ユキ12才頃?ウラくん・前編
その黒服の男の子の、自分を見るときの目にだけ現れる特別な感情に気付いたのは12歳頃の事だった。最初はまさか、と疑った。楽園に連れ戻されてから、またもやることは同じ、開脚に次ぐ開脚、薬漬けの日々。夜な夜なの獣じみた乱交パーティーに否が応でも駆り出され、善悪の感覚も無く、反吐も出なくなるほど涎を垂らし回っての酒池肉林、股開き、痙攣し続け、麻痺したような、死んでる方がよっぽどマシな生きざまだった。
こんな最底辺の動物にまともに恋などできるものかと、最初のうちは信じられぬ思いだった。
しかし、その黒服の少年はひたむきで、どうも自分に正真正銘、本気の想いを抱いてるみたいだった。
自分にだけほんのり多く向けられる特別な好意、他の子へは無い細やかな気づき、優しさ、配慮、お節介、目の中の温もり、熱度。性を売り男を相手にする商売に身をおいてきて磨きをかけられた、特にその種の感情を嗅ぎつける嗅覚の鋭さで、セリナは相手が自分に寄せている想いの丈を嗅ぎ分け計測した。半信半疑、慎重に・・・
(二度目の脱走から戻った後の子リスの名前は「生まれ変わって心を入れ替えるように」との願いを込め新しく名付け直され、これまでここに居た子とは全く別の子が新たに加わり入って来たかのように、セリナと呼ばれることになっていた。1年程度ではあったが今度の脱走前後では髪がバッサリ短くなりコンガリ日に焼け体や頬のラインは大人び、急激な女児成長期ともあって風貌が大きく変わっていたことと、名前まで変えられたことによって、再び元の園に戻されてもセリナは酷いイジメに会うことは無かった。園の方でも、セリナが居なかった間に大分メンツが様変わりしていた。死んだのやら身請けされたのやら、はたまた逃げ果せたのか、詳しいところは誰にも分からないが、自分と同格以上の顔馴染みだった古株はますます減り、新顔ばかり増えていた。セリナが誰なのかに気付き『わぁぁぁっ』と懐かしさに顔を綻ばせ駆け寄ってくる友もいれば、酒やら薬の靄に脳が完全に蝕まれボウッとなってしまっていて誰が誰だか分かってない同期もいた。
セリナ本人には、他人が自分をどう呼ぶことに変えたかなど、もはやどうでもいい他人事だった。誰かが自分を呼んでるときは大概集合時間の合図であり、自分が求められるときは空っぽの殻の体が求められるとき、仕事の時くらいなものだったから。名前で呼ばれるよりも番号とか記号で呼んでくれる方がまだピンと来るかも知れない・・・と思えた。楽園では、名など持つ必要性を感じなかったのである。)
セリナはこれまでの担当黒服に接したよりも親密に今度の担当黒服に懐いた。
セリナが脱走して連れ戻されるたび、黒服は責任を取らされ配置替えさせられていた。
これまではセリナがまだ幼い子供だったのに対し二人の担当黒服達はベテランの年配者で、年の開きに大きな差があった。
ふたりとも鬼のように怖く、虐待して多少子供が死んだとて大した損失では無くそれより自分に歯向かってきたり反逆心を起こされる方が遥かにいけないと考えてる恐ろしい人種だった。まるで地獄の鬼。ちょっとでも言う事を聞かなかったり、時にはただ自分の虫の居所が悪かったと言うだけで、大した理由も無く手近に居る鈍臭い子を蹴飛ばしたり、執拗に理不尽な罰を与え虐めたりした。見せしめや、自分の憂さ晴らしのためだけに。
これまでの怖ろしい黒服達にはセリナは本能的に近寄らなかった。必要最低限、そばへ行かなければならない時間を最小限に済まし、言葉数も緊張からもグッと少なくなり、俯いて、用が済めばサッと離れた。自分から話しかけたり、馴れ馴れしく接しよう等とは思った事もない。明らかに気に入られてる子達、取り入ろうと擦り寄っていく子達を除いて、他の少女達もそのようにしていた。
しかし今度の担当三浦君は年も近く、これまでの担当とは正反対、全く異質な非常に優しい青年だった。彼はまだ成人にも達していなかった。母親が若くして楽園で産んだ男の子、楽園生まれ楽園育ちの第一世代、外の世界をよく知らない、外の世界に憧れる気持ちにはセリナと通い合うところがある青年黒服だった。
彼は自分も幼少期を黒服に虐げられ、子供同士で庇い合い助け合って成長した経歴から、こちら側の気持ちを良く理解していて、年下の子をきつく仕置するのがかなり苦手。ナメられやすい反面、下の子達からは慕われ懐かれていた。
「セリちゃんは外の事情を良く知ってるんだよね?どうだった?外は楽しい?また逃げ出したい?」
担当に付いてすぐ、セリナはこの三浦君の興味津々、馴れ馴れしい態度に驚かされた。
(また逃げ出したいかって?・・・当然だ、でもそれを私に口に出して言わせたいの?・・・それがどう言う意味か分かって喋ってるんだろうか・・・?この人・・・)
(これは人の心を読もう把握しよう、そして何かに利用するとか操るとか、先手を打ってどうこうしようという心理作戦なのかな・・・)と、セリナは最初は自分の新しい担当をすぐには信じられなかった。
相手の目をただ猫のようにジーッと見詰め、ひたすら人が良さそうなつるんとした若々しいホッペのあどけなささえまだ残る青年を遠目に疑い深く観察した。やがて、三浦君と言う青年の人間性が浮き彫りになってきた。彼は裏表の無いとにかく優しいお人好しみたいだった。
(どうやら、無駄な折檻は一切しないようだぞ…)
(どうも、体の弱い子や怪我させられた側の女の子の味方をする人だぞ…助けられた子達からの人望も厚い…)
(他の厳しい黒服達から自分が盾になって弱い者を守ったぞ…良い奴だ…しかし不器用な奴だとも言える…一体、じゃあ、彼を守ってやれるのは誰なのか…?)
(裏があるかと思ったが、これまでのところを見る限り、そのまんまのただの優しい黒服だ…こんなのが居たとは…)
ニコニコ自分に話しかけてくるのんきそうな担当黒服がどうやら意地でも自分と話したがり、打ち解けたがって拒絶されると寂しがってるみたいなので、ついにセリナも黙ってそれに無駄に抵抗し続けるのはやめた。『また脱走したいかどうか』と言うヒヤリとするような話題はとりあえず置いといて、当り障りの無い質問からちゃんと返事くらいはしてあげだした。そのうち、何度も聞くから、もう、まぁいいやと思って、サラリと認めてしまいさえした。
「また脱走したいかって?・・・まぁ、2度も脱走したから…分るでしょ・・・自由に伸び伸びできるのは楽しかったよ・・・誰でもそうでしょ・・・」と。
「へぇぇ!!」無言を貫いていたセリナが沈黙を破った朝は、三浦くんはパッと顔を輝かせ、目をキッラキラさせて『街はどんなか、信号ってどんなか、電車には乗ったか、バスとどう違うのか、タクシーは…』等と、嬉しそうに怒涛のようにセリナに質問を浴びせた。
「僕ここで生まれたからここの中の事しか知らなくて…」三浦君がそう言うのを聞いて、セリナはやっと(あぁなるほど)と納得し始めた。
「…バスと電車は切符を買ったりカードでピッとしたりして改札を通過するよ、…切符を買うお金もカードも無ければ、そうやってる人のすぐ後ろにピッタリくっついて改札を抜ける事もできる…」
「改札って?」
「改札…」セリナは両手で自分の腰のあたりにパタンパタンと開閉する板を身振り手振りも交え頭を捻りながらも丁寧に説明した。全くそれを一度も見た事が無い相手に出来るだけ分かりやすく伝えるのは意外と難しい。まるで三浦君はタイムスリップして来てしまった自動改札普及前の時代の人か遠い異国人か異星人みたいだった。
「でも、皆にそれ聞いてない?同じ事…外から来た子とかにも。私だけじゃ無くて・・・もう知ってるでしょ?それだけ皆におんなじ事聞いて回ってたら?」
「それが面白いんだよ!聞く人聞く人、相手が違えば説明の仕方も十人十色。皆同じ事も言うんだけど、でも、全く完全に同じと言うわけでもないんだ…やっぱり少しずつ違う情報も与えてくれる…それに、同じ例えば踏切の捉え方も、人によって違うなとか、僕への説明の仕方とかで、その子の性質も少しは分かったりもするんだ…この子は真面目なのに話し下手なんだな、誤解されやすいなとか、この子は1を聞いたら100話が盛れる、その場は盛り上がり皆を楽しませられるがお調子者で信憑性は低いな、とか・・・」
「へぇ…」(こいつ、やっぱり少しは相手の人間性も見ようとしてるんだな…お人好しでも単なる馬鹿では無いのかも・・・)とセリナはまた用心し直した。
「だけど君の解説が1番面白いよ。ウソみたいなのに本当の話で」人懐こい笑みで満面に笑う三浦君にセリナはまだ黒服への服従心から追従笑いをヘラヘラ浮かべた。
後々わかってきた事だったが、三浦君は優し過ぎるためにあまり小さい子供達の担当には当たれないのだった。本人は小さい子供達も大好きみたいだし懐かれもするのだが、それではむしろ仕事にならない。
有無を言わさず痛め付けて絶対的にこちらに従わせる、そのための暴力、理不尽な折檻、時には不条理な死、そういった楽園では日常の流れ作業を彼は見ているだけでも耐えられない。楽園生まれなのに不思議なことだが、彼は心根が繊細に生まれついた。(母親が売れっ子で上客を掴んでおりまだまだ若々しく美しく、彼女が心安らかに働き続けられるよう、まだしばらくのうちは息子の三浦君にも存在意義がある…と言う事かも知れなかったが…)
セリナ達のように、幼いうちから園でしごかれ黒服への反骨精神を徹底的に打ち砕かれ仲間の凄惨な死も見せ付けられて来たような古株は、今更、ここへ来て、三浦君ただ一人が軟弱だと言うだけで、隙を突いて反乱を起こそう等という気にはならない。しかし園に入りたての子供達はまだ違う。人の心を持たぬ鬼のような黒服に責め立てられ脳髄まで(黒服に歯向かってはならない…!)と染み込ませるか、実際的に永久に体が上手く動かせなくなるような後遺症を負うほど死ぬ間際まで叩きのめさなければならない…
黒服と使い捨ての駒は隔たりが深く、そう易易とは仲良し小好しになれないのだ。
「でも、分かり合えるはずだと僕は思うんだけどなぁ…いっぱい正直に、とことんまで話せば…」
三浦君の寝言のような理想、平和主義さが痛々しくこの場所で珍しくて可愛らしくて、危なっかしくて、セリナは次第に彼から目が離せなくなっていった。
(もしかしたら、彼を自分が守ってやらねばならぬ時がいつか来るかも知れない…)そんな謎の責任感さえ生まれだした。
「外の世界にはどんな職業が有るの?」
外の世界で生きていくためには、まず1にも2にも金を稼がねばならぬ、あるいは盗みの技を磨くかだ、とセリナが教えてやってから、ウラ君は仕事の種類を色々と知りたがった。
「バスにも電車にも運転手がもう要らなくなっていくよ、工場にも…大工さんも医者も…ロボットが全部やってくれるようになるから…近い未来にはもう・・・」
