせ、手を伸ばしてともかくその場に怪我人を押しとどめようとするも、這ってでもその片脚を失った男は逃げようと足掻く。暴れるたびにズタズタの脚に巻き付けられた白いタオルがドバッとドバッと鮮血に染まる。血溜まりをバシャバシャ跳ね散らして死闘が繰り広げられる。ウラ君も親指の付け根にバクッと噛み付かれ思わず反撃に拳骨で殴りつけてしまった。
「おいおい・・・!」
「狂犬病かよ!」
「こいつ、おかしいぞ・・・!!」
「ショックで気が狂ったか・・・?」
「正気だ!」片足を失った青年が仰向けにゴロンと寝返りを打って駄々っ子のように両腕をバタバタバタつかせ、叫んだ。
「俺は正気だぁぁッッ!救急車には乗れない!誰か頼む!お願いだから・・・僕を隠して!お金なら払う!俺が捕まったら弟が・・・俺が居なくちゃ弟が・・・!」
「こいつ犯罪者か・・・?」
「捕まるような何したんだ?・・・お前・・・?」
この場に居る誰もが実は似たような者達、皆、怪我をしようが病院に担ぎ込まれたら後々面倒なことになるはみ出し者達だ・・・治療を受けた後でまた逃げればいいだけとも言えるが・・・全員、後ろ暗さは共通している・・・
「よし分かった。」それはウラ君の声だった。自分の声にウラ君が一番ビックリした。しかし言い出したものは引っ込みが付かない。
「誰かこいつの・・・腰を持って!加勢して!早く!救急隊員が来る前に!」
もともとの怪我人タカ君の友達と、ウラ君、あともう一人、どうもこの場の状況をキチンと理解してはいないのでは無いかと思われる違法労働外国人が手を貸し、負傷した男をソロリと床から持ち上げ、工場の奥へ運んだ。モップを持ってまた別の男が血痕を拭い消しながら付いて来た。野次馬もゾロゾロ付いて来た。
従業員通用口とは逆の壁際が、この工場で組み立てた製品をトラックの荷台に積み込むための搬出口であり、原材料が搬入される大きくシャッターが開く車止めとなっている。
「誰かシャッター開けれますか?!」後輩が先輩達を振り返る。
野次馬根性から来た先を見たさか、それとも胸に秘める似たような過ちが共犯の道導を閃かせたか、責任ある立場を任された地位も顧みず、ベテラン工員が黙ってシャッターを上げる装置を始動させてくれた。
「恩に着ます!」仲間達に運ばれ歯を食いしばりながら怪我人が叫んだ。「ありがとうございます・・・ありがとう・・・」
「良いよ。行き先も聞かないよ。もう戻っても来れないだろうし・・・せいぜいもう1本残った脚を大事に。弟さんも。この先の人生、頑張ってな・・・」
ここまでモップをかけて付き添ってくれた先輩も、会社ロゴが入った軽トラの荷台まで怪我人を運び、社用車の鍵の保管場所をコッソリ教えてくれた後は、頷いて手を振り、閉まり始めたシャッターの中へ駆け戻って行った。
皆、それぞれ、守らねばならない家庭やら事情やら悩みを抱え、恨みや不安・不満が積もっていても今はすぐには辞められない仕事をまだ続けていかなくてはならないのだ。
「で、行き先は?・・・」ウラ君が運転席に座った。何だか既視感のある逃走前のフロンドガラスからの眺め。
「ここまで乗せて行って下さい・・・お金は・・・」
「地図を出せ、早く。金の事なんか今は良い。どうせ持ってないだろ」
後部座席で、怪我人が懐から大事そうにくちゃくちゃの財布を出してきた。それを友達が奪い取るようにひったくる。
「ここを出たらもう同じ仕事には戻れないんだよ?」ウラ君は助手席に乗り込んで来た外国人に言い聞かせようとした。「今キミは犯罪に巻き込まれかけてるんだけど、分ってる?」
キョトンとしている中東系移民。
「嗚呼、もういいや。乗ったならシートベルトちゃんと締めてね。そんなことでパトカーに止められたらたまらないから・・・」
「行き先はここ」後部座席から負傷者の友が血に染まった殴り書きのメモ切れを差し出してきた。
「これ・・・」ほんのすぐ近所だった。負傷者の負傷箇所が脚でなく腕だったなら、きっと自分で走って駆け込めていただろうに・・・誰も仲間を巻き込まずに・・・会社の車を盗んで余罪を増やすことも無く・・・
「闇医者の・・・仲介元・・・」行き先を告げて気が抜けたのか、出血多量の男はまたグルンと白目を剥き意識を失った。・・・
・・・
片足がプレス機に潰された同年代の若者を連れ込んだ先(カウンターだけの客もいない喫茶店のような店構えだった)で一悶着の末、(「ここで医者が紹介して貰えるって聞いて来たんですが」「何のこと?」「トボケないで下さいよ!」「人が一人死にかかってるんです!」「一人と数えられる人間かい?」「うるさい!良いから医者を呼べ!」「警察呼びますよ・・・」「おぅ呼べるもんなら呼んでみろやい!そっちだって闇家業だろうが!」「・・・」「・・・分ったよ・・・」)4人の若者全員が目隠しをされ負傷者と共にまた別の車(座席にシートを敷かれ内部を改造されていた)に乗せかえられ、(闇医者の助手になってからすぐ分ったことだったが、)建物をグルッと大回りで一周し裏口から再び元の雑居ビルの地下駐車場に潜り、そこから荷物用エレベーターに乗せて患者を最上階まで運び込んだ。(こんな小細工でも、事故や事件で気が動転しているところに目隠しをされ拘束されて車でそれなりの時間揺られれば、患者やその付添人は全く違う土地まで自分達は運ばれてきたのだと錯覚する。)
言葉の分らないもしくはすぐ分らないフリをする外国人は使えず、ウラ君と患者の友達(ヤス、と呼ばれていた)が麻酔無しでの患部・脚の切断、傷口の熱処理、縫合の処置中の、潜りの医者の助手をつとめることになった。
患者(友達にはタカ、と呼ばれていた)の脚は
「もうどうにもならない」と早々に医者は見切りを付けた。「すぐ切り落とす。斧か鋸かで」
「そんな、まだ方法は他にあるでしょ!?あんた医者でしょう?!そんな・・・木の枝1本切るみたいに易々と言わないで・・・」
患者の友達が、意識のない友を代弁するようにズタズタの脚を腕で覆って隠す仕草をしながら、斧を手に振りかぶった医者の前に立ちはだかって主張した。
「そっちこそ、人体を風船か何かかと勘違いしてるんじゃ無いか?萎んだ皮膚にプウッと息を吹き込めば元通り脚の形に膨らんで友達がめでたく歩き出すとでも?どけ!早い処置が必要だ。キミには分らんか?これはもうペッタンコで・・・ズル剥けで・・・汚い床をのたうち回ってバイ菌だらけ・・・洗って干して栄養剤ぶち込んでも組織が修復する見込みが無いことぐらい・・・」
「そこをなんとかするのが医者だろが!」
「医療はまやかしじゃない。壊死する前に一部を切って命を残す!それがわしに出来る最善の精一杯じゃ。それ以上求めるなら設備の整った大学病院にでも行け!正式に救急車もういっぺん呼んでやるから・・・さあ、どかんか!そのお前の左脚を腿から下、切って、こいつの腿から下に付け替えるか?えぇッ!?その覚悟があってそこに立っとるんか!?」