「じゃヒトは何をすれば良いの?」
「まぁ、もうしばらくは何かさせて貰えるんじゃない?」
「僕はここを出たら医者になってみたいなぁ…」
二人はススキの叢に寝そべり夜空を見上げていた。流れ星にでも頼めば、とセリナは思った。そんな事、簡単に言ってるが叶うはずもない…『ここを出たら』って、まるでここが普通の高校かのように言うけれど…
でも、口に出してはこう言っただけだった。
「お医者さんは難しいよ…」
「知ってる。頑張って勉強するよ…ここを出たら…」
二人は『ここの外で暮らせるとしたら、…』と言うあてどもない危険な話題で会話が弾んだ。
辛い現実はいつも目の前にあった。惹き合う程に痛みは増す。二人は仕事中相手を見たり見られたりしなくてはならない。
事後も痛みが尾を引くほど激しい行為の後は、セリナはウラ君にすぐにそばに寄られるのが気まずくなっていった。まだ雄の汚れや匂いや何や、体液とかが、自分の体や髪やらに付いてるんじゃないかと思われて、「ケガしてないか調べさせて。大丈夫か見るから」と問う相手の目を見返せなかった。とにかく先に1番に風呂に入り洗い流したかった。
どの客は苦手でどの客は自分にとって楽か等、性癖を明かすようで事細かに相談するのも気が引けた。
しかし、「全部ちゃんと俺に話してくれ」とウラ君は言った。「キミの全部を正しくちゃんと知ってなくちゃいけないから、俺が担当なんだから」と。
確かにそれが彼の任務である。担当商品の管理。セリナも伊達に楽園での暮らしに慣れてない新入りでは無い。心の声にサッと蓋をして、魂の叫びを殺して必要な処理を済ませた。膝を開いて傷の具合を見て貰った。
初潮もまだのセリナは膣に多少の擦り傷があっても仕事を休ませては貰えず、それに気を遣ってか、それとも全く別の真理事情でか、ウラ君は指一本私情を含んでセリナに触れなかった。
まるで地獄の沼に咲いた一輪の蓮の花。
セリナはウラくんがいるお陰で、園での辛い仕事にも耐えられ、また園での仕事をより辛く感じもした。二人は『もしも・・・』の話をより一層真剣に、細部にまで念には念を入れ、熱烈に、秘密裏に楽園を抜け出す計画に花を咲かせた。
ウラくんは誰にでも優しい男の子だった。だから、セリナも最初のうちは彼の自分に向ける心遣いが他の誰でもと同じなのか、別種の物なのか、判別が付け難かった。
例えば、
「チョコレートが食べたいなぁ」と溜息交じりに呟いてみる。ウラ君に聞こえるか聞こえないかのところで、実際にはギリギリ聞き取れるように、寂しげに。
『チョコレート食べたい』くらいなことなら、本来であれば自分の客におねだりすれば良いのだった。いくらでも食べ放題に買ってきてくれるだろう。しかし、まだ新人の黒服三浦君の場合にはそうはいかない。
彼ら、園で生まれ育った男の子達は二択の道を歩む。一部が商品、一部が管理側、どっちにも成れない落伍者は消される。園へ捕まえてこられるのは圧倒的に女の子が多いにも関わらず、園から逃げ出そうとする男の子は少なくない。(どうせ殺されるなら・・・)と言う発想がより強く働くからだ。
三浦君もまだ街に買い出しに行くときは年配の黒服に同行し半分は監視されながらの限りある自由しか持たなかった。
しかしそれでも、セリナが「チョコレート・・・」と可愛くおねだりするのをちゃんと耳に入れていて、街に出た次の日に会うときには、どうにかしてポケットにコッソリ菓子を詰めていて、他の少女達が誰も見ていない隙にセリナにだけソッと手渡してくれた。
茎の長いコスモスの茂みの葉陰で、秋薔薇の細い小道で、足元には彼岸花が燃え、辺り一帯の空間を満たす豊潤な香りの金木犀、昼間にたっぷりの陽光を吸い込み蓄えておいて夕に暮れなずむ時刻には地上の星屑のようにオレンジ色に瞬き出す金木犀が、凭れれば降りしきる木の陰で・・・
「何を考えてる?」
弟が、珍しく向こうから話しかけてきたかと思うと、姉の腕に指の痣が残るほど強く掴み、今は使われなくなった古い植物園の壁際、誰も好き好んで近付く者の居ない荒れ地に引っ張って行き、野放しになり野生化して積まれた煉瓦の崩れた花壇から溢れ出した秋薔薇の棘が刺さる藪の隅へ追い詰め、詰問した。
「姉さんの考えてることは僕には丸見えなんだよ!・・・三浦!・・・あいつはためにならない。姉さんのためにもならないし、姉さんが奴のためになれる事も無い。二人して、コソコソ話し込んで。一体何を吹き込み合ってる?どうせ外の暮らしはどうだったかとか、またここから出たいだの、出るにはどうするのが良いかとか、そんなところだろ?」
鋭いな、と姉は無言で感心した。こんなに間近で正面から弟が目を合わせてくれたのはいつぶりだろう・・・?
「あの人は良い人じゃない?」動悸を落ち着かせようとしながら言ってみる。「優しいし・・・」
「優し過ぎる。優しさは弱みだ。それにあいつは・・・三浦は・・・確かに。良い奴だ・・・彼を巻き込むな・・・!」
「巻き込むなって、・・・何に?」
「今度はあいつを利用して外へ逃げようって魂胆なんだろ、お前!」
「違う・・・」
「いいや。違わない。あんたは逃げる。また何度でも・・・隙さえあれば。いつでもそのチャンスを狙っててすぐ飛びつくんだから、必ずどこかでいつかチャンスを掴むはずだ。それが今度はあの男なんだ・・・!」
「・・・でも・・・三浦君も外での暮らしに憧れてるみたいだけど・・・」
「知ってるさ!誰でもそうだよ!当たり前だ!でも、無い物ねだりなんだよ!ここに有る物でなんとかしろ!手に入る物、手の届く物だけで満足してろって!そろそろ・・・!」
弟は姉を睨み上げた。まだ弟の方が頭一つ分ほども背が低い。それでも薄い肉の下に隠れた骨は太く、これからまだまだ成長期に入りますます逞しくなっていく生態の違いをまざまざと感じさせる。腕力、握力は既に自分を遥かに凌駕し力強くなってるのが分かった。握り締められてる手首が今にも折れそうだ。目の底にたぎる光も激しい。バチバチと火花が散るよう。
(この子はこんなに強い子だったのか、剥き出しになるとこんなにも感電死しそうなビリビリ激しい感情を秘めていたのか、)と今更ながら目の当たりに見せられ、セリナは声も出せず驚いた。
「次は二人とも殺されるぞ・・・!」押し殺した声で弟が叫ぶ。
「殺すまではしないよ、これまでも・・・」
「姉さんは殺されないかも知れない。女が足りてるか足りてないか、その時の状況による。でも三浦は殺されるよ。まず間違いない。あいつは使えないから・・・」その時を想像したのか、弟の目に一瞬、痛みが駆け抜けた。まるで体のどこかに鋭い薔薇の棘が実際に刺さったみたいに顔が歪んだ。
「後始末をさせられるのは僕らなんだよ?」再び冷たい怒りが弟の目に燃え上がった。「後先を考えて行動しろ・・・今でももう、お前等二人は俺の目に余る・・・!」
「・・・どうしろって言うの?」
「黒服と距離をおけ。客の目にも付き始めるぞ」
「それの何が悪いの?」
「馬鹿か?・・・馬鹿なんだな、あんた・・・」嗚呼、と弟は嘆いた。「指名が入らなくなるよ。指名が入らなくなるって事は、大事にされない一見客に多く付かされるって事、使い捨てて良い消耗品に認定されるって事・・・姉さん、あんた最初は看板だって張れるって騒がれた嬢だったのに、中身がいかれてるとここまで堕ちられるって言う良い見本だな、今じゃあ・・・まるで・・・」
姉が黙って聞いていれば弟は呆れかえり首をふりふり溜息を吐いた。
「俺がもっと力を持ってたら、もっとマシな黒服をあんたに付けてやれるのに・・・」
実力のある黒服の周りには賢い少女達が群がっている。皆、紳士的な甘い上客を自分に回して貰おうとして、付け回しの権力を握っている黒服に取り入るのだ。黒服も人間だから、気に入った子に易しい仕事を多く与える。気に入らない子にはきつい仕事を多く押し付ける。
「ウラ君は・・・」
「愛称で呼ぶのはやめろ」
「・・・三浦君の事は、どうしてそんなに知ってるの?」
「あの人は俺と同室だったんだ。もっとずっと前、かなり子供の頃のことだけど。あの人は人としては良い人間だよ。泣いてる子をあやすのが上手い。怪我した者や病気の仲間を放っておかない、優しい人だ。それで、弱い奴に頼られる。で、頼りにされると無駄に責任感も強い。見返りに寄越すものを持たない助ける値打ちの無い者にまでいつまでもいつまでも関わり続け、引き摺られ、自分までもダメにしてしまう。僕もあの人を踏み台にしてしまったような時期があった。一時だけど・・・
でも、優しいだけじゃここでは生き残れない。甘い世界じゃ無いんだ、あいつは言っても分からない、羽も魔法も無いくせに夢ばかり見て飛べると信じてる、ここに存在価値のない男だ。俺がトップの人間だったらとっくに切って捨ててる。使えるのは臓器くらいだ。・・・情に脆すぎるんだよ、三浦は。・・・あんたと同じ・・・」
弟は肺いっぱい大きく深く息を吸い込み、震える溜息を吐いた。まだ子供の、細い肩から力がふいに抜け落ち、目からは怒りの表情がすっと引っ込み、かわりに、途惑い怯える小さな迷子の頃の幼子が見え隠れした。二人の母が居なくなったと話した瞬間のあのすがりつくような目をして、姉を見上げた。
「怖いよ、・・・二人ともがいっぺんに死んじゃったらと思うと・・・これでもあんたは血を分けた姉、あの人は優しかった兄のような存在だ・・・二人いっぺんに失うようなことになったら僕は・・・一人・・・ここで・・・どうしたら良いの・・・?救いが無さ過ぎるよ・・・僕だって居なくなりたい・・・こんな場所から・・・」
弟が涙を堪えている。その気配を察し姉が掴まれてない方の手で弟の腕に触れようと手を伸ばしかけると、さっと肘を突き出して弟は姉との間に距離を作った。
「・・・絶対にそんな結末にはならないように、俺がこの手で止めないと・・・」
姉は可哀想になって弟の泣き出しそうに歪んだ唇を見ていた。そうか、自分が死ぬとまだこの子は悲しんでくれるのか、置き去りにしてはいけないな今度こそ、とギシギシ絞られるように心が痛んだ。
「もしも、もしもね、『もしも』よ、ここから逃げるときは貴方も誘う・・・次こそ・・・」
姉が言いかけるより前に弟はもう首を横に振り始め、呆れたニヤニヤ笑いを浮かべだしていた。
「嘘はもう良いよ」
「誘うって、次こそは絶対、絶対に・・・」
「誘わない方が良いよ、それじゃ警告しといてあげるけど。僕は絶対に密告するから」
弟はやっと姉の手にかけた指の力を緩めた。
「言いたいことはそれだけ。僕は言ったからね?逃げようと考えるな。ここでなんとかやっていく道を切り開け。こっちに舵を振り切れば、あんたは絶対良い線行くんだから。園長のお墨付きがまだあるんだよ!