医者は斧を振ってヤスを脅した。ヤス君が悔しそうにジリジリ動いて脇に退くと、
「そのままもっと行ってお前は病室の外に出てろ、邪魔にしかならん!」
医者が斧を振りかざしたままノシノシ歩いて行きバーンと蹴ってドアを開け、即席助手の一人をいきなり解雇してしまった。
「これだから患者の身内は敵わん。使えん」ブチブチ文句を垂れながらドアに鍵をガチャンと掛け、鋭い目付きで振り向きざまウラ君を睨んだ。「貴様はわしに刃向かわんか?!」
「・・・あ・・・はい・・・」
これに着替えろと言って白エプロンを二人に手渡してきたのはそもそもこの人なのである。
最初からマスクを付けていて顔立ちはよく分からないが、自分の事をわしと呼び白髪頭に白髭のひょろひょろサンタみたいな出で立ちから、年配なのかなとだけは推測が出来る。
「じゃ、いくぞッ!」医者が斧を天井まで振り上げた。「わしがこれを振り下ろしたら、すぐにやれッ!」
「何をですッ?!」思わず悲鳴のような声で竦み上がってウラ君は聞いた。
「何を・・・そっか、言ってなかったっけ?」老医師はちょっと斧を下ろし、ゴソゴソとバーナーを探し出してきた。「これで患部を焼け。脚の付け根の太い骨を切断するから大量出血が起こるぞ。気をシッカリ保てよ。お前さんが気を失ったら、こいつは即・死・確定じゃ。」
また斧を振り上げようとする。
「ちょっとちょっと待って待って!これって普通のどこにでもあるバーナーですよね?!マシュマロ焼くのに使うのと同じ?!」
「そうだ!それで焼いて止血する。」何か間違ったこと言ってるか?と言わんばかりの開き直った様子。
「こんなんで止血できるんですか?!嫌ですよ、血飛沫浴びて目の前で人に死なれたら」
「そら知らん。これがあんた等の選んだ選択肢の果て、この男の望みを叶えた結果じゃろうが?因果応報。もうここまで来たら半分は生きるか死ぬか五分五分じゃ。えい、腹を括れ!」
そして三度斧を振りかざし、今度は止める隙を与えず振り下ろした。
ガチャーン!!
ドシャーッッ!!
斧はタカ君の体から右脚を切断しただけに留まらず、安っぽい診察台まで真っ二つに折った。
既に死んでるかのように無茶苦茶に扱われても全然意識のない患者は片足になり、床をゴロンゴロンと転がり、血を撒き散らす恐ろしい人形のよう。見る見る失血し青ざめていく。
「早うせんか!」自分だって尻餅をついてる癖に老医師が叫ぶ。
ウラ君は生暖かい血溜まりに足を掬われひっくり返り、さながらカーリング選手のように血の海を滑るようにして患者に滑り寄り、バーナーこそが唯一のこの場の打開策、切り札であり武器かのように両手でシッカリと握って翳し、火力の乏しい炎で勢いよくドクドク出血する切り株のような丸々太い赤い肉と骨を焼き付けた。特に激しく泡立って脈打ちながら出血する断ち切られた太い血管から先に焼いて焦がして止血を急いだ。
「・・・ほぉん?・・・お前、なかなか筋が良いじゃないの・・・」医師が気楽げに隣に来てウラ君の手際を褒めた。
「こんなもんに筋もクソもありますかいな!早く手伝って下さいよ!あんたが医者だろ!!」
ウラ君は一瞬も血を噴き出す脚の切り株から目を離せずに老医師に叫んだ。
「おっし・・・」闇医者はノソノソどこかに行った。しばらくして戻って来た。「どれどれ、これで加勢してやろう」なんと藪医者が手にして来たのは花火だった。
「嘘だろ・・・舐めてる・・・」
ウラ君はキラキラ綺麗な火花を散らして虹色に弾ける火柱を見詰めた。シューッと音を立て炎が真っ直ぐ激しく吹き出るものから、グラデーションして彩りを変化させるもの、クルクル捻れて光を放つもの、等々、医師は束にして何十本もの花火を持っているので、可憐に地味に散る線香花火等は他の派手な花火の火力に負けて存在を薄くしていた。ミッキーマウスの絵柄の付いた奴だろうか、どれかが不思議な仕掛けを作動させ、ミッキーマウス・マーチを奏で始めた。♪ポンポポン、♪ポンポポン、♪ポッポッポッポポン、とカラフルに花火が色を変え弾ける。
「ほっほーっ!」医師が上機嫌に朗らかな笑い声を上げた。「最近の子供のオモチャは侮れん!へぇぇ!オモロイなぁ!!ワハハ!」
花火の束を鷲掴みにしてない方の手でウラ君の肩をリズミカルにバシンバシン叩く。
「あんた・・・他人事だと思って・・・」花火の光にポップに照らされた生死の境目に横たわる重傷者を虹色に染まる煙を透かして見やる。狭い室内で籠もる煙が目に滲みる。「人命をなんだと思ってるんだ・・・一番医者になってはいけない異常人格だよ、あんた・・・」フツフツと沸き立つ怒り。
(止血処置が終わったら・・・この手が放せるようになったら・・・覚えてろよ・・・)しかし何故だろう、医者が鼻にかけてる眼鏡さえもミッキーマウス・マーチに合わせ虹色に光り輝いてるのを見て、ウラ君はブッと吹き出してしまった。
「そうそう、それくらいでちょうど良いんだよ、気軽に行こうぜ、助手くんよ!あの男が生きるも死ぬも、もはやあの男の生命力次第!俺等が血眼になって救ってやっても、笑いながら愉快に救ってやっても、一緒のことさ!なら楽しく働こうぜ!仕事は愉快に、キッチリと!それがわしのモットーだ!」
この時も、その後も度々思い知らされることとなった奇妙な畏怖尊敬の念が、腹立ちにとってかわってウラ君の胸中に湧き上がり、そこにそのまましばらく滞在した。(そうか、この人は達観してるんだ・・・)、とハッと気付かされる思いがしたのである。(きっとこれまで度々人命を救ったり、救いきれず冷たくなってゆく切り刻まれた亡骸を見下ろしたりして来て、俺なんかが想像も及ばないほど数々これまでに自分を責めたり遺族から責められたりしてきて、それで今のこの人が立つ境地にまで辿り着いたのだろう・・・)と。
ガハハと大口を開けて笑うと医師の口から総入れ歯のバネが弾けてピョ~ンと飛び出し、床の血だまりに落ち、患者の方へ滑っていきながらまるで笑ってるようにカスタネットみたくカタカタ鳴った。
「うん」燃え尽きた花火をジュッと血溜まりで鎮火し、闇医者はドッコラセと立ち上がって傷口を確かめに切り株に顔を近寄せた。
「すっかり傷口も塞げた。もうこれで後は運任せ天任せじゃ!ちょっと、わしは昼寝する。その患者を毛布か何かで巻いといて。その押し入れに積んであるから。頼んだよ、助手君!」
・・・
こういった経緯で、ウラ君は仕事先を失ったその日に新しい職場に巡り会った。
もともと目の前で傷付いている野生生物や弟分、仲間達を放っておけない優しい心根の持ち主だった。数奇な運命の悪戯で、立場も力も弱い女子供に傷を負わせるのが役目のような彼にとっては一番辛い種類の仕事にも一時期は就かされたが、巡り巡って正しい自分の居所に辿り着けた。老闇医者の方でも、ちょうどなけなしの箪笥貯金を盗み出され夜逃げされて前の助手に居なくなられていたところだった。
「お前ここに居ろ。」