それと、あの黒服に近寄りすぎるな。これまでの黒服との距離感で良いんだ。関わらないで済むときに関わるな。それだけだよ。この二つだけ・・・難しいことじゃない、基本的なことだ・・・」
自分の言いたいことだけ言ってしまうと、野生の秋薔薇の茂みから先に出て行こうと弟はふいと背を向けた。そのまだ小さい細い背中が切ないほど愛おしく、珍しくこんなに腹を割ってぶちまけて本心を晒してくれて、弟ととにかく二人きりで長く話せて、嬉しすぎて、まだ一緒に居たくて、姉はつい呼び止めた。
「ちょっと待って、トモヤ君」
弟は無表情な目で姉を振り返った。
「あなたはどうなの?ここでの暮らしは?ここに居て、今、幸せ?」
弟は真面目にちょっとしばらくの間は考えてくれたようだった。が、唾を飲み込み、何か言い淀んだことを飲み込んだのが姉の目には見えた気がした。
「俺のことは良い。自分で解決できる。あんたは自分の心配をしろ。」
「ちょっと待って・・・」
しかし弟は二度とは振り返らず、
「頼むから、俺に殺させないで」と小さな声で呟いて、姉を待たずに一人で先に密会の野薔薇の藪から出て行ってしまった。
セリナも最初から相手を自分の役に立てよう、何か利用してやろう、と考えてウラくんに近付き仲良くなったわけでは無かったが、(そうに決まってるだろ)と言われると、自分はそんな女なのかも知れない、そうなのかも知れない、と思い始めた。実際、外にはいつだってまた出られるならば出たいわけで、それに一番の近道になりそうなのは今回はやはりウラくんとの関係性を使うことだった。“楽園”周囲の脱走者への警備は日ごと厳重になっていた。
しなるフェンスは押せども引けどもビクともしない7メートルの高い壁に変わり、見張り小屋も地べたでは無く高い塔の上に配置し直され、塀の上を走るイタチさえ人感センサーが関知し作動して警報が鳴る設備が導入された。海外の裏稼業組織とも手を組み密な連携を深め、楽園は規模を増し兵を増強し、中の者にとってはより脱出が困難な獄舎、外から攻めようとする者にとってはより攻略が難しい要塞と化していた。
脱走から連れ戻されるたびに、セリナを担当する黒服は責任を取らされて変わっており、元の担当らがどこへ飛ばされたのか、その後の彼らの姿を見た者は居なかった。弟は逃げて連れ戻された黒服は殺される、ばらされて売れる臓器は売られ、他は骨もろとも砕いて犬と鯉の餌になる、みたいな不穏なことを言っていたが、それは本当だろうか?セリナはわざわざ昔の威圧的な担当黒服達のその後のことなど、これまで気にして考えてみたことも無かった。しかし配置換えされ飛ばされたにしろ、せいぜいが子供を相手にする地位から壁の修繕や見張り番、葉っぱの畑や庭園の手入れ等への異動くらいなものだろうと思っていた。裏方仕事なら楽園には他にも山ほど有るのだ・・・
(・・・一緒に逃げると、捕まえられたときこの人はどうなるのだろう・・・)ふとその考えが頭をかすめ、三浦君と居るとき、『もしもここから出られたら』の話をしてるとき、セリナの目はふっと、虚ろになった。停電した部屋で最後の蝋燭の火が燃え尽きたように。
「どうしたの?この頃元気ないね?」人の心の波動に敏感なウラくんもすぐに察知した。
「弟君が誘いに乗ってくれない?あの子はここに居たがるのか?逃げるよりも・・・それとも、別のこと?」
「あなたの事」ついに直接黒服に聞いてみた方が早いと、セリナは真っ直ぐウラくんに正面から聞いてみた。「私と逃げたとして、二人とも捕まったら、あなただけは絶対に殺されるって言うの、弟は。どうなの?それ、本当の事?」
「作戦を決行するときは失敗した後の事なんて考えちゃいけないんだよ・・・」
ウラ君は普段セリナが良く使う言い回しを使って見せて茶化そうとした。
「でも、本当なの?私の前の黒服達はどうなったの?どこかで別の仕事をしてる?果樹の手入れとか葉っぱの売人とか・・・?犬と鯉が食べたなんて、ウソだよね?」
三浦君はグッと口を噤んだ。それから、ウロウロと視線を泳がせ目を逸らし、ちょっとぎこちない深呼吸をして、嘘を吐いた。
「街の別会社で働いてるよ」
セリナは息を飲んだ。
「まさか、本当なの、弟の言ったことは・・・」
三浦君はあまりにもすぐに自分の嘘を見抜かれて小さくショックを受けていたが、しばらくして、気分を持ち直し、バレてしまったのなら仕方ない、逆にこれでやっと心の重荷を吐き出せる、とばかり、辛かった幼児期の体験ごと真実をドッと語った。
「ここで生まれた子供は体が丈夫じゃないと育てて貰えない。命そのものもそうだけど、腕や脚だって簡単に切り落とされるんだよ。外の世界でなら放って置かれない、すぐに処置すれば治る傷や骨折くらいで、ここでは命が脅かされる。男の子の生存率は本当に少ない。僕も、幼なじみが何人も居なくなっていき、大人の嘘を見抜けるまで成長してからやっと少しずつ分かり始めた。最初は本気で気が付かず、薄ら事態が分かりかけてきた頃からは、気付かないフリをして息を潜めてきた。
・・・大きな粉砕機があるんだ。あの塔のすぐ裏側に・・・」
ウラくんは二人の居る場所から一番遠い塔を指差した。
「あっちの空にはほら・・・カラスがいつも群れて飛んでるだろ・・・
・・・子供のうちは出て来た物の処理をやらされるんだよ、キミはやったこと無いんだね?弟君は僕と一緒に働いてたよ。ハンバーグのタネみたいな挽肉が出てくるんだ。その銀の大きな機械のお尻からは。子供の頃の僕達は、それを池に運んだり犬舎へ運んだり・・・もう少し体が成長して塊の重い物を担いで運べるようになってくると、今度は機械の口から中へ放り込む作業をやらされる。自分が何の肉を運んでたか、それまでに予測付いてない子も居ないけどね、ブツは一応袋とか布に包まれてはいるんだけど、その仕事も雑なんだよ・・・たまに指先や足先や髪やらが袋の口や布の裂け目から飛び出てるんだ・・・
・・・しばらく会わなかった幼なじみ女の子が付けてたのによく似た指輪付けてる小指が見えたとき・・・僕は・・・」
喉の奥でグッ、グッ、と言うくぐもった音を鳴らし、ウラくんはしばらく、顔を腕に伏して短く泣いた。両目を腕の黒服の制服の生地に押し付け、もっと小さな子供の頃からそうして忍び泣いてきたのがよく分かる最小限に嗚咽も涙も漏らさない泣き方で。力いっぱい絞られる雑巾のように全身が細かく震え、早い深呼吸で素早く、セリナに慰められる前に、持ち直した。
「ごめんね、僕は甘やかされてる方だ。まだキミの弟君はあの仕事も続けてるんだろう。あの子は仕事が早くて体も心も鋼の丈夫さだ。でも、僕は卒倒してしまった。もう一度やれるかと聞かれ、やれると答えた。本当にやれるとその時は思ったんだ。が、次の荷物を持ち上げた途端、吐いて余計他の子に迷惑をかけてしまった。その時その場で、僕自体が機械のあの口に放り込まれてもおかしくなかった。でも周りの少年達がさっと俺を庇って傍に集まり、急いで俺が吐いたゲロを片付け、口々に他で出来る仕事がいくらでもあるからと融通してくれるように訴えてくれた。現場監督に。きみの弟さんも必死で俺を守ってくれたよ。それで・・・それからはあの・・・(彼はもう一度、カラスが飛び交う方位の空に頷いた。)あのキツい仕事場からは外された。」
セリナは一挙に、ウラくんが吐き出した重い現実をかわりに吸い込み、今まで知らずに居た事実を知って、胸の中が暗く重くなり、頷くことしか出来なかった。
(そうか・・・弟は・・・)カラスが群れを成し黒い竜巻のようにいつも飛び交ってる空へ目を向ける。今もあの下で・・・
「弟君は出世が早いかも知れない。もうあそこには居ないかもな・・・」
「じゃあ、何をさせられてるの?今は?」
「・・・あの子は誰に近寄るのが自分のためかも素早く見抜けた。仕事の面でだけは器用に立ち回れ、すぐ監督の補佐に付いた。僕みたいなノロ臭いのにはやらされる種類じゃ無い、比較的自由の効く雑用もあると噂に聞いたよ。銀の粉砕機の口よりも更に前段階の作業。
・・・それもそうだ、当たり前だけど、死ねと決定づけられて、生きた人が自ら歩いて来ちゃくれない。じゃあ、死骸はどこから来るのか・・・誰かが、こいつは死ぬべしとの判定を下された人間の命を絶つんだ。そして袋に詰める。そうして粉砕されるべく、袋はどこからか毎日運ばれてくる・・・中に俺等の仲間の体が折り畳んで詰め込まれたゴミ袋が・・・」
セリナは目を閉じ、重い息を吐いた。弟の別れ際の台詞に改めて血生臭い真実味が通った。まだ嘘みたいな、にわかには信じがたい話だが・・・
「嘘みたい・・・だって、毎日犬にもフナにも餌をやってるでしょ・・・そんなにも・・・」
「僕だって、現場から離れられて、あれは夢だったんだと思い込みたくもなるよ。長く見ていた悪夢だった、そんなはずは無い、ここはそこまで酷い場所じゃ無いはずだ、と・・・現実逃避して・・・だけど、今でも・・・街へ買い出しに出られる身分になった今でも、一つ分ってることはある・・・
・・・犬や魚の餌は一度も店で買ったことが無いんだ・・・」
二人は唾を飲み込み、午後の陽光を受け黒光りする翼の群れが羽ばたく空からは目を逸らし、蟻が這う地面をジッと見下ろした。二人の靴の爪先のすぐそばを小さい黒い行列がせっせと行き交い、巣へ持ち帰るマフィンの屑を運んでいた。蟻の行列はコスモス畑の柔らかい根元の土に落ちた菓子の包みに行進して入って行き、口に甘い屑を咥え、行進したまま出て来た。前の蟻が歩いたピッタリ後を次の蟻が忠実にせっせと辿っていく。巣はどこにあるのかなと、二人ともが同時に気になり目でアリンコの列を辿ってみた。ウラくんの右手をついている先の石の裏に巣穴の口が開いてるようだ。落ちてるマフィンの包み紙の中身はセリナが食べた。ウラくんが街へ買い出しに出たときに僅かな隙を見付けて屋台で買ってきてくれたお土産だった。
「蟻になりたいな・・・」セリナがポツリと呟いた。
日陰から抜け出し日溜まりの中を通り過ぎるとき、一匹一匹の小さな小さな蟻の背中の一つ一つが、良く見れば秋の日差しを受け艶々と照り黒光りしていた。
「蟻とどう違うの?今の僕等の暮らしは?」ウラくんが笑った。
「そうだね・・・」
「キミは鳥になりたいんじゃ無かったの?前にはそう言ってたよ。」
「よく覚えてるなぁ」
そう言えばそうだった、とセリナは思い出した。前にもここで、ウラくんと珍しい小鳥を見かけたのだ。
『出来るだけ色んな場所で落ち合おう、二人だけで話すときは・・・いつも同じ場所じゃ人目に覚えられやすそうだから・・・』と言い出したのはウラ君なのに、その彼の方が、いつもこっちへセリナを誘導した。今やっとその意味が分かった。彼は少しでも苦手な思い出の銀の粉砕機のある場所から遠離りたかったのだ。それでいつも反対の壁際まで二人はブラブラ散歩した。
しかしそれでも、一番遠い壁の上空で鳴き交わすカラスの声はまだ微かに聞こえて来ることがあった。敷地が広がったとは言え、風の向きによってはカラスの鳴き声は大きく聞こえた。聳え立つ壁に木霊するのか、ハッとするほどすぐ近くで鳴いてるように聞こえることもあった。
「セリちゃんは蟻よりもあの小鳥に似てるよ」こちら側の塀の内側の梢でピッピッと囀った鳥を見上げ、ウラくんが言った。
「どこ?」
「あそこ」ウラくんが指差した途端、白い小鳥が枝から飛び立ち、塀の向こうの空へパタパタ飛んでいった。赤とピンクとオレンジ色が群青、紫、コバルトの空に滲んで溶け込み混ざる夕暮れ時が迫っていた。
「もう仕事の時間だ・・・」
「行かないとな・・・」
半野生のコスモス畑から皆の居る噴水の温室へと引き返しながら、ウラくんが言った。
「今度の金曜、・・・と言ってもキミにはカレンダーが無いか、・・・今夜から数えて七回目の夜明け、葉っぱを詰めた袋を後部に積んで一台の車が街へ出る。ナンバーは・・・また日が迫ったら教えるよ。僕が運転するかも知れない。濃いグレーのランドクルーザー。助手席に一人、後部座席にも一人乗るかも。・・・弟君をその時までに説き伏せられる?」
「弟は・・・」セリナはまだ迷っていた。次こそ一緒に弟も連れて外に出たい。自由がどんなに素晴らしく甘美か、頭を押さえつけられ小突かれ捻じ伏せられて強引に言う事を聞かせられるよりも、自由に死ねるのがどれほど最高か、実際に味わわせてやりたい。
(あの子は一度も味わったことが無いから知らないだけなんだ、開放感の味、生きるも死ぬも自分次第、勝手気ままに自分の人生の舵を握る良さを・・・)セリナはそう確信していた。
「・・・もう一度だけ、誘ってみても良い?」
「良いよ、・・・」ちょっと立ち止まって振り返り、何か言いかけて、こちらの視線を捕らえジッと熱い想いを注ぎ込むように見詰めた後、結局何も言わずにウラ君はまた前に向き直って歩き出した。
決行の日取りだけはまだ言わないで、と言おうとしたんだなとセリナには分かった。しかし、言うも言わぬも、それもセリナの選択に委ねてくれたのだと理解した。
「ウラ君」セリナはここへ来て今一度、彼にもそもそもな質問を投げかけた。
「本当に外に出たい?三浦君は?」
「出たい。ここから出て、学校に通ったり、何か手に職を付けて働いてみたい。ここの外で生まれた人みたいな生活を送ってみたい。出来る限りここから遠く離れて。セリちゃんと一緒に・・・」
しばらく前に、彼は『キミに道を切り拓いてあげたい』と言ってくれていた。自分の事よりセリナのためにと言った口調なのが気にかかっていた。が、彼も、自分のためにもここから抜け出したい気持ちが募ったのだろう。
「私が居なかったとして、一人でも逃げてる?」
「うん。一人でも逃げる。考えてたんだ、眠れない夜が数日続いて・・・本当に本当に逃げ出そうとキミと誓い合った日から・・・もしかしたら、キミの弟は殺しも辞さない覚悟でキミを引き留めに来るかも知れない。あの子、一時は自分が死のうかと言うほど追い詰められてたんだよ、本当に自殺するんじゃ無いかと皆心配していた。普段気丈な彼があんなに弱ってたのは後にも先にもあの一度だけだ。二度目にキミがいなくなってすぐの頃のことだけどね。8人部屋のカーテンを引いた自分のベッドで、自分の脇腹に包丁を刺し、それを横に引こうとしたところで失神していた。切腹だよ。介添人のいない・・・凄い血の匂いと薄っぺらい敷き草から血の雫が垂れ、三段ベッドの下の段の子がすぐ発見して、皆でなんとかあり合せの布を集め結んで止血し消毒し出来る限りの応急処置をした。上の奴等に連れ去られないよう、点呼の時は皆でなんとか誤魔化したけど、自分達の仕事中に一人で誰も居ない寝室で意識を取り戻したらきっと自力で改めて死に直すだろうと同室の誰もが覚悟していた。そうで無ければ出血とか化膿でいずれ死ぬだろう・・・と。・・・でも彼は持ち直した。少しずつ皆で盗んだり掻き集めた僅かな薬だけで。今や腹の傷も目立たない薄い一筋の線だけ。でも、あの辺の頃は、『姉さんを殺す』と寝言で毎晩唸ってたんだよ。
・・・セリちゃんは、あの子が『自分も逃げる』と言っておいて寝返ったとき、姉の自分だけ助け血の通わない他人の僕は見捨てるかも知れないと気を揉んでくれてるのかも知れない。だけど僕はそうは思わない。トモヤ君は、逆に僕を見逃してキミだけを殺すかも知れない」
「本当にそう思う?」
「うん。だけど、寝返らず一緒に逃げられるかも。・・・誰もあの男の腹は読めないよ」
「そうだね・・・」
「じゃあ、七回目の夜明けまで、もう会わないでいよう」
「分かった・・・」
「うん・・・」
二人は頷き合い、仕事に向かう廊下の少女達の群れに合流すると、そこからは目も見交わさなかった。胸の中に熱い気持ちが通い合っているので充分だった。
(弟は殺してでも自分を止めに来るだろうか、それとも、一緒に付いて来てくれるか、ああ言ってはいたが・・・本心は・・・)誘うべきか誘わないでおくべきか、セリナは仕事中にも寝なくてはいけない明け方にも、眠れず頭を悩ませた。
『本気でまた逃げるつもりでいる、一緒に行こう』と誘ったなら、弟も決行日はいつかと問うだろう。Xデーを教えたら正確な情報を密告されるかも知れない。言葉通り。しかし弟にそんなつもりが無かった場合、またも弟を置き去りにする事になる。自分一人だけ逃げても弟がこんな場所で死んだら・・・
考えに考え倦ね、ボウッとなった頭で、
(弟を信じ共に手を取り逃げようとして今度はこちらが裏切られ自分一人殺される、これが最善のパターンでは無いのか・・・)とすら思われてくる。
自分は生きている限りここでは幸せを感じられない。弟に何も言い出せないまま迷い続け決行日を遅らせ続けいつか逃げたい自由になりたいと想い焦がれながら機を失い歳を取り朽ちていくだけならば、いっその事、弟の手にかかって死んだ方が美しい散り際だ。外へ出た後だって、物事はそれほど容易くないのだ。裸一貫、泥棒か物乞いのスタートラインから始めなくてはならない。弟が借りのあるウラ君さえ黙って見逃してくれるなら、自分は弟に殺して貰えた方が幸せかも知れない。ある意味、看取りでもある。尻拭いばかりさせてきた弟には可哀想だが、止めるなら責任を持ってこの命尽きるまで面倒見てもらおうではないか・・・
三日間は眠れないほど悩みぬいた。そして四日目に、もう運を天に任せる他ない、考えたってどうしようもない、弟にはスッキリ全部話してしまおう、全てを決するのは弟だ、と言う気持ち、開き直りの心境、ヤケクソ、悟りの境地に達した。睡眠不足で思考停止し、もともと嘘を吐くのが苦手な性質が相まって、落ち着くところに落ち着いた結論かも知れない。
四日目の正午、弟を捜して部屋を抜け出し、フラフラと(そう言えば弟を捜すってどこを捜せばいいのだろう、あのカラスの群れ飛ぶ下・・・?)と考え歩いていると、まるで妄想が具現化したかのようにリアルに、向うから弟がこちら向かってへスタスタ真っ直ぐにこちらの目を見据えながら歩いて来た。