「嫌です!帰ります!」医者が昼寝から起きてくるまでだけ元同じ職場で働いたよしみで患者に付き添っているつもりだったウラ君だが、しかし「待て!帰るな!すぐ次の患者が運び込まれてくる!一歳の幼児だ!お前が居なくちゃ助けられんかも知れん!」と引き留められ、結局夜まで闇医者の助手として働いた。
「今月の前払いだよ」帰り際、血のついた作業着のかわりにグレーの白衣と医者のお古の洗濯してある衣類一式に着替え、封筒にも包まないで現金を手渡された。
「トンズラこくなよ、明日も来やがれ。朝何時でも良い、早く。起きたらすぐ。良いね?お前は勘も腕も良い」
「お断りです。僕は闇家業に加担したくない・・・」
「なぁにが!」医者が仰け反ってせせら笑った。「もうドップリじゃねぇの!こいつがどうなっても知らないよ?」片脚のタカ君を指差す。
「そんな・・・脅しですよ・・・こんなの・・・」
「ああ脅しですよ?そらそうさ!そうでもしなくちゃ人の命は救えねぇんだよ!このご時世!使える奴はどんどん逃げちゃう・・・握れる弱みはとことん握るぜ、わしゃあ!」
タカ君が義足や松葉杖を突いて健常者と変わらない速度でヒョイヒョイ歩けるまでに回復すると、小さい弟君達とヤス君が特大の花束とカステラの箱と酒を置いていき、かわりにタカ君を家に連れて帰った。
「お前よ、助手君、わしと一緒に暮らせや」闇医者は入院患者が一人も居なくなると決まって心寂しくなるのか何なのか、ウラ君にここへ住め住めと勧めた。
「ベッドなら何台もあるぞ」
「いや結構ですよ・・・」その頃までにはウラ君も身に染みて、老闇医者が一人では救いきれない人命の多さを思い知らされていた。自分のようなズブの素人でさえ、一人居ればそれだけで助けられる命がある。せめて相応しい助手がもう一人見付かるまでは・・・そいつが使えそうな奴だったらその時は僕がここから逃げ出せば良い・・・それまでは自分がここに居残るしか無い・・・
「ここに俺と住めば、通勤時間ゼロ。楽が一番じゃ内科医?」
「・・・ですかねぇ・・・」
ウラ君は闇医者を尊敬し始め信頼することにした後も、用心には用心を重ね、自分の弱みとも成り得るセリナの存在は知らせずにいた。もしもここで自分が捕まる失態を犯したとしても、医者にもセリナとの繋がりを明かしていなければ、自分さえ口を割らなければセリナまで害は及ばない。何が自分を引っ捕らえに来るかは定かではないが・・・警察?楽園の使者?・・・いずれにせよ重ねられるだけの用心を重ねておいた方が良い。これがウラ君のセリナに対する愛情だった。
目の前の今処置しなければ死ぬ曰く付きの急患を放り出しては帰れず、ウラ君の就業時間は極端に不規則になった。正規の病院へは担ぎ込めない輩ほどまた終電が出た後の深夜帯に言い訳の付けられない行動を起こし負傷するのだ。やれ飛び道具で撃ったの撃たれたの、刺し違えたの、リンチに遭っただの返り討ちに遭っただの・・・
『ここで待ち合わせだよ、すぐ戻るから』と約束してセリナと別れたショッピングモールや大型商業施設等が閉館時間を迎えた後も、深夜になっても、看板のない診療所からウラ君は帰れない事が続出し出した。
ただひたすらに闇雲に駆け抜けた、あの怒濤のような日々の軌跡・・・
若かりし日の、まだまだ人を疑うことを知らず闇から別の闇へ堕ちただけだと気付いたのはずっと後になってからで、振り返れば昔の自分が痛々しく、可哀想で、可愛くさえある。今なら絶対に嵌まらない見え透いた罠、他人の陰謀・・・しかしあの頃は人生の初心者、まだ羽の生え揃わないヒヨッコで、箱庭を傾けられればフラフラと簡単に唆されるまま導かれ全ての落とし穴にドポンドポンと嵌まったようなものだった。
今なら・・・
見え透いた嘘を見抜く目がある・・・抜け出したいと思う罠から抜け出る技も力も身に付け・・・
しかし・・・否・・・見え透いてる嘘なのに罠に嵌りにいってるのかもしれない・・・この状況、今の自分は・・・いやいや、違うだろう、・・・違うと思いたい。・・・
10年ぶりに再会するセリナの乗った車を待ち、アルバイトの子に「今日は珍しいですね・・・ここに居て良いんですか?いつまで・・・?」
「・・・まだ二階に行かなくても良いんですか・・・?」と煙たがられながら、一階アンティーク雑貨の店舗に居座り、年代物のヴェネチアンレースに飾られた窓から外の通りを眺め、赤のオープンカー卑弥呼の到来を待った。
ある日、『ここで待ってるように』と言っておいた場所にセリナは居なかった。
24時間営業のメガドンキの駐車場、自販機前のベンチ。ゴミだらけだったり誰かが溢したエナジードリンクなどでベタベタしてたり濡れてたり、良からぬ若者がたむろしがちなあんまり治安が良いとは言いがたい待ち合わせ場所だが、致し方ない。まだ二人の部屋は持っていなかった。その日その日、集合してから、寝る宿を探していた。安宿なら幾つも行きつけが出来ていたから、直接そのどこか一つのホテルに決めて待ち合わせても良かったのだが・・・
当時のウラ君は可能な限りベッドとかホテルと名の付くものの傍からセリナを引き離しておきたかった。彼女には療養期間が必要なのだと思っていたのだ。幼い頃から性産業に関わり過ぎて来て、慣れきってしまって感覚がおかしくなってるだけで、そう言う状況から離れて身を置く場所を変えれば、また一般的な価値観を取り戻せるだろう、と思っていた。時間は掛かるかも知れないが・・・その傍に出来ることならつきっきりで自分が居てやりたかったが、そうすると仕事が出来ないからそれは無理で・・・しかし・・・
こういう時のために持たせている携帯電話に出て来ないセリナを捜し回り、ウラ君はヘトヘトに消耗した。確かに、待たせすぎた自分も悪かった、と約束のベンチに戻って来てへたり込み、頭を抱え込んで一旦冷静に考えた。
(何をしている?どこに誰と居る?まさか楽園の者に見付かって連れ戻されたか?それとも・・・別の事件か事故に巻き込まれた?あの子を誘拐したがる大人は・・・五万と居るだろう、自分もそのうちの一人なのじゃ無いか・・・あんな可愛らしく可憐で放っておけない美少女、それにちょっと優しくされればすぐ懐いてどこでもついて行ってしまう向こう見ずな甘えん坊、人を疑うことを知らなすぎる危険な幼さ、・・・くそっ、あの最後の急患のせいだ・・・無駄に暴れやがって・・・もっと重体でのびて来てくれた方がやりやすくてマシだったのに・・・くそっ・・・)
(・・・こんな時、一般的な何の後ろ暗さも無い人なら交番に駆け込んでお巡りさんに相談するんだろうなぁ、・・・でも俺たちは・・・一般じゃ無いから・・・はみ出し者だから・・・)
交番のお巡りさんが楽園と何の関わりも無い人かどうか、まず見分けが付かない。楽園とは縁もゆかりも繋がってない巡査だと見抜けたとして、そこからだって問題だ。こちらが楽園との関連を喋らずに未成年者同士で住所も不定のまま迷子となった片割れを探し出してすんなり引き渡して貰えるかどうか・・・?