「姉さん、俺に話があるんじゃない?」
「あるけど・・・これって夢?・・・」
「場所を移そう」
弟はセリナの腕をとり、(この前の時よりも断然優しく、まるでウラくんが自分に触れる時みたいだった、)ウラくんがいつも連れて行ってくれるのとは真逆の側、あのカラスの鳴き交わす不穏な黒い竜巻の壁沿いに近付きながら、ふらつくセリナの歩調に足並みを揃え歩き続けながら弟は話し出した。
「あれからずっと考えていたんだ。ずっと考え続けた。『一緒に行こう逃げよう』って姉さんの誘いを僕は一度は断った。誘わないでくれとも言った。きっと俺は密告するとまで言って・・・」
それまでセリナの肘より下に手を添えていた弟は手の位置を変え、セリナの肘をとり、腕の付け根に自分のガッチリした硬い腕を絡め、二人の顔をグッと近寄せた。
「・・・でも、考え直した。本当は答えは一晩で出ていた。一緒に行くよ、姉さん。今度こそ」
「本当に?」セリナは胸に新たな火がボッと灯るのを感じた。しかしすぐに疑いの冷たい風がその火の勢いを弱め、ざわめかせた。あっさり信じて良いのか、・・・?それともこれはこんなに上手くいきすぎるのは、罠なのか・・・?改めて感じた。姉弟で咄嗟に信じ合えない寂しさを。
「本当に・・・?」セリナはもう一度繰り返して聞いた。ほんの少し先を歩き続ける弟の目を見たくて、立ち止まり、手を伸ばしこちらを振り返らせた。
「本当に一緒に来てくれるの?」
「うん、本当だよ。今度こそずっと一緒だ、死ぬまで。僕達は血を分けた姉弟だ。地獄へ落ちるも浮かばれるも一緒、運命共同体でいたい。姉さんが行くところへ付いて行くよ。昔・・・ここへ連れてこられる前はずっとそうだったみたいに・・・」
「嘘みたい・・・本当なの?信じるよ?信じて良いの?」セリナは呆然と陶酔しながら弟の精悍な決断した顔を見詰めた。馬鹿みたいに同じ事しか言えなかった。「本当に・・・?」
「本当だよ。決行日はいつなの?」
「三日後の・・・」
「嗚呼、やっぱりな!!そうだと思った!!」弟の吐き出した大きな苛立った声で、ハッとセリナは我に返った。夢から覚めたような気がした。やっぱり罠だったのかと苦い悔しい思いが一瞬にして全身にサーッと巡り広がりかけた。が・・・
「それじゃバレバレだよ!!どんな間抜けだと思ってるの?組織を?三浦の一発目の初めての運転は警戒されてる!!試されてるんだよ、三浦は!・・・」鼻息荒く溜息を吐き、やがて、しばらくしてからまた落ち着いた声で、弟は提案した。「あと2週間待って。三度目の正直。三浦が三度目に運転させられる、そのときを決行日にしよう。」
「どうしてウラくん・・・三浦君が運転する日を知ってるの?」
「シフト表を盗み見たんだ。三浦が組んでるのは4人のチームで他の三人は揃って酒飲み。みんな街へ出る日は酒を飲みたいんだよ。運転なんて出来なくなるほど泥酔したいんだ。深酒で歩くにも真っ直ぐ歩けないほど・・・自分達でも初めからそれが分かってる。だから三浦を仲間に組み込んだくらいだ。あいつは扱いやすくまだ酒の味を知らないから。」
「詳しいね」
「勢いだけの姉さんとあの間抜けな三浦に自分の命運をホイホイ委ねたくはなかったからね、一応自分でも調べたんだよ、僕は。姉さん達の考えそうな脱出案くらい・・・『きっとやるなら初日の三浦の運転日だ、』ってみんなが賭けてるくらいだよ」
「嘘ぉ・・・」
「本当だ。お見通しなんだよ。誰にでも。だけど逆に、待てない姉さんの事は誰だって知ってるから、何事も起こさずに三度目ともなれば他の皆は気を抜き始める。そこを突くんだ。決行日は少し伸ばして。2週間後だ。」
「待ちきれない・・・」
「なんとか待つんだよ、そこを。でないと捕まる。5分と経たずに連れ戻される。昔とはもう違うんだ。勢いだけじゃ切り抜けられない。じっくり周りを窺い予め想定できる全ての事態に備え準備できる最善をしっかり全部整えてから、機を捕らえてパッと動かないと・・・」
「そうね・・・うん・・・あなたが仲間に加わってくれて心強い・・・」
「ありがとう、こちらこそ。正直にちゃんと僕を誘ってくれて。正確には、誘ってくれようとして、かな。・・・まぁ分かってたけどね、三浦もソワソワしてたし。姉さんは日が近付くにつれ目の下に隈を深め深刻に悩んでくれてた。僕を誘うべきかどうかについて・・・」
本当に弟には何もかもお見通しなのだな、と姉は感服した。もはや恐怖心はなく、持ちこたえられなかった秘密を全て喋り終え、肩の荷が下りてホッとして、ただ眠いだけになってきた。ついに弟も一緒にこの暗黒の支配地を抜け出した後の、甘美な夢を見られそうだ。今ここでぶっ倒れて眠れたら・・・
「もとの廊下まで送るよ。仕事まではあとちょっとしかないけど、出来るだけ睡眠とって。脱出には体力が要るよ。普段よりも食べて寝て・・・」
弟が優しく手を引いてくれた。
広大な園の敷地の中でも近頃はカラスが鳴き交わすこちら側へはあまり来ていなかったが、弟の誘導でいきなり地面に口を開いている古井戸にも落ちず、突然はじまる滑りやすそうな石畳の階段にも足を取られることなく、安全に歩けた。弟に頼り切りだったので自分が今どこを歩いてるのかも頭の中に地図を描けず、全然分かってないままだったが、最初はカラスの声のする方へ近寄って行ってたのが、空を舞う死神しか連想できない不吉な声と羽音はまた遠ざかり、ふいに、自分も良く分かる風景の中へ足を踏み入れ彼岸花の池の畔を歩いていた。
「2週間後だよ」少女達が日中眠る煉瓦の塔へ続く回廊の端まで来ると、弟はそっと姉の手を放しながら念を押した。「後14、夜を数えて」
「14日後ね・・・」
「間違えないで。三浦には僕から伝えておく。このまま会わないように。」
うん、と頷き合い、弟と別れた。
持って行く物は?・・・カーテンを引いたベッドの上に僅かな私物を広げ、ああでもないこうでもないと悩んだ残りの夜夜・・・
これとこれは持って行こう、と決めて眠り、次の夜にはやはり・・・とまた考えを変えた。
身請けされていった後輩のソラちゃんがくれたハーモニカ、トイレで拾って誰の物か分らずに持っていたら先輩ハナさんから盗んだと噂され急いで返しに行った櫛。・・・(『あげる、そのまま持ってて良いよ、最初から私が貴女に上げたんだった、忘れてたと皆に言い触らしとく』と言ってくれ、それから程なくして優しかった彼女は客から病気をうつされた。治療に連れ出すと言う名目で車に乗せられ運び去られたが、どうも今考えると車が帰ってくるのが速すぎた。街の病院までハナさんを届けたのではなく、ぐるっと園の外周を回っただけで銀の焼却炉に放り込まれたのではないのか・・・?ハナさんは・・・)
同期の友達ミナトがどうしてもと言うので、今イヤリングと交換してあげてる白詰草のドライフラワーの冠。これだってミナトの昔の恩人みたいな間夫みたいなお客さんがくれた物らしく、自分によりあの子の方に想い入れが深いはず。今は出張中で居ないミナトに、後で返してあげて、と誰かに頼めるわけもない・・・(何故?逃げるつもり?と誰に頼んでも即座に勘付かれてしまう)自分が居なくなったと分ったらすぐ処分されてしまうだろうけれど・・・しかたがない・・・隠して置いといてあげられる場所もないのだ・・・
結局、弟の他に大して持ち出したい物を自分は持っていたわけでは無かったのだと気付いたのは旅立つ前夜になってからだった。夜明け前、これだけはと厳選しポケットに詰め込んだのは食料と水とすぐ使う石鹸やら(Kが口内の清潔を叩き込んでくれたお陰の)歯磨きセット、かさばらない櫛と下着、くらいのものだった。
そして来る、約束の夜明け。
セリナは一睡もせず、握り締めたウラ君から渡された腕時計の針が二本とも3の数字を指して重なる時を待ち、女子寮を抜け出した。2週間前に弟が教えてくれた車庫の窓を数える。『金木犀、銀木犀、その次から始まる窓から数えて五つ目だけ、鍵を開けておくから・・・』弟の言ったとおり、窓枠に油を塗ってくれたのか音も立てず滑らかに窓は開いた。両手をかけ、グッと体を持ち上げる。車庫を見渡してみる。並んだ車の数々・・・今から飛び降りる床へ目を移す。
下は月光が射さずどのくらい低いかよく見えない。体を捻り、腕の力を頼りに窓の桟からぶら下がってみたが、まだ足先は床に届かない。腕の力が体の重みを支えきれなくなって、渋々手を離す。ドスン。硬い床に尻餅を付く。それほど痛みもない、怪我も無いようだ。それよりもお尻が冷たい。床が濡れてたのかと思ってすぐに立ち上がる。手でパタパタお尻を払うが、濡れたのではないらしい。ただとにかく底冷えがしてるだけのようだ。自分が飛び降りた窓を見上げてみる。助走を付けて飛びついてもきっともう手が届かないだろう。車庫は掘り下げられた半地下になっていて、出入り口はあそこしかない。
(もしも弟が私を罠に嵌めたかったら、まさにこんな造りの場所へ誘き出すだろう・・・)セリナはそう思った。もはやどっちでも良い。それよりもここは寒すぎる。持ってるありったけの布を纏ってくれば良かったと後悔し始める。遅刻しておいて行かれてはかなわないと、約束の時間よりも早めに来すぎた自分の過ちを呪う。教えられた車に辿り着こうと、冷たいボンネットに指を置いて数え歩く。歯がガタガタ鳴る。ゾッと冷たい恐怖が喉を締め付ける。指定された場所に車がない。そこだけポッカリ一台分、車が停まってない空間があるだけ・・・白い四角い線が床を囲ってるだけ・・・
本来ならば、『誰も乗らない最後尾の座席に古布が敷いてあるから、それを被って待て、』とのことだった。弟と二人で。シフト表では、黒服はウラ君を含め三人のはず。姉弟は誰も座らない最後尾の座席で布を被り、まず園を出発してから最初のパーキングまでは息を潜めてジッと耐え、トイレ休憩に黒服二人が車から降りた隙を突いてそのまま逃走する。もしどちらか片方がいつまでも車から降りない場合は、仕方ないが手荒に(その時のためセリナは矢のように削いで先端を尖らせた山桜の枝を羽織の下に忍ばせていた、)ウラ君と力を合わせ三人がかりで、なんとしても黒服には車から降りて貰う・・・そして大至急、街へ出たら車は乗り捨て、乗り換える・・・
『・・・晴れてたら盗むのは自転車でも良いね、街へ着く頃には日も高く昇ってポカポカ、流れる風は涼しくてサイクリングが心地良いはずだよ・・・』今から思えばのんきな調子で秋薔薇の茂みの隠れ家でウラ君は言ってたっけ・・・
『自転車には私、乗れないの・・・』
園の少女達は大抵皆自転車に乗る練習などしない。力仕事をやらされる少年達は、造園資材を早く運んだり伝言を早急に伝えたりするために自転車に乗れるが・・・
『僕のチャリの後ろに乗れば良いさ。それか、弟君か・・・街に着いたら練習しても良い・・・』
『一体、脱走をどういうつもりに考えてるの?舐めてるよ・・・』セリナはその時も言った覚えがある。ナメてるなぁと・・・でもあの時泡風呂の泡のように咲くくすんだピンクの秋薔薇の茂みの中では、笑い合いながら冗談も交えて話すのが楽しい脱走計画だったのだ・・・
(ひょっとして、弟がウラ君に伝言を伝えなかったのではないか・・・?やはり・・・二人の逃亡を阻もうとして・・・?)考えないようにしようしようとしても、勝手に悪い想像が逞しくなる。
(もしやウラ君は2週間前にもう、街へ逃げ出してしまった後なのではないか・・・?)
ヒヤリ、と胸の何か大切な臓器に穴が空き、見る見るその穴は溶け落ちて広がり、熱い生命の源、希望そのものが溢れて流れ出ていくような気がした。
ナンバーも車種も教えられたものと違う両隣の車のドアを引っ張ってみる。開かない。他の車も試してみる。どれもこれもドアはビクとも開かない。逆に闇雲に力を込めたため、爪が剥がれそうになる。
(いやいや、待て待て、ウラ君が一人で先に脱出した・・・?・・・それなら噂にもなり流石に今日までに私の耳にも入ってるはずだ・・・そう言えばついこの間、話はしなかったが、この目でウラ君を見たのだった、・・・)
セリナは一生懸命、あれは何日前だったか、思い出そうとした。そんなの今はどうでも良いと言えばどうでも良いことだが、何かに集中していれば時間が早く経つ。今は他に何もすることが出来ない。ただ待つことのみしか出来ない。これが辛かった・・・
ヒタヒタと、夜の暗い海に底知れぬ冷たい潮が打ち寄せ満ちてくるように、流れ出ていく熱い情熱、希望に変わり、冷たく真っ暗な不安、絶望、恐怖が足元から忍び上がり、腹の底を冷え冷えとさせ、喉元まで満ちてきた。
(もしや、弟とウラ君が何か喧嘩にでもなったのだろうか・・・やはり弟が、脱走を阻もうとして・・・?言い含めて止めようとか・・・?それとも、用心にも用心を重ねる弟の事だ、今夜は何か様子がおかしい、また延期しようなどと言い出し、流石にウラ君も頭に血が上ってしまい、もしもの時黒服に使うために用意していた石でも振り上げ・・・)
嗚呼、嗚呼、どうしよう・・・どうしよう・・・
セリナは車庫の隅の暗がりで、しゃがみ込んだ状態から立ち上がり、伸び上がってみて、(あっちから少年達は来るのではなかろうか)と思われるあたりの入り口シャッター側の闇に動きはないかと目を凝らした。闇は闇、漆黒で、無情で、何の反応も示さない。少年二人はまだ現れない。
(それとも・・・もしかして・・・二人はこちらへ向かって来る途中で、黒服に見付かり捕まえられ、あるいはもう殺され・・・それで車が無いのか・・・?!二人の死体を積んで今、月明かりを浴びる銀の粉砕機に運んで行ってるから・・・?!)
パニックが喉元まで一挙に迫り上がってき、セリナは目をギュッと瞑り、両手で口を塞ぐ。そうしなければ自分が叫び出すのを押さえることが出来なかった。弟とウラ君の二人が死んだ!瞬間的に鮮やかに、無残なその亡骸が見えたのだ。闇の黒魔術、手を伸ばせば届きそうなくらい目の前に・・・ありありと・・・数年前に嗅いだと同じ、いや園に連れ戻されてからも度々、嗅いできた仲間の血の匂い、生臭い、あの鼻を突く匂いさえ嗅ぎ取れた。
犯行現場はここだろうか・・・?新しい血痕がないかと、セリナは半狂乱になって膝を付き、ザラつくセメント打ちっぱなしの床を指で撫ぜ探した。
と、パキッと何か踏む物音が聞こえた。
サッと顔を上げ、耳をそばだて、見えない闇に目を凝らしながら自身は暗闇の隅に身を潜める。何か囁き交わす声も聞こえた気がした。明らかな二足歩行する人の足音。長と出るか半と出るか、シャッターを上げて戸口に姿を現すのは黒服か、それとも弟とウラ君か・・・?!
カシャンカシャンと鍵穴に鍵を差し込み回す音。ガラガラと音を立てシャッターが持ち上がった。
光量を窄めた懐中電灯の光りが白蛇のように床の上をスルスルッと滑り、自分をスポットライトで照らし出す。
「セリちゃん!」
「姉ちゃん!」押し殺した叫びで弟とウラ君が同時に自分を呼んだ。
「こっちだ!車の置き場が変わった!」「計画は全て変更!」「急いで!」
よろめきながら身を隠していた陰の溜まりから走り出し、揺れる細い光、駆ける二人の少年の影の後を追って自分も駆けた。必死に。耳の中に自分の呼吸音が響く。まるで夢の中を走ってるようだった。見えない闇の中を飛ぶように走った。息も上がらず、何にもつまずかず、まだ誰からも追われてもない。これから自由になるのだ、しかしもう早くも自由になってる気がした。
「ヘラヘラするな」走る速度を落とし自分の隣に並んだ弟が忠告した。「これからだぞ、まだ一歩も塀から出てない」
「そうだね・・・」喘ぐような返事になった。こんなに短いやり取りでも、走りながら話しただけで一挙に肺が、胸全体が、全身が骨まで痛み、呼吸が激しく乱れ、もう夢見心地ではなくなった。一体どこへ車の配置を変えたのか?何故今日に限って?勘付かれたのか・・・?
「あそこ」ウラ君が光りを一瞬上げてそれを照らした。車種も予定と違う。軽乗用車。計画は狂いまくり。門を挟んで反対側の車庫から、既に道へ出されている。車のまわりで、怪しい小さな光と影が蠢いていた。
「何・・・あれ・・・!」本能的に我が身と手の届く範囲にいる弟を守ろうとしてセリナは立ち止まりかけた。弟の着てる服を掴んで。
「止まるな!」弟が手を伸ばし、セリナの合わせた羽織の胸を掴んで引っ張り走り続けた。
車の周囲には小さな静かな人だかりがあった。弟と同年代の少年達が、黒子のように黙々と、地面に伸びた大柄な大人の黒服の腕や足首を掴み、森に引きずり込んでいた。地面に倒れている黒服は予定と違って三人。既に事切れているらしい。フードの下で蒼白な少年達の表情は硬く、冷淡で、引き摺っていくその力任せなやり方は、死なないように眠り薬か何かで寝かせただけの人間の運び方ではない。黒服の亡骸は森の奥へ手荒に引き摺って運び去られながら死の後にも岩や突き出た木の切り株に引き裂かれ、引っかかって無理矢理に力ずくでグイグイ更に引かれ、引っ掛かりを外そうと蹴飛ばされ、骨が折れ路面に皮膚を剥がされていった。
「・・・どうやって殺したの?」これだけ派手にやったのに、大量の血は見当たらない。
「首を絞めた。」
「殺す必要・・・」
「相手は殺す気でかかってくる。こっちが先に殺す気でいかないとやられる」
断固とした早口。その台詞は前にもどこかで聞いた覚えがある。しかし命を救われたこの状況で、セリナは何も口答えできなかった。死骸は早くも車庫前の表通路からは目に触れない木々の向こうへ運び去られた。
「太い枝のある木を見付けてロープを掛けてある。今夜はあの三体は吊しておく。明日の朝6時に森に放たれる犬達が見付け出す前に、俺が回収して粉砕機にかける。」
まだ説明してとも何も言ってないうちに弟が後始末まで説明してくれた。それで姉が安心するとでも思うのか・・・?