公的機関は必ず身分を明かせとまず要求してくる。身分とは一体・・・戸籍とは・・・現住所とは・・・何なのだ・・・?そういったもの無くして生きてきた者の存在はどうやって立証すれば良いと言うのだろう?・・・
「ウラ君・・・」小さなセリナの声に、パッと顔を上げると、本人が目の前に立っていた。二人とも相手の顔を見てパッと瞬間的には華やいだ表情を見せた。しかし次いで、ウラ君はキツくセリナに当たってしまった。
「そこら中捜し回ったんだぞ!一体どこ行ってたんだよ!明日も俺は仕事があるんだ、早朝から!キミとは違って・・・ここに居ろと僕が言ったら頼むから時間が来たらここから離れないで居てくれ!」
セリナは唇を尖らせ、目を逸らした。
「ほら、あそこを見てごらん」ウラ君は声を和らげ、セリナの両肩を捕まえて優しく体の向きを変えさせ、明るく白い照明が灯っている31アイスクリームスタンドを指差した。
「ほら。あそこまだ開いてるよね。せめてこのベンチから見えるあの店とかに居てよ、今度からは・・・もし僕が約束の時間を過ぎてもここに来られなくても。仕事が終わらないときは仕方が無いんだよ・・・でも、あそこなら明るくて、人も多くて、監視カメラとかもあるし店員もいるし、安全だろ?アイス買うお金くらいは渡してるんだし・・・」
「そんなにアイスばっかり食べたくないもん。もう冬だよ?寒いし・・・」
「ワガママ言うな。お金は渡してるはずだ」
「お腹が冷えちゃう。そんなに毎日アイス食べたくない・・・」
「口答えするな!俺はお菓子なんて自分は食べずに我慢して働いてるんだぞ!その分だけでもコツコツ貯めて、早く二人で安心して住める部屋を借りれたらと思って・・・」
何かセリナはブツブツ文句を垂れていたが、(「狡いよ・・・」と言うようなことを・・・)しかしウラ君はその意味を正しく解明できるほど我慢強くはなれなかった。疲れが溜まって頭がそこまで回らず、もう早く宿を探して寝ることしか想い浮かばなかった。
自分だけが働いた金で二人が生活していること、それに自分からセリナへ小遣いを渡していることで、立場に優劣関係を作ってしまい、セリナの我慢には気が付けなかった。自分だけが我慢してる、頑張ってると思い込んでしまっていた・・・
「もう少しの辛抱だよ、キミと僕と二人で住める安心できる部屋を借りられるのは・・・」
その日寝入る前にウラ君はセリナの柔らかい髪を撫でながら冷たくて白い耳に囁いた。
「キミのために借りる部屋を探し始めてるんだよ、実は。四万円台の家賃でも見付けようと思えば見付かりそうだ・・・敷金礼金ももうあとちょっとで全額貯まる・・・」
自分への慰めと同じ台詞がセリナの心にも響くと勘違いして思い込んでいた・・・あの頃、楽園から逃げ出してからのあの無我夢中の時期は、いつもヘトヘトで、思い返せば、セリナが先に眠るところは見なくなっていた・・・
それからもウラ君はセリナとの約束の時間に間に合わないことの方が多かったが、もはやそれを心の底から気に病む必要も感じなくなっていった。
(だってこっちは働いてるんだから仕方が無いじゃないか、仕事してる側に合わせてもらわないと・・・お金を稼ぐって、そんなに甘くはないんだ・・・)
自分には正当な言い分がある、そう思っていた・・・
またある夜更け、待ち合わせのドンキにもこの前言っておいたサーティワンにも、セリナの姿は無く、ウラ君は荒々しい溜息を吐き苛立ちに目に入る全ての空き缶やらゴミ屑を蹴っ飛ばして歩きたい衝動を堪えながら、セリナを探し歩いた。一時間、二時間・・・
自分が遅刻したよりもいつもセリナの方が待たせる時間は短かったが、それでもムカムカ腹が立った。もっとキツく叱ってやらないと分らないのか、一体どこで何して遊んでるんだ、いい加減にしてくれと叫び出したい気分で、ベンチに戻った。いつもどこかからこのベンチを見てるんじゃ無いのかと思えるようなタイミングで、測ったように、セリナはウラ君が疲れ果ててここへ戻って来た頃にフラッと姿を現した。この日もそうだった。忘れもしない。11月11日・・・
「はい、ウラ君・・・お誕生日おめでとう・・・」
セリナは叱られることを予測してか、粗相した犬がビクつきながら飼い主に擦り寄ってくる時の目付きをして、切り札の誕生日プレゼントをいきなり差し出してきた。まるで免罪符みたいに。その時までウラ君は今日の日付が自分の誕生日でもあることなど忘れ去っていた。
(楽園生まれのウラ君はその他大勢の楽園育ちの子供達とは違い自分の生まれ落ちた日付をちゃんと母から聞いて知っていた。)
ウラ君は差し出された小洒落た包みを両手を出して一応、受け取りながら、喜びよりも驚き、ありがとうの一言が咄嗟には口から出て来なかった。
その日を凌ぐ分くらいしか小遣いを渡してないセリナから何かちゃんとした商品として売ってる物を貰えるなんて思ってもいなかった。
「これ、どうしたの・・・?どこで・・・盗んできたの?」嬉しさよりも驚き、疑惑が先に立ち、一言目がこの言葉になった。
「盗んだのじゃない・・・ちゃんと買ったよ・・・」
「じゃあ、僕達の新居の頭金を使っちゃったの?」焦って開けたリボンと綺麗な青い包装紙の中から高そうなシットリつるりとした生地のスーツが出て来たので、頭に来てウラ君は叫んだ。「何てことしてくれたんだよ!!」
それから、大声で怒鳴りつけてしまった自分にも無性に腹が立った。
「・・・はぁぁ、・・・ごめんよ、あんな大金、キミに預けておくんじゃ無かった、そらこうなるわなぁ・・・」
深々と沈むように腰掛けたベンチから、目の前に立ち尽くしているセリナに目を向けると、彼女は顔を伏せて黙って泣いていた。ポタ、ポタ、と街灯に燦めく透明な涙の雫が、買ってやったキャラメル色のブーツに落ちて黒い染みを作っていた。泣きたいのはこっちの方だよ、と言おうとして口を開きかけたとき、セリナが小さい声で呟いた。
「・・・頭金は使ってないよ・・・」
「え、・・・?じゃあこれ、どうやって・・・」ハッと息を飲む。「まさか・・・またやったのか?あんなにも言ったのに・・・体を使って金を稼いだの?どこかの誰かと寝て・・・」
ううん、ううん、と頭を横にフリフリするセリナ。不本意に怒られて悔しくても感情がいっぱいで喉が詰まって上手く正しく言い返す言葉も見付けられない、まだ小さい女の子・・・
気が付くとウラ君は頬を滑って涙が溢れ出ていた。自分も泣いていた。
「そんなことして・・・キミが体で稼いで買ってくれたこれ・・・僕が喜べるとでも思ったの・・・?」
「違う・・・」
「じゃどこの誰から貰えるんだよ?こんな高い物を買えるお金が?・・・僕がキミをどれだけ大事に思って・・・キミにこんなことさせないように、そのために僕がどれだけ毎日働いてるか、知らないわけじゃ無いだろ、セリナちゃん・・・僕、遊んでてこんなに帰りが遅いんじゃないんだよ、本当に働いててヘトヘトなんだよ・・・」
「・・・体を触られたりしてない・・・」
「じゃ何をされた?」
「・・・写真に撮って貰っただけ・・・」
「・・・写真・・・?・・・カメラの前で、裸になって?」
「そう・・・」
ウラ君は目を覆って本格的に泣いた。こんなにも悲しい気持ちになったことはいまだかつて無かった。・・・診療所の裏口から運び込まれたときには手遅れでもう死んでしまっていた幼児の遺体を見たときよりも・・・あの時は悲しいよりも悔しくて腹が立ったが・・・今はもっと深く、悲しく、絶望していた。
「一体どんな写真を・・・撮らせてあげたの?・・・写真だけ・・・?動画とか・・・カメラは回ってた・・・?」込み上げてくるもので喉が詰まり、自分も悔しくて、辛くて、言葉がスラスラ出て来ない。説明し始めようとするセリナをギュッと抱き締め、ウッ、となって喋れないほど強く力を込めた。
「やっぱり良いよ、聞かせないでくれ。でも、頼むから、・・・もうダメだよ、約束して・・・二度としないって。そんなこと・・・」
ひとつひとつ言って聞かせないと分らないセリナの幼さが悲しい。何よりも。
「どうしてダメなの・・・そんなに悪いこと?」
「うん、絶対ダメ。もう二度とやめてくれ!大人の男の人と二人きりになるな。とにかく・・・明日部屋を借りるから・・・キミは家の中から出ないで!一歩も外へは・・・」
「そんな・・・・・・『上手に出来たね、』って褒めてくれたよ・・・お金もちゃんとくれたし・・・」
「いいや、ダメ!キミはなんにも分ってない・・・!セリちゃん・・・僕の言う事だけを聞いて!僕以外の変な奴とは喋るのもダメだ!!」
「だって・・・喋ってもみないで、どうして相手のことが分るの?変な人か優しい良い人か、どうやって区別が出来るの・・・?」
「キミに何かさせようという奴は皆、全員、野蛮なんだよ!お金を渡してきて、良いように言うこと聞かそうとするようなのは皆、変態だ!!」
「ウラ君だって私にいつもお金渡してくれるじゃない?少しずつ・・・」
「俺はキミを本当に好きだから・・・愛してるから・・・」
「でも約束はいつも破るよ・・・」
「キミのために働いてるんだよ!!」
セリナは唇をとんがらせた。「じゃあ、私だって働きたい・・・ウラ君より疲れないで、楽に短い時間で沢山稼げるもん。私が働いた方が・・・」
「・・・嗚呼、おいおい・・・何言ってるんだよ!!」ウラ君はこの怒りの気持ちをどこにぶち当てて解消したら良いのか分らずに、ベンチを蹴っ飛ばした。地面にコンクリートで埋め込まれてると思い込んでた重たい長椅子が意外に簡単に、手応えも脆く、背もたれからドォンと後ろへ倒れた。セリナは怯えて一歩二歩後退り、捕まえられている腕をもぎ離そうと引っ張った。
「セリナちゃん・・・」可能な限りの優しい声を絞り出し、両膝を地面について、セリナの目を下から見上げて頼み込む。
「楽園でやってたような事は何もして欲しくないんだ。何のために僕らがここへ逃げてきたのか分ってる?僕はキミにあんな事をまた繰り返させたくないんだよ!肌を触らせるだけがダメなんじゃない、裸を他の人に見せるのもダメなんだよ!それはキミだけの大切なもの、将来は好きになった人にだけ見せて良い物、もっと大事に、大切にしなくちゃいけない・・・」
「でも今ウラ君はヘトヘト過ぎじゃない?私も働けたら・・・」
「分った。仕事を減らすよ。明日聞いてみる。でもその分給料は減るかも知れない。だからやっぱり、明日部屋を借りたらキミは外へは出ないで、もっと節約して家の中だけで大人しく・・・」
「また閉じ込められるの・・・」一番セリナの嫌がることが何なのか、この時になってやっと稲光の天命を受けたようにウラ君にはハッと理解できた。
「・・・私は閉じ込められるためにここへ逃げてきたんじゃないもん。ウラ君だって好きなことして働けるんだから、私だって好きなことして働いても良いでしょ・・・?何で私だけダメなの・・・?」
「きみの好きな事って、服を脱いで人に見せることなのか?え?誰にでも良いの?触られたりするのも嫌じゃないのか?キミのやりたいことは結局、楽園でやらされてた事とおんなじじゃないか!?」
「誰のためにするのかとか、何のためにやるのかとか、誰の元で働くのか、誰をお客にとるかをこっちで選べるか選べないか、その違いはあるよ!」
「でも結局、やることはおんなじじゃないか?!」
セリナは力なく掴まれ続けてる袖をまた振り抜こうとやってみた。聞き落としそうな小さな声が聞こえた。
「私達、一緒に住むのはやめとこう・・・?」
畳み掛けるように追い打ちをかけて思いもかけない言葉をセリナから浴びせられ、いきなり頭から冷水をかけられたようにウラ君はゾッと全身が凍り付いた。
「・・・セリナちゃんは・・・僕よりもその男を選ぶって言うのか・・・?そいつが一緒に住もうって誘ってきたの・・・?その、キミの写真を撮った男・・・?」
「男じゃないよ・・・」
「女・・・?」
口を噤んだままセリナは後ずさりしかけた。飛び上がって捕まえる。
「僕に秘密を作る気?誰なんだそいつ!?その女・・・その女に言われたの?僕には秘密にしろって?自分の事は僕に言うなと?・・・」
また後ろめたそうな目付き。横を向いて視線を逸らす。頭が首からグラグラ揺れるほど揺さ振り、顔を近寄せて目線を合わせようとするが、セリナは頑なに横を向く。
「・・・私達は一緒に住まない方が良いと思う・・・」そればっかり呪文を唱えるように言い始める。それを言うたびに彼女の中で心が固まっていく感じ。
「じゃセリちゃん、キミはどこに住もうって言うんだよ!?一体、俺の知らない誰と!?」
毎晩必ずそれまでは同じ部屋に泊まらせて寝ていたが、相手の心はもう完全に離れてしまっていたことに今更ながら気が付いた・・・あれだけ(住む場所さえあれば、二人の部屋さえあれば・・・)とそのために頑張ってきた部屋もまだ借りないうちから・・・やっと金なら貯まったと言うのに・・・もはや金に意味は無い・・・
「僕よりもそいつを選ぶって言うの・・・?」
自分だけなら闇医者の診療所に住み込めば家賃だって浮かせられるのにと、独り善がりにセリナのための苦労だ、我慢だと思ってして来たことの全てが裏目に出ていた。実際には彼女本人にとっては迷惑でしかなかった・・・セリナもまた彼女の持ち時間の中で彼女のまわりに小世界を広げ、自分の居場所、求められる職、新たな住みかを見出していた・・・
「ウラ君には一緒に住もうって誘ってくれてるお医者さんが居るんでしょ?・・・」セリナが優しく、鈴を振る声音で囁き続けていた。