「早く乗れ!三浦!しっかりしろ!」ドンッと空気の振動が伝わってくるほど強く、弟がウラ君の背中をど突いた。「お前が運転するんだぞ!ここからはお前一人の双肩に別の人間の命がかかってくるんだ!気を引き締めろ!」
ハッとウラ君が背筋を正し、車のドアを引っ張り開けて運転席に乗り込む。
え・・・
「ちょっと待って・・・明日の朝六時に・・・誰が・・・?」
セリナは背中を押され、誰か名前を知らない男の子が開けた後部座席のドアの中へグイグイ押し込まれながら咄嗟に弟の腕を掴んだ。
「待って・・・!あなたも乗るんでしょ?」
「僕は行かない。」弟も姉が車に乗り込むのを後押しするように、掴まれてない方の肘で姉の体を車内へと詰め込みながら言った。
「行かないって・・・?!・・・嘘よね?!・・・ここまで来て・・・なんでよ!?」
「俺は残る。最初からそのつもりだった、ごめんね。ちょっと利用させて貰ったんだ」
「利用・・・?!・・・ここに残る・・・?!」
セリナは口を開けた車体の上枠を手でグッと掴み、足を踏ん張って弟の腕を掴んだ指に力を込めた。我知らず、爪まで立てていた。絶対に一緒に行くんだと思っていた。弟と!
「三人も殺して、タダじゃ済まされない・・・!あんたも来なさい!!ここに居たらダメ!!殺されるよ!!」
「まだ仲間がもう二人殺してるよ。塔の上の見張り小屋で」
セリナは弟が指差した塀の上を見上げた。どこにも小屋などないように見えた。が、ガラスの嵌まってない小窓があるのか、こちらを照らす弟と揃いの鋭い灯りが、首尾良くいったことを知らせる合図にパッパッと手短に明滅した。舌を巻く思いがした。あんな出っ張りも何も無いただの塀みたいな中に見張りがいたなんて・・・そんな情報、ウラ君も知らなかったのではないか?自分とウラ君の二人だけで逃げ出そうとしていたら、2週間前にあっけなく捕まっていただろう。こんなに大それた逃走劇になるとは、予想だにしていなかった。
それにしても統率のとれた寡黙な少年達の動き。まるでこの日に向け練習を積んできた幼い兵士のよう。
「行きましょう」気付けば、車の反対側のドアから乗り込んでいた顔だけは見たことのある弟と同年代の少年が、車内からセリナの腕を掴んで引っ張った。
「あんたと一緒じゃないと行かない・・・!」もはや無理を承知で涙を頬に流れるまま弟を振り返り、必死に目でも訴える。「一緒に来てよ・・・!ここに残るなんて馬鹿なこと言わないで・・・!あなた明日殺されるよ!!ねえ!!こんな風にお別れなんて・・・!」
「シーッ、姉さん!」弟の顔は薄ら笑ってさえいた。この状況を面白がる余裕が弟にはあるのだ。「自分はサヨナラも言わず一人で逃げたこともある癖に。」
グサッときた。胸の内の弱みを突かれた瞬間、車体の上枠を掴んで突っ張っていた腕の力が抜け、車内から引っ張っていた少年が綱引きに勝利した。その知らない男の子の膝に倒れ込むように崩れ落ち、弟には袖を振り払われ、バンッとすかさずドアを閉められた。
「バイバイ、姉さん。元気で」ドアに飛びつこうとしたが、両腕を捕まえ押さえ込まれていた。車はすぐ発進した。
「ウラ君!止めて!」しかし彼もこの件ではグルのようだ。
「あの子は決意してる。言っても聞く子じゃないよ」
「ウラ君ッ!クソッ!!」セリナは自分の両手にグルグル巻きにテープを巻いてる隣の子に獣のように歯を剥いた。相手が怯んだ隙に、肩から窓に体当たりし、頬をガラスに押し付けて外を見た。弟がまだ車の隣を走っていた。ソロソロ徐行運転する車の助手席を誰かがバッと開け、乗り込んで来たが、それはまた別の子だった。同じ楽園暮らし、顔くらいは見たことがある、この子も弟に近い年頃。さっきまで森へ死体を引き摺って行ってた子達のうちの一人だ。
「こいつは?」ウラ君が運転席の窓を開け外を並走するセリナの弟に聞いた。
「お前たちに危害は加えない。街まで出たらただこいつは居なくなるだけ。」
「何を企んでるの!?」セリナは声を絞って弟に叫んだ。
「楽園の解体、再構築だよ。それには外にも味方が必要になる。こいつ等は俺と考えを共にする」
「トモヤ君も逃げて・・・」
「逃げる逃げないとか、その次元の話はしてないんだよ、もう。俺はあんた等とは違う。逃げても追われる。執拗に。コソコソ逃げ回って暮らす位ならここに居続けた方がむしろ生きやすい。僕はね。でもここの組織が存続する限り姉さんに先は無い。だから逃げるんだろ?でも逃げても逃げても後を追い続けられるよ、だったら、大元、ここの幹部を叩き潰せば良い。簡単なことだ。下剋上。反乱を俺は起こしたいんだ。トップの首を刈る。今のままじゃダメだ、誰か別の人間が楽園を率いて行かなくちゃならない。もっと明るい夜明けの方向へ。まわりを見渡してみて、相応しいのが他に誰もいないから、仕方ない、俺が成るしかない。この組織の頭に。」
「いつから・・・」途方もない気持ちで、乾いた舌を一度唾を飲み込んで湿らし、セリナは掠れ声で聞いた。「一体いつからあなたこの計画を練ってたの・・・?」
「姉さんとこの前話してからだ・・・いや・・・」弟は言い直した。「多分、もっとずっとずっと前から。頭のどこかでは分かり切っていたことだった。ただ逃げるんじゃダメだと。追われないようにしてから、・・・それから、なら、もう逃げなくても良いはずだから・・・逃げ出したくならない楽園にすれば・・・そもそも・・・姉さんも落ち着きやすいだろう・・・ここに・・・」
弟が何を言ってるのか姉にはまだ全然理解できなかった。
「一緒に行きましょう、お願いだから・・・」とにかく弟の目を見詰め訴えた。「壮大な夢見てないで・・・」
「いや、俺はここで地盤固めをしておくよ。旧体制を潰し、踏みならして、自分の統治下に置く。誰もそもそも逃げようと思わない楽園、それが俺の理想だ。いつでも帰って来て良いよ、姉さん。その時まで使える美貌のままでいてくれ。あんたならいつでも受け入れてあげるよ」
「トモヤ君・・・」
「一緒に行こう、って、姉さんが最後には僕を信じて誘ってくれたこと、忘れない。」弟はニコッと短く笑った。遺伝子が同じ、自分にソックリな並びの悪い八重歯が白く光り、そのあどけない笑顔が胸を打つ。弟が笑うのを見たのはいつぶりか・・・
足を速め、徐行する車を走って追い抜いて、重い鉄門を肩で押し開けようとする少年達の間に弟も加わった。車のヘッドライトに明るく照らし出された彼らは四人。志を共にする幼い反乱分子達。
胞子のように外へ飛び立つ車内の同胞達も「開け、開け」と肩に力を込め門を睨み口の中で呟いている。
やがて重たい鉄格子がギギギ・・・と低くザラつく唸りを上げてゆっくりと動き出し、軽乗用車一台が通り抜けられるくらいにまで開いた。車は鉄門を滑り出た。背後で、門を押し開けてくれた少年達は鉄格子の中に留まり、今度は自分達でまた元通りに自分達を閉じ込め、門を閉じた。手を振る影がチラッと目に焼き付いた。
うねる山道の最初の角を曲がり後部座席の窓から弟達の姿が見えなくなっても、セリナは嗚咽しながらまだ後ろを見続けていた。
・・・
・・・
今また、鹿島君の頭を胸に抱き、髪質の柔らかい真っ直ぐな髪を指先で撫で、好きな香りの頭皮の匂いを胸いっぱいに嗅ぎながら、あの14の明け方を悩み抜いて過ごしたと同じ、弟の考えが読めれば・・・と切に願いながらセリナは悩んでいる。
自分が看てない間に弟が鹿島君を片付けてしまうのでは無いか、今だって、自分がちょっと目を離した隙に点滴か水差しかどこかに毒か何か混ぜてるのでは無いか、そんな不信感、証拠の無い違和感があり、出来るだけ鹿島君のそばを離れないで居ようと努めているのだが、その自分の姿がまた弟を苛つかせてるのも分かる。
「病人に添い寝するな」
今朝は鹿島君の粥を取りに入った厨房で顔を合わせた弟にそう言われ、鹿島君を寝かせた自分の部屋のベッドで今夜からは眠れない規則になった。
「空き部屋は他にもあるだろ」
「じゃあなたの部屋で寝る」咄嗟にそう答えた。自分でも考えていた事ではあった。(他の空き部屋に自分のベッドを移すか鹿島君のベッドを運び込むかした方が良いのだろうか・・・)と。
(しかしそれでは弟を監視できない。鹿島君を誰の警戒も無い部屋で一人放っぽり出してウカウカ寝ていたら早々に翌朝には弟に処理されて死んでしまってるだろう。そんなわけにはいかない・・・)
「俺を監視しようって?」弟は鼻で笑った。立ったまま、ただカリカリになるまで焼いただけのバターもジャムも塗らない食パンをコーヒーで流し込むように食べていた弟が、姉を睨むようにジッと見た。
「俺にその気があるならあいつはもうとうに死んでるよ」
今のこの楽園内のほぼ全員が弟の息のかかった者達だ。自分が弟一人を監視したところで、彼が指1本スイと振りさえすれば、配下の者が鹿島君を仕留める。ここで鹿島君がまだ生きてる事が奇跡、弟の思惑通りなのだ。
弟はトーストの最後の角を口の中に捻じ込むと、モグモグ噛みながら、今日一日を連れて回る日替わり腰巾着の部下に小声で指示した。「俺の部屋にベッドを一台運ばせろ」
鋭い横目で姉をジッと見やりながら、喉を反らしてカップを傾け、ゴクッと塊を飲み干した。
「でも。まぁ、良いよ。貴女がそう言うなら今夜から同じ部屋で寝よう、姉弟水入らず。久しぶりだね・・・何年ぶりだろう・・・?」