「私にもそう言う人が居るから、安心して・・・ウラ君はその先生と居た方が良いよ。無理して私と一緒に居てくれるよりも、今よりももっと働けるよ・・・ウラ君は働くのが大好きでしょ・・・私もそうなの・・・きっと私達は離れてる方が幸せだよ・・・」
・・・
ギリギリと骨に触れるほど、痣になりそうなほど強く掴みすぎていた相手の手首を離した。力尽くで今だけ引き留めてもどうせ繋ぎ止める事は出来ない。信じたくは無いが、でも仕方が無い・・・
手を離すと、セリナは後ずさりしてゆっくり離れて行った。自分が泣き止み、鼻を啜り上げて立ち上がるまでは、少し離れてジッと見守っていてくれた。それから、ソッと手を振って行ってしまった。ベンチを照らす街灯の丸い光の溜まりから抜け出て、どこだか分らない場所へ・・・彼女が自分で選んだ場所へ・・・
・・・
楽園で、セリナを抱いた昼下がりを思い出す。あの時もベンチで思い出した。が、今もまた同じ事を思い出している。
(別の誰かにとられるくらいなら、その前にもっとやっておけば良かった・・・!)下世話だが、偽りの無い本心。あまりにも彼女を大切に思っていたせいで、機会はいくらでもあったのに出来なかった。いや、何度かは試しかけた。・・・
柔らかい草の上に自分の制服の上着を敷いて、セリナを寝かせ・・・コスモスの茂みの中、揺れるススキの穂が二人の頭上を覆う庇となってくれた・・・
また別のシャワーのような雨が降り注ぐ日には、ドングリの木の下で・・・紅葉の葉を揺らす涼しい風、梢から零れ落ちてきた木漏れ日がセリナの白い肌をレースの模様に照らし輝いた・・・
セリナの透き通る心は自分に近寄ってくる相手の心をそのまま映す鏡のよう。透明で、まるで本人の意思が無い・・・だから自分がグイグイ行けば事は簡単すぎるくらいあっけなく簡単に推し進められてしまうのは分っていた。自分が唇を近寄せれば、セリナは拒まないだろう、そういう風に教育され慣らされて来てる子だし、元々の素質が素直で、すぐ相手に共感してしまう。一番染まりやすい色、純粋、無色透明、それがセリナと呼ばれてるこの子の最大の特徴なのだ。相手の求めに何でも従順に従う。自分に優しい相手にはすぐに懐いてしまう。例え首を絞められようと、それが相手のやりたいことなら命も捧げる。かなりハードなプレイを強要されてるところだって見て来たから、自分には分っている。
セリナは長期的な中途半端な軟禁には耐えられないが、一瞬で死なせて貰えそうな苛烈な痛みに対しては恐れが無い。勇敢と言うより無知、後のことを一切考えない。死にたいのかも知れないとも思われる・・・成るように成れと、自分の脳を使って考える事を基本的に放棄してるのかも知れない。他者との関係性同様、自分との関係も、そうなのかも知れない・・・
あの楽園での日々の中、せっかくセリナと二人きりになれても、ウラ君には時々不意に寂しさを感じることがあった。彼女が本当に自分を好きなのか、それとも自分の気持ちを察し、お愛想でお付き合いして傍にいてくれてるだけなのか、ふっ、と分らなくなるときがあった。
セリナの目が自分の目と合っていても、そこにそれほどの熱を読み取れない事は多かった・・・
(特に自分で無くても、彼女に優しくしてくれる男なら誰でも良いのではないのか・・・)と思われたりして・・・
別に抵抗もしない彼女を自分の上着に一旦包み、ギュッと抱き締めて、草の上にゴロンと横たわらせ、それから改めてゆっくり脱がせた。まず自分の上着を、それからもともと薄くて柔らかい羽織のような彼女の着てる物を。まるで自分の制服はカブトムシの甲羅羽みたい、その中に広げたセリナの羽織は、柔らかい飛翔のための内翅みたい、何も身に付けていない裸のセリナの体はまるで羽をむしられた蝶みたいだった。いかにも弱く、白く、後は捕食者に食べられるのを待つだけの身・・・
ウラ君も他の男の子達と同様、もっと小さな頃には、捕まえたトンボや蝶の羽を毟ってみて、弱々しい線のような細い脚を残すだけにした白い柔いまだ生きてる虫の胴をソッと花や葉の上に戻してやり、加虐の興奮に震えながら、(女みたいだ・・・)等と思ったものだ。
蛹になり成虫になり胴よりも目立つ大きな羽を手に入れたかに見える芋虫も、その羽を奪ってしまえばまた元のような体、いやむしろもっとひ弱な柔い体にされて、動きものろい。
いつの間にやら大人になり出来れば虫は触りたく無い生物となったが、それでもこうして自分の手でセリナの着てる物を一つ一つ脱がせてみて、裸の彼女の体を目の前にすると、羽を毟った蝶の儚い白さ柔さを思い出す。
自分もベストのボタン、それから震える指でシャツのボタンを一つ一つ開け、ベルトを外し、ズボンの前を開け、ジッと見ているセリナの上に屈み込む。風がススキの穂を揺らす他は、自分の他に動いているものもない。時が止まったようなひととき。
図書館の本みたいに誰でも触れるセリナを今だけは自分だけの物にしている、限られた時間・・・(これで良いのか?)とか、(自分も他の男達と同類になってしまう・・・)だとか、そんなモヤモヤを考えるのも後回しにしたはずなのに、一挙に感情が溢れ、焦って手元が狂ってしまって、脚を上げさせたセリナの中に入る前に、彼女の肌の香りを肺にいっぱい吸い込んだだけで、ドバッと射精してしまう。
青臭い匂いが広がり、服に染み込まないように急いでその辺に生えてる草を千切ってゴシゴシ擦り、汚れを落とす。
いつもだった。一度も上手くいかなかった。しかし(これで良かったのだ、)と毎度、混乱した頭で自分に言い聞かせていた。
(もっとちゃんとしたい、セリちゃんがちゃんと物事の判断が出来る歳になるまで待った後で・・・二人ともの体も心もキチンと大人になった後で・・・)
(これは本当の間違いが起こらないための予行演習なんだ・・・)と彼は思うようにしていた。(だからこれで良いんだ、この方が良いんだ、今はまだ・・・)
仕事中のセリナの様子を見ていても、冷静な目で自分との行為の最中の彼女の様子を観察していても、セリナが挿入や相手の射精によって大して痛みとか我慢以外の感情をまだ持ててないのでは無いかとも薄ら感じ取っていた。お義理でお仕事で待っているだけなのだ。男が果てるのを待ってやってるだけなのだ。彼女はまだ。
(だから、これで良い・・・)
彼の見立てを裏付けるように、セリナは、我慢できなくてウラ君が一度果てた後を見計らったように、『待て』の後『よし』と言われた犬みたいに、嬉々として積極的に自分から腕を伸ばし、待ち侘びたハグをしてきた。一度放出し落ち着いた気持ちでセリナをゆっくりしっかりと抱き締めてやりながら、ウラ君はやはりと思っていた。
(やっぱりこの子はまだ子供なんだ、ただ抱き締めてもらいたいだけなんだ、本当は親のような愛情が欲しいだけなんだ・・・)と確信した。(自分が間違えてはいけない・・・自分だけはこの子に間違ったことをしてはいけない・・・)ウラ君はいつもそう考えた。二度目もすぐに出来そうだったけれど、それをやらなかったのは、本当にセリナを心から大切にしていたから・・・
この誰でもに体を好き放題される場所にあって、同じ育ち方をしてきた者同士、自分だけは体ではなく心を理解してあげたい・・・誰よりも・・・簡単にセリナの体で自分の肉欲を満たしてはいけない・・・体で繋がり合わなくとも僕達なら心を一つに出来る・・・いつか、時が来て、セリナの方からもこちらを求めてくれるまで待つことが自分には出来る・・・
・・・
窓の外に派手な赤いオープンカーが通り過ぎ、それから、ゆっくりとバックして引き返してきて、まさかと思ったが、うちの前で停車した。
人目を忍んで来ると言ってたはずの竜が、バタンと音も高くドアを閉め、目立つ車から降りてきた。颯爽と肩に掛かる髪を後ろに振り払い、うちのポーチを上がり、正面切って店のドアを開ける。カランコロンとドアに取り付けた古いベルが錆びた音を鳴らす。
「来たよ~!ウラく~ん?」
思わず隠れかけたジローをアルバイト従業員がチラッと見、(『さっきから待ってた人が来たんじゃないんですか?』と言うような呆れた目)、その視線を追って竜が分厚いカーテンの陰の中に半分隠れかけたジロー君を見付けた。
「あーっ!ウラ君だぁ!変わってないー!でもやっぱり変わったね~!可愛い良い男になってるじゃん、ウラ君!お母様もお姉ちゃんも可愛い系だったもんなぁぁぁ」
遠慮無くつかつか近寄ってきて、もう喉元のネクタイの結び目を掴み真っ直ぐに整え直してくれようとする。距離感の近い懐かしい竜ちゃんらしい。
「ウラ君って呼び方は今は誰もしないんだけどな・・・」注意するつもりが、喉からは干からびた囁きしか出て来ない。「ジローって呼んでよ」
「その子は大丈夫な子?」声を低めてバイトの子の事を竜が聞いた。「私だって今はリュウじゃない。タツと呼ばれてる。時は楽園にも平等に流れてるのよ・・・」タツはもう一度ドアへ向かい、ジローから離れた。
「車から荷物を下ろすのにあなたも手を貸してくれるんでしょ?」
「二階に・・・まず荷を見てみよう」
「運び入れてからよ。」
車にはセリナが座っていた。分厚く丸めた絨毯の片端を膝の上に載せ、さっきまでは何かその絨毯の端に向かって語りかけてるようにも見えたが、ジローがタツに続いてポーチに出て来た瞬間に、庇の広い帽子を上向かせ、パッとこちらを見上げた。心をとろかす甘い笑顔。懐かしいその表情。
「ウラ君!」セリナちゃんもリュウと同じに昔の彼の名を叫んだが、今度は何故か懐かしく嬉しい熱いものが胸に込み上げ全身にジュワーッと広がったのみで、不快さは全く抱けなかった。
「セリちゃん・・・元気にしてた・・・?・・・すっかり大人の女性になって・・・」
「私は元気!この人・・・この絨毯を・・・あなたなら・・・修復できるかと・・・」
セリちゃんはすらっと片手を伸ばして絨毯を撫でた。もう一方の手では膝の上から端が滑り落ちないよう絨毯をずっと支え続けている。
この分厚く巻かれた古い絨毯がそんなにも重大問題なのか、それとも絨毯に執着してるセリナのどこかしらに異常があるという事なのか、早く知りたくて、ジロー君はタツの顔を見た。
「とりあえず運び上げよ。二階でしょ?」
アルバイトの子にはドアを押さえておいて貰い、長物を階段で運ぶ時に一番負荷の掛かる下部を自分が担ぎ、二人の女性達には絨毯の上部と中間部分を支えてもらって、二階に運び込んだ。
「床へ下ろせば良いの?・・・このソファの上・・・?」
普段あまり重たい物を持ち上げる事の無い暮らしだからだろう、タツが息を切らし、置き場の見当たらない物だらけの二階を見渡した。
「あの箪笥の陰に寝台がある。昨日の夜に場所を空けたんだよ。そこへ・・・」
「重たい・・・早く行って!」
タツが先頭のセリナを急かし、アンティーク家具でいっぱいで通り道の狭い二階の部屋の中をノロノロ進んだ。
「ぶつけないで!」セリナが後ろを振り返り振り返りするので余計に時間が掛かる。
「中に何か入ってるのか?」若干そんな手応えもある。
タツとセリナはサッと顔を見合わせ、そして二人してこちらの目を同じ目付きで下から覗き込んだ。女性が頼みにくい頼み事をする前触れなあの上目遣いだ。
「おいおい・・・中に重体の女が入ってるとか、やめてくれよな・・・?」
タツがセリナの顔を見、それからまたこちらの顔色を窺った。
「うわ~っ!・・・嗚呼、嘘だろ・・・」
「騙してごめん。でもどうしようも無かったの・・・」
「それに女じゃ無い。男の人・・・」
「他に頼れる人が居なくて・・・」
「もう死んでるんじゃないのかよ!?」早く中の人間の状態を調べたくて、後ろから押すようにしてともかくもジローは絨毯を運ぶ速度を上げさせた。
「早く」診察台の上に巻物をドサッと下ろすと、すぐにタツに指示した。「お前は車をどこか目立たない場所へ移動させてきてくれ。この家の前からすぐに。行け!どかせ!車だよ!」
タツはジローの声音の迫力に負けて心配そうな目をセリナに投げかけながらも、黙って引き返していく。
「あっ、そのドアを閉めて行ってな!」
二階のドアを閉めるのは何年ぶりか分らない。一階、三階で起きる物音がすぐ聞きつけられるよう、古い物に囲まれて閉じ込められる息詰まりが無いよう、ずっとドアは開け放しにしてきた。しかし・・・これは・・・アルバイトの子がヒョッコリ覗きに来て見せられる代物じゃない・・・
「・・・眠ってるだけだと思う・・・」
爪を立ててグルグル絨毯に巻き付けたリボンの硬い結び目を解こうとしながらセリナがヒソヒソ声で言った。
「・・・弟が多分、時々この人に麻酔を飲ませたり打ったりしてたんだと思う・・・園での記憶が残らないように・・・」
ジロー君は黙ってバチンバチン裁ち鋏で紐やリボンを切断していった。お喋りは後。中の人間をとにかく早く診なければ!素人が外から見て何もおかしいところが無いからと容易に判断できる事柄では無い。
巻き付けて固定してあったリボンや紐を全て裁ち切ってしまうと、今度はジャキジャキ分厚い絨毯を端から端まで裁断した。足元から喉元まで。男の頭のところは板を敷いて首がグラつかないよう下から支える工夫をされて、息ができなおかつ人目から隠れるよう、鼻から上は黒いレースで西洋の貴婦人みたいに覆われていた。それも裁断した。露わになった男の頬は青ざめ表情は苦しそうだ。息はしてるが呼吸が浅く速い。
「何時間前からこの人はこの状態?」
「もう四日になる。車で事故したの」セリナはこの男が昏睡に陥った日を尋ねられたと勘違いして答えた。「山道から転落した車の中でこの状態だった」
「なんでその時点ですぐ救急車を呼ばない?」
「弟が不審がって・・・」