重いブーツの踵を鳴らし部下を引き連れ食堂から出て行った。
セリナはやっとソッと止めていた吐息を吐き出しながら、緊張を解いて弟の後ろ姿を見送った。
弟が朝のこの時刻にちゃんとここで朝ご飯を食べてるのを見たのは初めてだ。弟は決まった時刻に決まった事をするタイプの人間では無い。いつも予測不可能、自分の食事は後回し、常に頭の中にある最前にやるべき事から潰していって、空腹も疲れもドッと感じてから最後に処理する。
自分と話すために今朝はここに来たのではないかな、とセリナは感じた。それとも、昨夜は徹夜で働いたのだろうか?これから仮眠をとるところなのか?さっきのは弟にとって朝食ではなく夜食?・・・やはり、分からない。
(今夜から同じ部屋で寝る・・・)急に夜が怖くなる。初めての客を取らされるよりも何よりも、よほど弟と夜を明かす事の方が緊張する。
(何年ぶりだろう、確かに、あの子の言うとおり・・・小さな子供の頃は同じ一枚のボロ毛布に包まって抱き付き合って寝たのにな・・・)それが今ではこんなにも相手に怯え相手の考えが分からない。あの頃はいつもどこへ行くにも一緒、心も一つ。『ずっと離れないでいよう、自分達だけは。他の人は知らない、信じられない。信じられるのは姉弟自分達二人だけ・・・!』共依存、一心同体だったのに・・・
セリナは自分が両手に持っている粥が冷めていくのにハッと気付いた。思考はこの頃ずっとモヤモヤ浮かびかけている一つの案に形を纏め、絞り込まれていった。絞り込むと言っても、苦肉の策はそれ一つしか浮かんでないのだが。でももうあまり時間が無い。
「タツちゃんは今日はどこにいるか知ってる?」首に赤いリボンを巻いた厨房の下働きの女の子が通り過ぎるのをちょっと捕まえ、聞いてみる。
「タツちゃん?」
「あなたにそのリボンをくれたお姉さんよ。私の友達」
「ああ、あの人の名前タツって言うの!・・・もうすぐ来ると思うよ」女の子は壁掛け時計を指差した。
「あの人はいつもあの二つの針が下で揃う時くらいにここへ来るから」
「六時半ね」
「今日もお洒落な箱くれると思う?」友達のタツちゃんが赤いリボンをかけた小さいチョコレートボンボンを箱ごとこの女の子にあげてるときにセリナもここに居合わせた。タツちゃんは昔から好き嫌いが多くて、子供の頃からいつも厨房働きの誰かと仲良くしている。客から貰って自分には余ってる菓子や指名替えした客のプレゼント等を厨房の子にあげて、かわりに自分の好きな桃缶とかバニラアイスとか残り物の好物のおかずをくすねてきて貰う。
今、小さな女の子は、首に巻いたリボンの擦れる喉を痒そうにカリカリ引っ掻きながら瞳をキラキラ燦めかしてセリナの答えを待っていた。顔があまり可愛らしく生まれついてないせいでここでしか働けないと言われた子らしいが、こうして見るとなかなか愛嬌があって人懐こい。売り方によっては売れる子ではないか?鼻面が潰れたようなヘチャムクレの犬だって『ぶさかわ』とか呼ばれてチヤホヤされる。女は愛嬌・・・
「そのリボン痒いんじゃない?一回解いてあげようか?」自分が今何もこの子にやれる菓子を持っていなくて、残念な気がしながらセリナはお節介を焼いてみた。
「いい。タツちゃんにやって貰うから」
「そう・・・?じゃあ、私からもまたお菓子持って来てくれるように頼んでおくね」
「お菓子よりもあたしリボンが好きなの!」
「そう?ならこれあげる・・・」小指のリングを外し女の子の指に嵌める。セリナの小指にちょうどだったリボンをかたどった指輪は、少女の中指にピタリとおさまる。抜けないようにグーをして女の子は飛び跳ねてキャアキャアはしゃいだ。
「ありがと!お姉さん!うわ!うわああ!ありがと~!!!!」
うん、もうお行き、と女の子に頷いて、セリナはまた壁掛け時計を見た。それからさっき弟が出て行った厨房の食堂へ繋がる出入り口を見た。まだかな、タツちゃん・・・
タツちゃんは唯一と言って良い、この園の中で弟よりも自分に味方してくれそうな同期だった。早く一人部屋で昏睡状態の鹿島君の元へも戻りたいが、これからタツちゃんに頼もうとしてる用事は人に伝言できる種類の物ではない・・・
三浦君の連絡先を知ってるか、彼に頼み事を出来るか、・・・それを聞いてみたいのだ・・・
今もし誰か、意識混濁の鹿島君の身柄を安全に受け渡せそうな楽園の外の知り合いが居るとしたら、思い当たるのは十数年前、一緒に駆け落ちしたウラ君ただ一人。彼だけが微かな希望の光、頼みの綱だ。どこにいるのか、生きてるかもう死んでるか、それすらも分からないが・・・
「あれ、セリちゃん」戸口にお待ちかね、龍ちゃんが現れた。お気に入りすぎて五着も持ってる薄桃色の絹の羽織。ツンと尖って小気味よく上を向いた胸の先が小さな可愛い角のように薄布を下から突き上げている。
「何それ?元彼のおじや?」そう言いながら近寄って来て手の中の椀の中身を覗いて見に来た親友に更にこちらも顔を近寄せ、耳に切迫していきなり本題を囁いた。「ね、三浦君と連絡取れる?」
タツちゃんはサッと仰け反るようにしてセリナから一旦離れた。丸く大きく開いた目でこちらの目を覗き、それから、「はぁぁやれやれ」と声に出し目を閉じて頭をフリフリ。
「また何を企んでる?元彼に元彼を託そうってわけ?」
「・・・まぁ、そうなるか・・・な・・・」
「都合の良い女ッ!」タツちゃんはフリフリ頭を振り続けている。「そう何もかも自分の思い通り都合良くいくと思ったら大間違いよ、って言ってやりたいとこだけど、なーんか、なんやかんや、どーも世界があんたの思惑通りに回ってるんだよねぇぇ・・・ムカつくわ!」
「お願い、この通り!」セリナは両手のひらを相手の顔の前で擦り合わせ、タツを拝んだ。「タツ神様・・・!」
「弟君には内緒にしといて欲しいわけ?」
「そうなの!」
「嗚呼、やれやれ、あんたの弟もあんたの大事な男の息の根をここまで止めずに来たんだから、真正面から頼んでみりゃあ良いじゃない?クレオパトラを気取らなくても?案外すんなり元の彼の世界へ返してやるかもよ?弟君も・・・」
「もう真正直には頼んでみたの。ダメだった…」
弟にはこんな怖い話をされてしまった。
『僕らの幼少期、まだ俺も姉さんも子供だった頃のあの暗黒の旧体制の楽園統治下では、親が戸籍を届けずに産んだ子や紛争移民の孤児、攫われてきた子達の命に価値は無いも等しかった。しかし、あいつ(鹿島君)の場合は違う。彼がいつまでも帰らないとまず勤め先の会社が不審に思い、次いで連絡を受ける生家の家族が不審がる。恋人もいるかも知れない。死体でも良いからと捜す親族がわいて出てくる。警察も場合によっては動く可能性がある。
闇の中に生まれそのまま闇へ葬っても誰にも気付かれなかった俺等とはわけが違う。市民権のある一般人、捜す者が残される人間の場合は、そう容易くは殺せない。借りに殺したら、死骸を完全に抹消してしまうより事故に見せかけた死体をあえて発見されやすい場所に放り出しておく方が良い・・・例えば山道を滑り落ちた車の傍とか・・・その方が良い・・・』
弟は思案顔で言ったのだ。
『死骸が手に入る。そうすれば親や同僚は泣いて諦め、それで終わりになるから。変に嗅ぎ回られずに済む・・・』
「なるほどね。」タツちゃんが頷いた。「ひねくれ者だもんね、あんたの弟。正直すぐにも厄介払いはしたいはずだけど、姉の心境も推量して殺すに殺せず、ここの秘密も握られたかもしれないと思うと下手にどこにも放り出せず、重体だし自分が手を下さなくてもじき死んでくれるかと様子見してる間に持ちこたえそうでなかなか死んでくれもしないし、あんたは目の下に隈を深めフラフラ足元ふらつきだすしで、鬱憤が溜まりに溜まってますますこじらせちゃってるのね。・・・良いよ。三浦君に久しぶりに連絡とってみてあげる。・・・確かに、このまま放っておくとそろそろ危ないかもね。あんたの暴君弟も昏睡元彼君も・・・」
「やっぱりウラ君と繋がってたんだ・・・」セリナはホッとして親友の肩を小突いた。
「もう時効だから言うけど、彼のお母さんと繋がってるの。私達の優しい大先輩、今じゃ街で四軒のアンティークショップのオーナーよ。旦那の海外出張先に若い頃から同行して回って目が利くみたい。遺産も相続して・・・
これ、実は皆知ってる話だけど一応秘密ね?あなただけには特に絶対内緒って、弟さんからキツく箝口令が敷かれてるの。何せあんたが駆け落ちしたウラ君のお姉様だから・・・」
「分った。」
「バレても何しても良いけど、私から聞いたのだけは口を割らないでよ、分ってると思うけど」
「はい」
セリナは早くも気もそぞろ、街へ下る身支度をしなくちゃとソワソワ頭の中で考えだした。どうしよう、鹿島君はどうやって運べば良い・・・?
「じゃあ、あのね・・・」タツちゃんがニコニコ顔を近寄せてきた。「今度街へ行ったときあのほっぺたが落ちそうな、この前もくれた専門店の・・・」
「ああ、マカロンね。任せて。デラックスボックスを買って来てあげる」
「一年分」
「分った。」
両頬の同じ場所にえくぼの出来るマシュマロのようなポチャポチャ笑みを綻ばせ、タツちゃんが満足げな毛長猫のように頷いた。賄賂も決まり、交渉成立。漠然と増しつつあった不安が少し解消された。
・・・
続く(ウラ君前編終わり)