「ふうん・・・なるほどな・・・」会話中も鋏を握る手はジャキジャキ動かし続け、グルグル何層にも巻かれた分厚い絨毯を裁ち、やっと男の体をきつい簀巻きの状態から解き放つことが出来た。絨毯と毛布やらシーツやらの中で、男は女物の絹のガウンで二重に体を覆われ、その下は下着を身に付けていなかった。これはこれで調べやすくて良いが・・・
「この人の服はどこへやった?もともと着てた衣類は?キミが脱がせたの?」
「血やらで汚れてたから・・・」セリナは言い訳するように釈明じみた口調で話した。ウラ君の早口での質問につられて、少し早口になって。「・・・それに最初は吐いたの。この人。だから綺麗にするために体も拭いてあげたかったし、その時に汚れた衣類は全部脱がせた。破れてたし、捨てちゃった・・・」
セリナは寝台の上の男が腕を振り上げて伸びをし出したのを見て、咄嗟にジローの影にスッと隠れた。
「キミはこの男と知り合いなのか?」
「いいえ!」嘘だとすぐ分る嘘の吐き方をする。セリナは昔から。
「じゃあ顔を見られて何かまずいわけでも無いだろ?」
「うん・・・」
患者は意識は無いが、腹部にも背面にも目立つ外傷も特に見当たらない。触診して異常な手応えも感じられなかった。激痛が走る様子も見受けられない。腕も脚も持ち上げて可動域を確認してみたが、どこもちゃんと普通に動く。体中、表面上は細かい傷や打ち身の痕があるが早くも瘡蓋になって治りかけている。
一時的に血の流れを滞らせていた絨毯の簀巻き状態から解放されると、急に手足の先端まで桜の血色が行き渡り、まだ目を閉じて眠ったままの男の顔の表情も和らいだ。
「時々は朦朧としたまま起きてお粥も食べられたの。ほんの少しだけだけど・・・」
「話はした?」
「私のことを奥さんか看護師か使者の付き添い天使か何かだと思ってその時々で混乱して話してるみたいだったけど・・・」
「きみの顔を見ても分らない様子だったの?」
「この人、眼鏡が無いとなんにも見えないの」
「なるほど・・・」よほど焦って混乱してるらしい、セリナは単純な誘導尋問にも引っかかった。彼女はこの男と知り合いなのだ。
「吐いた?食べた物は?」
「少し吐いて、少し飲み込んだ。赤ちゃんみたいに・・・」
「赤ちゃんって、・・・?キミは赤ちゃんを産んで育てた経験があるの?」
振り返ってセリナの顔を見てみると、もう口を噤むと決めてしまった顔をしていた。
「この男の話に話を戻そう。吐いたとき吐物に血は混じってた?」
「いいえ」
「血尿とか血便は?」
「無し」
「そうか・・・」
セリナの話を信じるなら、この人は事故でショック状態に陥り失神し、そこからはセリナの弟に継続的に飲まされ続けた睡眠薬で朦朧と眠り続けただけなのだろう。今にも薬の作用が切れ、目を覚まし出す頃かも知れない。
「中身は分らない。専門機関に受診してレントゲンを撮らないことには。でもこれだけ長時間、既に持ちこたえてるんだから、体内で内臓が滅茶滅茶に潰れてしまってるって事もないだろう・・・この人の名前は?」
さりげなく聞いてみると、初めは知り合いでは無いと答えたセリナがまたもポロッと口を滑らせた。
「鹿島君。」それから首を傾げてこちらの目を見た。「名前なんて今意味があるの?」
「呼びかけは重要だよ。この人は今、無意識の真っ暗な世界でどっちに向いて進んで良いのか分らずに彷徨ってる。死者の冥界と生者の世界の狭間で。だから僕らで大声でこっちへ呼び戻すんだ。・・・こうやって・・・鹿島さん!鹿島さん!!」
頭をあまりぐらぐら揺らさないよう注意しつつ、バシバシとジロー君は男の肩を叩いて呼びかけた。
「ほら、見ろ、もう間もなく目を覚ましそうだぞ!モゾモゾ手足が動き出した!キミもこっちへ来て呼びかけろ。知り合いのキミの声なら届きやすい・・・鹿島さん!!鹿島さん!!」
「・・・やっぱりウラ君は良いお医者さんになったんだね・・・」セリナは箪笥の影に隠れたままトンチンカンなことを惚れ惚れと呟いた。
「早くこっちへ来て手伝ってよ!」セリナを振り返って頼み、またすぐモゾモゾ動き出した患者に向かって呼びかける。「・・・鹿島さん!!鹿島さん!!聞こえますか!?」
かつて師と仰いだ変人闇医者も言っていた。
医療は魔術では無いが、生命力には魔法が存在すると。生きるか死ぬかという瀬戸際で、まだ死ねない、と息を吹き返すのに、引き綱の役割を果たす子供や想い人への強い気持ち。逆に、全身が重症でこのまま死んでしまえた方が楽だと無意識にも分っている場合、思い残すことの何も無い者はコトッと気軽に死んでしまう。息を吹き返しても大してやりたいことも無いから・・・
さて、この男がどっちに転ぶか・・・
この男にとってセリナがどんな存在かは知らないが、全く見ず知らずの自分が呼びかけるよりセリナが呼びかけた方が絶対良い・・・
「鹿島さん!!・・・おぉっと・・・!」
男が唸って寝返りを打ち、狭い寝台から床へ転がり落ちそうになったので慌てて、ジロー君は両腕を伸ばし臍を台に押し当てて踏ん張り、なんとか自分よりも体つきの大きな成人男性を床に転げ落とさずに台の上に押しとどめた。
「キミもこっちへ来て手伝・・・あ・・・?」振り返ってみれば、箪笥の隣、さっきまでセリナが居た場所に、彼女の姿は無い。セリナは忽然と姿を消していた。
「セリナ!おいっ!!セリナっ!!」
寝台の上の男の寝相を手早く真っ直ぐに整え、腹にベルトを巻き、ジロー君は階段を駆け下り、店の外へ飛び出した。路地には自分の言いつけ通り、もはやあの派手な赤いオープンカーも停まってない。
「嘘だろ・・・嘘だぁぁ・・・」
店舗である一階に飛び込み、半開きだったビロードの試着室のカーテンを手荒に引き上げ、古い鏡に映るしてやられた男の顔を見た。店内を風のような勢いでグルッと一周した。そしてもう一度表に飛び出す。
「おぉい、嘘だろ、セリナ・・・キミが本物だったのかどうかさえ・・・まだ・・・」
西へ行ったのか東へ行ったのかさえ分らず、とりあえず東を向いて呆然と佇む店長を見に、何事かとアルバイト店員の女の子も店から出て来て教えてくれる。
「車は逆向きにあっちへ行きましたよ・・・そのあともう一人の女性も同じ、あっちに走って行きました・・・」
ジロー君は顔を覆ったまま嘆く体の向きを変えた。
「・・・また騙されたんですか?」アルバイトの女の子がポーチを降りてきて、地面に頭を抱えてうずくまったジローの隣にしゃがみ、肩にポンと手を置いた。
「この頃は偽物掴まされることも少なくなってきてたのにね、残念・・・」アルバイトは雇い主が偽物を売り込まれ買わされたのだと勘違いしてるらしい。「まだまだ鑑定家として目を肥やさなくちゃ・・・精進あるのみ、ですね・・・」
そして妙齢の二人組美人詐欺師が鮮やかな手口でとんずらかった方角へ、アルバイト従業員も遠い眼差しを向けた。
ウラ君・後編・②終わり! ③へ続く!